12/02 NHK新・映像の世紀・第二集

新聞のテレビの番組表をザッとチェックしても「タイタニック」の文字があれば自然と目が留まってしまう。NHKスペシャルの「新・映像の世紀」という新シリーズの第二集である。今時のテレビ欄は番組の宣伝みたいにもなっていて、昔は出演者やら演出者ばかりが羅列してあったもんだが、例えば「きらきらアフロTM▽鶴瓶が女湯に温泉で丸出し(秘)事件簿」なんて具合(苦笑)、そそる内容であっても見てガッカリも多く、果たして「タイタニック」がどれだけ「タイタニック」なのか大いなる疑いを持って放送時間を迎えた。

ここで、今年のブログの更新頻度が少なかったことのエクスキューズも何だが・・・今年はかつてないほど、オーシャンノートの仕事に精を出した。去年からは第二の創業に取り組んでいる・・・といえば大げさだが、どの道、人生は一回こっきりなのだから、ひたすらピュアにやりたいことに軌道修正を図っている。仕事の合間であれば良かったが、あいにく期待もしていなかったので、作業の手を動かしながら「新・映像の世紀」第二集を見た次第である。

NHKの「映像の世紀」自体は名作の誉れ高き評価を得るものなのだそうだが、正直言って僕はピンと来なかった。あちこちのアーカイブ映像のハイライトシーンを集めたのだろうが、例えりゃ、その映像を継ぎはぎして一本にして、その継ぎはぎ映像に無理やり物語りナレーションを乗っけたような印象を持つのである。普通はその逆じゃなきゃならない訳で、ある重要な史実の流れの説明に映像があるというのが自然である筈が、貴重な映像が主役であるが故に、そこに物語をこじつけてしまっているように感じるわけだ。悪いことに、どうやら、もはやドキュメンタリーとは言い難いほどに美しく構築された「物語」を補強するがごとく、時代を無視した参考映像が挟まれたりするものだから、映像とBGMの関係で説明するなら、無理やり羅列された映像に物語性のあるナレーションを創作、完成したものはその物語に映像の切れ端を集めた「BGV」が映されているような印象を受ける。しかしまあ、実際に残された映像は限りがあるわけだから致し方ないだろう。ニュースフィルムを繋げただけではNHKスペシャルにはならない訳だから。(笑)

しかし、やや強引な「新・映像の世紀」史観ながら、今回見た第二集には眼からウロコの奇妙な納得感が得られた。史実というものは変えようがないものだが、史観は様々なものなのだと改めて感じた次第である。今年の前半、19世紀から第一次大戦勃発あたりまでの歴史をおさらいするために、中央公論社の旧「世界の歴史」やら岩波講座などの該当巻を通読したことは以前に書いた。しかし、今回感じたのは、学校で習った歴史も、きちんと学位を修められた先生方によって書かれた歴史書も、共通するのは労働者階級目線の史観だったんじゃあないかということである。まして日本の教員の大部分が、朝日新聞的ちょっと左寄り思想に占められており、大部分の国民はその先生方によって書かれて語られる歴史教育を受けて育つわけだから、日本人の歴史感もおのずと労働者階級目線のものとならざるを得ない。さて、番組自体は、正直言ってつまらなかった。それは上記の理由によるところである。しかし、ここまで資本家目線で歴史をとらえながら、かつその依って立つ資本主義を自己批判するような今回の放送作家さんのポジションというのは面白い!

スタンダード石油とロックフェラー、金融資本家モルガンの謎、エジソンから逃げたユダヤ系映画会社創業者たちによるハリウッドの起源、そしてそこにくっついて成功したマックス・ファクター、死の商人であるデュポン・・・歴史書やら経済書には書かれない話題で実に勉強になった。昔読んで、何が何だかわからなかった赤い楯(ロスチャイルドの本)なんかとは比べ物にならないくらいにインパクトがあったし、しっかりと記憶にインプットさせていただいた。この辺は、テレビというメディアの偉大なる底力と恐れ入った次第である。

最も注目すべき(かつ多分、議論を呼ぶことにもなるだろう)は、第一次大戦後のパリ講和会議でモルガンがドイツへの巨額戦時賠償を課すのに大きな影響力を持っていたという行だ。連合国に莫大な戦費を拠出したモルガンが、その戦費を回収するためだったのだという。この辺が、テレビの物語の上手いところで、意図的か否かはわからないが、関東大震災の復興債(1924年)を引き受けたのはモルガンで、この返済を終えたのが高度成長期を迎えた40年後のことだという話・・・印象的には、この債権と戦費の債権がイメージ的に重なって、第一大戦後のドイツの巨額賠償金を主張したのがモルガンだといわれりゃ、フムフムと納得してしまう。ただし、個人的には、重要なことであるだけに本当か否かは慎重に裏をとらねばならない。あくまで、個人的に・・・である。(付け加えるならば、この辺りのナレーションを聞いていて直感的に、その賠償の償還や戦費、国債の償還がインフレーションなくしては出来ないとモルガンは理解していたのだろうか?と思った。米国の資本家たちとっても、インフレは莫大な債権回収の手段となる一方で、すでに蓄えた莫大な資産の目減りの危険の面もあるわけだ。尤も、資産は金や不動産にも姿を変えていただろうから心配はなかったかもしれない。しかし、債権は回収したとしても実質目減りは避けられなかっただろう。この辺は、僕自身の中で更なる検証を要するところである)

もし、それが事実ならば、ドイツ及び資本主義社会が画策したインフレ、そして今日のドイツによるユーロの陰謀(笑)、とどのつまり欧州統合とこれに伴う対立、今日の民族対立の原因のひとつ(僕は個人的に2000年間に渡る宗教対立=キリスト教の覇権主義がもっとも大きな全人類的課題だと思っている)ということになり、その根源がモルガンにあるとなってしまう。これは衝撃的な論理である。単なる資本主義批判では済まされない。

さて、肝心の「タイタニック」。僕の眼が確かなら・・・本放送の10月29日と再放送の12月2日で「タイタニック」映像とナレーションが差し替えられていたように見える。生憎、HDD録画というやつがテレビ文化の自壊現象をもたらすものと考え、現在は録画ということ自体を止めてしまっているので見直すこともできないが、本放送で貴重な「タイタニック」の映像として紹介されたのが、「タイタニック」のデッキの映像だったのだが、これを見た瞬間に「アレッ? タイタニックじゃなくてオリンピックじゃないの」と思ったのだが、その映像とナレーションは有名な唯一の映像とされるベルファストでの映像に差し替えられていたように見える。本放送が「ながら見」だったので、再放送は専念して見て、そのタイタニックかオリンピックかも確かめたくて注意してみていたのだが、本放送の時の貴重なデッキ上の映像は無かった。見落としか否か? まあ、どうでもいいことだけれど。

歴史感というのは、立場や民族によっても違う。仕方のないことだ。報道ステーションの古館氏が「ISと話し合うべきだ」と言ったとか言わないとか、週刊誌の見出しだけ見れば「今更、寝ぼけたことを」と批判されているようだが、話し合うか否かは別としても、長い時の流れと史実を違う立場や民族の目線で考えてみることは必要かもしれない。人間は神ではなく、また、往々にして歴史は勝者によって描かれたものだからだ。民主主義社会の多数が必ずしも正義ではないように、勝者が正義であったとは限らない。

「新・映像の世紀」第二集の中で印象的だった言葉がもう一つ。「資本主義を守る長い闘いに入っていった」という言葉、我々は現在もその闘いのただ中にいるらしい(2015,12,2)

11/11 ラジオのすすめ

仕事中は、亡父が枕元で使っていた懐かしきラジカセで専らラジオを聴いている。ラジオは宜しい。

私見と推測になるが、多くの日本人がアテにしているテレビや新聞は、それが右寄りであれ左寄りであれ、スポンサーへの憚りや極論回避、はたまた社論(主義主張だな)との整合性によるものだろうか・・・偏向しているように思えてならない。もはや報道機関として公正なる情報源に能わず、用心深く耳を傾けることが必要だ。テレビや新聞は、週刊誌の見出しと五十歩百歩(笑)と思っていればしくじることはないだろう。

仕方のないこととも思うが、この国は戦前の国家主義への反省の気持ちが根強過ぎて、マスコミは基本的には人権主義・人道主義・民主主義を金科玉条としている。知識人と言われる階層や教員の大部分、まあインテリ層と思わしき方々がやや左掛かった物言いをして下さったお蔭で、日本人の思想のファンション(ファッショではありません、シャレです)は「やや左寄り」となっている。つまり、インテリっぽくてかっこいいんだな、これが。だからマスコミはそんな恰好をしたがるわけだ。けれど、全ての真実や答えは、そこから見えて来るとは限らないことを謙虚に受け止めるべきだ。

例えば、評論家の宮崎哲弥さんは、これまた僕が昼飯時に良く視聴している「ひるおび」にもコメンテーターとして出演されることがあるが、例のギリシャ債務不履行危機問題の時にはとうとう番組中に切れた。先に解説すれば・・・この問題は、ケインズ経済学以来の国家財政政策の基本、マクロのイロハのイに基づく意識的なインフレ政策の自作自演の一幕に過ぎないのであって、つまるところEU=ユーロというものの実態がドイツによる故意のインフレ政策 ―中長期的マルク高性向をユーロの価値を下げることによって回避― の陰謀と表裏一体である。この判り切った構図を、番組に呼ばれたエコノミストやコメンテーター諸氏はハッキリと言わず、やんわりと人道的問題やら国債の信義やらにすり替えようとするものだからとうとう宮崎氏は切れたわけだ。可笑しかったのは後日談、その一週間程後に宮崎氏はニッポン放送の「そこまで言うか」に出た時に、そのテレビでのブチ切れを聴取者から指摘されて・・・「だって、頭来ちゃいましたよ。誰も言わないからさ」とやった。しかし、何でテレビだと言えなくてラジオだと言えるんだろう? だから新聞とテレビだけでは馬鹿になっちゃいますよ・・・ということなのだ。馬鹿防止に僕が特におすすめするのはニッポン放送の「そこまで言うか」(月〜金、16:00〜17:30)である。ご参考まで

今日は、三菱が作っているMRJなる旅客機が初飛行だそうだ。朝のラジオでの森永卓郎さんによれば、日本の技術に恐れをなしている欧米からはMRJは随分といやがらせを受けたそうだ。自国の飛行機が売れなくなるからねえ・・・。そのおかげで初飛行は大きく遅れたものの、そのベンチャースピリットと技術者魂・職人魂には拍手を送りたい。昨日は、あのソニーのベータマックスのテープの生産を終了すると聞いた。1975年に初生産というから40年もやっていたわけだ。父の仕事は街の電気屋さんだったが、子供のころだからVHS対ベータなんて構図もわからなかった。ただ、店にあった両方のビデオをテレビから録画して見れば、子供にも一目瞭然なほど画質には差があった。3倍モードなんて登場する以前の話だ。(初期の話。店にあったのはβIモードかもしれない。本当に一目瞭然の差があった)結局、VHS対ベータ戦争には敗れたが、トリニトロン管といいベータといい、当時のソニーのスピリットには、これまた拍手を送りたい。

ルーティーンの買い物に出かける前、やはりラジオでは「川合郁子のハートストリングス」というコーナーの中で良い言葉を聞いた。フォスディックという神学者の名言だそうで

「弦が切れたら残りの弦で演奏する。これが人生である」

正確には「A弦が切れたら残りの三弦で演奏する。これが人生である」というのだそうだ。場合によって、この言葉は単なるコンソレーションに聞こえるかもしれぬが、むしろどこにでもある「無常」の中に不撓不屈の精神が宿る名言ではないか。かくありたいものである(2015,11,11)

09/13 ブレーメン号の水夫

三島由紀夫の「アポロの杯」は失敗だったが、この春に買ってとうとう通読できなかった本がいまひとつある。早川書房から出版されていた「ニューヨーカー短編集」である。米国の雑誌「ニューヨーカー」に連載されていた短編小説の翻訳である。アーウィン・ショーの「ブレーメン号の水夫」という短編が収録されており、これを読んでみたくて古書を求めたものである。

「ニューヨーカー短編集」の、読後評はあちこちにあるが、そのうちの多くを占めるネガティブな読後評に同意せざるを得なかった。全三冊の一番最初はアーウィン・ショー、常盤新平訳の「夏服を着た女たち」である。ただ、面白くなかったのならば、わざわざここに一文を認めることもない。問題は、30年ほど前、僕は講談社文庫の「夏服を着た女たち」にすっかり夢中だったのだ。

時代も変われば、嗜好も変わるだろう。でも散文も散文、何一つ結論の無い、このスケッチ的ともいえる中途半端な散文は、確かに輝いて見えたものだ。記憶の奥に蓄積されたイメージは「強い日差しの日陰で感じる無色透明のようなもの」だったはずだが、ただの「意味不明な陰鬱な散文」へと変質してしまっていた。旧き良き80年代も、黴臭い「過去」に過ぎないということだ。(笑)

肝心の「ブレーメン号の水夫」は何も得ることがなく・・・ただ人種差別とナチス問題が絡み合った船員同士の諍いを書いたに過ぎない。客船ブレーメンについて書いた部分、あるいは船員を船員として書いた内容は皆無であった。別に、わざわざブレーメンの水夫じゃなくても良いだろうし、ただオシャレな構文として「ブレーメン号の水夫」を題名としたものとしか思えなかった。

「ブレーメン号の水夫」が読みたかった故のこと、仕方がない「事故」だったかもしれないが、資料や学術・実用書は別として、本の読み直しにはくれぐれもご用心である(2015,09,14)

09/12 三島由紀夫のAPL客船乗船記

アポロの杯

三島由紀夫の「アポロの杯」という旅行記を読む。恥ずかしながら「潮騒」くらいしかちゃんと読んだことがなく、「金閣寺」なんかは課題か何かで読まなきゃいけなかったのに完読できず、超々飛ばし読みで急場をしのいだ覚えがある。なのに何で?である。

天皇陛下が皇太子時代にご乗船されたことで知られるAPLの客船、プレジデント・ウィルソン、1951年12月、この船に三島由紀夫はハワイ経由でサンフランシスコまで乗船、横浜を出て北米、南米、欧州を回るこの世界旅行の旅行記が「アポロの杯」なのである。冒頭の始末なので何だが・・・三島由紀夫といえば、やはりブンガクの世界では輝きを放つ巨星であるからして、大いに期待した。ミシマが書いたから、プレジデント・ウィルソンが空を飛ぶとは思っちゃいなかったけれど(笑)、ブンガク的に書かれたプレジデント・ウィルソン乗船記はさも素晴らしいものだと期待したものの・・・見事に外れである。自分の乗った船が何トンで全長はどのくらいで、何ノットくらいで進んでいて・・・なんて(こっちが望んでいる)ことは一行たりとも書かれてはいない。

この「アポロの杯」、もはや現行新刊書はないので古書となる。新潮文庫のものは、驚くなかれ古書で3000円を超える。新版の三島由紀夫全集(新潮社)のうち「アポロの杯」収録のものも高価で、昭和50年頃に刊行されていた旧版の三島由紀夫全集(同じく新潮社)、全36巻のうちの第26巻を求めた。これなら1000円もしない。なかなかご立派で、昭和50年当時の定価が何と2500円也。

昭和50年頃と言えば、僕は中学生だったが、どう考えてもその頃にも、現在も、めったに見ることが出来ない旧字の活字に辟易した。前後の文脈は偏と旁の一部から、それを音読みすれば熟語が推測できたりするが、まあ、活字を見てこれだけ読めなかった経験こそ初めてである。三島由紀夫自身が、かくも旧い字体を書いていたわけでもないから、何で新潮社が昭和50年当時に旧い活字でこの全集を出版したものか想像もつかない。きっと、ブンガクにはブンガクの作法ってものがあったのだろう(笑)失敗、失敗である(2015,09,12)

07/29 カブトムシ2015

横須賀でカブトムシ

もう横須賀に住んで27年になる。今朝は、生涯四匹目のオスのカブトムシを捕まえる。何と、今年は二匹目である。どちらも、早朝に道路の縁石を歩いているのを捕まえたのだが、残念ながら森の中や林の中でのカブトムシというのは見たことがないし、詳しくない。東京中野の生まれ育ちだったが、東京では、薄い茶色で全体にうっすらと毛が生えているカナブンしか見たことがなかった。緑色のカナブンだって横須賀に来て頻繁に見るようになったのだ。ありがたくないムシも横須賀で初めてお目にかかった。ムカデである。(笑)

子供の頃に、多分デパートでカブトムシを買ってもらったことがあるような気がする。虫かごに入ったカブトムシの記憶がうっすらとある。こうして物心ついてから接すると、これまた一興である。率直に・・・可愛い。人気があるのもわかる。横須賀ではオオクワガタも二度くらい捕まえたが、カブトムシの方がつぶらな瞳でグイグイとツノで押してくるのが可愛い。足はトゲトゲで結構痛い。人間も所詮同じことだが、あらゆる生物の存在意義は、一義的には子孫を残すことにある。我が家で、大いに可愛がるのも悪くないが、それでは折角成虫までたどり着いたハリー(このカブトムシは「ハリー」と名付けた)が、子孫を残す機会を奪うことになる。娘たちが小さかった頃のセミ獲りもそうだったが、夕方にはさよならである。万物、これ無常なり(2015,7,29)

07/14 ザハ・ハディトの国立競技場

ザハ・ハディト

新しい国立競技場の建設、筋が実によろしくない。結論から言えば、テレビも新聞も誰も言わないけれど・・・はっきり言っちゃえば良いのである。「ザハ・ハディトの設計 はあんまりよくない」(笑) だから、話しがまとまらないのである。もし、誰もが好感を持てるデザインであれば、これも言っちゃあ何だが、日本国にとって2000億や3000億は大した金額ではない 。一年の予算は100兆円の国ですぞ。新国立競技場なんか、333個も建っちゃう。戦艦大和とくらべて、やれ世界三大無用の長物になりかねないなんて言う方もいるが、大和の建造費は諸説あるものの 、当時の国家予算の3%ほどが費やされたというのが妥当なところで、国家予算比にすれば新国立競技場がお高いといったところで戦艦大和の予算比からすればほんの1/10ほどのもんである。安倍総 理も「必殺、第四の矢です」くらいいっちゃえばいいものを、答弁では「間に合わないから仕方ない」的なネガティヴな発言、キールアーチがどうのこうのではなく、要はあの案を総理も大臣も誰も 気に入っていないのである。コストを問題にする一方で「素晴らしいデザインだ」と誰かが言っただろうか?だから気持ちよく仕事にかかれないのだ。コストのせいにしないではっきり言えばいいのだ。ザハ・ハディトさんには違約金を払ってお引き取りいただき、さっさとコン ペをやり直せばいいのだ。

近年、あちこちで建ったザハ・ハディトの建物を見たことはないが、実は彼女がアンビルドの女王と言われた時代に、設計が初めて実現したともいわれる、スイス・バーゼルの某社工場内の消防 署を見たことがある。それも、建築中の建物にヘルメットをかぶって入って一回、完成してから一回、都合二度も見た。まあ、アンビルドといわれただけあって、まるでメビウスの輪かエッシャーの だまし絵みたいな設計だったわけだが、建物内にはひとつとして平行な面がない。これには辟易した。気分が悪くなるのである。あのザハが新国立・・・個人的には冗談じゃあない、僕は前衛芸術家 として彼女を認めたとしても建築家として認めない。槇さんもそうはっきり言えばいいのだ。「世界の安藤」さんが責任とって設計すりゃいいのだ。(笑) 写真は若き日、ザハの設計した消防署を 訪れた時のもので、もう20年も前の写真である(2014,7,14)

19日追記:思った通りというか・・・何と言ったらよいか・・・案の定、設計はやり直しになりそうだ。諸方面のアンチ安藤忠雄に見える動きには感心しなかったが、政治的な思惑もあっただろうし、建設費の都合もあっただろうが、結局、今になっても誰もはっきり言わないものの・・・中には好きな人もいるようだが (我が長女は、コンペの応募作の中であれが一番良いという・・・苦笑) 、皆、あの意匠にはあまり好感を持てなかったということだ。森元総理のコメントは例えはグロながら、なかなか辛口で一番だ。「もともとあのスタイルが嫌だった。生牡蠣がドロッとたれたみたいで合わないじゃないか」 ま、新国立の設計は・・・日建さんがやるんだろうし、それが一番良いかもしれない

07/11 幻の客船三題

地球規模で見た場合、客船の花形航路は英仏海峡とニューヨークを結んだ北大西洋横断航路であることは衆目一致である。片や我らの目前の太平洋、これはとてつもなく広い大洋で、地球の海の面積の46%を占め、地球上の全陸地面積を足しても収まってしまうほどの広さがある。米大陸の発見(実は発見発見とはいうけれど、遅くとも紀元10世紀頃にはアイスランド経由でノルマン人が現在のカナダに渡っている)や、豪大陸の発見は血の気の多い欧州人たちにとっては大いなる福音だったことだろう。アフリカの南を回って熱いインド洋経由で行く豪州よりも、大西洋横断のみで行ける北米は特に魅力的だったと見えて、ここに一際太い幹線航路が出来たわけだ。欧州から東回りで中国まで行ったとしても、北米大陸は西回り大西洋横断の方が断然便利だ。欧州からの移民たちが西海岸に達するには100年ほどはかかったし、そのころは南北問題ならぬ東西の格差が大きかったわけで、人荷の重要も自ずとあるわけで、同じ年代で比べれば大西洋航路と太平洋航路の船には大きさと速度では大きな開きが生じた。昔も今も、客船事業の純然たる利得など怪しいもので、郵便輸送を含む航路維持への補助金なしには巨大な客船など浮かべようもなかった筈だ。それでも、補助金を奮発しても国家に対するリターンは大きかったし、また一国のプレゼンスを表現するのに、軍事力と並んで余程重きをなしていたと考えられる。太平洋航路の船が二周遅れほどの規模であった反面、大西洋航路よりは健全に経営が成されていたかもしれない。CPL(カナディアンパシフィック)が太平洋航路を開設した時は、英国政府は「太平洋航路に補助金など不要」と、金を出さなかった。結局、実際にCPLが補助金なしで太平洋航路を開設して、横浜まで行くのに東回りより西回りが圧倒的に早いということが実証されてからCPLに補助金を出すことになった。つまり、経営史的側面から詳細に検証したわけではないが、大西洋航路がジャブジャブの補助金漬けであったとすれば、太平洋航路の方が質実剛健であったことがうかがわれる。機会があれば、日本郵船の財務に関する古い資料の古書なども出版されいるので研究してみたいものだ。(多分、そこまで手が回らないだろうが)

アメリカンプレジデントライン・プレジデントワシントン

PM(パシフィックメール)、Daller、APL(アメリカンプレジデントライン)の調べごとをしていて興味深い資料画を見つけた。1958年に描かれたとされる、APLの幻の新船、プレジデントワシントンのプロポーザルスケッチである。天皇陛下も乗船されたプレジデントウィルソンは、全長185mで15000トン、巡航速度は20ノットであったが、元々が第二次大戦中に建造されたP2輸送船のタービンエレクトリック型のうち、終戦で建造中止された2隻をハウス部分を作り直して乗せたという出自を持っている。1948年に就役してから10年目の1958年に、APLはようやく純貨客船を計画するに至ったというわけだ。計画では全長290mで43000トンだったそうだが、すでに米国人の太平洋横断は飛行機の利用が主流になりつつあり、需要が見込めずに計画は白紙となった。

日本郵船・橿原丸・ミスニッポン

幻の客船といえば・・・1935年(昭和10年)当時、太平洋航路で最大の客船はCPLのエンプレス・オブ・ジャパンで、全長205m・26000トン・22ノット、NYKの浅間丸は同178m・17000トン・21ノット、APLのプレジデント・クーリッジが同187m・21000トン・21ノットといったところだったが、ご存知、航空母艦隼鷹となってしまった橿原丸は、1942年に予定通り完成すれば、全長220m・27700トン・25ノット(運用速度は23ノット程度だったと推測される)という太平洋航路の主役となる筈であった。NYKには、もう一つの幻の客船計画があった。1964年の東京オリンピックに向けて、氷川丸に代わる太平洋航路の客船を建造しようというものであった。全長210m・33400トン・24ノットとされたこの仮称ミス・ニッポン(笑)は、サンフランシスコ航路へ配船するべく1957年頃から計画が始まった。APLがプレジデントワシントンを計画したのは・・・素人考えながら、どうもこのミス・ニッポンが追い付けない立派な船を造ろうという野心があったと思えて仕方ない。戦勝国のプライドだってあるだろう(笑) しかし、ミス・ニッポンの方は2隻作る計画だったそうだから、これまた周到である。どちらも完成したなら、随分と愉快な光景が見られたことと思うが、ミス・ニッポンの方も1959年の伊勢湾台風の前に建造補助金を復興予算に持って行かれてオジャンになった。その後、氷川丸が退役して日本郵船は客船事業から一旦撤退することになる。しかし、これは僥倖であったともいわれる。もしミスニッポン型2隻が完成していたら・・・日本郵船は倒産の憂き目にあったであろうとも言われている。幻の客船はキュナードのQ3やら、CGTのブリターニュやら、いずれも気が魅かれる話ばかりだ。幻は幻というだけで輝きを放つものである(2015,7,11)

07/07 オーシャンノートからの眺め

オーシャンノートからの眺め

わずか三月ほどで潰えてしまうことだが、思いがけず眺めの宜しい日々を楽しんでいる。目の前に鎮座していた豪邸が取り壊されて、宅地開発されるまでの間だけ空地なのだ。横須賀は北向きに海が広がっている。太平洋岸に住んでいれば、太陽の上る東に海が広がる感覚が身についているもんだが、横須賀東海岸で海に向かえば、実は大抵は横浜や湾奥を眺めることになるのだ。この辺がどうも難しい。方向感覚が狂う。

で、仕事場の眺めの良くなった窓は、ほぼ北を正面に二窓東に一窓、東は観音崎手前の旗山崎(ペリーの艦隊はルビコン岬と名付けた。この岬から先を江戸幕府直轄の江戸湾内湾と考えたらしい)から、浦賀水道、正面やや右に猿島(ペリー流にいえばペリー島)、正面の岩山の際に遠く向うに横浜港を望む。猿島のちょっと左手には天気が良ければスイカイツリーも見える。

もう、この仕事場も丸5年を迎える。横須賀上町で店を構えていたのが丸4年だったから、こうして部屋に籠って仕事をしている方が長くなったわけだ。2010年7月17日の店長日記を引用すれば − ある土曜日の早朝、昔、長女がまだヨチヨチ歩きを始めたばかりの頃良く散歩した自宅の近所を一人であれこれ思索しながら歩いていたら・・・そこから良く海を眺めた処に差し掛かかり考え事しながら海を眺めた。フト振り向くと、そこに建つアパートメントの一室に空室の看板が・・・  「ここで仕事をしよう!」と思いついてしまったことが全てのきっかけになってしまった。海を眺めながら仕事をするのは僕の夢なのだ。 − といった事情でここに越したわけだが、眺めが宜しい分、冬の北風吹きさらしによる寒さは厳しいものの概ねハッピーな環境である。

特に眺めを良くしてくれた豪邸は、ローカルな話題で恐縮ながら、横須賀の人ならだれでも知っている横須賀中央の某有名居酒屋の社長さんのご自宅であった。数年前に奥様を亡くされて、会社を引き継がれているご子息方は、良くある話ながら同居には至らないらしく、売りに出された。これも公な情報として不動産さんで公開されていたから言えば、売値は1億円である。築30年弱の立派なRC造の住宅は取り壊され、7棟分の建築条件付宅地に生まれ変わる。8月1日は、横須賀の花火大会だ。今年だけ、蚊に悩まされず、クーラーの効いた部屋から花火を見ることができそうだ(2015,7,7)

05/20 横浜市指定文化財「氷川丸」調査報告書

『横浜市指定文化財「氷川丸」調査報告書』

氷川丸について書かれた素晴らしい資料を見つけた。「何だ、そんなの知ってるよ」と言われるかもしれない。恥ずかしながら、平成16年(2004年)刊行であるこの資料の存在を知ったのは、先日立ち寄った郵船博物館の図書室だったのだから仕方ない。少なくとも、この5年程、つまりは横須賀上町で営業していたオーシャンノート実店舗を閉店して以降、少しばかり時間に余裕が持ててあちらこちらへ出かけことが出来るようになって立ち回り先となっている場所では見たことがなかったというわけだ。郵船博物館の図書室も、たまたま調べごとの資料が不足気味で、苦し紛れに書籍を物色していたから見つけたようなものである。

船舶やら海運史、戦前の企業経営史に興味をお持ちの方ならば、恐らくは研究の一助たりえる資料として紹介する。無論、僕のように間抜けではなくて「ああ、読んだよ」という御仁は本記載ご勘弁を。ついでながら、お手許に、高名なアテネ書房刊「豪華客船インテリア画集」をお持ちの方なら、ご一読の価値ありと思う。

資料名は 『横浜市指定文化財「氷川丸」調査報告書』、平成16年3月、横浜市教育委員会発刊である。現在は、氷川丸マリンタワー株式会社が解散され、氷川丸は日本郵船の所有に帰し、往時への原状回復工事を経て一般公開されているが、これに先立つ平成15年11月に横浜市の文化財に指定された際に作成された調査報告書とのことである。内容としては大きく、仏マルクシモンによる内装とマルクシモンの業績・実績の考証等、氷川丸要目とその解説、氷川丸および大洋横断定期客船の概説、山下公園係留以降の経緯、資料・図面などである。

氷川丸という一隻の客船について、ヒューマンストーリーであれば、「氷川丸物語」や「氷川丸とその時代」に譲るだろうが、その設計、要目を、技術面・ハード面から解説した文書は他にはないだろう。また、日本郵船社史的な側面からみれば、要点を要領よく凝縮して記述されているので、既知の内容ながら判りやすい。浅間丸級、照国丸級、氷川丸級、新田丸級、橿原丸級・・・といちいち、あちこちを行ったり来たりしなくてよいから、大変重宝な一文に仕上がっていると思う。(特に、日本郵船工務部出身の嶋田武夫氏−執筆当時日本郵船顧問−の一文は、ちょっとないくらい良い。ちなみに、飛鳥の事業を立ち上げた、故竹野弘之氏の一文も収録されている) 巻末資料の中にある一般配置図および意匠図・・・これは当時の図面が三菱重工長崎造船所にマイクロフィルムで保存されているそうで、このコピーも附録されている。大変傷みが多く、戦後に三菱重工で引き直された一般配置図の方が見やすいのは当然としても、これまた一見の価値ありである。

ボリュームは結構あって、横浜市教育委員会の刊行物から格上げして、書籍として発刊してもらいたいほどの内容。2時間ほどかけて大雑把に一読したが、ゆっくり読むのは時間があるときに譲るとする。そのくらい充実していると思う。入手は、横浜市庁(先日、大阪市の廃止の有無を巡って住民投票、大阪市存続は決定したようだが、横浜市もまた二重行政といえば二重行政にあたる政令市である。個人的には行政改革には大賛成だが、横浜市で「横浜市役所」でなくて「横浜市庁」となっているのをみると、かなり自尊心を強くお持ちのように感じられ、なかなか難しい問題なのだなと思う。「横浜市」が無くなって神奈川県横浜区って言われてもねえ・・・大阪市廃止反対の「気持ち」も理解できる。かと言って、横浜の場合、神奈川県を横浜県というわけには・・・いかないわなあ)の1階、関内駅から横浜市庁舎に入ってすぐ右側の刊行物販売コーナーで売っている。2100円也である。郵送もやってくれていて、この場合、郵送料350円を加算、つまりは2450円を切手代用で書留で送ると発送してくれるとのこと。問い合わせは横浜市市民局市民情報室(045-671-3600)まで(2015,5,20)

05/11 俺たちの勲章

横浜・俺たちの勲章

1875年から1880年くらいの客船にまつわる調べごとに端を発し、世界史概説書をひもといたらブルジョアやらプロレタリアートの類の論述にあふれ、結局マルクスから帝国主義経済と辿らざるを得ず、気づけばまたまたケインズ・・・生来の頭の悪さも手伝って手を焼いている。わかったつもりのケインズ・・・乗数効果を理解していたつもりでも、実際にその「1/(1-β)」の根拠となると甚だ怪しい。100億円の投資が貯蓄性向10%としたら1000億円の有効需要を生む(だからアベノミクスの公共投資の効果が薄いとすれば、貯蓄性向が予想より高いことも推察されるのだろう)ものと「知って」はいても、その本質までは理解していない訳だ。これで情けなくも経済学部卒とは・・・要は頭が悪いのである。「無知の知」ともいうからそれはそれで得るものがあった(泣)と半ば納得しつつ、気分転換を兼ねて久しぶりの横浜。船の断面図で高名な谷井健三氏の原画を展示しているとのことで、オークションで買っている株主優待入館券の有効期限も迫っているので郵船博物館と氷川丸に立ち寄った次第。原画は「船の科学館蔵」となってるものが多く、忘れかけていた船の科学館の行く末も改めて気になるところだ。(特に進展はなく、無期限休館のままだそうだ。東京オリンピック開催に引っ掛けてカジノになるとかならないとかのニュースも聞いたが進展はないらしい。個人的に賭け事には爪の先ほどの興味もないので、やっぱり船の科学館の再開を望む)

ケーブルテレビで見るとはなしにチャンネルと行ったり来たりしてると(昔なら「チャンネルを回していると」となるが、今時のテレビには回すべきチャンネルなんかありゃしない。「チャンネルを回す」は死語である。娘たちとのジェネレーションギャップ大きく、幸い女房の実家には電電公社4型黒電話があって「シックス・セヴン・オー・オー」よろしくダイヤル電話は娘たちも知ってるが、回すチャンネルやらレコードは未体験だし、先日は内蔵マイクで録音できるラジカセの話が出たが、現役でラジオとして活躍してるラジカセはあるものの、内蔵マイクで録音して見せようと思ったらカセットテープが身の回りに一本もありゃしない。物にもよるが、あの内臓マイクの録音というのは良くできていて、マイクを立てて録るよりも上手に録れるものが多かった。ビートルズ以降、譜面なんか読み書きできなくっても音楽家になれるようになったのはテープレコーダーのお蔭で、ラジカセがなけりゃポピュラー音楽もつまらんものだったろう)、例によって太陽にほえろに見入ってしまい、何で昔の刑事ドラマはこんなに面白いんだろうと感心するばかり。ここから、頭の中は連想ゲームで、「昔の刑事ドラマは面白いなあ」→「そう言えば俺たちの勲章って良かったけど再放送しないなあ」→「テーマ曲のトランザムの演奏する拓郎の曲は良かったなあ」と思ったら、トランザムの演奏した「ああ青春」と、あのタイトルバックが頭から離れなくなって、「そういえばあのタイトルバックの映像は横浜だったなあ」→「海岸通りにあったプラス横浜支店の屋上もロケに使ったと聞いたなあ」・・・と雑多なる懐かしい記憶が湧いて来た。

今は、「ルネ・ブランシュ横浜海岸通り」という立派な分譲マンションとなっているが、前に神奈川県警、後ろに神奈川県庁という件の一等地には、かつて僕が勤務した文具メーカーのプラス、その横浜支店があって、この2階フロは 家具関係のショールームになっていた。上司や先輩から聞いた話の繋ぎ合わせなので間違いもあるかもしれないが・・・プラスという会社は文具事務機の問屋だった鈴木商店と今泉商店が合併、千代田文具として神田岩本町で創業した。ただの問屋じゃ面白くないと、スチールロッカーやら書庫を自社ブランドで売ろうってなわけで「プラス」というブランド商号を考案、このブランドマークのシールやらバッジを張り付けてスチール製品を売りまくったらしい。神田界隈 じゃ、リヤカーにスチール家具を積んで朝も夜もなく納めまくったという。いっぱしのメーカーに成長したプラスは文京区音羽に倉庫兼社屋を構えたが、やがて手狭な岩本町を東京支店として残し、本社を音羽に移した。キャッシュフロ ー経営が重要とされて、立派な自社社屋は遊休資産としてマイナス評価される昨今だが、昔は違う。当時のプラスは非上場同族無借金、含み資産経営の典型で、儲かった分はせっせと固定資産購入に回したようだ。現在の主力工場である 群馬県のプラスランド(14万坪=東京ドーム10ケ分)の土地もこの頃にせっせと購入していたようだが、横浜支店の自社ビル入手は銀行筋を通じ政界の力添えも得たことで叶ったと聞く。横浜海岸通りといえば、開国以来の日本の中心地 だったわけで、例えば霞ヶ関やら虎の門あたりの土地がお金があるだけでは買えないのと同じで、あの一等地を得るのは大変なことだったらしく、プラス横浜支店は二人の創業者社長のステータス自慢だったそうである。

僕にとっても思い出深い場所だ。1985年当時の就職協定では、10月1日会社説明会解禁、11月1日選考試験解禁となっていたが、これは有名無実で11月1日には内定通知書を貰った。この内定通知書授与式が横浜海岸通りの横浜支店会議室だった。配属は、横浜ではなく、本社勤務の本社直属営業部門(指揮系統上で、ラインに属さない特殊部隊みたいな営業部門だった)、この先、ひょんなことで人生は大きく変わるのである。そもそも入社前は、せいぜいホッチキスやペーパーパンチでも売って歩くのかと思っていたら、配属は内装工事関係の特殊部隊みたいな部署、この部署がプラスが提携を結んだイタリア・オリベッティの家具を販売する部門に指名されたのだ。で、あろうことか、その担当者に抜擢???されてしまったのである。と言っても、所帯は小さく担当二名、先輩と二人で「あーでもないこーでもない」とやってるうちに仲間が一人増え、営業三名と統括部門、都合6名半で仕事をすすめる。時には原価計算が間に合わず、四人で会社に泊って徹夜で原価計算したりしながら、初回ロットが到着。横浜ショールームの一角にオリベッティのコーナーを構えることが決まり、お披露目の日程が決まったものの、今度は通関が間に合わず、本牧の保税倉庫にトラックで乗り付けて無理やり商品の一部を緊急通関したり、ハイライトはその商品の組み立て。都合一週間、毎朝始発に乗って音羽本社に集合、そのまま車で横浜に行って毎晩12時過ぎまで突貫で組立、連日18時間労働である。あの横浜支店にはそんな思い出があるのだ。

これも確かな話ではないが、聞いたままに書けば、「ルネ・ブランシュ横浜海岸通り」は東海興業が建設を請け負い、プラス横浜支店の4階建て社屋のRCはそのまま、5階以上を継ぎ足してマンションに改築したという。真偽のほどはわからない。ただ、言われてみればどことなく、あのプラス横浜支店の面影があるような気がする。1980年代、神奈川県警はなかったし、郵船博物館も日本郵船横浜支店だった。万国橋より向うは確か入れなかったような気がするし、赤レンガ倉庫は放置されていた。みなとみらいだって1965年に整備計画ができたものの遠大な事業実現の可否は不透明だったように記憶している。今日の赤レンガなんか・・・「俺たちの勲章」のタイトルバックの建物が今に残って賑わうことを誰が想像しただろう。そういえば、大桟橋袂の横浜大桟橋診療所はクローズしていた。風情のある建物だと思っていたが、国土交通省所管の公益法人だったそうだから土地もその筋の持ち物だろう。古臭い建物は風情があるから、耐震さえ大丈夫ならば良い再利用がされるといいんだがなあ。今の大桟橋ターミナルは、やや風情に欠けるし・・・(2015,5,11)

04/25 氷川丸物語 2015年新版上梓予定

かまくら春秋社・氷川丸物語

今更・・・恥ずかしながら社会科の教員免許取得者である。ペーパー先生だったから無効だろう。もう30年以上前の話だが、高校の恩師に4年次の教育実習のお願いに伺うと「お前は経済学部なのだから、これを通読してノートを作ること。これが条件だ」といわれ、この後2年間に渡って格闘したのが旧中央公論社刊の「日本の歴史」である。高校時代には良く出入りした社会科準備室の書庫、その頃は気にも留めなかったが「日本の歴史」全26巻! と同社刊「世界の歴史」全16巻はグレーのガラス引き戸のスチール書庫に全巻鎮座していた。それが全てでは無いはずだが、プロの教師のアンチョコはこれだったのである。(笑) ちなみに、勘違いがあるといけないので念のため言っておけば、社会科の教員免許に「専門」は無いので、教員になれば人事上の都合によっては社会科全科目をどれも教えることができなくてはならない。実際には運用上の問題でいろいろな便宜もあるようだが・・・ 僕は、日本史で実習して、指導の恩師も日本史のスペシャリストだったが、日本史の場合、当時は岩波講座「日本通史」などもプロの先生方の頼みの綱だったようだ。学生時代、毎年3度入るノートのチェックを受け、奈良時代と平安時代をまとめた大学ノートは7〜8冊ほどにもなったし、興味はなくとも必修の講義などの時はひたすら日本史をやっていた。

19世紀の客船について調べごとをしている。もうかれこれ三か月もかかっている。蒸気船による定期航路の大西洋横断が始まったのは1840年、初期の競合を終えて、英国のキュナードとホワイトスター、ドイツの北ドイツロイドとハパグ、19世紀の四天王が揃ったのは1870年代だが、この辺りの客船に関する記述資料が少ない。丁度ビスマルク活躍の時期だ。困っていたところに、いつも手の届くところにあって参考にさせていただいている野間恒氏の本の巻末参考文献に中公論者の「世界の歴史13」「世界の歴史14」と記してある。急がば廻れである。どうせ、わからないついでだから良い機会と思い、「世界の歴史」の12巻から15巻までを通読している。ちょっとしんどいのは、1962年当時の著述者の方々は、まだマルクス主義的指向を強く持たれていると見え、物事が革命的観点での論述に傾きすぎている点か。僕の学生時代はオイルショックやら成長の限界やらを受けて、ケインズ反証が盛んに行われた(シュンペーターのいうように、公共投資が純粋に機能しなくなっていたことを肯定せざるを得ない時代である。まあピケティなんかも、基本的にここらが出発点だろうと僕は思っている。まあ、恰好良く言えばマクロってやつでしょうか 笑)頃だったからマルクスっていわれてもねえ・・・それでも書評を見れば中央公論新社になって新たに刊行された「新版 世界の歴史」よりはずっと良いとのことである。ただし、やや経済史的な観点からみると内容が弱いので、改めて帝国主義経済、余剰資本の海外投資といったあたりは追加で資料を探している。いずれにせよ、そもそも19世紀前半に英国政府が郵便輸送を蒸気船に切り替えることに決したあたりの国家事情を掘り下げないと見えないものが多いように僕には思えるのである。好い歳こいて、相変わらずバカをやっているとは思っているが・・・ ケインズといえば、目からウロコのようなお話。ルーズベルトのニューディールがケインズ経済学のお手本ともいわれるが、実はケインズ理論が最も成功した例はヒトラーの経済政策だったそうである。1929年の恐慌から抜け出し、確かに・・・完全雇用を実現している。ついでに、そのヒトラーの公共投資で良く知られるアウトバーン、これを最初にやったのはムッソリーニである。あちこちにそんな論述も見かけるが、ヒトラーはムッソリーニの経済政策を真似したともいわれるのだそうだ。客船の研究で何でそんな方に行っちゃうのか自分でも不思議だが、一つの物事を掘り下げるといろいろな事が見えてくるのも事実である。ムッソリーニの経済政策では意外に軍事費比率は小さく、その公共投資は例えば、客船レックスやコンテ・ディ・サヴォアなんかに突っ込まれていたのである。深い話である。

古い本と言えば、25日配信毎日新聞のニュースに名著「氷川丸物語」の話題が。以下引用

昭和史と軌を一にする同船の歴史を、関係者がつづった「氷川丸ものがたり」が5月に刊行されるほか、同書を原作とする同名のアニメ映画(大賀俊二監督、虫プロダクションなど製作委員会)が製作中で、8月から順次、全国で上映される。 −中略− 「氷川丸ものがたり」は、かまくら春秋社(神奈川県鎌倉市)の伊藤玄二郎代表が企画した。78年に同社から出した「氷川丸物語」を基に、伊藤さんが関係者らに新たにインタビューするなど、大幅に加筆・改稿した。底本の著者、故高橋茂さんは出征中にラバウルでマラリアにかかり、命からがら氷川丸で帰国。復員後、毎日新聞鎌倉通信部の記者として伊藤さんと知り合った。「“命の恩人”氷川丸の本を書きたいんだ」。熱っぽく語った高橋さんは、伊藤さんの協力を得て2年がかりで出版にこぎつけ、船上で記念パーティーを開いたが、間もなくがんで亡くなった。

遺族の理解を得て、氷川丸の物語を改めて世に問うことにした伊藤さんは「戦争を知らない若者に、平和であり続けることの難しさと幸せを考えてほしい。これこそ高橋さんが伝えたかった願いです」と話している。 引用ここまで

写真は初版の「氷川丸物語」である。かまくら春秋の営業員さんと知り合って、初版「氷川丸物語」を売っていたのは以前にも書いている。2006年、氷川丸が日本郵船に戻り改装、2008年に新装公開されることになる。2007年頃、この2008年の新装公開に合わせて、かまくら春秋社は著者の高橋茂さんのご遺族に再版をするべく交渉をしていたが、再版許諾を得ることが出来なかった。当時、ご遺族の権利関係が複雑だったためと説明を受けた。初版「氷川丸物語」は、三崎の倉庫から「発掘」してもらい、ISBNコードもとらぬまま、当時の定価のままで(日本では再版価格維持制度があるために消費税以外はいじれない。むろん、安く売るだけでなく、プレミアを付けることもできないである。古書の方が理に適っているかも)かれこれ100冊近く売った。これにて、在庫はゼロになっていたのである。あの名著、一部の加筆修正はともかく(できることならオリジナル再版であってほしかったなあ)、復活するのは嬉しい限りである。もう、かまくら春秋の営業員氏も退職してつながりはないので、僕も一読者として購入したいと思っている(2015,4,25)

03/30 横須賀ショッパーズプラザ

ショッパーズプラザ、護衛艦いずも:店長日記 Ocean-Note

横須賀ショッパーズプラザへお出かけ。長女の通学用バックパック(何で今時の中学生があんなに下位置でバックパックを背負っているのか、男子高校生のズボンの下位置とともに不思議でならんが)を買いつつ、不要になった釣り具をタックルベリーに持ち込み、ついでに本屋でキュナードのポストカードが付録についているらしいクルーズ雑誌を立ち読みする。タックルベリーは横須賀本港側にあるが、見上げりゃ見まごうことなき護衛艦「いずも」ではないか。大きいは大きいわなあ…

雑誌は知人からも「キュナード特集だよ」と知らせを貰ってはいたが購入するほどのものではなかった。キュナードは盛んに「175周年」とやっているが、アニバーサリーも中途半端だとこそばゆい印象だ。やっぱ1、5、10、25、50、100、150、200周年の方が決まりが宜しい。尤も100年前の1915年も、確か75周年をやってたように記憶してはいるが(確か75周年と銘打ったブローシャーかメニューカバーがあったような気がする)、この年5月7日には、あの惨劇「ルシタニア雷撃沈没」事件が起きてアニバーサリーどころではなくなった筈だ。誰も大声で言わない欧米社会の人種的な諸事情は分かりにくいもので、そこらの本をひもとくのみではとても理解が及ばぬところだが、例えば昔からユダヤ系の大人脈が米国を牛耳っているらしいのは周知のことで、これはまあイスラエルのことでも理解されるところだ。1914年に第一次大戦が勃発してもモンロー主義で中立を保っていたが、旧宗主国の英国が懇願しても第一次大戦に参戦しなかったのは、東部ボストンあたりを中心としたドイツ系米国人の反対が強かったからだという話だ。この頃は、もう商業の中心はニューヨークになっていたがボストニアンの持つ財力には逆らえなかったらしい。下世話な例だが、1880年代後期以降、ニューヨークヨットクラブの名の下で、アメリカズカップを防衛し続けたのは財力と気概あふれるボストニアン達であった。太平洋戦争でも「わざと真珠湾を攻撃させて世論を第二次大戦参戦に振り向けた」と囁かれるところだが、真偽はともかくルシタニア撃沈陰謀説のひとつには、このボストンを中心としたドイツ系米国人が反論できない参戦国論を作りあげるためだったともいわれる。100年前の話が長くなった。

タックルベリーもブックオフ同様に、買い取りがあまりいい値段ではないと言われるが、今日はシマノの投げ竿になかなか良い値段が付いた。といっても買った値段の1/4といったところだが。横須賀に越して来たころは投げ釣りに凝っていて、6色オーバー(投げ釣りの糸は25mごとに色がついていて6色は150mということ)を狙って道具を揃えてはみたものの、とても僕には振り切れる竿じゃなかった。今日のタックルベリーの店員さんも「シマノは固いですからね」と言っていた。おまけに横須賀の海岸の底は根掛かりが多いから、高切れしてラインを100mも海に捨てることが続くと、さすがに罪の意識も働いてすっかり手を引いてしまった。で、ルアーに転向した次第である。竿ももう10年振っていないが・・・ 使いやすいKTENのルアーと、今じゃお目にかかれない北欧のバルサルアー、ミドルパワーのルアーロッドとステラを残して、ほとんど処分した。釣り道具も、江戸和竿のようなものならともかく、現代の道具は間違ってもお宝になるようなものでなし、わが身は天に召されれば家族にとってはゴミである。ならばタダみたいな値段でも再利用してくれる人がいるならば良しと考える。身の回りはいつも小奇麗にありたいものである。

さて、護衛艦「いずも」。その方面の主張では、あれは空母で専守防衛に反する軍備増強ともいっておられるが・・・私見ながら、無論あれは空母ではない。まあヘリ空母を空母というなら空母かもしれないが。少なくとも固定翼機の発艦着艦ができることはないだろう。カタパルトがないから発艦は無理、VTOL機を導入とか言ってもスキージャンプの設置は物理的に可能性が低いし、アレスティング・ワイヤーも後からつければ使えるほど甘いものではないから着艦も無理。噂では航空自衛隊にも日米共同訓練で空母着艦資格を獲ったパイロットがいるとかいないとか聞いたが、発着艦できるパイロットがいないのに・・・となると空母空母と騒ぐのはナンセンスな話である。米軍のパイロットだって、米海軍の空母が全部無くなりでもしなきゃ、誰も命がけで「いずも」に降りようとは思わないだろう。(笑)僕は至って中立な一商人だから、それ以上の議論は不要なことである。

相変わらずのご繁盛はトライアングルさんの軍港めぐり。平日なのに乗船前の行列である。目の前にもポスターが。アレッ??? 下段のコピーは「ヨコスカならではの未体験 ご当地クルーズ」 泉谷さん、日本語が変ですよ 笑(2015,3,30)

03/28 氷川丸信号旗 QE抜港のこと

氷川丸信号旗:店長日記 Ocean-Note

娘たちは春休み。みなと博物館で購入したい資料が何点かあったのと元町に野暮用があったので、久しぶりに一家揃って横浜散歩。氷川丸のマストには見慣れない信号旗の列、これは「JGXC」と読めるが、氷川丸のコールサインなのだそうだ。もちろん氷川丸は法律上「船舶」ではないし、コールサインで呼び出したって船内無線局があるわけではない。信号旗というのは、本当に青空に映えるもので宜しいものだ。

3月16日だったか、知人より「QE抜港決定です」とメールが届いた。恥ずかしながら「抜港」なんて言葉は初めて聞いたが、読んで字のごとくだから「ああ、寄港中止になったんだなあ」と思った。既報のとおり前港のラバウル出港後に台風を避けて航路を変更したため横浜港の干潮時刻に間に合わず寄港を中止したのだそうだ。元から、見に行く予定もなかったので、残念な思いをされた方々には気の毒だが「然もありなん」といった感想のみである。国益を考えれば、すぐにでも「ベイブリッジを架け替えよ!」と言いたいのみ。そもそもクイーンエリザベス2の高さを考慮して橋の下端の高さを決めたそうだが、これがなっちゃいない。ニューヨークのヴェラザノナローズブリッジの高さに合わせりゃよかったのだ。現にクイーンメリー2は、設計原案をヴェラザノナローズブリッジをくぐれるように変更した。ニューヨークに入港できない大型客船なんか考えられないわけだから、これがギョーカイのデファクトスタンダードである。

テレビのニュースでは相も変わらず「豪華客船クイーンエリザベス2世号の名を引き継いだ三代目クイーンエリザベス・・・」と聞いていて面映ゆい美辞麗句。これはあくまで一個人の出しゃばった意見に過ぎないが、クイーンビクトリアにせよクイーンエリザベスにせよ、カーニバル社の共通設計のクルーズ船の一隻(カーニバル・ビスタ級客船、QVは7番船、QEは8番船)に過ぎないわけで、ブランドがキュナードであるだけで中身はただのクルーズ客船である。「あのキュナードなら何でも良い」というわけでもあるまいし、個人的には「クイーン」の船名を名乗って欲しくはなかった。いわばユニクロ製のポロシャツの胸に、ラルフローレンのポロのロゴ刺繍を縫い付けて売ってるようなものだ。かといってユニクロのポロシャツの品質が悪いわけではないので念のため。(笑)

去年、クイーンエリザベスが寄港した時の大桟橋は予想しないほどの人出だった。大桟橋の売店各位におかれても、去年の人出をアテにして商品を仕込んだことだろう。お気の毒である。所詮はクルーズ客船なのだから・・・改めて感じる次第(2015,3,28)

03/01 三菱倉庫江戸橋ビル

三菱倉庫江戸橋ビル:店長日記 Ocean-Note

2月中旬、次女付き添いで三越のサザエさん展を見るために日本橋に行って来た。都営線の日本橋で降りて昭和通りを北に歩くと右手に日本橋郵便局、その北側には日本橋河に沿って日本橋ダイヤビルディングがある。この日本橋ダイヤビルディング、旧三菱倉庫江戸橋ビルにはまるで船のブリッジのような不思議な塔屋が立っているが、ここに三井、住友とともに日本三大財閥にある三菱のルーツを見ることができる。

ここで三菱財閥の委細を認めるより、その類のお話はスノッブな経済小説の方が詳しいので大筋だけ。三井財閥が三井越後屋の量販事業で、住友財閥が銅の精錬事業で大財閥への足場と成したことはすぐにピンと来るが、三菱財閥のそもそもの仕事は何? と問われても一瞬見当がつかないかもしれない。海運業なのである。海援隊の坂本龍馬が暗殺されると、土佐藩御用の海運は岩崎弥太郎が責任者に任じられた九十九商会が請け負った。明治政府は藩営事業を禁じ、やがて廃藩置県、1873年には土佐藩営の九十九商会は岩崎弥太郎の三菱商会へ改組する。これが三菱の始まりである。翌1874年には郵便汽船三菱へ改名、当時の郵便汽船三菱は物流・海運と商亊・代金決済を併せ持つコングロマリット商社のような会社で、西南戦争で物流・輸送、軍需品調達まで一手に手掛けて巨利を得る。1882年、この利益独占に対して反三菱勢力が郵便汽船三菱社に対抗する共同運輸会社を設立、運賃が1/10まで下落する激しい競争の最中に岩崎弥太郎は死去、共倒れ寸前に政府の仲介で両社は合併、日本郵船株式会社が発足したのである。当時の海事事業は明治政府重鎮を巻き込むほど重要だったわけだが、日本で主要都市間に鉄道が開通するのは国鉄発足の1907年以降であり、海運こそが唯一の長距離運送・移動の手段であり、それ故に江戸時代から続く豪商に交じって岩崎弥太郎の三菱が短期間で大財閥の一角を占めるに至ったのである。

少々ややこしいが、九十九商会は三川商会、三菱商会、三菱蒸気船会社、郵船汽船三菱と1874年までに改組改称を重ね、三菱商会の炭鉱部門が炭鉱部・鉱山部となり1918年に三菱鉱業、三菱蒸気船会社の為替局が1880年に三菱為換店(為換は「かわし」と読む。後の三菱銀行)、さらに三菱為換店の倉庫部門が1887年東京倉庫(現・三菱倉庫)として分社設立される。一方、1885年に郵船汽船三菱が海上運輸部門を持ち船もろとも日本郵船に譲渡すると、二代目社長の岩崎弥之助は翌1886年に郵船汽船三菱を三菱社へ改組改称(後に三菱合資、三菱本社 戦後の財閥解体で解散)、一旦海運業を手放したことをきっかけに海からやや陸向きへと事業拡大の方向を変える。1917年に三菱合資の造船部が三菱造船(現・三菱重工業)、翌1918年には営業部が三菱商事、1939年には三菱造船から三菱電機、1937年に地所部が三菱地所として分社設立された。現在の三菱グループでは、三菱商事、三菱重工業、三菱東京UFJ銀行をして御三家と称するそうだが、三菱本体の源流から分社設立された順でいえば以上の通り、日本郵船は旧共同運輸側の人と金はほどなくして細り、実質的に三菱グループの一員に復帰している。尚、東京海上、明治生命、旭硝子、日本光学、麒麟麦酒などは現在の三菱グループの重鎮ではあっても三菱本社から直接独立したものではない。600社余りの三菱グループの頂点に立つ三菱金曜会の会員は28社、三菱広報委員会には金曜会会員の28社を含む39社が名を連ねる。

岩崎弥太郎が大阪から東京に本社を移したのは1874年、東京市日本橋区南茅場町18(現在の日本橋茅場町1丁目14−10の東側、渋澤ビルの駐車場付近)、日本橋川沿い霊岸橋の北側である。1879年頃には安田善次郎から深川小松町と冨吉町のまとまった地所を買入れて、倉庫業を兼業する三菱為換店を設立した。日本橋川沿いから霊岸島、箱崎、深川一帯は、江戸の物流の一大拠点で回漕店・回漕問屋が集積していた。また、同じく幕府御用蔵や各藩御用蔵も多数あったが、明治維新と廃藩置県によって消滅したことで流通物資の保管場所が無くなり商業金融を含む経済システムに齟齬が生じた。必要に迫られて新たに倉庫業が興ってゆくのである。

倉庫業というと一般消費とは距離があって分かりにくいが、内航にせよ外航貿易にせよ海貨業に欠かせないのは倉庫業、回漕業、船主業・船舶運航業である。岩崎弥太郎の言行録で引用される「そもそも、わが社の本務は主に回漕業にあって」という一節があるが、ここで言った回漕業は海貨業全体を指していたと思われる。創業者の意思「本務は主に回漕業にあって」が三菱の事業拡大に反映された一例として、銀行業と倉庫業の創始について書かれたわかりやすい一文があったので引用する。以下引用 − (前略)住友銀行は銅精錬事業のかたわら始めた両替商が出発点。三井銀行は呉服店越後屋の西隣に開店した三井両替店が始まり。富士銀行は両替兼食品小売の安田屋が原点である。(中略)旧三菱銀行は、海運会社が顧客サービスの一環として始めた荷為替金融に源流がある。明治13年に郵便汽船三菱会社から分離独立し「三菱為換店」として営業を開始した。が、同18年、日本郵船が設立され海運が三菱から切り離されたのを機に廃業、従業員の多くは三菱が経営を引き受けていた第百十九国立銀行に移った。明治28年に三菱合資会社に銀行部が設置され、第百十九国立銀行の業務はこれに吸収された。(中略)金融業務とともに分離独立したのが倉庫業務。七ツ倉と呼ばれた三菱の江戸橋倉庫は、東京名所として当時の錦絵にも描かれた。18年に三菱為換店が廃業した際に倉庫業務はいったん郵便汽船三菱に戻されたが廃業、20年にあらためて東京倉庫として設立された。32年には三菱合資の銀行部が全株式を取得。 1918(大正7)年、社名を三菱倉庫に変更し、業績を伸張させていった。 − 引用ここまで(三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年10月号から)

岩崎弥太郎の江戸橋倉庫は三代目広重が錦絵に描いている。三菱倉庫江戸橋ビル大改築の日本橋ダイヤビルディング工事現場には岩崎弥太郎の江戸橋倉庫についての説明が書かれていた。それによれば、岩崎弥太郎の江戸橋倉庫は1876年に蔵所を開設したもので、1880年には仏人レスカス設計監理による煉瓦造2階建7棟が完成(これが上記七ツ倉)、1923年の関東大震災で消失、そして1930年、あの船のブリッジのような塔屋を備えた鉄筋コンクリート地下1階地上6階の三菱倉庫江戸橋ビルが建てられたとあった。この一文には、日本橋川岸をロンドン港のテームズ川に見立てていたらしいとの記述もあった。面白い!昔は1万トンほどの船はテームズ川をロンドンのロンドン港まで上っていた。明治期の日本橋川はどのような港だったか・・・これは別の機会に勉強することとする。いずれにせよ、この昭和5年に作られた船のブリッジのような塔屋は、想像するに初代岩崎弥太郎と海運の三菱に対するリスペクトが直接的に表現されたものである。三菱のルーツが海運業にあることの遺産とも言えるだろう。

三菱に特段の関わりを持ったことはない。せいぜい、三菱銀行に口座があったことと、実家の車がギャランシグマだったくらいしか思いつかない。しかし、三菱コンツェルンの強大さを肌身で感じたことはある。僕が学校を終えて就職した会社は文具・事務機のプラスという会社だった。入社日の出社場所は日本青年館、5日間泊まり込みの研修である。日本青年館の宿泊収容人員は400名ほどだと思うが、プラスは50名ほど、それ以外は全館、三菱重工が新入社員研修を行っていた・・・毎朝6時、全館に大音響が響き渡る。「三菱 三菱 われらの力 三菱 三菱 われらの若さ鋼鉄の強脚は大地を駆けめぐり 理想の翼は空を行く三菱 三菱 われらの三菱」三菱賛歌という歌である。三菱重工の新入社員たちは三菱賛歌を合図にグレーの作業着に着替えて隣の明治公園で勇ましい体操をやる。目覚めの社歌から体操まで、横目に壮観は壮観なのだが、こちらも社会人のスタートでいきなり他社の三菱賛歌では気分は良くない。僕は黙ってられないタチだから人事部に「折角、就職して意気が揚がっているのにモチベーションが下がる!」とクレームを入れた。青年館からの回答は、「何せ9割方は重工さんが使っているので我慢してください」とのこと。ああ偉大なり三菱コンツェルン、社会人になって早々、僕は娑婆の厚き壁に撃沈されたものだった(2015,3,1)

02/22 OCEAN LINERS NOSTALGIA 別冊と増刊

世界の艦船別冊 OCEAN LINERS NOSTALGIA:店長日記 Ocean-Note

海人社から19日に発売された「世界の艦船別冊 OCEAN LINERS NOSTALGIA」が届いた。「世界の艦船」の増刊や別冊、2003年刊「世界の艦船別冊 傑作客船写真百選」や2004年刊「世界の艦船別冊 日本客船の黄金時代 1939〜1941」のいずれも再版されず、オークションや古書マーケットなんかでは結構な値段で取引されているので、さっさと買っておかなきゃ危うい。2000年発刊「栄光のオーシャンライナー」は度々触れているが、客船のお勉強の第一歩としてはこれ以上のものはないと確信する名書で、2007年頃にふと思い立って出版元のワールドフォトプレスに電話、「在庫があれば販売したい」旨お願いすると、以前は中野の実家近所の青梅街道沿いにワールドフォトプレス社があり、昔の伝手を頼ったこともあり快く卸してくれた。発売7年のこの時点で在庫は100冊弱だったと記憶しているが、編集担当者さんに「これは名書ですよ。再販はしないんですか?」と尋ねると「ありがとうございます。でも、社としてはこれは失敗だったんです。航空物で好調だったので相当な力を入れて客船をやってみましたが、多分、今後は客船はやらない思います」というお答えだった。社内では、本の出来は三ツ星ながら売れ行きは比例しなかったという評価だったそうだ。結局、何度か融通してもらい30冊ほど売りさばいたが、海人社さんにしてもワールドフォトプレスにしても、すべからく雑誌扱いの本はなかなか増刷できないという出版界の事情があるようだ。

この本の出来は・・・言うまい。日本ではなかなかこの手の資料書が無かったという意味では意義深いものだろう。もっと言えば、世界的に見てもドーバー出版のビル・ミラー編集の一連のオーシャンライナーシリーズくらいしか手軽に役立つものは見当たらない。欧米の資料書はキャプションが多すぎて写真集的なものはやはり少なく、字の多い専門書籍ばかりなのである。英文を読むのは時間がかかるし、残念だが苦痛である。海人社さんからは、「CRUISE TRAVELLER」という季刊雑誌が出ている。創刊号は2012年4月発売だったようだが、僕はたまたまブックオフでこれを見つけて600円で購入した。創刊号の出来は素晴らしく、申し込むとスイスアーミーナイフが貰えるというのでよっぽど定期購読しようかと思ったが、第二号を見て内容がスノッブすぎたので断念した。特に創刊号の野間恒さんが執筆された「英国客船の歴史」の項は素晴らしく、大いに期待したのだが・・・出版社にとっては、広告主獲得の面からも現役のクルーズ船に話題は傾かざるをえないわなぁ・・・でも、願わくば、多分外注の「CRUISE TRAVELLER」編集チーム(東京ニュース通信社という会社のようだ)に、今回の「 OCEAN LINERS NOSTALGIA」をやってほしかった。勝手な要望ではあるが

ちなみに、この季刊「CRUISE TRAVELLER」も「世界の艦船別冊」である。(笑) 別冊やら増刊というのは雑誌コードというものを新規にとることなく、すでに取得している雑誌コードによって既存の流通と知名度を利用できることから盛んに使われるタイトルなのだが、遡れば第三種郵便物の許認可を流用できることから編み出された手法だ。今は、廃止で話題のメール便やらゆうメールなど手段も多いので表記もされていないが、昔は雑誌の配送には第三種郵便という方法が使わ、その許認可番号は巻末や裏表紙に表記されていた。普通の雑誌なら150円くらいで送れるが、年三回以上の発行だとか認可基準があるので出版社や定期刊行物の発行元でないと利用できなかった。一冊だけムックを作っても第三種には認可されないので、別冊やら増刊という手を使ったわけだ。表記されていないということは、第三種郵便で送っていないということなのだろう。第三種郵便、業界紙なんかは今でも使っているが、新聞ならわずか15円で送れる。

我々の国は好む好まざるに関わらず、船が無ければ一日たりともやってゆけない島国である。先の大戦も、軍隊で負けたわけではなく輸送手段が尽きて負けたようなものである。どのような切り口であれ、あるいは悠久の時を紡いで時の権力者の政治的意図によって形成された根本的な農耕民族資質を曲げられないとしても、船や外海への興味が深まるのは宜しいことだと思う。こうした船の本がもっと頻繁にリリースされることを望んでやまない(2015,02,22)

02/15 港湾スト

アメリカ西海岸の港湾ストが深刻さを増しているようだ。普通に町場で生きてる分には、せいぜいM社の揚げ芋が食せない程度の影響しかないのだろうが、かつて、港湾ストは客船ユナイテッドステーツを運航停止に追い込んだことがある。客船のドキュメンタリーフィルムでは、個人的に三指に入る名作だと思っている1980年リリース、ナショナルジオグラフィックの「THE SUPERLINERS - TWILIGHT OF AN ERA」、当時、最後の大洋横断定期船と考えられていた客船クイーンエリザベス2の大西洋横断定期航海にサウサンプトンから乗船、道中、オーシャンライナーの歴史と終焉を振り返るものだが、ニューヨーク入港の際には港湾ストのためにタグボートが出ず、タグボート無しでニューヨーク・チェルシー54番埠頭に接岸する様子が見られる。パイロットとロドニー船長は難なく接岸をこなしたけれど、ハドソン川を上って90°右旋回、川の流れがある中で接岸するのは結構大変な操船な筈だ。労働者の権利も大切だが、映像を見ながら、最低限の船と港の安全には配慮の必要があるのではないかと感じたものだった。

客船ユナイテッドステーツは、速度も史上最速ならば、船価も桁外れであった。インフレで単純比較にはならないものの、ノルマンディーの2800万ドル(1935年)、クイーンメリーの2400万ドル(1936年)に対し1952年就役当時の7000万ドルは破格だった。(現代の巨大クルーズ船は5億ドルを超える) 4割の2800万ドルはUSラインズ、6割の4200万ドルは海軍・政府が建造補助金で負担、繁栄を謳歌して消費と生産に寛容だった米国でも喧々諤々の論議となり、ついには会計監査院が運航補助金を差し止めてしまった。大統領まで巻き込んだ論議は「第二次大戦中に米国がクイーンメリーとクイーンエリザベスの二隻に支払った傭船料は1億ドルに及び、ユナイテッドステーツを建造しなければ、海軍が稼働率ゼロに等しい高価な軍隊輸送船を建造していただろう」といった論調が支持されて収束を見る。こんな誕生時の雑事にも関わらず、客船ユナイテッドステーツの消席率は順調だったが、意外なところから運命のほころびが始まることになる。一般的には、客船時代の終焉は飛行機に乗客を奪われたことによると理解されるが、客船ユナイテッドステーツの命運に止めを刺したのはILA=米東海岸港湾労働組合のストライキだった。港湾ストの影響、最初は1956年に乗船客の手荷物が下せないトラブル、翌1957年にはタグボートが出ずにニューヨークでは曲芸のような接岸する期間が続くと、その後も度重なる港湾ストと船員ストで定期航海もままならない状況が続く。赤化を防ぐ政治的な思惑も手伝って世界的に労働運動が是認される傾向にはあったものの、ついに1968年10月からは3カ月間、港湾ストによって客船ユナイテッドスーツはニューヨークを出港できず年末年始のクルーズもキャンセル、1969年シーズンは年初に出港もままならない中で、10月までにやっと僅か9往復の定期航海をしたのみで11月7日、第400次航海を東航30.79ノット・西航29.64ノットで終えた客船ユナイテッドステーツはそのままニューヨークに係船・退役に至ったのである。

大西洋横断では、1958年に客船と航空機の乗客数が逆転している。帆船ではあるまいし、いつ出港できるかわからない客船に人が乗ろうとはしなくなったであろう。つまり、1958年に旅客逆転に至ったのは、1956年以降の港湾ストの影響も大きかったと考えられる。無論、どの道、航空機の時代にはなったであろうが、少なくとも港湾スト以降に客離れが加速したのも事実である。1962年からは客船ユナイテッドステーツは、フランスの客船フランスと協調配船を開始、キュナードの客船クイーンメリー・クイーンエリザベスチームに対し、客船ユナイテッドステーツ・フランスチームが順調な大西洋横断定期航海を継続していれば、もっと早い時期にクルーズ客船時代が到来していたかもしれなかった。経営の悪化が急速すぎて次善の策を練る間もなかったのである。つまりは、過度な港湾ストが港湾労働を減少させる皮肉な結果を招いたとも考えられる。客船ユナイテッドステーツは、1969年11月に係船されてしまったが、実は1969年12月から翌1970年1月にかけて太平洋一周クルーズを計画していた。港湾ストに止めを刺されなければ、日本に史上最速の客船が寄港して居た筈である。

日本でも昭和21年の港湾・船員ストが現代まで禍根を残している。以下引用 (前略) こうした状況下で八月から九月にかけて、国鉄総連合と全日本海員組合が、それぞれ首切り反対闘争に勝利を得た。特に全日海は九月十日から十一日間のストライキを決行し、この期間中、横浜港では船の運航が完全にストップした。この過激な海員組合のストは、戦後の日本海運の再建発展に重大な禍根を残した。その影響は五十余年後の今、日本の海運業界から日本人の働く場所を奪うという瑕疵となって残っている。GHQから労働三法を頂戴したからといって、国の経済の根拠である物流動脈をストップしてよいという法はあるまい。 引用ここまで(海の昭和史 秋田博著 より)

今回の米国の港湾ストは、5年に一度改定される労使協議の改定交渉が難航していることによるものだという。昨年5月から始まった交渉が決着しないのである。前々回の2002年交渉も難航して10日間の港湾閉鎖を招き、ブッシュ大統領が指揮権を発動して労使間調停を裁判所に命じて収束させたそうだ。ロサンゼルスとロングビーチの二港で全米海運貨物の4割程を占めるそうで、今後影響は深刻になるかもしないそうだ。労使共、感情的にならず冷静に速やかなる決着を図ることを祈る次第だ。ちみみにM社の揚げ芋は、急遽東海岸の港からの積み出しに変更して流通の滞りを防いだそうだが、個人的には・・・昨年夏の事件以降、当家ではM社卒業を宣言・実行しているので・・・(2015,2,15)

02/13 「世界の艦船」増刊 OCEAN LINERS NOSTALGIA

「世界の艦船」の海人社からOCEAN LINERS NOSTALGIAというムックが増刊として販売される。発売予定は2月19日、価格は3500円である。内容は、今のところわからないが、基本的には戦前客船のモノクロ写真が中心なのだろうと思う。実はこのお話はすでに昨秋から承知していた。というのは、海人社さんの編集の方から協力依頼があったからである。当社制作販売の客船ポスターを掲載したい、ついては広告掲載をお願いできないかといった内容である。「必ず、御社のためになりますよ」と、別段もったいつける様子もなく、大変に真面目なお誘いではあったがお断りした。「広告は出しませんが、掲載の協力はします」とお答えしても良かったが、これは大人げない物言いになると思って、単純に丁重にお断りした次第。タイアップや広告は一切やらないことを貫いて来たし、以前に何度か雑誌に掲載された際には仕事のペースを乱されたことがあり、掲載・リンク一切お断りしているのである。

雑誌の広告収入への依存が大きすぎることは兼ねてより問題だと思っている。下手すりゃ、読者にしてみればお金を払って広告を読んいるようなもんだと感じさせられるものも見受けられる。純記事なんか少なくて、ほとんどタイアップと思しき記事で埋め尽くされていたりするわけだ。そんなご時世にあっては海人社さんの「世界の艦船」などは広告収入への依存が少ないことで有名なんだそうだ。大したものである。尤も・・・軍艦が多いわけだから、石川島播磨やら三菱重工が広告を出したってねえ・・・(苦笑)

いずれにせよ、日本ではこの手の資料やら出版物が極めて少ないのも事実。世界的に見ても研究家の方も亡くなられたりご高齢だったり、すでにオーシャンライナーの時代が終わって数十年にもなると、実際にオーシャンラーナーの旅を経験した世代も少なくなっている。僕だって、氷川丸が退役した後に生まれたのだ。従って日本だけでなく、世界的にもオーシャンライナーに関する出版物は減っている。唯一気を吐いているのは、アメリカのビル・ミラー氏といったところか。Mr. Ocean Linerなるニックネームも、氏の著者名で出版された本は初歩的な間違えもあったりして、10年前なら聞いててこそばゆいところもあったが、現在は堂々と第一人者である。恐らく日本では、今後こう言った方面の研究家はいなくなるだろう。寂しい限りである。海人社のOCEAN LINERS NOSTALGIAが起爆剤になることもあるまいが、大変に面白い世界である、もう少し広く興味が持たれることを望んでやまない。「OCEAN LINERS NOSTALGIA」のお知らせまで(2015,2,13)

02/01 日本郵船と出光

日本郵船と出光:店長日記 Ocean-Note

2月になってしまって今更だが、年末年始に読んだ本はどれも当たりで大層勉強になった。みすず書房大儲けのピケティの本は高価で買えなかった。ピケティの名前と論説は英語版出版の時に知り、どこかのテレビでスノッブな経済学者の解説を聞き「我が意を得たり!」と思っていた。僕は、世代的なこともあってケインズに肯定的な方だが、民主主義を錦の御旗とする資本主義経済国家というシステムは制度疲労のために、このシステム下のケインズが限界に来ている思っており、もし現状を維持したいなら所得の再分配機能を高める政策が必要だと考えている。公共投資が経済成長をもたらしたのはヒトラーやルーズベルトの時代であって、その後は公共投資に群がる搾取者たちによって的確な効果を得ることが難しくなっているのだと思う。ピケティが数学的に証明する限界には違和感があるけれど、「貧富の差を現状の資本主義経済が解決できない!」という点では「我が意を得たり!」なのである。

所詮、一商人に過ぎない僕がどーのこーの言ったところで始まらない。実際に読んだ本はどれも古書で、「二引の旗のもとに〜日本郵船百年の歩み」「海の昭和史〜有吉義弥がみた海運日本」「海賊と呼ばれた男」である。引用は割愛するが、共通しているのは資源のない島国である日本のシーレーンを、先人たちがいかにして築き守ったかというテーマである。郵船の方は定期船という、いわば国家の海路における公道を担う使命感をフィロソフィーとしていることが伝わる。海賊の方は石油元売り・小売りの出光のお話だが、新聞のコラムに書かれた日章丸事件のことを読んだのが古書を求めるきっかけとなった。これはシーレーンとは方向が違うが、石油のない日本が長期安定的に石油を買付輸入できることを熱望して行動した出光佐三のお話だ。出光は、米国管理下の護送船団式の割り当て輸入では日本の発展は望めないと考え、石油の国有化を宣言して英国資本を駆逐したイランの呼びかけに世界で唯一応じて、その輸入に成功した。この事件以降、石油メジャーの力は衰え、OPECやOAPECといった産油国側の発言権が大きくなったのはご存知の通り。そしてオイルショックもまたご存知の通り。イランという国は日章丸事件に恩義を感じ親日的なのだという記事だったが、確かに、ここで出光が失敗していたらイランは元より、中東の石油は今もまだ米英両国資本によって搾取され続けたかもしれない。

こんな、使命感を持って仕事に取り組んだ先人たちがいた一方で、少々残念に感じた話題が二つ。ヤマト運輸のメール便廃止とスカイマークの民事再生法申請である。以下引用 − ヤマト運輸が「クロネコメール便」を3月末で廃止することについて、日本郵政の西室泰三社長は28日の記者会見で「経費のかかる部分をやめ、かからない部分に集中する。明らかに作戦の転換だ」と指摘した。ヤマトは廃止理由について、顧客がメール便では送れない「信書」を送って郵便法違反に問われるおそれがあるとしているため、疑問を示したとみられる。 引用ここまで(朝日デジタル) これは、その通りと僕も感じたところで、独占事業の郵便に風穴を開けようとしたヤマト運輸ながら、結局メール便は儲からなかったから、儲かる企業DMのメール便だけ別サービスにして、それ以外を体よくお断りするということだろう。もちろん、民間企業たるヤマト運輸だから、利益を得なければならないのは当然だろうが、反面、そこに社会インフラを担おうとする使命感のかけらもうかがえない。まして、「信書を間違って送る顧客を保護する」という詭弁にすり替えた論理はいかがなものだろうか? 審判を批判した横綱とどっちこっちである。スカイマークもまたお粗末だ。乗ったことはないし乗ろうとしたこともないが、大きな飛行機買って、CAにミニスカート穿かせて挙句がこれでは交通機関の体を成していなかったのではなかろうか?それは、スカイマークの非にはあたらないが、茨城空港などは国内線の就航路線は全部スカイマークだそうだ。幸い営業停止という事態は避けられたようだが、もっと堅実に確実にやってもらいたかったものである。

非難と批判ばかりでお粗末はお詫びするが、それでも尚、先人たちの仕事に対する使命感に比べてどうだろう? かくありたいものである(2015,2,1)

01/27 コーラのボトル100周年

コーラのボトル100周年のポスター:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

昨日、Yahooニュースを見てたら「氷川丸と日本丸 廃船の危機」という記事があった。こうしてボーッと日々を過ごしていても時は確実に刻まれており、「無常」という万物の心理に則れば両船がいつまでもこのまま船として浮かんでることはあり得ない訳で、いつかは陸に揚げるしか残してゆく方法はないのだろう。氷川丸は何度も書くが、1930年の建造、アメリカで保存されているクイーンメリーは1936年の建造だから、氷川丸こそ現存する最も古い大洋横断客船ということになる。昨日の記事は神奈川新聞が元ソースのようだが、国土交通省運輸安全委員会委員の庄司邦昭さんの談話を織り交ぜた記事のトピックとしては

以下引用 前略〜鋼鉄製の船体の外板をつなぎ合わせている「リベット構造」。この技術を用い、現在も浮かんでいる船は国内にほとんどなく「保存によって戦前の造船技術を後世まで伝えることができる」 〜中略〜 日本郵船の幹部は「あと5年程度は管理できるが、建造100年の2030年まで保存するには国の支援が必要」との認識を示す。想定しているのは国による重文指定で、指定されれば国の補助金が受けられるようになる。ただ調査から指定に4、5年はかかるとされ、帆船日本丸記念財団の幹部は「重文指定に動きだすなら今年がラストチャンス」とみている。 〜中略〜 「廃船にして陸上で保存する道もある」。国の重文で、東京都江東区の東京海洋大敷地内に設置されている灯台巡視船「明治丸」や横須賀市の三笠公園にある記念艦「三笠」のように建築物として管理するというものだ。この場合は船内での活動や公開が制限される可能性があるという。〜後略 引用ここまで

さて、昨日は東京で仕事。地下鉄某駅を寝ぼけ眼で歩いていると真っ赤なポスターが目に飛び込んできた。僕は・・・コーラが大好きだ。あーだこうだという理由はなく好きだ。6歳まで過ごした中野新橋の商店街界隈では、僕のコーラ好きはちょっと知られたところだったらしい。中学生くらいになって用事で中野新橋を歩いていたら、タカラヤさんというお菓子屋の金歯が目立つおかみさんに「大きくなったねぇ、コーラが好きだったよねえ」なんて声を掛けられるほど。水道ひねってコーラが出てきたらうれしいと本気で思うこともあるし、ファミレスのドリンクバーでレバーをひねるとコーラが出てくるのは天にも昇る気分である。(笑) 断っておくが、好きは好きだが、冷蔵庫にいつもコーラが入っているわけではないし、週に一度、飲むか飲まないかといったものである。でも、好きであることは人後に落ちないと思っている。一番古い記憶では、あの190mlの瓶で40円だったと思ったが、調べたら40円になったのは1973年で、それまでは35円だったらしい。うち瓶のデポジットは、最初は15円、その後は馴染みのある10円、今の子供はそんなこと知りもしないだろうが、僕等は皆で瓶を集めてはお店に持っていってコーラをせしめたことも良くあった。でも、当たり前の話かもしれないが「拾って来た瓶はダメ」という厳しいおじさんもいたし、「拾って来た瓶だから半分だよ」とか言って数十円くれるおじさんもいた。結局、全額お金になったのは何度も無かったような気がする。この瓶拾いの正解はいまだわからないし、調べようとも思っちゃいない。当時の水準からして悪い仲間がいたわけでもないが、マセた奴は「ビール瓶だと5円なんだよ」とか言うやつもいたっけ。子供にとって35円やら40円は大金だったから、瓶を持って行って気前よくコーラを一本貰うと嬉しかった。

コーラの瓶がデザインされてから100年ということで、真っ赤なポスターはこれに引っ掛けたキャンペーンらしい。氷川丸が85年で100年はどうか?という話題ならば、瓶の方は無事に100周年である。しかし待てよ・・・コーラの瓶と言えば、レイモンド・ローウィで確か1950年代だと思ったが・・・ ローウィはラッキーストライクや日本のタバコのピースのデザインで良く知られるが、僕は1930年前後のホワイトスターラインの雑誌広告をデザインしたことで馴染みが深い。タイタニックの事故以来、とうとう業績回復ならなかったホワイトスターラインだったが、決していい加減な会社ではなく広告一つを見ても真面目に取り組んでいたことがわかる。コーラの瓶に戻れば、では何が100周年かと調べれば1915年はアール・R・ディーンという人があのグラマラスな凹凸のボトルをデザインした年ということらしい。元々、ストレートな普通の瓶をあの形にしたのが1915年なのだ。この1915年のボトルは今のボトルより中央がもっと球形に近いもので良く言えばグラマーだがスマートさには欠ける。これを1954年にレイモンド・ローウィがデザインし直したということだそうだ。だから、100周年には申し訳ないが、僕らが思い浮かべるコーラのボトルは・・・1954年のものだ。

先々、日本丸や氷川丸がどうなっているかはわからないが、例え陸に揚がってでも保存されることを望む。氷川丸が陸に揚がっても、ボトルは製造中止になったとて中身のコーラの方は飲まれていることだろう。偉大なりコーラ(2015,1,28)

ページトップへ