12/28 表彰状をもらう

横須賀市優良商店表彰:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

去る12月22日 、大変もったいなくも蒲谷亮一横須賀市長にオーシャンノートまでお運びいただき、平成20年度横須賀市優良商店の表彰を拝受させていただいた。僕は自慢じゃないが”無冠の帝王”だから(^^;;; タイトルやら出世とは無縁だったし、興味が薄い分そういったものとは今も無縁の人生を送っている。

今日に至るまで、表彰と名のつくものは、伊豆大島の東京都釣魚連盟主催の磯釣り大会で優勝したものが唯一だった。もう20年以上前のことである。今のように1号だの2号だのといった高性能なカーボンロッドに1.5号や2.0号の細いハリスの時代ではない。当時は磯の上物ではNFT全盛時代で、”#12”という番手のグラスの剛竿に4.0〜5.0号のハリスを使って高場の磯から魚を抜き上げるのが普通だった。僕は、どことなくそのやりかたには不合理な思いを抱いて、あえて使い慣れた”#14”の竿にハリス2号で臨んだ。昔懐かしい魚釣りのコアな話題で恐縮だが、その日、伊豆大島はピーカンのベタ凪で、何と100名以上の参加者の中でメジナはたった一枚、僕だけが釣ったのだ。2位も3位も該当者無しである。そのたった一枚のメジナもわずか25cmばかりのものだった。結局、その頃大島で賞を総なめにしていた父には倣わず(こんなところで父親を誉めるのも気が引けるが、父が大島で獲った賞状は日刊スポーツやスポニチ主催の大会など五指に余る。賞状が一杯あるので子供心に磯釣りの一等なんて簡単なもんだと思った程。たまたま庄内竿の研究家、根上吾郎先生の著書”庄内竿”には、父の根上先生宛て書簡が引用されており、父の釣歴が記されている。ちなみに、昭和20年ごろに亡くなった祖父とは無論お目にかかったこともないが、”庄内竿”には祖父の竿職人としての業績が載っているし、祖父の作った庄内竿は根上先生のお骨折りで鶴岡市の致道博物館に収蔵されている。子供の頃はバチ当たりなことに祖父の竿を振り回して遊んだものである。ついでに言えば、祖父は結構な旦那だったようで、井伏鱒二の随筆”人と人影”には祖父の庄内竿のコレクションのことが書かれている)、磯釣りは止めてしまい、今のところメジナの生涯の大物は1.7k、42cmに留まっている。

そんなことで表彰状のことを思い出していたら、そうそう、ウィルクハーンジャパン勤務時代に2度、表彰状をもらったことを思い出した。これは健康優良者の表彰である(爆笑)。僕は今でもそうだが、医者に行くのと洋服を買いに行くのは大の苦手で、この健康優良者の表彰は一年間、健康保険を使わなかった者、つまり医者に掛からなかった者が頂けるものだった。僕は一人暮らしの頃は、不摂生不養生を絵に描いたような生活をしており、年一回の健康診断を不健康診断とうそぶいていたくらいだから、時の上司が健康保険組合から電話をうけた時は慌てて「ちょっと待って下さい。あいつは健康診断を不健康診断と言っているような奴で、とても健康優良者として表彰を受けさせるわけにはゆきまんせんよ」と表彰を断ったくらいなのである。単に医者に行かなかっただけで、健康診断の結果を見れば、あれこれ悪い数字が並んでいる。確かに健康優良者とはいえない。今は、規則正しく質素な食生活からよっぽど健康だが。

さて、当日の表彰は、ちょっとした騒ぎで、神奈川のタウン誌、はまかぜ新聞社や動画ニュースのアロフェイスも取材に来たし、お祝いがてら、今関商店会会長、上町教会の森田牧師、海洋少年団の参事役さんやらもいらして、表彰式の店内はすし詰め、ご近所も市役所のスーツ集団が10名近くも見えたので、僕が逮捕でもされると勘違いしたか、今だに「何かあったんですか?」と言われたり、商店街の金物屋さんの遠藤さんが、表彰の事を言って回って下さったお陰で、街々「おめでとうございます」と声を掛けられる。たまには・・・ありがたく頭を垂れて、無冠の帝王の看板を外してみるのも重畳ではある・・・哉。(2008,12,28)

12/19 今更タイタニック、尚更タイタニック

今更、我が家ではタイタニックブームである。それはそうで、娘たちは21世紀生まれだから、今更タイタニックのDVDを観て夢中になるのも無理はない。長女なぞ、殆ど全部のシーンを覚えてしまっている。僕は僕で、ローズの母親がジャックに対して”スティアリッジクラス”と投げかけるところが気になって仕方ない。(以前はラムにミートソースを・・・が気になってしかたなかった、タイタニックの食事は別途研究の予定)と、いうのは、英国の船には基本的にはスティアリッジクラスという等級は無いし、他の場面ではちゃんと”サードクラスパッセンジャー”と言っているからだ。(救助されたカルパシアの船上のシーンではスティアリッジが出てくるが・・・)スティアリッジとは船の操船のことで、要は舵を動かすワイヤーなどが存在する船底を意味する。これは19世紀末のドイツ客船の専売特許で、3等の下の船倉に乗客を詰め込んだのだ。ジャックは安い切符をゲットした3等船客ではあったが、そもそも存在しないスティアリッジクラスの客ではない。ということは、わざと差別的にそのような言葉を使ったという場面にしたのではないか?日本語と字幕ではどちらもただの”3等”としか表現されていないが・・・

あと4年もすると2012年、タイタニックは100年を迎える。親しい方にはお話しているが、僕が映画を作れる立場にあれば、作りたいのがタイタニック3だ。(タイタニック2はパロディで出回りすぎたから・・・まだご覧になっていない方はYouTubeで"titanic2"を検索すればすぐに出てくる)僕のタイタニック3は2097年の物語で、イズメイの子孫がタイタニックの船体の一部を引き上げ、イズメイの名誉を回復するというあらすじだ。タイタニックから生還した細野晴臣さんの御祖父、細野正文氏がその名誉を回復されたのは記憶に新しいが、とにかく、イズメイは映画やテレビのせいだろう、大変に悪い印象を持たれ過ぎているように思えてならない。あの究極のせっぱつまった状況で、イズメイは乗客としてではなく、船のオーナーとして最後まで乗客の救命ボートへの乗船に死力を尽くしたそうだ。無論、船のオーナーにはそんな義務はないのにである。そして死ぬまで二度と公にタイタニックのことを語らなかったが、ニューヨークの査問では、唯一度、自身の救命ボートへの乗船について「私が乗らなければ、その席は空席のまま海に降ろされた筈です」と証言している。

20世紀初頭の大西洋横断航路では、まだ船は移動手段としての色あいが強く、乗客へのサービスもあくまでトランスポート並みとして考えられていた。今日の洋上ホテル、つまりレジャーとしてのクルーズを遡ってみれば、その元祖はホワイトスターラインのサービスが元になっていると考えられる。先見の明といったことでもなかろうが、イズメイは実に卓越した人物で、3等船客にも白いテーブルクロスとメニューカードを用意した初めての人間だったのだ。やがてアメリカの移民法が改正されると、もはや大西洋航路も移動よりは観光の色合いが強くなり、戦後飛行機時代になると、洋上ホテルとしての役割は決定的になる。タイタニックの事故以降、スティアリッジは禁止(底深いと万が一の際に助からないため)、移民法改正以降は3等は少なくなり、2等がツーリストクラスとして大部分を占めるようになる。この戦前の等級が、現在も伝統的に生きているのが唯一キュナードの船だけだ。客船の星、いわばミシュランの客船版であるベルリッツのレーティングではキュナードの船は等級により質が違いすぎるとのことで複数のレーティングを持っている。

まあ、今更・・・いやいや、まだまだタイタニックなのだが、今日のキュナードの社員モットーにホワイトスターサービスの名を現在に残したイズメイ、タイタニックの100周年には、正当な再評価をされるべきと僕には思えてならない。しかし・・・研究のし甲斐があるぞ、TITANIC!(2008,12,19)

12/04 コレクター

クルーズ誌掲載後、その道の客船モノのコレクターの方がお見えになる。オーシャンノートは切った貼ったで大変な付加価値を創出されている骨董屋さんとは違い、集めて大事に仕舞っておくものではなく、あくまで使っていただける、飾っていただけるものを売ることを旨としており、そう言った”コレクター”の方々のご期待にそえるものとも思わないのだが、いらした皆さん結構な買い物をしてくださるので、お陰さまですっかり在庫も目減りしてしまった。(実店舗でしか出していないキュナードコレクションなどだ)それにしても大変お詳しい方が世の中にはおられるものと感心するばかりだが、少々物思い模様になるのを否めない。

かつて従事した家具業界の話もたまに書かせていただいており、その中で、世界で2番目と言われる椅子のコレクター、福岡の永井敬二さんの話も数回ここに書かせていただいている。日本で椅子のコレクターといえば、北海道東海大教授の織田憲嗣さん、そして永井さんが良く知られている。何せ、このお二人がいるので、それを見ていて椅子のコレクションを諦めたという人を僕は何人も知っている。織田さんのコレクションは新宿のOZONEの展覧会などでも良く見ることができるし、織田さん自身これを秘蔵にするでもなく、元武蔵野美術大の島崎信先生とタッグを組んで椅子の博物館を作りたいとおっしゃっていた。このところ島崎さんは、函覆┐ぁ吠幻砲ら”美しい椅子”というシリーズモノの本を出されており随分、俗っぽい本を出されるなあ・・・と思っていたら、いつか銀座の個展にお邪魔したら、「あれは織田さんと博物館を作る資金稼ぎだよ」と笑っておっしゃっていた。片や、永井さんのコレクションとなると・・・その全貌をを見た人は居ないと言われる。ちなみに、世界一の椅子コレクターはスイスVitraのロルフ・フェルバム会長(フェルバムさんはおもちゃも好きで、キディランドで超合金モノを沢山買ってこられて、僕はそいつを郵便局まで発送しにいったこともあった)で、こちらは事業で儲けたお金で、フランク・ゲーリーに設計してもらった美術館を自社の工場に作ってしまった。で、永井さんにいつだったか、失礼とは思ったが「永井さんのコレクションは永井さんが亡くなったらどうされるんですか?」とお尋ねしたことがある。「しぇからしか」といわれてしまった。(笑)そう、永井さんは椅子が好きで仕方なくて、別に誰に見せるわけでもなく、まして自慢するわけもなくお一人で秘蔵されている。今、東京のイタリア文化会館でエンツォ・マリの展覧会をやっているそうだが、本当に珍しく永井さんがご自分のコレクションを貸し出されている。初めてではなかろうか?コレクションはその人が好きで集め、好きで対価を払ったものであり、これを他人がどうのこうの言う筋ではないが考えさせられるのが、このコレクションというものだ。

そんなことを思い出していたら、先日見えた客船コレクターのお客様から聞くには、なんでも鑑定団の船グッズの鑑定士、大阪のクドーズマリーンの工藤益男さんは船から手を引くのだとか・・・何でも元々タイプライターや電話機などがご専門で、残念ながら日本では船キチの絶対数が少なく商売にならないのだとか・・・骨董には仕事上の縁がないので他人事といえば他人事ながら残念ではある。ところが、残念がもうひとつ。平塚にお住まいの府川義辰さんが、少しづつコレクションを処分されているのだ。実はオーシャンノートの仕事の構想を練っている際にも、府川さんが毎年開催される平塚の郵便局での客船ポスター展にお邪魔したことがあり、随分とエネルギーをいただいたものだった。府川さんからはお手紙を頂戴し、以来、年賀状も欠かさず頂戴しており、いつかコレクションを全部拝見したいものと思っていただけに残念だ。売却処分だけではなく、大学などにも寄贈されているようなので、いつか目に触れることもあろうかと思うが・・・外国では、そこそこの知見をお持ちの方が旅立たれると、残されたものはきちんとした古書店を呼ぶという。古書店主は、それがなるべく散逸しないように新たな持ち主を探すという。例えば、世界的な料理書のコレクションをお持ちだった辻静雄さんのコレクションは、そうして集められたものだそうだ。法外な価値が飛び交うことには否定的だが、何もかもひとつ間違えばゴミになってしまう危うさを感じずにおられない。僕の懐に唸るほどのお金があればなあ・・・(2008,12,4)

11/27 雑誌クルーズに載る

雑誌クルーズ掲載:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

思えば、学校を出て就職したころは、まだ土曜日の休みは半分くらいで、繁忙期の2月から4月くらいは土曜日も仕事、週休二日になったのは26歳で転職してからだった。週休二日の是非はともかく、オーシャンノートはずっと水曜定休だけでやっているし、これでも経営者の端くれだから休みもへったくれもない。それでも、気力で水曜日の夕食だけは作るようにしている。昨日は「何を食べたい?」と家族の意見を募ると、突然「ピザぁ〜」と次女が言う。予想しないリクエストに悶々。ちょっと前までは、ピザとなれば小麦粉とイースト、塩の分量は直ぐに出てきたものだが、さすがに2年くらい作っていないと忘れる。あわてて料理書を引っ張りだして復習。生地を作るところまでは僕がやって、あとは娘達に任せてみたが、やはり6歳と4歳のコンビではピザは丸くはならなんだ。それでも、相変わらず、どこの店で食べるより、どこの宅配ピザより美味しい。本当は天火があればもっと美味しい。拙宅は電気オーブンだが、知人のお宅や女房の実家のガスオーブンだと、同じ300度でも全然違う。ガスだと3〜4分だが、電気だと倍くらいかかる。余った生地で娘達に粘土遊びよろしくフォカッチャ、グリッシーニもどきを作らせる。(これがまた美味)ちなみに生地は小麦粉300、水200cc、塩15g、イースト15g・・・これだけである。ソースなんか不要、固形分の多いトマト缶詰にモツアレッラ、僕はパルミジャーノをかけて焼く。

なんて休日が終わると、忘れていたクルーズの発売日。オーシャンノート、全国誌へ初登場である。今時、お金を使えばいくらでも雑誌掲載は叶うが、そんなものは長続きしない。ちなみに批判するわけではないが、雑誌の紙面の店やブランドの紹介は・・・大半がタイアップかパブ専門代行会社の手によるものだ。純記事は本当に少ない。そうでなきゃ、雑誌があんな値段で買える訳がない。冷静に考えれば判ることだ。僕自身、そういったことにも携わっていたので、インサイドの話は心得ている。オーシャンノートは・・・残念なことに、そんなお金を掛けられない。某海辺暮らしの雑誌、S生活で一声8万円なのである。そんなことより、仕入れであれこれ物色するが良し。しかし、このところ海外の取引先とトラブルが多く・・・彼らと来たら「気に入らなければ送り返せ・・・」と平気で言う。返品送料はこっち持ちだから凹む。そんなリスキーな日々、広告に掛けるお金は・・・ない。そんな中、取材して記事を書いてくださったクルーズ誌の編集長、市川さん、この場をお借りして御礼申し上げます。

そうそう、御礼といえば、この度、40年も続いているという横須賀市優良店舗表彰を受けることになった。ありがたくも、来月、蒲谷横須賀市長が来店され表彰状と記念品を下さるとのこと。ご推薦くださった今関さん、審査の市役所経済部ご一同様、この場を借りて御礼申し上げます。(2008,11,27)

11/13 QE2・・・いよいよ

いよいよ、クイーンエリザベス2が最後の航海へ出港した。昨年6月の店長日記にも書いたが、初めての日本寄港の時にえらい人混みの大桟橋で見た彼女を忘れられない。これは、あくまで個人的な好みなので断定的に美しいと言うのも憚られるが、基本的なデザインは1935年のフレンチライン・ノルマンディーが原点になっているそうだ。例えば30ノットといえば時速で55kmちょっとだから、まさか空力ともならないだろうが、不思議なもので速く見える船はやっぱり速くて美しい・・・となると、結局、僕にとっては速さというのが好みの重要な要素になっていると自分でも思うのだが、あまりその速さが取り沙汰されることもないQE2は、初来日以来、やたら豪華客船という冠詞ばかりが目に付くものの、史上10本の指に入る高速客船なのである。

古い話になるが、5万トン超、巡航28ノットを越える客船をスーパーライナーと呼ぶ。巡航28ノットを越えると、一週間で大西洋横断、その航海は約4日半、港での補給や乗員交代を含めて2隻でウィークリー運行ができるのだが、これを採算性で考えると5万トンを越えるということになる。列記すれば、ブレーメン、オイローパ、レックス、ノルマンディ、クイーンメリー、クイーンエリベス、ユナイテッドステーツ、フランス、クイーンエリザベス2、この9隻が史上、スーパーライナーと呼べる船だ。スピードに関して言えば、軍艦のエンジンを積んで35ノットで大西洋を渡ってしまったユナイテッドステーツは別格として、トップスピードでは35.21ノットのフランス、そしてQE2はエンジン換装後の試験運転で34ノットを誇った。大西洋横断記録こそ28.5ノット(1969年の記録)ほどのQE2だが・・・その気になれば巡航30ノットを越えることもできそうな史上3指に入る高速船なのである。

船内は古き良き定期船の伝統に則り等級があって、食事場所なども違う。今や、その伝統を残すのは、QE2からフラッグシップの座を引き継いだQM2(クイーンメリー2)のみになった。史上最速の客船ユナイテッドステーツがヴァージニアの埠頭に繋がれたまま荒れるに任せ保存運動も進展を見せない中、40年という船齢を全うしたともいえる生涯を終え、引き続きドバイで海上ホテルとして生き残るQE2は、たった一隻でオーシャンライナーの伝統を担った生き証人たる人類の重要な文化財である。ガソリンが上がったり下がったりが身にしみるのみで、直接縁のない産油国だが、いつかドバイを訪れて泊まってみたいものだ。(2008,11,13)

Ocean-Note, Queen Elizabeth 2, J. Olsen 1983

10/26 氷川丸の積荷

日本郵船客船氷川丸20081026:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今日は朝から氷川丸の写真が、またまた神々しく見えるお話があったのでご紹介・・・

まず前振り。1893年、アメリカの大陸横断鉄道のひとつ、グレートノーザン鉄道がシカゴ - シアトル間に全通。小麦や木材を全米から集め輸出して、生糸を輸入して全米へ運ぶ・・・これが鉄道会社としての大きな収益源となるが、そのために必要な太平洋航路 定期船の運航の呼びかけに応じたのが日本郵船だった。東部の大都市圏と結ぶにはシアトル発着のグレートノーザン鉄道は他の大陸横断鉄道より条件が良く、太平洋航路の港としてもサンフランシスコ航路よりも短距離になるシアトル航路は魅力的である。但し・・・当然、大圏航路をとるわけで、北緯45度を越えなければならないシアトル航路は・・・地獄とも形容された。(最短距離を結ぶ大圏航路は、一般的なメルカトル図法の地図で見れば、赤道から南北へ離れるほど、例えば北半球であれば北方へだんだん大きな弓形へ行って戻る。シアトル航路ではほぼアリューシャン列島をかすめる)

前振り、その2。さて、先日見てきた氷川丸、展示コーナー的なスペースは殆ど無くなってしまっていたが、新設された展示ケースの中に、書籍”氷川丸物語”からの引用展示パネルがある。氷川丸の積荷の鮭と鰊のお話だ。上掲の56ページの写真が使用され、「鮭の上に鰊を積んではいけない」というエピソードが紹介されている。そう、塩鮭を日本へ輸入する時に、鰊を鮭の上に乗せると鰊の匂いで鮭の商品価値は無くなったのだそうだ。

で、今日の新聞に載っていたのが”クマモト”という牡蠣のお話。シアトルの目の前、ピュージェット湾にチャップマンという名のインレット(入り江)があるそうで、そこにクマモトという品種の牡蠣が養殖されている。(ご存知、牡蠣の養殖は、養殖とはいっても種貝をロープにつけたり、海岸に撒いたりするだけ、いわゆる養殖ではない)1910年代に、この地方の原種牡蠣は全滅、北米東海岸から牡蠣を移植するも育たず、日本から持ってきたクマモトが良く育ったのだそうだ。ところがこのクマモト、実は日本でも流通していない熊本産シカメガキという牡蠣だそうで、新たに育てるための、ワシントン州からの牡蠣購入の要請に、主産地の宮城だけで間に合わず、野生のシカメガキを輸出したものだそうだ。面白いのは次で、最初は生きた成貝を運んだのだがシアトルに着いた時には全滅、仕方なく死んだ牡蠣を捨てたら・・・その殻に着いていた種牡蠣が育った!で、この方法が良いということになり、牡蠣殻に種牡蠣を付けて輸出したのだそうだ。シアトルの牡蠣が全部”クマモト”という訳ではないのだそうだが、味が良く高値で取引されるのだそうだ。フランスのサンマロ湾(モンサンミシェルがあるところ)でもブロン牡蠣が全滅して日本のマガキが移殖された話を思い出すが、ふともう一度”氷川丸物語”を読み直すと・・・ありました、ありました、鮭の写真の隣の57ページ(読めないとは思うが赤線部)。昭和5年5月28日、処女航海で初めてのシアトル入港、この時の積荷に「種牡蠣58トン」とある。牡蠣の輸出は1920年代からと新聞には書いてあるから、氷川丸就航の1930年にはすでに”種牡蠣”を積んでいたことがわかる。シカメガキ・・・シアトルでの繁殖は成功して輸出はほどなく停止されたそうで、現在では食用として逆に日本に少量輸入されているようだ。DNA鑑定で、亜種ではなく、熊本(有明海)の固有種であることが確認されたが有明海では絶滅寸前(マガキとの交雑などもあるそう)で、この小ぶりの牡蠣は現在熊本で”クマモトオイスター”復活が研究されている。

今やボーイング、マイクロソフトの町だが・・・シアトルは日本郵船の太平洋航路開設以降、日本人が入植することで大きな都市に成長してゆくことになった。日本郵船が造った町といわれる所以だ。1896年、三池丸に始まり山口丸、金州丸、信濃丸、加賀丸、伊豫丸の6隻体制、さらに1930年、12000t級18ノットの氷川丸、日枝丸、平安丸の就航・・・大戦後に残ったのは氷川丸だけだが、聞けば”クマモト”、牡蠣の女王と称されるそうで、太平洋の女王と謳われた氷川丸が牡蠣の女王を運んだとは、何ともロマンチックな話である。そういえば、シアトルのお隣、バンクーバーに住んでいる友人が数年前手紙に書いていた。「バンクーバーでは牡蠣は誰も捕らないので食べ放題です」と。今でもそうか知らん?横須賀の牡蠣は15年前くらい前までは捕り放題だったのに、皆気づいてしまって、今では殆ど無くなってしまった・・・残念(2008,10,26)

10/18 ネルソン提督 H.M.S.Voctoryとラム酒

ネルソン提督・帆船Victoryとラム酒:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

先週の世界ふしぎ発見、”小国から7つの海を支配する大英帝国に生まれ変わる”英国の歴史という興味深いキャプションに魅かれて 鑑賞するが、内容はヘンリー8世と王妃アン・ブーリンの愛憎劇がテーマで、後にアン・ブーリンの娘であるエリザベス(1世)が女王として大英帝国の基礎を作った云々とは解説されるものの、それが何なのかさっぱりわからなかった。それでも、ヘンリー8世が離婚してアン・ブーニンを王妃としたため離婚を禁じるローマ教会と対立し、イギリス国教会が出来たのだとか、それはそれで興味深いものもあった。戦前の日本では神武天皇から始まって今上天皇まで小学生でも諳んじたそうで、それはそれで大したものと思わなくも無いが、英国の歴史はこれまた複雑で、王室の系図なんか見てもさっぱりわからない。現代であっても、領主であるXX公と王室が入り混じって理解するには相当お勉強しなければならない。恥ずかしながら、社会科の教員免状を持ちながらこの体たらくである。気を取り直してWikiなんぞ読みながらにわか勉強すると、そもそも大英帝国の繁栄は、それまで7つの海に君臨し、英国上陸を図った130隻、3万人のスペインの無敵艦隊を1588年のアルマダの海戦で英国艦隊が破ったことで、以降、世界貿易の主導権を大英帝国が握ったことがキモだったことがわかる。ローマからの破門と大英帝国たる宣言がヘンリー8世の時代、そして無敵艦隊からの勝利がエリザベス女王の時代となっている。

歴史は繰り返す。時は流れて2世紀後、7つの海に君臨した大英帝国も危うくなっていた。200年前に小さな軍艦の機動性で勝利したことを忘れ、官僚的な閉塞感の中で造られる大英帝国の古臭い軍艦は、常に革新的な発想をもって船を造り続けたフランスの軍艦に敵わなくなっていた。そして、ナポレオンの台頭である。今年の春、たまたまヒストリーチャンネルを見ていたら、船とはお門違いの”18世紀の技術者たち”という特集の中に戦艦ビクトリーの番組を見つけた。ビクトリーを設計したトーマス・スレイド卿とビクトリーの革新的な設計の話で、これが素晴らしい内容だった。樹齢200年のオーク材、速さと機動性を保つバラスト、ジブセール、舵板の取り付け角度・・・などなど。何度見ても飽きない。さて、英国上陸の先鞭をつけるべく英国に向かうフランス・スペインの連合艦隊を迎え撃ったネルソン提督率いる大英帝国艦隊、1805年、ご存知トラファルガー海戦でスレイド卿設計の革新的な機動性を持つビクトリー以下の軍艦の活躍で大勝利する。結局、最終的にはこの海戦以降、ナポレオン軍は敗北への坂を下るのだが・・・一昨昨日、たまに買い物に行く某ディスカウントスーパーで面白いお酒を見つけた。帆船のラベルに魅かれて手に取ったのだが・・・

レモンハートのラム酒だ。ラム酒を嗜むことは滅多にないのだが、裏の能書きを見ると面白いことが書いてある。何と、レモンハートのラム酒は18世紀末、大英帝国海軍の支給品として正式に納入された初めてのラム酒だそうである。そして・・・トラファルガーの海戦、首尾よくフランス・スペイン連合艦隊には勝ったが、狙撃によってネルソン提督を失ってしまう。ネルソン提督の亡骸は、レモンハートのラム酒に漬けられてポーツマス軍港に帰るのだが・・・港についた時、そのラム酒は全部飲まれてしまっていたそうだ。ネルソン提督にあやかりたいとの気持ちが強かったといわれる。ちなみにこのレモンハート、漫画アクションに連載の”BARレモンハート”のタイトルのもとにもなっている。てな話を、ヒストリーチャンネルのビクトリーもダビングして持っていった海洋少年団のMさん、またまた狂喜、今日あたりは、件のディスカウントスーパーにレモンハートを買占めに行くらしい・・・そう、珍しいものではないが、横須賀あたりじゃ手に入りにくく、どこでも売っているものではない・・・レモンハートも随分読んでいないが、練馬の大泉学園には漫画の作者、古谷三敏自身がオーナーのBARレモンハートがあるとか・・・マスターとネルソン提督の話でもしてみたいものである。(2008,1018)

10/03 氷川丸を見る〜横浜ってスゴイ

改装なって初めて氷川丸を見てきた。今回の改装修繕には10億円もの予算がかかったとのこと、日本郵船が持ち出しでやったのだから頭の下がるお話だ。何せ乗船料は200円!なのだ。レストランがあるわけでもなし、物販をやっているわけでもなし、今後の収益が望めるものでもないだろうし・・・要らぬ心配をしてしまう。改装の出来の是非は書かないが”アールデコ”についてはもっと当時の再現に尽くして欲しかった。僕が大好きだったビンテージポスターが無くなってしまったのも少し・・・寂しかったかな・・・

いずれにせよ、改めて思うのは、需要の関係で大西洋航路ほどの大きさの船が無理だったのは重々承知しているが、(同年代の1930年頃だと、大西洋航路では、いよいよ5万トン、全長280m、巡航27〜28ノットの時代だ。氷川丸は1万トンちょっと、全長163、巡航18ノットである)氷川丸で冬の北太平洋を行くのはしんどかったろうなあ・・・と思えてならない。僕は船酔いには弱いほうではないが、個人的には・・・乗りたくない。(苦笑)当時の乗船客の根性には脱帽するばかりだ。

氷川丸を見てから、久しぶりの横浜なので、山下公園から臨港線プロムナードを歩いて、赤レンガ、汽車道で日本丸までブラブラ歩いた。朝は元町に用事があったので、石川町で降りて、海際を桜木町まで歩いたことになるが、道々感心したのは横浜市の景観整備への力の入れようだ。僕が、横須賀市民として、一人で横浜に対抗意識を持ったところで仕方のないところだろうが、横浜のあそこまで心地よい整備事業を見ると、横須賀だってもう少し何とかならないものかと思ってしまう。そもそも、古い話で”いまさら”ながら、横浜なんてどうにもならない寒村だったわけで、当時の三浦の中心は浦賀だった。もっと遡れば東海道が整備される以前の鎌倉街道は浦賀や走水あたりに通じていた。

幕府が雇ったフランス人技師ヴェルニーが、現在の横須賀に造船所を作ったのが始まりで、三浦半島南部の中心は横須賀になってゆく。一方、横浜は外国人居留地として栄えてゆくわけだが、そんなことをつらつら考えていたら、日本の灯台の父”ブラントン”を思い出した。そもそも、日本が開国した時、江戸条約で8ヶ所、大阪条約で5ヶ所の灯台設置が決まった。これに基づいて建設されたのが条約灯台というもので、最初の洋式灯台はヴェルニーの設計で建設された観音崎灯台だ。続けて品川、野島崎、城ヶ島と4つの灯台建設に携わる。やがて明治政府は親英の方針に基づき、英国人技師ブラントンの手に灯台建設を委ねることになる。数だけで言えば、ブラントンの灯台は28基に上るし、ヴィルニーの灯台は関東大震災で無くなってしまい、唯一旧品川灯台が明治村に保存されるのみだけだから、”父”の称号がブラントンのものでも致し方ない(変な言い方だが)とは思うが・・・ふと思うのは、銚子で活動している”ブラントン会”の活発ぶりだ。犬吠崎灯台に魅せられた人たちがブラントンの業績の研究をしているのだが、銚子市、銚子市観光協会、海上保安庁など、行政も巻き込みひとつの町おこし活動まで業績を高めている。これまた、一市民が妙な対抗意識を持つものお門違いだが、ひとつ、せめて灯台ネタだけでも横須賀市あたりが一生懸命取り組んでもよさそうなものだ。灯台記念日、11月1日は観音崎灯台起工の日にちなんでいたりするわけだし・・・

てなわけで、この日記で、訴えるのもおかしな話だが、ひとつ、横須賀学の会あたりで、ひとふんばりしてもらったりするのも良いような気がしてならないのだが・・・僕?残念ながらオーシャンノートで手一杯である。(2008,10,3)

09/25 空母三題

空母ジョージワシントン:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今日の横須賀は朝っぱらから、ひっきりなしにヘリが飛びっぱなしだ。アメリカ海軍の航空母艦、CVN-73,U.S.S.George Washingtonが入港(10:00着岸予定)するのだ。横須賀に住んでいりゃあ、空母なんざ珍しくもない。我が家からも、ちょいと沖に目をやれば浦賀水道を行く空母がいたりするものだ。しかし、こんなにものものしいのは久しぶりのような気がする。知ってる人には当たり前のことだが、空母というものは着岸してる時には艦載機を積んでいない。現在ではカタパルト射出だから、風上に全速で向って合成風力のみで発艦していた時代とは違って、発艦できないこともないのだろうが、停泊している港で飛ばしても危なっかしいのだろうし、現実には横須賀入港であれば相模湾で厚木基地に艦載機を移動させている。つまり丸腰というわけだ。まさか、誰かが衆目のなかで横須賀あたりにいる空母に向ってぶっ放してくるほど緊迫した情勢にも思えないが、対潜ヘリは露払いよろしく警戒にあたっている。8:30過ぎ、観音崎を越えたGWが見える。さすが全長333m、デカい。

僕はミリタリーマニアでも何でもないが、一時、ジッポーライターを集めることに熱を上げていた時代がある。今から20年も前のことだ。その頃の勘では、必ずヴィンテージジッポーのマーケッが形成されてブームが起きると思っていたが、腕時計は首尾良く比較的整然と相場感のある市場が形成されたのに比べ、ジッポーはきちんとした市場が出来なかった。だから今でもヴィンテージジッポーは買うときは高いのに売ろうとするとタダみたいな値段でしか売れない。さて、集めるにしてもテーマを絞らないとコレクションになりにくい。たまたま渋谷のロフトで最初に買ってしまったのが、1960年製のUSN(United States Navy)バッチ付きだったこともあり(あの錨が素敵な感じがしたのだ)、アメリカ海軍のヴィンテージモノを集めた。渋谷や原宿、下北沢の雑貨屋さんやミリタリーショップ、六本木ロアビル前のアンティーク市、果ては大阪のアメリカ村まで立ち寄ったりもした。いつの間にやら収集も進まなくなったが、そんな50ケばかりのコレクションの中で一番古い年代のものは空母ミッドウェイのジッポーだ。底の刻印ではパテントナンバーPAT2032695が入っており1946年から1953年の製造であることがわかる。さらにケースはスチール、第二次世界大戦終戦とともに真鍮製に戻されたケースが朝鮮戦争勃発で再びスチールになったのは1951年〜53年、従ってこの空母ミッドウェイのジッポーはこの3年間に製造されたものだ。当時のミッドウェイはまだ太平洋第七艦隊所属ではなく、第六艦隊所属(地中海艦隊)で注目は中将座乗の2つ星が刻印されているところだ。アメリカ海軍でも艦長は大佐だから中将ということは・・・司令部が座乗していたことを示す。その中将がどなたなのかまでは調べ尽くしていないが・・・空母に2つ星、おまけに50年代のスチール製、そしてこのジッポー、実はワールドフォトプレス社発刊のジッポー読本(第1号か2号かどちらかだったが失念)にも写真が載ってるそのものズバリなのである。まさかその実物が我が手中にとは思いもよらなかったが、新宿の加賀屋で入手した。そこそこのギター(つまり全単板ってこと)が一本買えてしまう値段だった。(ため息・・・ご覧になりたい方はいつでもどうぞ。店に飾ってあります)ミッドウェイはその後永く第七艦隊の空母として活躍、僕も横須賀移住後、何度か見学で乗艦した。

で、先ごろまで横須賀にあり退役したのがキティホーク、栄えあるFirst Navy Jackを掲げていた船である。横須賀の人でもこの13本の縞にガラガラヘビの旗をキティホークのインシグニア、ロゴと勘違いしている人が多いようだが、これは1977年以降、アメリカ海軍最古参の艦船艦首に掲げられる旗だ。ヘビの下には小粋に"DONT TREAD ME"・・・”俺を踏むんじゃねぇ”・・・   キティホークというのはキティちゃんの鷹という意味ではもちろんなくて、ノースカロライナ州アウターバンクスのキルデイビスヒル一帯をさす地名だ。キルデイビスヒルというのは1903年、ライト兄弟が初飛行に成功した場所のことで、飛行機にちなんだ空母の艦名にライト兄弟にちなんでこの地名が使われたというわけで、キティホークのインシグニアは複翼のライトフライヤーが描かれている。思い出したのがご覧のボックスアート。これは試作したのみで販売に至らなかった(2008年9月現在)しているのだが、ライトフライヤーの精密模型にアメリカ50州25セントコイン(50州それぞれの図化の25セントコインを発行するプログラム)のノースカロライナ州編、ライトフライヤーが描かれたコインを組み合わせてディスプレーアートに仕立てたものだ。アウターバンクスの灯台の研究をしている時にキティホークのことが頭から離れず、思わず作ったものだが、思えば空母のキティホークがチラついていたのかもしれない。

書いたとおり、ミリタリーマニアでも何でもない僕だが、空母ってえのは・・・・何て気になる存在なんだろう・・・と思うのは僕だけだろうか?(2008,925)

09/16 横須賀 こだわりの人々

バーバラ・クーニー、ロバート・マクロスキー、エリック・カール、レオ・レオニ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note
僕も相当な”こだわり”を持ってアートポスターを販売しているつもりだが、その道その道で”こだわり”を持って諸事取り組んでいる人はおられるものだ。横須賀上町教会のM先生もそのお一人で、M先生が園長を務める めぐみ幼稚園は、我が娘を通わせながら言うのも何だが、素人目で見てもおよそ大多数の親達にウケるとは思えない”こだわり”がそこにある。園児わずか30名ちょっとしかいないのに、先生4人、これに園長と牧師のY先生が加わる。そんな極めて濃度の高い体制で、例えば保育中のちょっとした出来事を園児の降園後、延々1時間も2時間も話し合ったりしていたりする。でも、そんな裏方事情を親達に伝えてその仕事をアピールするでもなく、丁寧といえば丁寧ながら、経営効率と”ウケ”いった点で見れば・・・これまた我が娘を通わせながら言うのも何だが完全に失格だろう。でもM先生は「ウチにお子さんを入れる親御さんはこだわりを持っていますから」と涼しげだ。僕が長女の幼稚園選びのときに付けた注文は、いわゆる知育教育に力をしないこと、行事が多くないこと、園児に優劣が付かないこと・・・などだが、そのような面での親としての満足度はほぼ満点だ。M先生に言わせりゃ、僕も”こだわり”を持った親の一人ということになるのだろうが、不思議なことに、オーシャンノートに出入りして茶飲み話をする常連さん・・・最近ふと気づいたのだが、皆、お子さんはめぐみ幼稚園の卒園生なのだ。”こだわり”・・・類は類を呼んでいるのだろうか?

さて、来る10月3日、上町教会として初めての試み、伝道集会を開催することになった。僕は無宗教な人だが、浮世の義理で、チラシの原稿を”ノーギャラ”で(苦笑)作って差し上げることになり、打ち合わせしてると、そこにまた”こだわり”の輩が・・・貧食日記のeinenさんである。einenんもクリスチャンではないが、営業マン時代、ウォーキングディクショナリーと呼ばれた僕が歯が立たない教養人で何でも良く知っている。上町教会の伝道集会、賀川豊彦献身100周年というサブタイトルが付くのだが、チラシの原稿を作りつつ賀川豊彦といわれても誰なのか、僕はさっぱりわかっちゃいない。ところがeinenさん、M先生と二人で賀川豊彦さんやらキリスト教の伝道の話で盛り上がり始める。こちらはチンプンカンプン、本職の牧師のM先生とeinenさんの会話がオーシャンノートの狭い店内で異様な空中戦の様相を呈している。(ちなみに賀川豊彦さんはその昔、有名な全国伝道の折、茨城県の女房の母親の実家にも寄宿されたのだとか・・・)einenさんが来ると、僕の方にしても場末な横須賀上町にあって普段は空振り気味の”こだわり”に火がつく。昨日は絵本の話で盛り上がる。ウェブでは販売していないが、バーバラ・クーニー、ロバート・マクロスキー、エリック・カールなどを置いていて、共通するのは作者自身の生き様に大変感銘を受けたというこだ。店で売っている絵本には、(参考のための)翻訳を付けさせていただいているのだが、作者自身のことを詳細に調べないと、翻訳にあたっては支障をきたす。マクロスキーの場合は、メイン州の自然と素朴な暮らしぶりを愛し、これを詳細に生き生きと描いたところに惚れ込んであり、特に作品の中でそのシチュエーションがある程度特定できて、まるでそこに居るかのような錯覚を受けるリアリティに価値を見出している。”One Morninng Maine”には上記翻訳と作中に出てくる、コンドンズガレージの写真(2008年現在でも現存)をおまけに付けている。レオ・レオニは有名な”Swimmy”。10代のころはポケットに谷川俊太郎の詩集なぞ忍ばせていたものだったし、小室等とのコラボも大変感銘を受けたもので、決して名訳といわれるスイミー谷川訳の向こうを張ろうとしてるわけでもないが、レオ・レオニがアメリカでの成功をすべて捨ててイタリアで一から始めようとする自分自身を描いたのが”スイミー”だという解釈をした。ただ、みんなで力を合わせれば何かができるなんていう生易しいものではない!とこの作品から感じるのだ。エリック・カールはアメリカに渡る夢を叶えたとき、ニューヨークの土を踏んだ彼のポケットには僅か40ドルしか無かった・・・余り知られていないがエリックカールのニューヨークタイムスでの職を紹介したのがレオ・レオニだった・・・そんなエリック・カールの生き様に感銘を受けると同時に、ただ見て楽しいというだけでなく、そこに万物の輪廻のような刹那的な運命感を強く感じつつ”意味”を考察する・・・”こだわり”も良いが、一歩間違うと、偏執・・・パラノイア=分裂症といわれてもしょうがないような”こだわり”がオーシャンノートには渦巻いているのである。逃げるが勝ち・・・かも?いやいや冗談です(2008,9,16)

09/08 何やってんだろ? の日々

ギター2008:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

9月に入りガソリンが下がったかと思えば首相の辞任と、アートポスター販売の方も乱高下気味で一喜一憂しつつ、それでも、暮々も(苦笑)決してヒマな訳ではないのだが、こうして店を構えているといろいろな方が出入りされる。昨日はM先生の教会の印刷物の相談と、Y先生の教会が所属する集まりのイベントのホームページの更新の相談・・・と相変わらず本業以外の雑役?に結構な時間を費やした。僕のPCのスキルなぞ知れたものだが、折角身についた少々の画像処理とウェブの知識が世間様のお役に立てることは、それはそれで良い事と思っている。しかし、信心とは対極にあるような僕が、何でこうも教会のお手伝いに関わっているのか妙な気分になるし、ずっと”企業”というフィールドで生きてきた僕にとっては牧師さんとか教会の、毒気の無いおっとりとした万事のペースに若干の違和感を感じないわけには行かず、ついついY先生に・・・「やっぱり、こうしてお手伝いを続けるにはオーシャンノートがもっと繁盛しなくちゃあねぇ」とチクリとやると「僕達は祈るのが仕事だから、お祈りします」ときた。「しかし、やっぱし現世利益じゃないとねぇ・・・」と食い下がると「あとは神の御心ですから」・・・やっぱり禅問答なのである。

昨日の雑役の極めつけは、潜水艦乗りだったNさんからの頼まれごとだ。Nさんは退官後、ギターを始められ、頭のさがることに一月に20日以上、グループホームやデイケア施設にボランティアで弾き語りの慰問をされている。その余勢で旧海軍関係の親睦会などでも歌を披露する機会があるのだそうだが、今年の集まりでは”海鷲だより””マレー沖海戦””特攻隊節”のリクエストが出て、歌わなきゃならないとのことで譜面を探して欲しいと頼まれた。以前にも頼まれて定番の”禁じられた遊び”の譜面を探したことがあり、これは多分違法なんじゃあないかと思うが、それを掲載してくれてたサイトがあってNさんにお教えした。もちろん、本屋さんや楽器屋さんに行けば”禁じられた遊び”の譜面なんざ簡単に手に入るだろうが、そのために僕が出掛けるのは時間が許さないし、そんな手段をとったわけだ。ちなみにネット上では引用を逸した歌詞の掲載も違法である。さて”海鷲だより””マレー沖海戦””特攻隊節”・・・となると、ご想像のとおり弾き語り用の譜面やコード譜を見つけることは困難で、せいぜい鶴田浩二さんや軍歌のCDを見つけることしか出来ない。それでもググってみればYouTubeでは3曲とも曲を聞くことはできる。Nさんを前にすると、何とかしてあげないといけないと半ば追い詰められた僕は・・・「Nさん、僕がコード譜を作りますよ」

どの曲も聴くのは初めてである。近頃の流行歌と同じくらい、そもそも僕の体にリズムと和音がインプットされていない彩に包まれており、安請け合いしてしまったことを後悔したが、音楽は音楽!と気をとりなおしてYouTubeとにらめっこ。夢は遠く、手が届くどころかかすりもしなかったけど、これでも作曲は結構やっていたから、10回くらい聴いてKeyを突き止めれば作業は自然に進む。オーケストラは基本的に”コード”という概念で演奏されていないから、単純なコードにするのは大変だ。分かりやすくて、ドラマチックなボイシングが良かろう・・・と思いつつ、Nさんのギターの腕前では6thや7th、9thが頻繁に動いたり、いわゆる分数コード、ベース音指定のコードも困るだろうと単純でメリハリがありドラマチック、なおかつ歌いやすい(鶴田浩二さんの歌などはヘタウマで、メロディがハッキリしないところがある。コードによっては余計に歌いにくい)ということに腐心する。最後にNさんが弾きやすいCあるいはAmのKeyに変調して、再度ボイシングをチェック・・・

何やってんだろう?・・・と思いつつ、原曲通りとはゆかずとも、まだ2曲しか終わっていないが、なかなかの満足の出来と悦に入りながら・・・”海鷲だより”には不覚にも感動してしまう。僕は戦争美化はいけないことと思いつつ、日米安保反対や石頭な護憲派の意見にも賛同しかねる。根っからのリベラル派だと思っているが「白木の箱が届いたならば たいした手柄じゃないけれど 泣かずに誉めて下さいね」と歌えば、当時の特攻に散った方々の心情を思うと、今日の平和ボケしている日本が尊い犠牲の上に成り立っているにも関わらず、我が子たちに国家の一員として何をしてやれるのだろう・・・と泣けてくる。このところ、衆議院解散近しとの報が伝わるが、よくよく考えて投票するものだと改めて思う。しかしまあ・・・雑役の日々である。(2008,9,8)

08/25 横須賀学の会

横須賀学の会・観音崎船舶の観察ノート・ふね・フネ・船の力:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

”地の人間”ではないとうことで、しばしばちょっとした疎外感を感じることがあるものだ。少なくとも横須賀に”同級生”といった類の友人が居ないことは商売上もハンディキャップがあるかもしれないと思わないでもない。それでも、生まれ育った東京中野は思いっきり下町気質で、お祭りの御神輿に呼ばれなかったり、聞けば鎌倉あたりでは二言目には「どこの人?」と尋ねられるそうだから、横須賀で最も古い商店街にも関わらず、上町銀座で新参者の僕が役員の末席を汚させていただいていることなど見る限り、なかなかリベラルな土地柄なのだと感心する。いずれにせよ足掛け3年目になると、それはそれで少しずつ人のつながりも出来てくるものだ。齋藤さんは、昨年リタイアされるまで横浜港でタグボートに乗っておられた生粋の海の男だが、昨年以来、販売している僕が心配するほど何枚もの船の額装アートポスターを買っていただいている。こういったお客様がいらっしゃると大変な励みになるもので、齋藤さんを「アッ」と言わせる商品を見つけようとよりマニアックな世界に入り込んでいったりするものだ。その齋藤さんが参加されている”横須賀学の会”の代表、大橋祥宏さんがSさんと一緒にお越しになった。

”横須賀学の会”は当店も度々掲載してもらっているタウンニュースの記事が丁度良い紹介をしていたが、記事中に無いいきさつは・・・高度経済成長を支えた世代が、現在リタイアを迎えている。元々は県立横須賀高校、略して横高のOB数人が「俺達を育ててくれた横須賀に恩返ししよう」という趣旨で、これからの世代の人たちに向けて横須賀の様々なテーマを研究し伝承しようといことだったそうだ。横高OBでなきゃいけないということはなく、様々なキャリアをお持ちの方々が参加なさっているが、約束事は、宗教と政治は持ち込まないことだそうである。この数年は、メンバーの経験を持ち寄ると、横須賀の土地柄だろうか、船に関係するものが多かったことから、”観音崎を行き交う船”を研究テーマに取り上げており、その成果が昨年”観音崎船舶の観察ノート - ふね・フネ・船の力”として出版された。

大橋さんという方は、とにかく行動力抜群のお方で、出版するにあたって早速に日本財団の助成を得て、メンバーの懐も傷むことなく発行に漕ぎ着けておられる。初版は1000部。正式には昨年11月の発行だったのだが年内には底をついてしまった。かまくら春秋社とのお付き合いで、自費出版の実情を聞くこともあるが、簡単に1000部といっても、そうそうすぐに掃けてしまうものではない。むしろ驚くべきことだ。というわけで、急遽第2版の発行に至った。今度は、日本財団の助成は得られないので、大橋さんの持ち前の行動力で京浜急行をスポンサーに立てての増刷である。大橋さんは既に当店でお買い物もされたことがおありだったそうで(僕はお客商売やっている割に、営業マン時代から人の名前を顔を覚えるのが苦手で、パーティなどで、やぁこの間はどうも・・・なんて言われても、調子よく合わせるものの誰だか全然分かっていないこともしばしばだった。大橋さんのことも失礼ながら覚えておらなんだ)、厳密には初対面ではないのだが、親しくいろいろなお話をお聞かせいただいた。

ところで、横須賀学の会の現在の研究テーマは在日米海軍第四代司令官、デッカー大佐の著作の翻訳だそうだ。ローカルな話題で恐縮だが、当店近くの横須賀中央公園に胸像があるので思い当たる方も多いはず、横須賀のみならず戦後日本の復興に大きな役割を果たしたのがデッカー大佐である。(何でも当時の横須賀市民からデッカー大佐を市長にしようという声が上がったほどだそうだ)遠からず、その研究成果も上梓に結びつくものと伺っている。(2008,8,25)

(横須賀学の会のホームページはありません)

08/21 崖の上のポニョ

7月の末だったか、NHKのBSでルパン三世の特集をやっており、1971年放映のオリジナル版23話を4日間に渡り一挙に放送した。義姉は同年代なのだが、女姓ながらルパンの大ファンで、所用で録画できないとかで一日分の録画を頼まれ、それでこの一挙放送を知らされ、結局、23話殆どを見る羽目になったが、やっぱり素晴らしい。オリジナル放映時、当時小学生だった僕は、このルパン三世にかなりショックを覚えたもので、周知のとおり、日曜の19:30というゴールデンタイムながら後半になっても9%程度の視聴率しかなかったそうだが、僕はその9%の視聴者のうちのひとりだった。断っておけば、僕は所謂オタク系アキバ系の人ではないから、アニメ何でもというわけではなく、むしろ家業が家電販売業であったにも関わらず(屋号なんて四谷テレビ・・・言わばテレビ屋さんだ)父はテレビを見ることについてかなり厳しく、父のいるところで堂々とテレビを見ることのできる家庭状況にもなく、むしろアニメとかには疎い方だ。それにも関わらず、どんな手段で見たものかルパンだけは頑張って見ていた。無論、宮崎駿の存在など当時知る由も無い・・・

大体において、映画館に行く習慣を持ち合わせないので、宮崎作品もほとんどはテレビで見るわけだが、ウィルクハーンに転職した時、当時の同僚のひとりから「小野寺さんってネコバスに似てるね・・・」といわれ、ネコバスが何だかも分からなかった。程なく、トトロをテレビで見る機会があり、複雑な心境になったものだが、何も分からず見たわりには「カリオストロの城と同じ人が作っているんじゃあ・・・」と思ったもの。ここに至ってやっと宮崎駿さんの存在を知るにいたるわけだが、そんな宮崎アニメの中では紅の豚が大好きでDVDまで買ってしまった。思えば、我が家はジリジリと包囲されていたのかもしれない・・・

長女は生まれた時から顔が出来上がっていて、まるで大人がそのまま小さくなって出てきたようなところがあったが、次女はまさにお猿さんのような顔で生まれ、そのあまりの違いに「大丈夫かな?」と心配したものだ。その次女が育つにつれて・・・親である僕が言うのは何だが、トトロのメイちゃんにそっくりなのだ。いつも我が家にはメイちゃん実写版がいるのだと思っていただきたい。と、日頃思っていたら・・・ポニョ・・・メイちゃん以上にそっくりなのだ。長女はそれなりに妹を守る気持ちなのだろう、僕に「Mには首があるよ!ポニョは首がないよ!」と怒鳴るのだが、僕にはポニョの実写版が家にいるように思えてならない。ポニョが頭から離れない日々を送りつつ、でもまだ映画館で映画ってえのは小さくて無理だよなあ・・・いつDVDがリリースされたら買うか・・・とか思って過ごしていたのだが、海洋少年団のMさんが息子さんとポニョを見た帰りに店に寄ってポニョの話をする。Mさん曰く「トトロの海版だよ!」・・・先週、泳ぎに行ったら前回の日記でも書いたポニョに似たフグを仲良くなって・・・

完全に包囲されたのだ。月曜の夜、チャリンコを走らせ汐入のシネマ8へ。「ポニョ、大人1枚、子供2枚、明日の14:10で!」・・・残念ながら、僕は仕事の都合で行けなかったが女房と子供達、ポニョを楽しく見ることが出来たようだ。考えてみれば、先日ドキュメンタリーでポニョの製作記をやっていたが、宮崎駿さんの一作ごとの消耗振りを見ていると、今度こそいよいよ最後かもしれない。そうなると、娘達にとっては宮崎作品を映画館でみる最初で最後のチャンスなのだ。お陰で僕は床屋代を使ってしまったので、髪が少しむさくるしい。

ポニョから一晩明けた昨日は、多分、今年最後になる観音崎での海水浴。もう海藻だらけで、澄んだ潮では無くなってきた。日差しは強くも風は少し秋模様、水に使った肌が寒い。「さあ、最後の一泳ぎだぞ!」と海に入ってゆくと・・・あの海藻を尻尾に付けたポニョフグがいた。次女は急に泣き出した。一瞬しか見えなくて、さよならが余程悲しいらしい・・・

崖の上のポニョについて映画評論筋からは批判めいた意見も多いようだ。これは、まったくあたらないと思う。邦画で100億円を超える作品など誰も作れないのだし(おまけに入場者は子供が多い、ということは大人だけが見る映画より動員数が多きはずだ)、それはそれだけの支持があるということ、常に批判精神が文明、文化、社会思想を進歩させてきたことは認めるが、たかが娯楽である、何を期待しているのだろう?。たかが娯楽・・・そんな刹那的なところが宮崎作品の魅力だと思う。まだ、ご覧になっていない方は、このポニョ、ご覧になることをお勧めする。海洋少年団のMさん、体育会系の強面(根は優しい)だが、このMさんが大層感心しておられた。もちろん我が愚妻もである。子供だけのための作品ではないと思う。(2008,8,21)

08/17 お休み疲れ お見舞い申し上げます

今年のお盆、横須賀は例年にない絶好の海水浴日和が続いた。華やかな西海岸の事情は一向に関知しないが、今年の東海岸・観音崎周辺は海藻が全然なく水は澄み水温もほどほど、台風も来ないから穏やか、おまけに今週は大潮で干潮時間は10時前後、小一と年中さんの娘たちを連れて泳ぐにはピッタリだった。連日、開店時間を遅らせていただき、5時過ぎに起きて昼食の準備を済ませつつ朝食を急いで食べて、7時台には家を出て観音崎へ。11時台には家に戻り昼食を作る。家に着くと女房は子供たちにシャワーを浴びさせたりで忙しいので、その間に海水もしたたるまま昼食を作ってしまう。シャワーを浴びて昼食を食べたら愛車(チャリンコだ)で出勤。海に入った後は無性に眠いから、ウゥブのご注文分の額装、梱包などの立ち仕事の間は良いが、座ったとたんに瞼を持ち上げておくのに一苦労なのである。

長女は、流行のスイミングに通わせることもなく、まだ泳げるわけもないが、今年は大進歩。僕の目から見れば、もう泳げてしまうところまで来ている。僕が泳げるようになったのは3年生の時だったから大したものと思っている。プールのない小学校に通っていることを思えば・・・である。お遊びで「男子3m犬掻きィー」なんてやっていたら、連日、見るとはなくオリンピックを見ている所為か・・・長女が一言。「バタフライやって!」年甲斐もなくやってしまうところが良いところ。今年はクラゲの発生が早いとかニュースでも流れていたが、その心配も無かった。もっとも、水が澄んでいたおかげで、初めて泳いでいるアンドンクラゲを見た。アンドンクラゲはクラゲでは最も速く泳ぐので、水の上から見つけるのは簡単ではないのだが、その美しさには息を呑む。ただし、刺されると宜しく無いほうの種類でもあるので要注意だ。

ここで諸説プンプンのクラゲに刺されたら・・・の話。以下の話は、経験によるひとつの意見であり、クラゲの毒は解明されていないものが多く、単なる参考としていただきたい。海洋少年団で一緒の友人のMさんはサーフ90藤沢ライフセービングクラブでライフセーバーをやっていたので、尋ねてみた。要約すればカツオノエボシ(青いゼリーのようなクラゲ)以外は心配ないとのことだ。多少、腫れるのは事実だが、体に付いた刺胞という毒のカプセルを手で触らないように海水で洗うこと。すでに開いてしまった刺胞は腫れを作ってしまっているので、大事なことは開いていない刺胞を刺激せずに洗うこと。真水だと開いて刺される。手で払うとその手が刺される。とにかく海水。サーフ90藤沢ライフセービングクラブでは、アンモニア水を常備しているそうで、海水で刺胞を洗い流した後に、これを掛けるそうである。あとは抗ヒスタミン系の軟膏が腫れには良いとされている。噂ではムヒも効くとのことだ。どちらにせよ、まず死ぬの生きるのという話にはならないので、心配は無用だそうだが(ライフセーバーは刺されてもほって置くそう)口で毒を吸い出そうとするのは厳禁である。口の中、喉がやられると一大事だ。とにかく注意するのはカツオノエボシだけ。これを見たら泳がない方が懸命だ。

連日、不思議なフグにも出会った。クサフグの赤ちゃんのようなのだが、尻尾付近に海藻が生えているのだ。毎日現れるので”ポニョフグ”と名づけて、余り逃げもしないので追っかけて遊んでいたが、釣り針でも絡んでいるのかと思って、外してやれたらと思い、無謀にも泳いでいる魚を手で捕まえようとした。女房は海藻を摑んで少しちぎった。でも相変わらずだ。僕はそっと両手ですくうと・・・何と手の上に乗ってしまった。で、よく見ると、やっぱり釣り針でも何でもなく体から海藻が生えている。結局それを外したら死んでしまいそうなのでそのまま逃がした。残念ながら僕はブラックジャックではないのだ。おそらく怪我をしたところに海藻の胞子が付いて海藻が生えてしまったのだろう。

日本中、お盆休み疲れのことと思う。まだ、夏が終わったわけではないので、せいぜいご自愛くださるようお祈り申し上げます。(2008,8,17)

08/09 残暑お見舞い申し上げます

日本もつくづく亜熱帯化していると感じざるを得ないここ数年である。いい加減、夏休みでもとれば良いものだが、変な話、ウェブでのご注文には切れ目がないので、根が律儀な僕は休むことが出来ない。冷静になれば、この暑いところ、街場をうろつく人も多くは無く、さすがに8月は店は閑古鳥、発送だけなら夕方にでも出てきて・・・なんてことでも良いとは思うが、やっぱり意固地なところがある僕は店を開けてしまう。これって働き者ってことか知らん?

去年の今頃は、明けても暮れてもこのウェブのチューニング、さすがに朝から晩までPCに向って少々おかしくなりかけていた。そもそも、料理自体は凝り性が高じて、その昔、自宅では月に2〜3度パーティ、クリスマスは某所に出掛けて2日掛かりで延べ30人くらいのお客さんの食事を用意したり、アルフレックスの河口湖のゲストハウスでデザイナー建築家諸氏のために食事を作ったり、相当やっていた割りに女房と子供が実家の東京に遊びに行っている時期の一人暮らしになると包丁を握ることも無く貧食になる。去年の夏の一人暮らしの時は、朝は抜き、昼はアンパン1個、夜は大好物のコンビーフの缶詰と鰯の缶詰に焼酎のコーラ割り・・・来る日も来る日もそんな食生活を2週間続けたら、喜ぶべきか恐れるべきか、30数年振りに標準体重を切った。PC中毒もあって、全然お腹が空かなかったのである。(コンビーフの缶詰、これは20代の頃、神谷町の立ち飲み屋さん・・・今もあるのかな?・・・で覚えたもの。そこは日本酒はどこにも無いようなお酒が飲める割に、つまみは何と缶詰。立ち飲みとはいえ飲み屋さんなのに缶詰を注文するのだ)

夏のツケは大きく、以来、歳のせいもあるのかすっかり体力が無くなった気がする。そんな無茶な一人暮らしの時期を知ってるM先生は「肉を食わさなきゃいかん」と言って”横須賀ホルモン七輪”に誘って下さった。焼肉というのは多くの人にとってご馳走なのだろうが、これまた僕は興味ない。お仕事で親しかったインテリアデザイナーの宮川さんの受け売りで、狂牛病以前から牛肉は体に悪いから食べてはいけないと思っていて、我が家では牛肉を買ったことは結婚以来3回ぐらいしかない。(宮川さんは体温で溶けていない脂というのはコレステロールの正体そのものと教えてくれた。これがえらい説得力で、それ以来牛肉を食べる気が起きない)しかし、このホルモンの焼肉というのはあっさりしていて実においしい。ホルモン自体の味がよくわかっちゃあいないが、M先生はかなりお詳しいようで「新鮮だよ」とおっしゃっていた。よし、スタミナがついたぞ!と思ったら今度は商店会の役員会でベトナム料理”シクロ”へ。嫌いな人も多いようだが、僕はパクチー(香菜)が大好きで、注文したグリーンカレーにパクチーが入っていてご機嫌だったし、生春巻きに添えられたパクチーに誰も手を付けないので全部貰ってしまった。このパクチーだけで元気元気・・・

たった2日だけだが、大体、外食自体が少ない昨今、今度は飽食気味である。おまけに、昨夜はシクロを引き揚げて家に帰ると、ディスカバリーチャンネルで客船クイーンメリー2のドキュメンタリーをやっている!途中から見て録画しそこなったので、再放送を調べると、何と明け方4時からだ。そこは魚釣りの早起きで修行した身、きちんと3時半に起きて無事録画・・・でも睡眠時間は3時間。飽食と睡眠不足で今日のコンディションは・・・やっぱりきつい夏なのである。皆様におかれましても、くれぐれもご無理をなさらぬよう・・・(2008,8,9)

08/07 久しぶりのお休み・・・大葉のパスタ

アート・ポスター・写真・海・販売・通販【Ocean-Note】blog大葉のペペロンチーノ2008:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今週から女房と子供たちは実家のある東京に遊びに行っている。普通なら”田舎に行っている”となるが、女房も僕も中野で生まれ育っているから、田舎が田舎にならず東京に行っているとなってしまう。それにしても、週一日だけのお休みで、子供たちがお出かけを楽しみにしているとなると、実際、休みらしい休みというものが無い。昨日は一人でほとんど横になったっきりでダラダラと眠ってはテレビ、テレビ見ちゃあいつの間にやら眠って・・・いやはや極楽三昧。それでもお腹は空くから、お客さんのSさんが持ってきてくれた大葉がたくさんあったので、大葉のスパゲッティをつくる。

大葉というのは野菜としての呼び名で、もちろん青ジソのこと。僕はこの大葉がめっぽう好きで、飲み会で出てくるお刺身なんかで誰も手をつけないのを狙っていたりする。この10年ばかり、やたらとマグロがブームだが、僕はもともとマグロやらカツオなんかは錆びっぽい匂いが好きではなく、そんなに喜んで食べることもないが、大葉でくるっと包んで食べると実に美味だと思っている。好きが高じて苗を買ってきて部屋の前の空き地に植えたりもしたが、ヨシヨシ明日食べるぞ!と思って夜が明けると無い!そう食べごろは皆狙っていて、大葉は青虫や夜盗虫の大好物、大抵先を越されてしまう。この大葉、栄養的にも優れていてビタミンA、鉄分、カルシウムが豊富で、ビタミンAは一日の必要摂取量を簡単に取れてしまう。調理上の注意は兎に角熱に弱い。大葉大葉といっても、大抵は脇役。で、大葉を主役にしたのが”大葉のスパゲッティ”だ。

まあ、”aglio,olio e peperoncino”=ペペロンチーノのパセリを大葉に置き換えたと思っていただいたら良い。ただし、大葉に熱は禁物だから、パセリの場合と違って、火を止めてから大葉を加える。スーパーだと1パックで10枚くらいが普通だが、全部使ってしまって宜しい。好きなら2パック使ってもよいくらいなのだ。一応つくり方を記すと、唐辛子とニンニク(ミジン切りでも、スライスでも、あるいは軽くつぶしたもの・・・お好みで)をオリーブオイルでじっくりと焦がさずに炒める。頃合で、スパゲッティの茹で汁を加えて炒めるのを止める。茹で上がったスパゲッティを加えフライパンを煽って和える。上手く和えられない時は茹で汁を加えて濃度を調節するのがコツだ。火を止めて刻んだ大葉を加える。仕上げのオリーブオイルを少し垂らして、フライパンを煽り全体に大葉が混ざったら完成。なかなか夏っぽいパスタである。

ああ、来週はもう一人じゃあない。うーん、もう一週くらい横になったまま三昧のお休みがあっても良い様な・・・大体、スパゲッティに唐辛子を入れられるのも一人の時だけなのである。(2008,8,7)

07/31 夏休み にっぽん丸の出航セレモニー

客船にっぽん丸・横須賀新港2008:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

勤勉なのか、それとも単なる出不精だけか、どこに出掛けるわけでもなく、相変わらずオーシャンノートに夏休みは無い。それでも子供たちは夏休みである。去年あたりまでは、開店前に子供たちを連れて泳ぎに行ったものだが、今年は少し夏バテ気味でそこまでは叶わない。それでも毎朝、虫捕りの名目で一時間は散歩をする。昨日は定休日だから、散歩ではなく海だ。

長女が今年から通っている山崎小学校は、卒業生に小泉純一郎さんを輩出しているが、プールがない。僕は教育課程というものがきちんとあって、小学校ではせいぜい卒業までにせめて25m泳げるくらいの目標ぐらいあるんじゃないかと思っていたが、まさか・・・プールが無いとは。まあ小泉さんという人は地元には無頓着な人で、首相在任期間中に特段公共工事の面でのおいしい話というのは皆無だったが、僕の母親が最上川(山形県)で水泳の授業をやっていた・・・なんていうのとは時代が違う。プール設置を切望するが・・・せめてと思って、休みの日には泳ぎに行く。お気に入りは観音崎だ。空いていてまっすぐ泳いでも人に当たることはまずない。まあ、今時の子供が海で泳げるようになるというのも想像できないが。

朝から泳いで、昼過ぎに帰宅、昼食はパスタ。昨日はアンチョビーとキャベツのスパゲッティだ。古い話だが、ダノイの小野シェフの十八番で一世を風靡したパスタだ。僕は簡単だし、これが大好きだ。昼寝して、夕方は、商船三井の客船にっぽん丸の出航セレモニー見物に出掛ける。ホテルが浮いているようなクルーズ客船全盛時代にあって昔の客船の面影が強い船で、日本の客船では一番綺麗だと思っている。横須賀港に大きい客船が入ることは稀で、どういう事情で寄港したのかは知らない。乗船客にしてみりゃ、そりゃあ、横浜の方が良いに決まっている。そうい意味では巨費をかけて造った横須賀新港は細々と車の積み出し(横須賀の日産は自前の埠頭があるから大した量でもない)をやっているくらいでまったく勿体ない埠頭なのだ。

てなわけで、文字通り五色のテープで出航を送る感動的なシーンを体験しつつ(直接下からテープを持ったのは僕も初めてのことだ)、いろいろと中途半端な横須賀市の行政戦略が頭の隅を離れない。夏休みといえば・・・たまたま女房が急な用事で夏休み中の子供二人の面倒をみなきゃならないことになったのはおととい。近所のはるかぜ書店では偶然、絵本の読み聞かせ会があったので一時間ほどではあったが預かってもらった。はるかぜ書店はアンガージュマンという不登校・引きこもり青少年の支援NPOが経営する書店なのだが、実はオーシャンノートが入居する店舗、前の店子ははるかぜ書店だったこと、前店長とは個人的に親しかったこともあり、定期購読の雑誌類は全部購入させてもらっている。で、このNPO、横須賀では”俺をこき使え!”で有名な茶髪の若手市議、藤野英明さんが結構いろいろと絡みがあるようで(変な意味ではなく)、この日も子供たちを迎えに行くと藤野さんがおられた。初対面だったのだが、これまたたまたまその場にいた知人(当店のお客様でもある)が紹介してくれて、立ち話させていただいた。藤野さんは、なかなか頭脳明晰な方で、僕を知らずとも店のことは良く知っていて、開口一番「市有のヨット、廃止になりそうで残念です!」と来た。そうそう、これも気になっていることのひとつ。まあ、三権分立が原則だから、あまり行政に立ち入った山崎小学校のプール問題やら、横須賀新港の不採算問題をねじこむつもりはないし、政治的・思想的・宗教的どれをとっても中立公正な僕が強烈な意見を述べることもないだろうが、いずれゆっくり話すことも約束したので楽しみだ。

夜は冷やし中華。子供の時から去年まではシマダヤの冷やし中華が美味しいと思っていたが、九州のマルタイを知ってしまった。これは美味い。使うのは元祖のマルタイラーメンだ。指定の作り方だと具にもよるが、少々味が薄いので、少しスープを濃く作るのがコツだ。しかし・・・はあっー・・・夏休みである。(2008,7,31)

07/22 戦没船員の碑2008

昨日は海の日だ。海の日は、元々、明治天皇が明治丸で東北巡航から横浜に戻られた日を記念して制定されたものだそうだ。国民の休日になったのは1996年、祝日法改正で2003年からは7月第三月曜となっている。(成人の日や敬老の日が毎年違う日なのに違和感があるのは僕だけだろうか?海の日も同様、それなりに云われがあって決まっているのだろうから、連休のためっていうのも変な気がする)

さて、2006年の海の日は我がオーシャンノートが開店、昨日2008年の海の日は北海道帯広で知人の池田さんが”STAR SHIP MODELS”という店を開店された。池田さんとは、オーシャンノート開店からしばらくして、何点かのアートポスターご注文をいただいたのが縁、その後も度々お買い上げいただいたので、メールのやりとりをしていると、「実は船舶模型の製作会社を興そうとしています・・・」ということで応援させていただいている。日本では、大阪に良く知られる船舶模型製作会社があるが、個人のコレクション向けでは恐らく日本で唯一無二の存在となっているものの、ひとたび海外に目を向ければ最高峰は国際規格の1/1250モデルで(例えば大和を作れば20センチ強)日本円で30万円を越すものから、お手ごろな2〜3万円のものまで種々出回っている。日本では余り知られていないが、世界的にはこの1/1250の船の模型のコレクションは上質な大人の趣味である。しかしながら、これは実は作るのにものすごい費用がかかる。亜鉛合金のホワイトメタル素材のものだと、金型を要するが、この金型は一声100万円という代物なのだ。近年は、デテイールのシャープさでは劣るものの、少量生産に向くのでシリコン型を利用するポリレジンのものも出回ってきている。そういう、ある種、苦労が目に見えている商売を始めた池田さん、まだ店のホームページが出来ていないので紹介できないがいずれ紹介したい。同じ、誰も登らない山に登る池田さんには、シンパシーを感じている。

海の日の前日の読売新聞には、こんな記事があった。かいつまんで引用すれば”大戦で戦場に行った兵士、陸軍では20%、海軍では16%の将兵が帰還できなかった・・・軍人でない商船の船員の未帰還率は43%!だった・・・当時の軍の感心は艦隊決戦にあり、輸送船や商船の護衛の任務は嫌われた・・・2500隻6万人の船員を失い補給を絶たれて日本は負けた・・・”という書き出し、曰く、欧米の海軍は元々海運の護衛のために作られたものだが、日本の海軍は軍艦同士の決戦に目を奪われ、海運なしで成り立たない国の成り立ちを忘れてしまったとうもの。僕の持論でもあるが、記事中にある、社団法人海洋会の杉崎昭生さんの「残念ながら日本は農耕民族で、いまだに海洋民族でない。海への感心が持続できないのです」の言葉が印象的だ。

観音崎にある戦没海員の碑は、確か昭和44年の除幕式の際も皇太子時代の天皇陛下がご臨席されたと聞いている。今でも、天皇ご一家が葉山で静養される際、帰りに寄られることも度々、直近では2007年の10月にも献花されている。(ちなみに、静養の後、横須賀まで来られると、ここ横須賀上町の横須賀市人文博物館まで足を伸ばされることも多い。林前館長と陛下はご友人なのだ)戦没海員の碑は、とりわけロケーションの良い場所で、内東京湾と外東京湾の両方が前後に望める。観音崎散策の際は是非立ち寄られることをお勧めする。(2008、7、22)

07/15 灯ろう夜市2008

横須賀灯ろう夜市2008:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨夜は4年目を迎えた横須賀上町の灯ろう夜市だった。一年前にも書いたが、おととしの灯ろう夜市はまだオーシャンノートも開店しておらず、一日18時間労働で開店準備追い込みの真っ最中、シャッターを閉めきって大汗かいて作業作業、女房や子供たちは灯ろうを見にきていたが、構ってあげることもできず僕自身も見物もままならずだった。このイベントがいつまで続くのか知るところではないが、もともと京都の灯ろうのイベントをヒントにして、お隣の”いーじゃんうわまち”の商店街で始めたものだそうで、とても評判が良いので2年目から我々上町銀座も加わり、今年はもうひとつ商店会が加わって横須賀中央から平坂を上った中ごろから税務署の手前まで、総数300基もの灯ろうが並ぶ一大イベントに成長しつつある。中には、秋谷の寒川さんとか、このオーシャンノートのホームページをご覧になっていらした方もおられた。

原則、各参加店で製作したものを一基、お客様の作品を一基飾ることとなっている。絵心がない僕にはなかなかこれは厳しい作業だが、紅の豚でも書こうかと思ったら、なかなか良いネタがなくて、結局”第37回アメリカズカップのポスター”を作ってしまった!??これはもちろん真面目なパロディ、大体前回が32回だったのだ。実はこれは夢。アメリカズカップは4年じゃ長過ぎるという意見から2年に一回の開催が恒例になりそうなのだが(あくまでヨットクラブ間の私的なレースなので、決まりはない。毎回、ディフェンダーとチャレンジャーカップ参加クラブ、アメリカズカップコミュッティーが合意に基づく)、そうなると来年の33回、37回は約10年後、その頃には・・・日本でアメリカズカップが出来れば良いなあ・・・といつもの個人的希望を描かせていただいたものだ。写真で見づらいが、カップの陰影とシルエットが表現されたアメリカズカップオフィシャルロゴの下には”JAPAN 37TH AMERICA'S CUP"と書いてある。(本当はにごらずアメリカスカップだが日本ではアメリカズカップが一般的なので便宜上濁音としている)

すっかり人通りも少なくなって片づけをしていると、アメリカ人の母娘が通りかかった。子供は3歳くらい、僕が灯ろうを吹いて消すのを見ていて、この灯ろうの火を消したいらしい。上からずっと覗いている。僕は"Please try" ・・・しかし、一生懸命に消そうと吹くが消えない。"Try with mama" とお母さんが手伝う。ところが、子供が息を切ったところでお母さんの息で消えてしまった。子供が泣き出した。"I see, OK Try agein" もう一回火を点けてあげた。しかし消えない。"I have good idea" 扇いで消せるように段ボールの切れ端を渡す。結局消えなかったけれど・・・good jobだったよ。灯ろう夜市・・・すっかり夏模様である。(2008,7,15)

07/12 三野富士夫さんの写真展

先日、秋谷の寒川さんという方が見えた。あいにくお邪魔したことはないのだが、秋谷で雑貨屋さんを営んでおられるそうで、以前に、灯台の本をウェブからお買い上げになられ、横須賀なら当店を一度訪れたいものと思っておられたそうだ。お話をすれば、以前は僕の生まれ育った中野にお住まいで、お子さんたちは何と女房の小学校の後輩にあたる。僕はいつもの通り応対させていただいたつもりだったが、このところアクセスを調べると寒川さんのブログからの方が多いので、読ませていただくと、「普通は灯台に住みたいのだが・・・」と話をして相手にされないのにこの店主は違った・・・と。それはそうである。ナポレオンじゃあないが、僕の辞書に不可能は無いのである。時間的に直ぐに叶うか否かはともかく、1+1を3にすることはさすがに無理としても、(そうえいえば、以前清原選手を阪神に移籍してもらいたいあまり、吉田監督の台詞、阪神のユニホームの縦縞を横縞に変えてでも・・・なんて印象的な話を思い出した)あきらめない限り夢は叶う。灯台の暮らしというのは、昔は厳しいものがあったのだが、いずれにせよ灯台看守はそこに住んだのだから住めないはずは無いし、日本ではそこまでの状況にはないが、アメリカやカナダでは灯火の部分だけは沿岸警備隊の所有または管理で、建物自体は個人所有されたり、なかにはホテルやB&Bとして利用されているものも少なくないし、常時、いくつかの灯台は売りに出されていたりする。

さて、寒川さん、結局”The Little Red Lighthouse and The Great Grey Bridge”という絵本をお買い上げになられた。この絵本は1942年に初版が発行されて以来、一度も版が切れたことの無い名著で、日本では1980年代に神戸のBL出版が一度だけ翻訳書を出したものの一版で終わっている。内容は、マンハッタンに実在するジェフリーズフックという小さな赤い灯台ととその上にそびえる、ジョージワシントン橋の物語。ニューヨークが繁栄するまで主役だった赤い灯台が、橋の上の航空灯台ができると消灯されるのだが、その消灯のせいでハドソン川に海難事故が発生する。橋は灯台に話しかける「僕は空を照らしているだけ、君は川を照らさなきゃいけないよ」と。赤い灯台と橋は以来、それぞれの役目を一生懸命に果たしている・・・というものだ。短くあらすじを書けば素っ気無いが、これを初めて読んだ時は、涙が出そうになったもの。実話に基づく素晴らしいお話で、言いたいことは「どんな小さな存在にも、必ず必要欠くべからざる大きな役割がある」ということだ。僕にも二人の娘があるが、子供たちにはそうあってほしい、つまり不要なコンプレックスを持たず、自分を信じて生きて欲しいと願うばかりなので、その想いがだぶって感動したものと思っている。この本を説明するときにはSMAPの”世界でひとつだけの花”ですよ、と言っている。(最近は嵐の"Happiness"が同じテーマで良いと思っている。こいつをカラオクで攻略したいが、どうも最近の歌は歌詞の字数とリズムがタイトでついてゆけない。)ちなみに、この絵本、洋書に正規も並行もないのだが、とりあえず洋販や大手通販ではハードカバーは未輸入で、ハードカバー版を売っているのは当店、オーシャンノートだけではないかと思う。そのままでは面白くないので、僕の翻訳とちょっとしたおまけを付けているのだがウェブには出していない。参考の翻訳と解説を付けさせていただいているのだが、外国の著作物には翻訳権という著作隣接権があるので、本来印刷でテキストを入れ替えて出版するわけではないので問題はないはずだが、念のため実店舗のみの販売としている。これは隠れたヒット商品で、かれこれ2年間で30冊以上お買い上げいただいている。というわけで、お互いロマンチスト?寒川さんも何かを感じてくださったようで、この絵本をお買い上げいただきたのだが、この絵本を感じてくれた人のひとり、灯台写真家の三野さんからお知らせが届いた。

すでに始まっているようだが、7月4日から21日までの金、土、日、祝日、三浦は初声の三浦ビーチハウスのオープニングイベントとして写真展を開催されるとのこと。三浦ビーチハウスは、日本で船のアンティークコレクターでは5本の指に数えられる、銀座ネルソンズバーのオーナー、斉藤豊紀氏の隠れ家で、ここを拠点に新たな事業、啓蒙活動をされるといったことのようだ。斎藤さんは、オーシャンノートにもお見えになられて本年1月24日の店長日記にもその時のことは書いた。しかし・・・三野さん、斎藤さん、寒川さん・・・そして誰も皆、世界にひとつだけの花・・・である。(2008,7,12)

06/16 長崎空港のソファー

昨日は、遠く長崎からお客様が見えた。Tさんは、やはり船に大変興味をお持ちの方で、このウェブをご覧になって何度かお電話もいただきTさんのご要望に応えさせていただいていたのだが、どんなに時代が移っても人間の縁というものは最後にはお目にかかるところに行き着くものだ。昨日は、埼玉に用事ができたとのことで羽田から埼玉に向かわれる前にお立ち寄り下さった。お電話でお話している時も大変好誼に厚い方とお見受けしていたし、わざわざ遠くからお起しになるのに、僕も手ぶらで帰しては申し訳ないと考えていたので、以前にも書いた客船のFootage(ビデオクリップ)コレクション、通しで再生すると5時間を越えるデータ、その他をお持ち帰りいただいた。喜んでいただいて何よりだったが、「長崎はお見えになったことはありますか?」と尋ねられて、随分昔の長崎空港での仕事を思い出した。

もう20年近くも前になる。家具の販売というのはカタログ商売みたいなところがあって、カタログを設計事務所やらデザイン事務所に丁寧にばらまくのが(丁寧にばらまくってのは変な言い方だが)大事なタネ蒔きとなる。それはそれで結構な手間ひまだが、その配ったカタログの裏に貼った名刺を見て電話がかかってきた。それこそ5年も6年も前にばら撒いたカタログからの電話だ。渋谷の商業施設を得意とするデザイン事務所だったのだが、長崎空港のインテリアリニューアルをやっているという。その事務所は現在の千歳空港のデザインも手がけたところで、電通をアタマに千歳でやった仕事の評価が高く、長崎からも声が掛かったのだそうだ。最初はとりとめの無い話だったのだが、ある日打ち合わせに行くとスケッチを見せられて「このベンチを作って欲しいのだが・・・」と来た。このデザインの担当者は実は相当な飛行機マニアで、空港のベンチだからといって、飛行機をイメージしたデザインだという。簡単に言葉で説明すれば、スチールで組んだベースをステンレス版で化粧してそこからステンレスの無垢、飛行機の翼の内部構造をイメージした意匠のカンチレバーを立ち上げて、アルミの無垢の背板を取り付ける。座面は飛行機の翼そのものをモチーフとしたもので、特別に染めた青い皮を貼る。実際の工事請け元は乃村工藝社、今だから言えるが、なんと一脚100万円である。製作は世界的な椅子のコレクターと知られる福岡の永井啓二さんにお願いしてとりまとめていただいた。さて、意匠や詳細の仕様は紆余曲折を経て纏まったのだが大問題が・・・今では輸入家具業界の雄として知られるインター・オフィスだが、当時はまだ発展途上もいいところ、職人さんにしてみればステンレスやらアルミ(背の無垢板は厚さ10ミリ、1800x600のアルマイト仕上げだ!)やら材料だけでとんでもない出費だ。これは肩代わりしなきゃならない。早い話、先にお金を渡さなきゃ作ることができないのだが会社にそんなお金は無い。乃村工藝社からは一ヶ月後、現金振込での支払いを呑んでもらったものの・・・ある晩、社長からお声がかかり長崎案件の受注祝いをしようと言う。寿司屋でごちそうになりながら、その先払いしなきゃならないお金のことを言い出せずに寿司も喉を通りが悪い。すっかりご機嫌の社長ではあったのだが、とうとう同席の上司が意を決して切り出す。社長の箸が止まった。カンカンガクガク・・・最後に「考えさせてくれ・・・」。結局は、今でもありがたく思っているが、先払いのお金を工面してくれて受注に漕ぎ着けた。実際の納入は最終便が飛んでから始発便の到着までの夜間に徹夜でやった。結局、長崎ではもっぱら空港で過ごした時間が多く(打ち合わせだって何だって空港の中、飛行機でついて空港で仕事をしてそのまま帰ってくるのだから)、空港しか知らないのだが、ひとつだけ、長崎空港の牡丹という中華屋さんのチャンポンは絶品である。かつて全国の空港グルメか何かでもトップ10に入っていた。Tさんがお越しになったことで昔話を思い出したが、僕にとっては複雑な思い出の長崎なのである。(2008,6,16)

06/10 映画”WIND” その2

土曜日は千葉の流山から、日曜日は飯田橋から、昨日は横浜瀬谷からと遠方からのお客様続きでありがたいやら申し訳ないやら。そんな中、逗子在住の灯台写真家の三野さんが久しぶりに顔を出してくれた。実はこのウェブサイトでページビューが一番多いのは店長日記で、どなたがお読みになっているのか日に50名さんほどの方がご覧になっている。コンスタントにビューがあるのでいつも見ている方がおられるのだろう。大したことを書いているわけでもないが、しかしながらこれはめったなことは書けないなぁ・・・と思う。三野さんも、いつも日記を読んで下さっているそうで「久しぶり!どうしたの?」と尋ねると「日記に書いてあった”WIND”を見に来た」とおっしゃる。しかし・・・さすが世にも稀な灯台写真家であられる三野さんだけあって、それじゃあ済まない、何とありがたいことに”WIND”のロードショーの時に販売されたプログラムを持って来てくれた。僕は高校時代、旺文社の模試で英語の偏差値があまりに低く「これって点数の間違い?」というほど(恥ずかしながら偏差値”7”、そんな偏差値見たことない)苦手だった英語だが、最近はすっかり仕入先とのメールでの英語のやりとりは苦にならない。それでも聴くのと喋るのはやっぱり大変だ。”WIND”のDVDは米国盤の字幕なしなので、どっか細かいところが分かっていない。ヨットレースの場面は良いが、主人公たちの人間模様的な場面の英語はやっぱり半分くらいしかわからない。しかし、三野さんのプログラムのお陰であらすじを読んでからDVDを見ると、あら不思議、大体わかるものである。三野さん、この場を借りてありがとうございました。

さて、プログラムにはまた、この映画の製作のきっかけが、デニス・コナーの1983年アメリカスカップ敗戦と1987年のカップ奪還だったと明記されている。例によってYou Tubeから、132年守ってきたアメリカスカップをアメリカが失う歴史的瞬間の映像を見つけたので埋め込ませていただいた。残念ながら87年の奪還の方は見つけることができない。”WIND”では86年と87年にアメリカスカップのキャンペーン(要は予選)で使用された12メータークラスヨットを使用したそうだが、実際のレース映像はヘリや遠くの観戦艇から撮られたもので、改めて本物の12メータークラスヨットを使用して撮影された映画”WIND”の素晴らしい出来に感心するばかりだ。これはやっぱり大変なことで、レース艇にカメラやスタッフを乗せてとなれば・・・現に撮影スタッフの中に足を切断する事故に見舞われた方もいたそうだ。

ところで、アメリカスカップそのものは映画ほどにはピュアーなものでは無くなってきており、それは皮肉にも映画製作のきっかけとなった80年代のデニス・コナーの活躍と歩みを同じく変質してゆくことになる。映画でもスポンサー獲得に苦労する様子が描かれるが、実際、セールにデカデカとスポンサーのロゴを入れたのもデニス・コナーだったし、カップの最後の見せ場、キール公開であっと驚くスポンサーロゴ入りのキールを考えたのもデニス・コナー、この人、超一流のスポーツマンでありながら、政治的な事柄に長けた人でもあり、そのあたりのドロドロは読んでいてもウンザリするような物語があるのだが、やがて88年、最悪のミスマッチ、90フィート艇vsカタマラン艇(双胴艇)を経てアメリカスカップクラス艇の創設に繋がってゆく。”WIND”を見て僕が「いいなあ・・・」と感じたことのひとつは12メータークラスヨットを使ったところだと思っている。確かに本来の「最高の帆走性能を競う」といった意味では、90年頃の事情として12メータークラスが速いヨットでなくなっていたという現実はあっただろうが、アメリカスカップクラス艇はそれこそ、大会の期間だけフネの形を保っていることが出来るという代物で、アメリカスカップにしか使えないフネなのだ。その点、12メータークラスヨットは、安全性と合理性を備えた外洋レーサーであり、実際、戦前建造のフネも含め今日でも多くのフネが現役だ。このあたり考え方も好みも様々なので一概に良し悪しを決めるにも問題があるが・・・

いずれにせよ、先日東京が2016年のオリンピックの候補地になったとのことだが、いつもの主張の繰り返しになるものの、オリンピックはまだやっていないところでやるのが筋だと思っているし、ワールドカップも日韓共催ながらやることが出来た。次は・・・オリンピックなんかよりもアメリカスカップだと、僕は思っている。ただし、アメリカスカップは勝たなければ開催地にはなれない。(2008,6,10)

06/07 映画 ”WIND” 米国盤DVDを観る

アメリカズカップの映画WIND:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

ハードとしてのDVDというメディアが物理的に永遠のメディアか、はたまた一般的なDVD-Video(要はDVDに焼かれた映画や映像)に収められている映像データに普遍性があるか否かということになると否定的にならざるを得ない。かつてソニーに在籍、幻のソニー製ブラウザの開発に従事しながら、会社の方針でそれが適わず退職したという一本気なSさんと一緒に仕事をしていた7〜8年前の話になるが、「小野寺さん、データデータといっても、今大事に保存しているデータなんて10年経てば使いものになりませんよ」といわれたのが今でも印象的だ。本当にその通り。今時のデジカメの写真データは1M2Mなんて当たり前、当時のPCなら即フリーズでしたヨ。とういことはブルーレイが当たり前になってくれば現状の4.9Gなんて屁みたいなものかも?!

前振りがやや刹那的になったが、以前から気になって仕方がなかった”WIND”という映画のDVDを買った。1992年公開、プロデューサーはあのフランシス・コッポラ、主演はメンフィス・ベル(これまた大好きな映画、僕の数少ない映画館で観た映画だ)のマシュー・モディンなのだが、邦題は何故か複数形の”ウィンズ”、日本ではそれほどウケなかったようでDVDが発売されていない。アメリカスカップを題材にした映画なのだが、とにかく素晴らしいの一言に尽きる。アメリカスカップの映像といったところで、オンボードの映像なんて殆どありえないので、まさに制作費60億円をかけて12メータークラスのヨット(これがまた、現代のF1みたいなアメリカスカップクラスのヨットと違っていいんだなあ)を目一杯走らせて、それだけで感動。gooの映画評にもあるが、ヨットに乗っていようがいまいが感動します、これは。

さて、そんなDVDを今日まで購入できなかったのには訳がある。そう、リージョン”1”の米国盤しかないので、リージョンコードが”2”の日本では普通に見ることができないからなのだ。しかしこのところ、店でDVDを販売するようになって、否応無しにDVDについて勉強して、少し裏技ながら、意外に簡単に再生する方法があったので観ることが出来るので買ったのである。ただし、今回クリアーしたのはリージョンコードの問題のみで、合理的な方法で欧州盤の映像方式をPal-NTSC変換する課題は解決していない。いろいろあるんだろうが、乱立する規格というのは厄介だ・・・(2008,6,7)

(後年加筆:リージョン1のDVDはPCで一旦リッピングすれば見ることが出来ます。方法は書店でDVDコピーなどと銘打っている本に載っています。2008年当時は、DVDメディアの脆弱性を勘案しバックアップとしてPCにDVD-Videoデータを保存することは合法と解釈されていましたが、2012年の法改正でリッピング行為は違法になりました。従って、当日記記事の記載も一部削除変更いたしました)

06/02 ミスティックシーポートミュージアム

ミスティックシーポートミュージアム・帆船ブルーノーズの写真:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

この2ヶ月近く懸案になっていたミスティックシーポートミュージアムへ注文した写真が届き、無事に額装してお客様に発送させていただいた。なかなか大変で、苦労の伴ったが、やりがいのある仕事だった。

事は3月の中ごろ、横須賀の某資源調査会社にお勤めのKさんが来店したことに始まった。Kさんは某大手水産会社に永年お勤めされ、3月当時はこの横須賀の関連会社に転籍されており、この春で退職されるのだという。それこそ世界中の漁場を駆け巡った経験をお持ちで、方々の外国の現地法人の責任者の経験もお持ちで、カナダでイカの加工を現地の漁業関係者に指導に行った時に見た帆船ブルーノーズが忘れられないのだとおっしゃる。勿論、Kさんがご覧になったブルーノーズは現在の2代目だと思うのだが、初代のブルーノーズのポスターを探して欲しいと頼まれた。ブルーノーズはカナダのコインや切手にも描かれる伝説のスクーナーで1921年進水、1シーズンのみタラ漁に使われ、以降17年間に渡りアメリカを向こうに回して帆船レースで無敗を誇った船だ。残念ながら売却され1946年に座礁沈没している。2本マストのスクーナーはアメリカの独壇場で、1851年に英国から後のアメリカスカップを奪ってきたのもスクーナー”アメリカ”、複雑に入り組んだアメリカ北東部の沿岸で切り上がり良く高速を出せるように発達した独特のもので、当時、このパイロットスクーナーと呼ばれた船の名声は英国まで聞こえ、それがワイト島のヨットレースに招かれたというわけだ。カナダも負けてはいない。アメリカのスクーナーを負かす船が欲しくてその高速を買われてレースに出たのがブルーノーズだ。もと漁船であることはデッキが平らなことで分かる。レース艇はバウやスターンに行くに従いデッキがせり上がっている。

さて、頼まれたは良いが、探しても探しても見つからない。そこで、ブルーノーズの写真を持っている、コネチカット州にある全米最大の海事博物館、ミスティックシーポートミュージアムを当ってみる。ここに写真家モーリス・ローゼンフェルドが撮ったブルーノーズの写真がある事自体はローゼンフェルドの写真集を販売しているから知っている。ポスターでは製作・販売されていないことも分かっている。そうなると・・・アーカイブネガからの写真しかない。Kさんに希望のサイズを聞くと大きいものが欲しいとのこと。可能なのは20x16インチの印画紙に焼いてもらうこととなる。数万円もするのだが・・・Kさんは注文して欲しいとおっしゃる。いよいよ、ここからが大変だった。公開されているアーカイブから首尾よくブルーノーズの写真を選び、メールでは注文を受け付けてくれないのでFaxでオーダー。さて、一安心と思ったら・・・何と注文した写真を焼き付けてみたら出来が悪く(ネガの傷みだろう。何せ1930年代のネガだ)、責任者から待ったがかかったという。「他のものにはならないか?」と聞いてくる。ありえない!「ブルーノーズしか要らない」といったら、数回のやり取りのあと、「アーカイブからブルーノーズを探す」と言ってくれた。探すと言っても・・・これは本当にご苦労なのだが、ミスティックに保存されているローゼンフェルドコレクションのネガは100万枚を越える。2週間後、2枚の候補を連絡してきた。Kさんとかんかんがくがくやって、そのうちの一枚、非公開のネガ#90392Fを選んだ。やれやれ・・・と思ったら、今度は「縦位置にするか横位置にするか?」と聞いてくる。Kさんに希望を聞くとそのどちらでもなく、ネガを20x16インチに全景焼いて欲しいという。horaizonだのberticalだのとやりとりにメールが数回。あちらも博物館で、半ばアーティストだから主張が強い。果ては、「出来ない」とか言われながらも食い下がって、こちらの希望通りに焼いてもらった。この間、最初から最後まで50回近くのメールのやりとり。すっかりKimとも仲良しになってしまった。(あちらはそう思っていないかもしれない・・・苦笑)

今度は額装だ。何せ、1936年撮影のネガからのオリジナルプリント、それこそ博物館級の写真である。普段はオフセットのポスターが中心だからオーバーマット(ポスターの表側に窓抜きのマット被せる)のみとしているが、今回は正調ブックマット。無酸性紙のオーバーマットとバックマットで額装する。バックマットに無酸性紙のコーナーで写真を止める。コーナーは無酸性紙のテープで補強止めする。写真にはテープは触れない。オーバーマットは作法に倣いバックマットにヒンジ止め、すなわちブックマットとする。ホコリが入らないように注意深くガラスを被せる。ガラスとオーバーマット、バックマットをそろえ、空気が出入りしないように四方向のエッジを無酸性紙テープでふさぐ。額装したら最後は額縁の裏側のバックボードと額縁を四方向、水貼りテープで塞ぎ止める。これで、飾る場所さえ気を付けてもらえば20年位は保つだろう。写真は本当は飾るのが無理な物質で、本来は飾らずに保管するのが良い。それを飾るには上記のような作業が必要だ。欲張ればUVカットアクリルを使うところだが、これはKさんと相談の上止めた。アクリルの傷や静電気によるホコリの吸い付きは、それはそれで厄介だからだ。

残念ながら、アメリカはシカゴ止まりで、僕はまだニューヨークさえ行った事がない。港町としてのニューヨークに店を構えるのも夢だし、ミスティックやニュージャージーのマリナーズミュージアムも訪れてみたいものと願って止まない。こうして苦労してミステイックと取引をすると情熱はメラメラと燃えてくるのだが・・・このところ東京に行くことさえ少なく、すっかり横須賀の人になってしまい・・・すっかり出不精になってきてしまった。用心用心(2008,6,2)

05/29 海軍記念日 東郷元帥の旗

海軍記念日・東郷元帥の旗:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

横須賀という場所柄か、個人的にいわゆるミリタリーマニアでも何でもないし、至って中立、標準的な一市民である僕なのだが、オーシャンノートに旧海軍や現役退官問わず海上自衛隊関係の方が出入りしていることも事実、先日はOBの方が、何でも印刷会社にお嬢さんがお勤めなのだとかで、三笠で開催されている東郷元帥展のポスターを持参下さり店先に貼らせていただいている。いつかの大和展ではないが、ポスターを貼るだけ貼って知らぬ存ぜぬでは看板に偽りあり!みたいになってしまうと思い、店を一時間程閉めて、三笠まで出かけてきた。5月27日は海軍記念日、毎年、三笠では式典をやっているそうだが、今年は103年前の日本海海戦の時に三笠に翻っていた東郷元帥の大将旗が披露されるとのことで、展覧会よりはこの旗が掲揚されるとのことで式典を見に行った。

この大将旗、1905年、つまり103年前の日本海海戦を見た本物で、日本海海戦から6年後の1911年、東郷元帥が英国国王ジョージ5世の戴冠式のために渡英した際、若かりし日に留学した船員学校に寄贈していたものだそうで、2006年英国より東郷神社に返還されたものである。さて、そもそも海軍記念日(正確には1945年廃止)とは、1905年日本海海戦(国際的にはBattle of Tsusima=対馬沖海戦)の日を記念して制定されたもので、今日でも方々で式典やイベントが開催されているそうだが、今年はこの大将旗掲揚が目玉で、例年よりひときわ大きな式典だったようである。13時45分から式典開始、あいさつの後、早速東郷大将の大将旗が三笠舷側に披露された。実は本物がメインマストに掲揚される予定だったのだが、さすがに103年前の旗は傷みもあるそうで、13時50分、レプリカの大将旗がすでに満船旗(国際信号機を万国旗にように掲げた装飾、一見ただ並べたように見えるが、これもちゃんと旗の順番が決まっている)でドレスアップした三笠の後部メインマストに掲揚された。式典開始時刻が中途半端だと思っていたのだが、これもちゃんと理由がある。大将旗掲揚の13時50分は日本海海戦で三笠にZ旗が掲げられた時刻なのだそうだ。一説には13時55分とも言われるが、Z旗とは事前に連合艦隊に通達されていた「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」つまり海戦開始の号令だ。式典は蒲谷横須賀市長、米軍横須賀基地司令官ケリー少将のあいさつと続く立派なものであった。戦争を肯定するものではないが、やはり今日、諸問題や矛盾、不満を抱えながらも平和な日本があるのも、先人の努力と尊い犠牲あってのことと改めて感じる次第だ。

さて、ここで蛇足ながら個人的なお詫びを・・・かつて会社勤務のころ、同僚や後輩に”海の日”(以前は7月20日、今は7月第三月曜)が来ると、「海の日って何の日だか知ってる?知らなきゃ休んじゃダメだよ・・・」とか何とか言って、「海軍記念日だよ。このことを5人に伝えなさい。そしてその人にも5人に伝えなさいと言いなさい」とか何とか言ってしまった。猛省しています。海の日は明治天皇が明治丸に乗艦され巡航から横浜に帰着された日です。この場を借りてお詫び申し上げます・・・(2008,5,29)

05/26 保存船舶研究会 保存船舶 Vol.1上梓

昨日の新聞では、日本のインターネットの総閲覧ページ数が頭打ちになり、その反面閲覧時間は長くなったのだとか・・・インターネット社会への賛否はともかく、いろいろな出会いを提供してくれることは確かだ。先日、一冊の本が届いた。”保存船舶 Vol.1”なる本である。今年の初めだったか、西東京某市からわざわざお見えになったのがNさん(Punip画伯)。とにかく、船にはお詳しい方で以前にもそのことは書いたが、保存船舶研究会というサークルに参加されていて、4月25日の氷川丸再公開に向けて研究の成果を本として出版されたいとおっしゃておられた。その本の上梓が無事に成就され一冊送っていただいたのだ。

総ページ数は60ページ、表裏の表紙、本文のところどころにもNさんの船の絵が載せられている。取り上げられている船は氷川丸、日本丸、海王丸、明治丸、宗谷、三笠などなど、15隻、さすがに内容には誤った記述も見当たらず、メンバーの方々におかれては、かなり正確を期して取材、執筆されたことが伺える。”良く知っている”などというのは簡単だが、万人向けに”きちんとした”文章を書くのはやってみればわかるが、大変なことで、そこには曖昧さや推測、思い入れが入る余地はないのだから大変だ。詩や小説を書くのとは違うのだ。巻末の保存船舶一覧・・・どうやって調べたものか、58隻の保存船舶のデータが載っている。それぞれの方の興味や思い入れは様々であったと思うが、それを良くまとまった形にされたものと感服するばかりだ。ご興味の方は保存船舶研究会のホームページをご覧頂きたい(現在はクローズ)。

船の保存といえば・・・海上自衛隊横須賀地方総監部所属、8月に退役するの”しらせ”の行き先が決まっていない。先日はタウンニュース誌の依頼で「しらせの記事を書くのだが、しらせの関係者を紹介してもらえないだろうか?」との依頼があり、伝手を頼って”しらせ”の艦長を勤められた石角義成さんをタウンニュースにご紹介したのだが、タウンニュース誌の記事によれば数億円の費用がネックになって引き受け先が決まっていないとの事だ・・・・ (2008,5,26)

05/08 ゴールデンウィークにはご用心

「ゴールデンウィークにご用心」なんていうポスターでも作って販売したいくらいである。

とにかく、ゴールデンウィークというか、この時期は僕にとっては、大変ご用心の時期だ。3日頃から、原因不明の激しい左足筋肉痛に見舞われていたのだが、「いい加減、いい歳だしなあ・・・」とか「自転車通勤だけでは運動不足かな・・・」なんて少々自分を納得させてはみたもののゴールデンウィーク明けの7日、この日は定休日なので午後は子供たちと海にでも・・・と思って次女を迎えに行った幼稚園の庭でどうにも立っているのがやっとになって、ヨタヨタと帰宅したもののそのままダウン。ちょうど幼稚園の園長先生と「お互い歳ですから・・・」なんてやっていたら、喉元過ぎれば何とやらで、すっかり忘れていた悪夢の”小野寺再起不能事件”の再現だとの考えに至った。

時は21年前、プラスに勤務していた頃だ。その頃、僕は輸入家具販売の特命チームに抜擢?されてかなり張り切っていたが、連休前に風邪を引き、すぐに直って連休中は普通に遊びに行ったりしていたのの連休明け、突然両足アキレス腱の激痛に見舞われる。今も昔も医者とは疎遠な人なのだが、歩くことさえままならなくなり耐えられない程なので、先輩に半ば命令されて今は無き音羽のプラス本社裏手の医者に駆け込んだ。医師は血液検査をするなり「小野寺君、これは長くなるよ・・・」と。医師の見立ては膠原病だという。でもどうにも分からないことが多すぎるので、都立駒込病院の感染症外来に行って来いという。会社に戻って担当役員に事情を話すと「そうか・・・まだ若いんだから、しっかり直して出直せばいい・・・」と言う。(ちなみに休職して直せとは言わなんだ。あくまで会社を辞めて治療せよとのニュアンスだ。ああ世間は冷たいものである)とにかく話はかなり悲壮感を帯びてきて、その日は普段40分程でたどりつく当時の住まいであった石神井公園のアパートへ2時間掛かりで帰って、翌日僕は駒込病院に行った。さて、後で知るのだが、この駒込病院の感染症外来、当時はめったなことでは診てもらうことのできないところで、そこに行くと医師が電話で「ああ・・・あのジフテリアの患者さんねぇ・・・」とか、かと思えば怪しい男性がやってきて「先日検査を受けた者ですが・・・」とやっている。そう駒込病院は国内で最も早くエイズ検査を実施した病院のひとつで、原因不明の筋肉痛をエイズの免疫不全と思って社医のようだった会社の裏の医師は僕を駒込病院に行かせたのである。

まあ、結果としては、ウィルスの種類は特定できない(特定するまでもないということらしい)が、ウィルスが扁桃腺あたりを越えて筋肉に炎症を起こしているのだという。「まあ、簡単に言えば風邪だな」ということで一件落着。3日後くらいには復帰するのだが、ゴールデンウィークと言えば、これまた10年ほど前には、コップ3杯ほどの吐血をして、ゴールデンウィーク初日に救急車を呼んで病院に担ぎ込まれたり(これも半年かかって検査したが原因不明、結局鼻血と思われる)と、本当にこの季節はご用心である。ちなみにこの時は、コップ3杯も血を吐いたのだから、絶対入院だろうと思ってパジャマで行ったら、入院させてもらえずにパジャマで電車に乗って帰宅するという笑い話がある。まあ、幸い今回は21年前の経験で、感染症と分かったから対策も万全、昨日の午後ずっと寝て熱も下がったし筋肉痛ももう少しのところまで回復した。しかし、少しばかりの倦怠感は否めず、取引先への英文も冴えがない。ベリープアーである。今日は早く寝よう。とにかく、急に暑くなることと関係するのか・・・この季節はご用心である。ちなみに、対症療法が中心の感染症の治療において、筋肉痛に発展した症状の場合、特効薬はないそうだ。(2008,5,8)

05/04 オーシャンノート 社長の椅子

社長の椅子:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

やれやれ・・・店卸し(棚卸し)も完了である。創業2年もとりあえず無事に終わり、健気にも会社は何とか潰れずにいる。(笑)期末の買掛残高も大した数字でもないが、こんな支払いが回ってきた。そう、これがオーシャンノートの”社長の椅子”である。何と一金475円也!47500円でもなければ4750円でもない。475円である。

因果なもので、思えば文具メーカーだと思って入社したプラスで配属されたのが内装工事の部署。その部署がイタリアのオリベッティの家具を販売することになって輸入家具業界に足を踏み入れたのが23歳の時だ。以後41歳まで都合3社の会社で、細かくはいろんな商材があったものの、大雑把にいえば高級輸入チェアーを売っていたのだ。オリベッティの椅子の販売を開始した年は、プラスがオリベッティ、アルフレックスがコンフォルト、秀光がウィルクハーン、ハラージャパン(現インターオフィス)がヴィトラをそれぞれ販売し始めた年だった。それまでアメリカのハーマンミラーとノルの牙城だった日本の輸入オフィスチェアー市場に欧州勢が本格的に乗り出した年ということだ。それぞれの事業の成否とか評価をさせていただくのは避けるが、思えば、わざわざ自分でそうしたつもりでもないが、奇しくもプラス-インターオフィス-ウィルクハーンジャパンと転々とした僕は、このうち3つの事業(ブランド)に携わったということになる。そりゃあ・・・まあ・・・最初は大変なもんだった。

しかし・・・最低でも、一脚50000円を下らない椅子を売っていたわけで、最高は60万円もするのだから、そりゃあ感覚が麻痺する。今は家具業界となれば、僕もすっかり”過去の人”。その麻痺した感覚も一般ピープルで、椅子に5万も10万も遣う感覚は無い。高額な椅子を売るために、真面目に勉強して、恐れ多いことに武蔵野美大やらインテリアプランナーの諸先生などを前に、人間工学やらオフィス論もどきの講釈をしたことも今は昔。今の僕の暮らしに人間工学の”に”の字も無い。(勿論、頭の中にはしっかり入っています。いわゆる回転椅子という物体がいかなる機能を意図して設計されているか?ご希望の方がおられればお話することはできます。元プロですから)

で、2年近くフィリッツハンセンのアントチェアで仕事をしていたが、さすがに4本足の食堂椅子では具合が良くなく、そのあたりのゴミ回収に椅子の出物はないものかと物色していた。(笑うなかれ、その昔、品川青物横丁でイームズチェアーが捨ててあってビックリしたこともあるのだ)その日は、長女の入学祝いの机を買いに某SCに出かけたのだが、そこで一目ぼれ?したのが、この椅子だ。値札に釘付け¥500也。正価は5000円くらいだが、座面の裏のプラスチックが少しだけ欠けていて安いのだ。即決即決。おまけにこの日は5%引きの日で475円!いそいそとこの椅子をレジまで転がして買ってしまった。さすがに椅子に名前までは付けていないが・・・ 社長の椅子・・・いかに高級な椅子を売りまくった経験があろうとも、現実はこんなものである。(2008,5,4)

04/22 棚卸し お宝あるなぁ・・・

キュナード船内販売のピンバッジ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

一応、オーシャンノートは会社なので決算なんていうものもあるし、そのために棚卸しをしなくちゃならない。こんな機会に、店の商品をカウントしながら、一人で「お宝だなあ・・・」なんて悦に入ったりしてしまう。そう、残念ながら遠方でお目にかかることが出来ないお客様にとっては”海のポスター屋”なのだが、実店舗は海のギフトショップだ。店の在庫である・・・自分のモノではないのだから自慢するのも気が引けるが、棚卸しをしていて思わず自慢したくなったものを2点ばかり・・・

左は、90年代にプリンスエドワード島で交付された本物のナンバープレートだ。ナンバープレートといものも世界的にはコレクターズアイテムで、開業前にディスプレイ用にでもと思ってアメリカの中古ナンバープレートを集めたが、これまた奥深い世界で、発行枚数の少ないものは100ドルを越える。良く見かけるハワイ州の虹のプレートは人気があるけど安くて15ドル前後、僕の持っている中ではニュージャージ州、ヴァージニア州の灯台の絵柄のものは60ドルを越える。で、写真のPEIのプレートは、実はPEI州発行のオーバーランの新品、普通はこの類のモノは新品のままで市場に出ることはないのだが、どういうわけか、これは10枚ばかり買うことが出来た。90年代の3年間ほど、PEI州で新車登録をするとオプションで選ぶことが出来たプレートで、もちろんPEIに行けば、今でもこのプレートを付けた車が走っている。日本のナンバープレートは相変わらず楽しくもなんとも無いが、ご当地の英雄?ともいえる赤毛のアンのナンバープレートとは、何とも洒落たものだと感心する。今年は赤毛のアン出版100周年とのことでPEIはまたまた話題が事欠かないようだが、珍品といえばこんな珍品もないものだ。

右は、最近輸入している、キュナードグッズのピンバッジ。特別なイベント事が無い限り、クイーンエリザベス2やクイーンメリー2の船内の売店でしか売っていないものだ。実はキュナードのポスター製作会社とコンタクトを取ることができたのだが、その会社ではキュナードのこうしたノベルティーやグッズも作っていて、これを分けてもらっている。ひょっとするとサウサンプトン港のキュナードのターミナルあたりでも売っているかも知れないが、日本でこんなものを売っているのもオーシャンノートだけだろうと思っている。当店の常連さんは勘の良い方が多くて、このキュナードグッズは先日英国から届いて店に並べていたら、次々と、まさに新着商品に引き寄せられた如く、常連さんが来店して、折角輸入したもののうち1/3ほどはプライスタッグも付けないうちに買われてしまった。変な感情だが、お気に入りの商品が売れてしまうと・・・寂しい。まして眺める間も無く・・・なのである。

在庫を眺めて・・・悦に入ってるばかりじゃあ・・・商人になりきっていない?自戒自戒(2008,4,22)

04/14 ヒストリーチャンネル タイタニックの巻

相変わらず英語で四苦八苦の日々だ。某アメリカ東部の博物館から写真を購入するのに、希望の写真のネガの痛みが激しく、代わりのネガを未公開の膨大なアーカイブ(4万枚もあるのだから大変だ)から発掘するよう頼んだり、またまたインドネシアのお客様から商品の引き合いを頂いたりで、乏しい英語力で悪戦苦闘している。まあ、それでも、一方では、フランスからDVDを輸入したりもできるのだから(フランス語は当然もっと大変だ)、気は心といったところで、同じ人間だから何とかなる。少なくとも苦手な犬(僕は全くの”オバケのQちゃん”なのだ)と話そうとするよりは大丈夫な気がする。(外国語ネタでいえば、知人の牧師さんのお手伝いで画像を作っているのだが、聖書の画像をいじっていて、さすがにこれは、ギリシャ語なのかヘブライ語なのかも、僕には判読できない)

さて、今日は、タイタニックが沈んで96年目だ。あと4年で100周年、またぞろいずこで、タイタニックの映画の企画も温まっているのではなかろうか?ハリウッドにご期待である。という日に、粋な番組がある。ヒストリーチャンネルでは、今晩、4時間に渡ってタイタニックのドキュメンタリーを放映する。当店でも扱っている2006年放映のディスカバリーチャンネル、ジェームズ・キャメロン監督の潜水調査のドキュメンタリー(販売終了しました)は何度観ても金字塔だと思っているが(当店では英国盤を販売、米国盤はリージョン違いで日本では観る事が難しい)、それ以来の大型企画、さらに4時間!ディスカバリーチャンネルを向こうに回してどのくらいのものが観られるか、朝からハイテンションである。予告では船底の構造に大発見があったとか・・・キャメロン監督の"Oh my god! This is the room!"を越える感動が見られるか楽しみだ。ちなみに再放送は19日と26日、ともに21時から。前編後編で2時間ずつの放映だ。万が一、番組の内容が面白くなくても僕の所為ではないことをあらかじめお断りしておく。

ヒストリーチャンネルでもディスカバリーチャンネルでも、大変ありがたいのは、日本語の吹き替え、もしくは字幕のあることだ。映画の”タイタニック”だって、結局、日本語で観た方が楽しめる。僕の脳のCPUは英語だと英語の処理だけでメモリがパンクしてCPUの処理も一杯になって、感動するところまで処理能力を回すことができない。それでも、映画の”タイタニック”の食事のシーンで羊肉に”ミートソースを”とリクエストするシーンがあって、それは無いだろう・・・と思って英語に切り替えて聞くと”meet souse"と言っている。そんことをやっている程度の英語力なのだが、まあ、羊にミートソース・・・っていうのはアメリカ人ということの裏付けでわざとなのか否か、そんなことが妙に引っかかりながら、今日は4時間のタイタニックを見るのに、女房に夕食をリクエストしてきた。映画に出てくるキャビアと羊だ。もちろん、今の我が家にそんな余裕はないので、冗談である(笑)。多分・・・キャビアの変わりに、貰い物の”雲丹入りの海苔佃煮”、羊の代わりに、これまた貰い物の”松屋の牛丼レトルトパック”が出てくるだろう・・・(2008,4,14)

03/17 西ヨーロッパのDVD

輸入版・タイタニックのDVD:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

オーシャンノートの目指すところは、この日記でも何度も触れている。大きな時間の流れの中で、そこに整合性が保てているかどうか?少々怪しいところもあるかもしれない。と、いうのは、こんな事に目覚めたりするからだ。そう、DVDなるものだ。仕事柄、毎日、動かないポスターを眺めて過ごすわけだが、少しは”動くものを観たい”・・・これも人情である。(笑)Youtubeにはまって、客船の映像を集めた(外国では"Footage"という)・・・これも以前に書いたとおり。すると、もともとが凝り性だから・・・そうDVDのコレクションに走るわけである。何も”ポスター販売”の看板を下ろすわけではない。あくまで、その興味の元はポスターの画題たる船から来ているものだ。お客様や知人からいろいろな情報を頂いて、映画”海の上のピアニスト”にはまったり・・・某博物館の学芸員の方からクイーンメリーのヨーロッパ版DVDをお借りしたり・・・先日発売なった”タイタニック”のアルティメイトコレクションを買ってみたり・・・そうこうしているうちにDVDを販売したくなってしまった。もちろん、例によって、誰でも買えるものは意味がない。それは某大手通販のAででも買えば良いのだ。

僕は映画も音痴ならビデオだとかDVDとかには疎くて、当家はVHSのデッキが壊れたままでも、5年間生活に全く支障がなかった。という訳なので、DVDといっても知識が少ない。フロリダのマリンショップからクラシックヨットのDVDを輸入した時、リージョンなる規格があって、”ややこしい”という印象のみを持っていたし、(当のDVDはリージョンオールのもので杞憂だった)仕事用のPCも映像とは無縁のHD容量になっている。ところが、興味を持つと観てみたい!アメリカで90年代にアメリカズカップをテーマにした"WIND"という映画が公開された。ところが、日本では映画は未公開、おまけに件のマリンショップで買おうと思ったら”リージョン1”で再生できないことが判った。結局、"WIND"はリージョン1のDVDしか存在せず、見れないという結論に至っているが、リージョンのことを考えていたら、ひらめいた。日本と同じ”リージョン2”の国といえば・・・西ヨーロッパなのだ。結論から言えば、ヨーロッパのDVDはリージョンこそ一致するものの映像方式が違うのでパソコンで観るのがお手軽となる。

これまた、本を集める時と同じ苦労を今やっているわけなのだが・・・一番、感動したのは、ディスカバリーチャンネル20周年で製作されたジェームズ・キャメロンのタイタニック潜水調査のDVDだ。これは2006年、日本でも放映されたが、日本ではDVD未発売、米国盤はリージョン1で観ることができない。ところが英国盤ではコレクターズボックスがあったのでる。ジェームズキャメロンが"This is room! Oh my god!"と叫ぶ。そう、映画”タイタニック”でローズの部屋だったスゥイートルームに潜入できたのだ。(このところ遅ればせながら当家は映画の”タイタニック”にはまっている。特に6歳になる娘は、これに釘付けなのだ)まさに「ローズの部屋だ。なんてこった!」である。フランスからは写真のクイーンメリー2のティンボックス入り、3枚組みDVDを買った。DVDの販売は簡単じゃあない。中には、内容がショボくて販売に至らないものもあるし、PCで再生可をチェックしなくちゃいけない。でも、これもまた、お客様の様々な興味を満たす一助になること請け合いと思っている。量的に大量のものを販売するほどゴロゴロと良いDVDがあるわけでもないが、質的には選りすぐりのコレクションと自負している。(2008,3,17)

03/07 TV・・・に出る・・・らしい

朝から、頼まれていたポスターの額装をやっていると、商店会長の今関氏とテレビカメラを持った一団がやってきた。今でも事情が飲み込めていないのだが、どうやら上町銀座商店街がテレビに出るようで、ピックアップする5つぐらいの店に選ばれたらしく、「今、撮影してるんです」と来た。こっちはお客様からお預かりしたポスター8枚を、材料も全部届いたので額装していたところ。頭の悪さを披露するのは恥ずかしいが、どれも5ミリくらいずつサイズが違うから、作業はパズルみたいで複雑、テンパッている頂点で慌てた、当然、メークする?ヒマは無い。

テレビというものに、とことん疎く、まだ、調べているので、良く判っていないのだが、残念ながら全国ネットではなく、JComテレビ(横須賀はJComの加入率が高いらしいが、JComの2チャンネルだと思う)だけでやっている、”湘南まるごと どっちすき”という番組らしい。スタッフの方に聞いた話だけだと、放映は4月1日から15日まで、毎晩10:00からとのこと。児島玲子さんの釣り番組をたまに見るのだが、ふと見ると、既に見た番組をまたやっている・・・そう同じようなシリーズで、15日間ずっと放映されるらしい。で、知らなくて申し訳なかったがタレントの宮本ムサシさんが番組の案内役でいらした。

僕は、まだ(これからも?)テレビに出たことはない。もう随分前になるが、ある日、知人から沢山メールが来た。銀座でインタビューされたのがニュース番組で流れたのだ。自分では、その番組を見ていないのに、沢山メールを貰って目を白黒させたものだが・・・今度も不意打ちを食らったので、あんまり上手に喋れなかった。まあ、それでも上町を歩いていてテレビ番組の方々のお目に留まったのは光栄だ。何せ、撮影された他のお店は皆、創業100年クラスのスゴいお店ばかりなのである。まあ、出るのは1分か2分くらいのものだろうが、オーシャンノートの初テレビ・・・少し楽しみである。(2008,3,7)

02/28 Punip画伯

Punip画伯の客船フランスを額装:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

先日、東京西部某市から見えたNさんのことは書いて、ブログの紹介もさせていただいた。はるばる、ご来店していただいこともあり、ポスターの商売そっちのけで、丁度その時にチェック方々見ていたYoutubeで公開されている客船の映像クリップのコレクションをご覧に入れた。(今では、80本、総再生時間5時間にも及ぶ)この映像をご覧になって、Nさんは大変絵心を刺激されたとのことで、客船フランス(1962年就航)を葉書に水彩で描かれ、ご丁寧にその葉書そのものをお礼状にいただいた。

Punip Cruiseのブログでも沢山の作品を公開されていらっしゃるが、素晴らしい絵なのである。船というのは、特に大きいものは描くのが難しくて、正確なら良いってものでもなく、船が船らしく大きいと判る様に描くのは至難の技だ。その点、Nさん(=世間ではPunip画伯と呼ばれているので)、Punip画伯の絵は、どちらかと言えば、大げさに遠近感を強調しない割りに、大きさが上手に表現されているようだ。僕は自分で絵を描かないので、的外れな批評になるといけないから、これ以上の批評は避けるが・・・大変に美しい絵なのである。

となれば、十八番の額装だ。ポスターのみならず、ポストカードの額装もお手の物だから、ご覧のとおり額装して店に飾らせていただいた。うーん、Punip画伯がもし有名になられて、画家として成功されたら・・・20年後の開運なんでも鑑定団への出演を夢見てしまうのである。(2008,2,28)

02/22 タウンニュースに掲載

タウンニュース掲載:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

全国規模であればマイナーかもしれないが、神奈川県のフリーペーパーでなかなか良い情報源になるのは”タウンニュース”誌だ。会社勤めの頃は、それなりに世界的なブランドの家具会社だったから、大きな出版社からの取材なども受けたものだったが、ゼロからの起業で同じ事を望むべくもない。ところが、タウンニュース誌は、僕が横須賀市から2種類の起業援助を受けたことから一昨年の夏に開店早々記事に取り上げてくれた。それ以来、何くれと無く気にかけてくれて、新任のTさんもまめにフラリと寄ってくれる。で、彼女が目に留めたのが、戦艦大和の模型だ。

何度も書いているが、ウェブでは海のポスターと洋書の販売に特化している。理由はいろいろあるが、ワンテーマのポスターという絞ったテーマの方がウェブに向いていること、ポスターはすべて額装したものという特徴を打ち出せることなど様々だ。しかし、ここは良いか悪いかはわからないが、実店舗はもっと様々なモノを置いているのである。何だか2つの店があるようで、しばしば頭も混乱するが・・・出来の良い船の模型やロープノットの額、コンパスの置物・・・こんなものに囲まれているのはなかなかハッピーである。もっともっと・・・そう、オーシャンノートを僕のコレクションルームにようにしてしまいたいものである。

気をつけなければいけないのは、その時々の僕の気まぐれで?言い直せば、興味の方向で店が少しづつ趣を変えているということだ。いつも同じじゃつまらない?でも・・・このところ相変わらず”デカ劇場”なる番組にはまっていて、土曜の夜は西部警察、太陽にほえろ!、Gメン75を連続で観る。観終わると・・・「おい、デカグッズの店もいいよなぁ・・・」と。女房はあきれている。それは冗談にしても、このところ、すっかり客船なのである。(2008,2,22)

02/14 プニップ・クルーズ

客船クイーンエリザベスのポスター:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

中には、ポスターを買い集めているときに、お客様の顔が浮かぶこともある。例えば、このポスターはタグボートに乗っておられた「Sさんにピッタリだなあ・・・」などと。クイーンエリザベスがニューヨーク、かの有名な88番ピアーにタグボートに引かれて接岸しようとしている。おまけに、後ろにはユナイテッドステーツが係留されているという、とってもおいしいポスターなのだ。案の定、Sさん、「これ、貰うよ・・・」と。商売人としては、トリプルプレイを完成させたような快感を得るわけだが、驚いたのはその一週間後、Sさんが書籍を持って来て、右側の少し小さい船のことを話すのだ。持ってきた本を開き「これは俺が15歳の時に、初めて自分のお金で買った本なんだよ」とおっしゃる。昭和34年刊、朝日新聞社による”世界の客船”なる本だ。で、その口絵の船を指差し「俺が一番最初に憧れた船だよ。このポスターの右の船はこれだよ!」と。僕は大きくて速い船のことばかり、端的に言えばブリーリボンライナーを掘り下げているいる人だから、正直、そこまで目が行かなかった。ユナイテッド・エキスポート・ラインズの貨客船だったのだ。あいにく3姉妹船なのでどれかは判らないが・・・。Sさん、僕がタグボート!ユナイテッドステーツ!なんていっているのに、同じポスターを覗き込みながら、その少し小さな船に見入っていたわけである。スクイズのサインだと思ってスタートしたら、結果的にバッターは知らん顔、ホームスチールが成功してしまった気分、改めて、世の中、広いと感じる訳だが・・・

客船クリキュアのポスター:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

電話が鳴った。「明日はお店は開いてますね?」。翌日、遠路、東京西部の某市からお越しになったのはNさんだ。「2〜3ヶ月前からウゥブを拝見して、一度伺いたかったんですよ」と。ありがたいことだ。結局、4時間近くお話させていただいて、実に楽しく勉強になった。Nさんは、保存船の研究の集まりに参加されていて、氷川丸再公開あたりを目指して、その研究成果をお仲間の皆さんと共に小冊子にまとめることにされているとか。その知識は恐るべきものがあって、丸の内に飾られている、話題の100分の1の客船ノルマンディーのことで、デッキの形状を論じる方が、日本におられるとは思わなんだ。(それに関しては、1939年から2年間、ニュヨークに係留されていた時間が長かったから資料が後期のものが多いのでは?と僕も一応お答えしたが、大好きなノルマンディーでも、さすがにデッキ形状で年代までは看破できない)その知識に驚くことは多かったが、店にアウトレットで飾ってあるこの写真を見て「クリキュアですね。バナナボートですよね。同型船は5隻で・・・」、ま・さ・か!クリキュアを知っていて「好きなんですよ、この船」などという方がおられるとは、夢にも思わない。またまた、世の中広いぞ!と・・・。Nさんは”プニップ・クルーズ”というブログを書かれていて、船の絵の腕前も大したものなのである。

人の興味の切り口は様々、僕は改めて言えば、ヨットでも客船でも、それを建造物や建築のように見ているところがあって、つまりはポスターやインテリア、その船やヨットにまつわる全てを含めて”デザイン”なのだ。だから、乗って楽しむ、あるいはヨットレースに出たいというものでもなく、その美しい”形”や、内装、アドバタイジングの”デザイン”にフォーカスしている。で、元が”調べ魔”みたいなところがあるので、興味を持つととことん調べる。しかし、Nさんにお目にかかって思ったことは、切り口は様々であり、いろんなことを話して、横断的に知識を集約してゆくことは大変意義のあることと思う。最近も、戦前のアメリカの客船会社が発展しなかった理由、長いこと、当時のアメリカにまだ欧州諸国ほどの技術が無かった・・・・と思い込んでいたら、何のことはない、アメリカの船は禁酒法によってお酒が無かったので、誰も乗ろうとしなくて後塵を拝していた・・・こんなことが判らなかった。もっと物事を横断的に研究すればそんなことはないのである。しかし、海も広いが世の中も広い。Nさんに敬服である。(2008,2,14)

01/24 ネルソンズバーの斎藤さん

当たり前のことだが、ただ珍しい海のポスター専門店を商っているだけでも、世の中は広くて改めてウーンと唸る方に出会うことも多々ある。先日、灯台写真家の三野さんから電話があって「紹介したい方がいるから・・・」とのこと、お連れいただいたのが、銀座ネルソンズバーのオーナーの斎藤さんだ。残念ながらネルゾンズバーにはお邪魔したことがないのだが、とにかく、船に関する古いものの収集にかけては、日本でも指折りの方である。素晴らしいのは、収集したものを飾って見てもらうための博物館を開館される構想を持たれ、そのためのNPOまで設立されて三浦初声にもコレクションルームを持たれ活動されていることである。僕も商売を長く続けていれば、いずれ海にまつわるいろんなモノが集まって、そのうち飾って見てもらうための博物館を開きたいのは夢だった。何と言っても、冗談みたいな話だが、最後に勤めていたドイツの家具会社のウィルクハーンの時も、「いつかウィルクハーンやバウハウス、ウルム造形大学の博物館を作って、老後はそこの館長になるのが俺の夢だよ」と語っていたこともある。会社設立前の一銭にもならない事業計画にも、恥ずかしながら博物館の事が書いてある。

たまにしか見れないが”何でも鑑定団”という番組は大好きだ。しかし、骨董やらアンティークには全く造詣がなく、予想する金額が当ったこともなければ、たまに特番でやる”本物はどれだ?”みたいなヤツでも当った試しがない。しかしながら、ブリキの北原さんの生き方には感銘を受けるし、その友人である青山ウィングクラブの矢野さんのお店も開店してすぐのころから良く通っていたし、最近でも船関連であれば、クドーズマリンの工藤さんには大変感心を寄せている。斎藤さんは、もちろん工藤さんともお知り合いのようで、いずれにせよアンテーィークや骨董は、僕にとっては手の届かないあっちの世界だ。斎藤さん曰く「日本や台湾でも船の解体が少なくて今度は黒海あたりに行くつもり・・・」とか。

そんな、第一人者の斎藤さんでいらっしゃるが、僕もたまたま気分が良かったせいか?留めなくしゃべらせてもらった。普段、勉強していることも、こういった第一人者で知識も相当に持たれている方だと、しゃべり甲斐がある。こんな、機会、僕にも少ないので、普段のストレス解消とばかりにしゃべった。そういえば、昔も営業の仕事で言われたものだ。「小野寺節、炸裂ですね!」そう、少し炸裂気味だった。でも、斎藤さんをお相手に、ビーケン・オブ・カウズの直筆サイン入りの写真集や、客船のポスターの話に「あなたは、生き字引だねぇ」と感心していただいたことと、先々のことも含め意気投合できたことは大変喜ばしく思った。いずれにせよ、少し方向性が違っても、やはりいろいろなことを調べて集めるといった共通項もあるし、大変興味深く、刺激を受ける出会いであった。(2008,1,24)

01/13 ジクレープリントポスター ジクレー とは?

ジクレープリントのポスター・ジクレープリントとは:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

仕事を続けていて、日々、少しづつでも新しいことに取り組んでゆけることは、実に喜ばしいことだ。知人やお客様から、価格が「安い、安い」と言われるのだが、別に安物を売っているわけでもなければ、安売りをしているわけでもない。以前にも書いたとおり、”適正な利益”を心がけているのみだ。そういったお言葉へのアンサーでもないのだが、もう3年以上前から恋焦がれていた、少々値の張る”ジクレープリント”のポスターにとりかかっている。1936年の客船クイーンメリーのポスター、1939年のフレンチライン・ノルマンディーのポスター、1932年の日本郵船のポスターをリリースした。印刷技術で、今後、最も品質の向上の可能性を持つのは、インクジェットのプリント技術だといわれている。日々、プリンターで写真をプリントしていて、誰もがその画質の向上の速度には驚いていることと思うが、このインクジェットの最も先端を行く技術のひとつがジクレープリントの技術だ。

そもそも、オフセット印刷の技術が発明されたのは19世紀末、普及したのは第二次大戦後のことだ。戦前のポスター類はリトグラフやシルクスクリーンが主流であり、何のことは無い、当時の”量産品”だったのである。リトグラフから発展したのがオフセット印刷で、抜群の耐久性と安価なことが強みだが、インクの層が薄くシルクやリトに比べ立体感に欠ける。つまり、元から平面的な出力である写真の複製に向くものであり、写真技術の進歩と二人三脚で普及したという見方もできるし、絵画や原画のオフセットによる複製は他ならない、写真で撮影したものをオフセットで印刷するわけである。すると、立体的な油彩画は論外、シルクやリトでもインクの層の厚みはオフセットの10倍以上あるものなので、オフセットで複製すると質感に欠けてしまう。美術館や博物館では、シルクやリトの作品を持っていても、退色や傷みを恐れてオリジナルの展示に長年悩んで来た。博物館・美術館級のシルクやリトは製作から100年あたりになってきているから止むを得ないことだ。ひとつには、この博物館や美術館の所蔵作品複製のために生み出されたのがジクレープリントなのだ。”ジクレー”とは、フランス語で”吹き付ける”という意味で、孔版、石版を介さずインクを直接紙に吹き付けるプリント技術だ。手順としては、オリジナルの作品をスキャニング、折り跡や傷等の修正はそのデータを修正する。あとはオリジナルに忠実な色校正を重ね、プリンターで出力するだけだが、最高は500色以上の顔料インクを使用して数万色の色表現をする。出来上がりは、簡単に言えば、絵画イラストレーション作品であれば、シルクスクリーンのような質感になる。もっともシルクの孔版より、ずっとインクの吹き付けの粒子が細かいので美しい。複製だけではなく、新たな作品もジクレーで製作するアーティストもいる。シルクやリトでは色数だけ版が必要だが、上記のように実に数万色の表現が可能だからだ。驚くべきはその耐久性で、使用状態にもよるが、きちんと額装すれば200年と言われる!

まず第一弾で、西海岸サンタバーバラで製作されたものをリリースしたが、近々、英国のハル(ヨークシャー東部の港町)で製作されたものも届く予定だ。こうして戦前に使用された客船のポスターを飾って眺めるのはご機嫌だし、当のイラストの製作者の思いにも少し触れたような気がする。もっとも、当のご本人は、まさか21世紀になって自らの作品が複製される価値を持つとは思っていなかっただろう。当時は画家が芸術家であり、ポスターのイラストレーションは職人の世界だったのだから・・・そのような時代背景とアールデコの話は、またいずれ書いてみたいと思う。(2008,1,13)

01/03 新春 帝京厄日

2008年、あけましておめでとうございます。

今年は元旦から営業している。”気合い”だけかもしれないが・・・たまたま元旦は火曜日、年末からショップの陳列の変更を大汗かいてやったため、定休の前日となってさすがにバテ気味。ひとあたり片付けやら、ショウィンドーの気に入らない部分を直したりして、今年、リリースする大判のヴィンテージジクレーポスターの採寸やら額縁の検討やら(米西海岸の会社製作のもので、ここの復刻ヴィンテージポスターは素晴らしいものなのだ。恋焦がれていたが、このポスターは乞うご期待だ。とりあえず先着で届いた日本郵船の1932年のポスターとにらめっこしている)をやっていると、海洋少年団のMさんがお酒を持ってきた。一杯飲み始めると、そこに、ハワイのヨットレースなどにも出場経験をお持ちのご意見番Iさんが入ってくる。Iさんもお酒を買いに行ってくれたので、宴会モード。結局、止めておけば良いものを、僕も魔のにごり酒を買ってきて・・・あとは、すっかり居眠りになってしまった。(苦笑)その後、元船乗りのSさんも来てくださった・・・ように思うが、すっかり前後不覚である。やっぱり、明るいうちのお酒は要注意かな。

昨日は定休で、テレビ三昧。何の義理もないのだが、一応帝京大学卒ということで、やはり帝京と名のついた学校を応援してしまう。しかしながら、昨日は帝京厄日??高校サッカーは負けてしまい、ラグビーは早稲田に善戦するも惜敗。駅伝は、往路12位。勝手にフラストレーションだった。ラグビーは、何かとお騒がせの多い帝京にあって、唯一誇れるものだ。僕の在学中には、初めて早稲田に勝って”赤い旋風”といわれたものだが、今年はとうとう全国選手権の準決勝まで行けた。僕が死ぬまでに、優勝できるかもしれないなあ・・・。もっとも、僕はもっぱら寒さに弱くて、ラグビーを見に行くと必ず風邪をひいてくるというジンクスがあって応援は難しいかもしれない。ちなみに母校の応援に甲子園に行くのも夢だが、都立鷺宮高が甲子園にたどりつける見込みの方はかなり少ないように思う。(2008,1,3)

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