12/24 城ヶ島 久々の店長日記

城ヶ島20091224:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

このふた月ばかりで時間をかけて集めた客船関係のコレクターズアイテムは殆ど底をついてしまった。こちらが半ば売りたくないと思っていても強引に買ってゆかれるのでどうしようもない。(我ながら商人の言い草とは思えない・・・苦笑)英国東部のキュナードの販促品の製作会社との取引が出来なくなり(キュナードのライセンスに変化を感じているが、恐らくその関係だろう。キュナードの船内販売のグッズ類は残念ながらもう当社では手に入らない可能性が高い)商品の補充もままならず、それでもあの手この手でいろいろ買い集めている。特に根が好きなので、自らずっと戒めていたZippoライターはいけない。コアなZippoを買い漁ってしまった。尤も、タバコも値上げだそうだから(話はそれるが、民主党政権、トンデモナイぞ。ひとつひとつの事柄はともかく、全部の総合計で国民にとっては1兆円の増税だとか・・・政権交代に期待したのは、様々なウミを出して無駄遣いを失くすこと。ところが、あるといい続けてきた財源は結局どこにもなくて、パフォーマンスの仕分けとやらに時間と金をかけて結局増税とは・・・個人的な意見としては・・・お話になりません)ますますライターの必要性は限定的なものになるだろう。僕だって店内、自宅、車、全て禁煙、屋根の無いところでしか吸わないし・・・ついに告白するが節煙に成功している。以前の半分の本数しか吸わない。それでもZippoライターという物質の持つ怪しい魅力には抗えなんだ。

と、久々の店長日記で前置きが長くなったが、昨日の祝日は半年振りに城ヶ島に行ってきた。長女が小学校に上がってから土日も営業のオーシャンノートの都合上、一日行程で出かけることが殆ど無いが昨日は定休水曜と祝日が重なった。城ヶ島では今年、灯台入り口の2ヶ所、及びその少し手前の大きな駐車場2ヶ所、合計4ヶ所の駐車場が相次いで有料化された。(1時間200円、以後30分毎100円、最大12時間までで600円)払わなければならないものは惜しむ道理もないが、城ヶ島大橋を渡って降りた大駐車場は無料なのでそちらに車を停める。子供達が小さい頃は灯台入り口から馬の背洞門まで行くにも大変だったが、このところ城ヶ島灯台側から進み洞門を上がって赤羽根崎東側の砂浜に降りて、段丘上のハイキングコースを帰ってくる半周コースは子供たちも軽くこなすので、大駐車場からウミウ展望地を経て洞門を下り、城ヶ島灯台まで行き引き返しさらに東側安房崎までほぼ一周をこなすこととなった。あわよくば北岸の水っ垂れの通行止めが直っていれば綺麗に一周とも思ったが残念ながらまだ修復されていなかった。水っ垂れじゃあ面白くないから「鼻っ垂れじゃあないんだよ」と面白く話したものだから娘達も大ウケでワイワイガヤガヤのハイキングである。祝日ではあったものの、今までで一番人の少ない城ヶ島だったが、あんなに穏やかな小春日の気持ちのよい城ヶ島も初めてである。みんな・・・どこに行ってたんだろう???(2009,12,24)

11/28 教会で七五三

横須賀上町教会の七五三:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日は長女の七五三である。当家は・・・というより、僕は神にも仏にも縁遠く、小野寺家の長男にして最後の男子であるにも関わらずお墓があるお寺の宗派さえ知らない。日本人だから神道が普通なのだろうと思いお宮参りと三歳の七五三は鶴岡八幡宮でやったが、今となっては子供たちも僕も関わりが深いといえば教会なので、森田牧師先生に相談をして、卒園した幼稚園でもある横須賀上町教会で七五三のお祝いをしていただいた。キリスト教では当然、七五三という考え方はないので祝福式というものになる。キリスト教にも宗派はいろいろあるだろうし、それぞれの教会や牧師さんによってやり方は違うのだろうが、大変心温まる七五三であったことは確かで、日本人の多くがそうであるように無宗教で神社に縁深くないのであれば、七五三について近くの教会で相談されることをお勧めする。

医者と弁護士が身内にいたり知り合いだと宜しいという。残念ながら弁護士さんには縁が無いし、訴訟沙汰になる事態も危急には見当たらないが(あったら大変だ)、確かに親しいお医者さんがいると助かるものである。先日も長女がインフルエンザになったときは・・・いろいろあった。まあ、僕が個人的な意見として付け加えれば、税理士さんが身近にいるとやたら複雑な諸事に困らないだろうし、今ひとつ加えれば牧師さんも身近にいると大変宜しい。それがキリスト教とどう関わりがあるのかわからないが、教会というところはよろず相談所であることも確かなのである。(2009,11,28)

11/19 Cunard Queensのラストカバー

Cunard Queensのラストカバー:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

相変わらず日本では余り興味を持つ人が少ない大西洋航路のスーパーライナーに執心なのである。以前からクイーンエリザベスのラスト航海のカバーを持っていたが、たまたまクイーンメリーのカバーを入手したので、こいつを引き出しの奥に大事に持っていても面白くもないので、"Queens Last Voyage"ってなもんで額装してみる。カバーを傷めない様にコンマ5mm単位で採寸してマットをカット、無酸性のコーナーやテープを使用して結構な神経を使う作業で、老眼の進行著しい身にはプチ厳しい作業である。(苦笑)

スコットランドのジョンブラウン造船所も閉鎖されて久しく、今や米国資本になったキュナード社ながらその運航客船は英国船籍であるものの、クイーンメリー2はフランスのアトランティック造船所、クイーンヴィクトリアと建造中のクイーンエリザベス(3代目)はイタリアのフィンカンティエーリ造船所で建造、思えば英国の黄金時代の最後を飾ったモニュメントとしてもクイーンメリーとクイーンエリザベスは無二な存在である。直立したブリッジに水線部が長いスターン形状は伝統的なクラシカルなデザインで重厚感を持つ。1936年に就航したクイーンメリーに続き1939年には姉妹船のクイーンエリザベスも就航して2隻でウィークリーサービス・・・の予定だったが、クイーンエリザベスはクライド河からサウサンプトンでの命名式には向かわずニューヨークへ急航する。かくして第二次大戦中、クイーンズ姉妹は兵員輸送に大活躍、大戦後に大西洋航路に復帰すると戦時中の酷使がたたり往年の船足は望むべくもなかったが20年越しで悲願の2隻ウィークリーサービスを実現する。航空機時代の到来・・・2隻は、クイーンエリザベス2の就航を待たずに退役、1967年にクイーンメリー、1968年にクイーンエリザベスが退役する。写真のカバーはそれぞれのラスト航海の時、船内局で消印されたものだ。

切手やらカバー類、僕も小学生の頃は切手集めに夢中になった時期があったが、いまだに”月に雁”とか”見返り美人”なんか、当時とそんなに変わらない値段であるように、一向に骨董的な価値は上がらないようだ。それはある種、収集家にとっては良いことだが、そもそも夜中に一人で開帳してニヤニヤしていても始まらないから、こうして飾って楽しめるようにしたら良いのではないかというのは僕の提案である。(2009,11,19)

11/12 クイーンエリザベス2 QE2のパター

クイーンエリザベス2のパター:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

オーシャンライナーに熱を上げていたら、魚心に水心だろうか・・・オーシャンノートの店内に新しいコレクションが仲間入りした。クイーンエリザベス2のゴルフパターである。自らの戒めとしてゴルフとカメラには手を出さないことを信条としているが(凝り性の僕だから道具にはまって、それこそ博打に手をだすより始末が悪い事が明白だからである。ちなみに右腕の大怪我はきちんと治ることはなさそうで、日常生活には問題はないだろうが、恐らくゴルフクラブをきちんと振る事はできないだろう)、このパターはクイーンエリザベス2のスクリューを鋳直して作られたものである。1987年、蒸気タービン発電+モ−ター推進からディーゼルエレクトリック+モーターに機関換装するとき、QE2の6枚羽の固定ピッチ6枚羽のスクリューも可変ピッチ5枚羽のものに交換された。その外されたスクリューのブロンズを鋳直してゴルフクラブを作ったのである。クラブ製造はあのマスターズのセントアンドリュースにあるSwilken社で、フルセットのものは1000セット製造され日本では当時150万円(15万ではありません)だったそうである。これはそのセットものとは違うパターで、今でも欧州では手に入れることができるようである。(約500ポンド弱のようだ)

人それぞれの嗜好があって・・・ポスター類、パンフレットやブローシャーの紙モノ、写真、葉書、船具・・・一言にコレクションといってもいろいろな方向があるものだが・・・僕にとっては、そんなジャンルを越えて、かつて恋焦がれたQE2のスクリューがそこにあることは何だかとても不思議で幸せな感じなのである。まあ・・・家宝である。これは(2009,11,12)

(追記:家宝のように大事にしていたが、どうしても欲しいというお客様がお見えになりお譲りしたので今は無い。そのお客様は東京の大病院のお医者様だが、ある著名な財界人さんへの贈り物にしたいとおっしゃる。ひとかたならぬ事情をお聞きして気持ちよくお譲りしたした次第である。僕はゴルフはやらないしやる気も無いから・・・)

Ocean-Note, Queen Elizabeth 2, J. Olsen 1983

10/24 和幸 加藤和彦さん訃報

トンカツという食べ物が大好きだ。天ぷらもそうだが、家で作ってもなかなかお店のようにはゆかず、結局は外で食べるものが美味しいが、オーシャンノートの開業以来めっきり外食の機会も少なく、たかがトンカツ・・・に随分お目にかかっていない。・・・無念・・・目黒のとんきが良いだとか、そんなにこだわりがあるわけでもなく営業の仕事の頃には目に付けば入ってしまうのが和幸だった。(確か”さざんか”というメニューが多かったような。笑)和幸に行くようになったのは今では余り耳にすることもなくなった平和島の東京流通センターの展示会に行ったり、スタッフで参加したりするようになったことがきっかけだった。このTRC の和幸ですっかりキャベツお代わり自由の和幸にはまった訳なのだが、毎年ここで開催されていたオフィス環境展というイベントがあって、今や死語になっているインテリジェントビルなる言葉が建築業界やインテリア業界で盛んに使われるきっかけにもなった催しで、ちょうど駆け出しの営業マンだった僕にとっては当時少なかったまたとない勉強の場だった。(イベントといえば・・・今年も東京デザイナーズウィークのご案内なども届いているが、これも懐かしい催し。元はヨーロッパで開催されるデザイナーズサタデーというイベントを真似たもので、日本ではカッシーナ、アルフレックス、ノル、ハーマンミラー、B&Bの5社で発祥した。1986年の第1回のオープニングパーティは六本木アクシスの5Fで開かれて、このとてつもなく華やかなパーティーに何だか上手い事やってインビテーションカードを入手してもぐりこんだ僕は、今は無きカッシーナの武藤重遠さんや飛ぶ鳥を落とす勢いのアルフレックスの保科さんを遠くから眩しく眺めたものだ。このパーティーの招待客約800名の名簿・・・今だから白状するが、産業スパイ宜しく後年この門外不出の名簿を入手したことがインテリアギョーカイのスーパースターを目指す足掛かりとなったのである)

トンカツの話から昔話になったが・・・和幸といえば・・・加藤和彦さんが亡くなった。憧れのミュージシャンの一人だったし、ウィルクハーン在籍時代にはアクシスビルをブラブラされる加藤和彦さんを何度も近くで拝見して、そのカッコ良さにシビれていたので残念でならない(ウィルクハーンはアクシスの4Fだが何で4Fをブラブラされていたのかはわからない)。このところ、プロデュース業で表に出ることの少なかった加藤和彦さんを表に引っ張り出したのは、坂崎幸之助さんであることは確かで、新フォークルの延長線上に和幸(かずこう・・・加藤和彦さんの和と坂崎幸之助さんの幸で”和幸”なのである)なるユニットを結成し、これからどんなことになってゆくのかと楽しみにしていた。あまり出たがりでもなさそうな加藤和彦さんがアコースティックギターマガジンにチラチラ出るようになっていたので、ご本人にしても結構ノリ気でやられてるのだと思っていたし・・・加藤和彦さんへのあこがれのひとつは、全貌は開帳されていないそのとんでもないギターコレクションだ。マーティンのD-45といえばギタリストなら一度は手にしてみたい楽器だが、今から30年以上前、このギターの値段が70万円・・・日本には当時何本もなくて、石川鷹彦さんのD-45は有名だったけれど、戦前に91本だけ生産されたD-45が1969年に再生産されて、69年製は当時2本のみ輸入され、うち一本は加藤和彦さんの手に渡ったものと記憶している。(古い資料を調べたらありましたありました。2001年発行のアコースティックギターマガジンVol.8の136ページに銘器発見というタイトルでこのD-45が紹介されている)あとは・・・拓郎フリークだった僕にとってはあの拓郎のギブソンJ-45、あれが加藤和彦さんが拓郎にあげたギターだというのが耳に残っているエピソード・・・そんなスーパー振りが気になってしかたないカッコ良いオトコ・・・ご冥福を祈るばかりである。加藤和彦さんもトンカツが好きだったのだろうか・・・(2009,10,24)

10/17 怪我から一ヶ月

横須賀上町ナイト:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

早いもので・・・右腕の大怪我から一ヶ月、第三金曜日恒例の飲み会、ウワマチナイトである。明けて土曜日の今日は、先月のこともあって、僕がきちんと生きているか確かめるように(苦笑)、朝から幾人かのメンバーが来店(商店会長など、昨日は初の欠席だったのに心配して様子を見に来てくださった)、いやはやすっかり面目ない次第である。昨夜は牧師さんが車で送ってくれたから(Y先生はお酒を飲まない方である)当然無事だし、自転車に関しては当たり前のことかもしれないが、飲んだら乗らないことにした。

来るもの拒まずで、新メンバーも交えて新しい交友関係もあちこちで出来たり・・・不思議なもので回を重ねるごとに出っこみ引っこみが上手い具合にかみ合って和やかになってゆく。主催者としては目が細まってしまうものである。右腕の怪我は回復には程遠いけれど・・・(2009,10,17)

10/13 カツオのタタキ

アート・ポスター・横須賀産カツオのタタキ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日の朝食は・・・カツオのタタキである。(笑)

先日のワカシに味をしめたのか、また突然実父がオーシャンノートに現れてソウダガツオとサバを置いていってくれた。横須賀に住んで20年、この季節前後、釣り公園でワカシやらタチウオが釣れるのは知っていたが(ちなみに、この2年ほどアオリイカが結構上がるようだ。これは単に今まで誰も釣れると思ってなかったのが実は居るんだとわかったということだ。昔、アオリを釣るのに三崎まで行っていたのは何だったんだ?それも墨の跡を見る限り・・・結構デカそうなのだ)ソウダガツオが回ってくるのは知らなんだ。最も、数年に一度東京湾奥でサンマが釣れたりするのだから・・・ホントに海ってえのは面白い。

ちょっと考えたが、どうせやるなら・・・と30年振りくらいにタタキを造った。カツオの下ろしかたは少し変わっているのだが、(頭を落としたら、尾を持って縦にして背の固い部分を削ってやらなきゃいけない)、そこは昔取った杵柄で、手際よく・・・三枚に下ろして真ん中の血合いと骨をとって上身と腹身に分けたら、ガスレンジで炙って、氷水・・・ネギやらショウガは子供達がダメだからそのままである。ソウダガツオをバカにする向きも多いが、鮮度を天秤にかければここまで美味なカツオもなかなか無い。何せ、釣って数時間のものだ。(白身は釣ってすぐは美味しくないが青魚は新しいものほど美味しい)今日のはマルソウダだったがヒラソウダならカツオより美味しいと言われる。余りに子供達が喜ぶので、今日はサバも造ってしまった。ただ、これはアニサキスが怖いので、冷凍庫行き。家庭の冷凍庫では-16から-17度あたりだろうから、念の為48時間以上凍らしてから食べることとする。サバのお造り・・・これは初めてなので楽しみだ。

30年振りのカツオのタタキ・・・こんなにやらなかったのには訳がある。実は16歳の時にカツオのタタキと造っていて左手の薬指に数針縫う怪我をしたのだ。先端を役3mmくらいスライスしたのだ。そもそも音楽家になろうとしてた割りにきちんと音楽を勉強したことはなくて、教育熱心な両親によって、ある日突然ピアノを習いに行かされるハメになった僕は、結局全く興味を持つ事ができず、恥ずかしながら約1年かかって赤のバイエルを終えることができず、とうとう「他のお子さんに悪い影響が出るので・・・」との理由で、ヤマハ音楽教室を放校されてしまう。先生も、「少したったら興味が出るかもしれません。ギターでもやってみたら・・・」と一応のフォローをしてくれたが、中学にあがると拓郎や陽水にすっかりはまった僕はやがてアコースティックギターを買う。今は世の中民主的だが、当時の小野寺家は封建的で、ギターをやるのに何故か父の許可が要った。(苦笑)で、条件は「ヤマハ音楽教室で習うこと」だった。リターンマッチよろしく、今度は優等生だ。(爆笑)先頭を切って、次々と新しい課題をこなす。半年が過ぎ、いよいよ一段と難しくなるころに薬指の怪我。そのままヤマハは止めてしまった。

カツオのタタキを食べる度に思い出すのは、怪我だが・・・別に音楽家になれなかったのは、カツオの所為でも怪我の所為でもない。ひ・と・え・に・・・ルックス・・・と思っている。無念だ。(2009,10,13)

10/10 アートのコーディネート

歯科医院のアートコーディネート:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

いつものことながら、例によって遠来のお客様・・・鈴木英人さんのアートを選んでをコーディネートを提案して欲しい(インテリアギョーカイの頃の懐かしい響き!)とのことで、荒川区で歯科医院を開業されているA先生がいらした。ご来店されると先生はすぐに名刺を出されたが、あいにく右腕が曲がらなくて左手のみで名刺を受け取ることしかできず、右腕の怪我の事をお話して非礼をお詫びすると内出血で腫れた右手をご覧になってご心配をお掛けする羽目になった。先生は大変優しい方で、翌日、知り合いの整形外科の先生に僕の右腕のことを相談して下さって、「内出血は捻挫でも良くあることなので、多分大丈夫でしょう・・・」とわざわざお電話下さった。結局、周囲の”医者に行け”コールに耳を貸さず、顔を合わせるごとに小児科の内海先生に相談したり、果ては遠来のお客様にご心配いただいたりと、いつまで経っても大騒ぎな僕なのである。面目ない限りだ。

さて、A先生、以前に某ドイツ車の展示会で鈴木英人さんと親しく話をされて以来のファンとのことで、ご自宅でお持ちのオリジナル作品とは別に、クリニックのインテリアに英人さんを飾りたいとのこと、事前にお願いしておいた院内の写真を数枚お持ちいただき相談することとなった。思いもつかなかった難しいご要望で、春夏秋冬で絵を掛け変えたい・・・院内の壁面数箇所に四季で都合十数枚の絵をコーディネートして欲しいとのことである。先生は海が大変お好きで、当然海を飾ることをお考えなのだが、厳密には春や秋冬を描いた作品もあるのだけれど、基本的には英人さんの作品はどちらかといえば季節感は強くない(例えばA先生も同じ事をおっしゃるが、”湘南に生きる”、相模湾に馴染みのある人には北東の風でいかにも冬の相模湾とわかるのだが、飾るとなれば冬向きとは言い難かったりする)ので、一枚飾るのであればともかく四季の季節感と言われると結構な難題である・・・ところが、やってみると怪我の巧妙か、ひょうたんから駒か、日頃、直感的ながらある種の自分の論理で商品化している仕事の中で、英人さんはとりわけ分かりやすさと大事にして割とビビットな色使いのコーディネートをしているお陰で、意外にもあてはめればそれなりの季節感らしきものが出せることに初めて気づいた。残念ながらご要望で赤は止めて欲しいとのことだったので、得意の赤のマットを使った商品は提案できなかったが、例えばこれも赤い感じがクリスマスとか冬の季節感に実にマッチする・・・そんなわけで、お持ちいただいた院内の写真に合成で英人作品を飾った画像を作って無事に提案させていただくことができた。

数日のやりとりの後、A先生には僕の提案をご了承いただき、遠からずクリニックに英人さんの作品を飾っていただけるようになったが・・・女房が「インテリアコーディネーターみたい・・・」と言うので、僕は言下に否定した。確かに、僕は20年以上インテリアのギョーカイに身を置いて様々な素晴らしい現場を見てきたけれど、あくまで僕の本職はセールスであった。強いていうなら、この表現はインテリアデコレーションということだろうか?・・・一方で、何万枚ものアートプリント見て、その中からオーシャンノートの商品を選んでいるのも確かで、その方面の目は確かに肥えてきてはいるのだろう。絵や音楽のかなり造詣の深い常連さんからも、僕が思う以上に僕のセンスというやつを信頼されると面映かったりもするが・・・腕の怪我のおかげで思うに任せない日々は続くものの、僕はカッコイイデザイナーであるよりは職人でありたい。この気持ちは不変である。(2009,10,10) 追記:鈴木英人さんの作品は2014年10月で取り扱いを終了いたしました

10/07 誕生日 48歳

誕生日のパスタ2009:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日は誕生日であった。我が事ながら・・・あっと驚く48才である。織田信長が人生五十年・・・といいながら亡くなったのは48才(享年49なので満で48だ)、ジョン・レノンが撃たれた時、僕はまだ何もわかっちゃあいない18才のガキだったが(今だってそんなに進歩はない。まだ何もわかっちゃあいない駆け出しだと・・・思う)、40歳で撃たれたジョンとは何も関係ないのに自分が40才で居なくなると思ったものだ。予感はありがたくも外れ、40の坂を上りつつ、とうとう信長公が亡くなった歳に並んでしまった。自転車での転倒の大怪我はまだ回復せず右腕は極めて不自由だが、とりあえずこうして女房と子供達の合作の誕生日ショコラも無事いただくことができた。思えば、怪我は大事だったが、一歩間違えれば最悪の事態もあり得たわけで、怪我を抱えながらも誕生日を迎えることができたことは僥倖で神様には生かしてくれたことを感謝しなくてはなるまい・・・自転車で転んで死んだら・・・どう考えても不名誉すぎる(苦笑)

腕が悪くても、美味しいものは食べなくちゃイケナイ。というわけで、このところフライパンを使わないパスタを作るのだが、そんな中でやってみたら意外に美味しくて我が家で評判のパスタが生まれた。今日は、店は定休日、女房が用事で東京に出かけたので、子供達でも僕の右腕を補って準備ができる評判のツナとマヨネーズのパスタだ。これは・・・簡単、ボールにツナ缶を油ごとあけて、きゅうり、コーン、今日は少量のにんにくとタマネギ、ここにマヨネーズを加えて合えておく。茹でたパスタをここに入れて混ぜるだけである。次が大事!皿に盛り付けたら・・・しょうゆを少々振りかけ、海苔を散らす。これで油っぽさが気にならないのだ。長女はトマトが好物なので、今日はダイスに切ったトマトも載せた。このパスタ、サラダパスタではなく温かいパスタである。

人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか(敦盛・・・2009,10,7)

10/02 古いアンカー 船が欲しい

船のアンカー:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日の夕方、店の前に見覚えのある練馬ナンバーの車が・・・実父である。突然来て、「少し釣れたから置いてゆくよ」とイナダとサバをクーラーから取り出す。聞けば、先日次女の運動会を見にきた帰りに道を間違えたどり着いたのが横須賀海辺釣り公園、気に入ったらしく今日は再度行ってみたとのこと。自分の父親を誉めるのは気が引けるが、釣りってえのは、結構ローカルなもんだからタナ(深さ)から餌まで、そこの釣り場の流儀に合わせないと簡単に釣れないのが普通だから、「いやあ、車にロケット(カゴ釣りの浮子のことだと・・・思う)があったからさあ、上手くいったよ」と、涼しい顔でイナダを持ってくるのだから、我が父ながら感心させられる。父と最後に糸を垂れたのはもう20年以上前のことだが、相当上手になっているんだろう。右腕の大怪我はまだまだ治らず、包丁を握るのも不安だったが、帰宅後、イナダの刺身を引くハメに・・・終わった時には、手がまた真っ青な紫色になってしまった。小野寺家はスパルタだったから、釣った魚は自分で下ろすのがルールで、小学校4年生ころには普通に魚を下ろせるようになっていたから、こうして手が不自由でもウロコを引いて、三枚に下ろして、皮を引いて、刺身を引くことができるのだろう。イナダは焼いても煮ても脂が足りないが、刺身には丁度良い。養殖じゃあないから匂いも気にならない。早速、朝から長女など大喜びの朝食である。

父の用事は本当は他にあったようで、昔、熱海マリーナに置いていたボートの名残のアンカーと救命浮環を僕に届けたかったようだ。店のインテリアにも丁度良いものだが・・・これは懐かしい思い出である。わずか15フィートばかりのランナバウトではあったが、北は真鶴、東は初島、南は伊東あたりまで、良く釣りに出かけたもんだ。今は多分、遊漁船は禁止だと思うが、当時は引き釣りでサバやソウダガツオ、メジマグロを釣っていた。僕が最も好きだったのは、熱海の錦ヶ浦の沖合いでのキス釣りで、それこそ尺ギスが面白いように釣れたものだ。この錦ヶ浦の沖の砂地はアンカーの効きがえらく良くて、12-3才の力では抜錨に一苦労したことを特に良く憶えている。その抜錨に苦労したアンカーを持ってきてくれたのだ。

この頃は。長女がやたらと「魚を釣りたい」とせがむ。僕は子供の頃は、釣りもスパルタでやらされた?から、あんまり乗り気になれない。魚を下ろすのもそうだが、釣り糸を結べないと釣りをやらせてもらえなかったのだ。(今は老眼で難しいが、僕の内掛け結びは機械で結ぶより綺麗だと密かに思っている)父がついでに持ってきてくれた25年前に伊豆大島の都釣連の磯釣り大会でたった一度優勝した時の盾・・・こんなものを眺めていると、釣りに出かけたくなる。出来れば小さなボートでも欲しいもんだ。もっと儲からんとなあ・・・苦笑(2009,10,2)

09/29 Jクラスヨットの模型

Jクラスヨットの模型20090929:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

海っぽい?インテリアのマストアイテムといえば・・・モデルヨットも欠かせないものだと思う。しかしながら、帆船模型も同じだが、これ程、アイテムとして先細りしいるものも珍しく、結局この1-2年、新しい良いものが探せずオーシャンノートの定番、Jクラスヨット3艇だけが宝物になっている。このモデルヨット、開店以来、月に1-2艇売れ続けている良い商品なのだが、以前から幾らかお問い合わせいただくこともあったのでウェブでも販売することにした。昨年、銀座の伊東屋さんが船の模型の販売を中止して趣味人の間ではいまだこのパニックが収まらない状況のようで、何故、帆船やヨットの模型が先細りなのか見当がつかないが(断っておけば、これは日本だけのこと、アメリカあたりじゃあそんなことはない)、やはり底の浅い、それこそ雰囲気だけでやってもダメで、きちんと元ネタを語って惚れなきゃあ長続きはしないということだろう。僕が、この3艇のモデルヨットが良いと思うのは、元になったフネが最もヨットのデザインが輝いた1930年代のJクラス・・・しっかりした名艇であるということに尽きる。そのあたりがはっきりしないモノは結構あるのだが、模型としてどんなに良く出来ていても元のフネが良くなきゃ面白くない。(後日追記:このJクラスヨットの模型は、1990年に制作されたものが国内輸入元在庫品として大量に残っていたものを発見、艇名さえ不明だったものを輸入元と協力してプロファイルを特定・・・エンデバー、シャムロック、レインボー・・・し、ほぼ当社専売のように販売していましたが、当該国内在庫は底をつき、再度制作される予定もありません)

・・・てなことを一人ブツブツ言いながら、おとといの夜、店のインテリアディスプレイに取り組んでいると、御馴染みのエイネンさんが来店。右腕の怪我を心配して立ち寄ってくれたようだ。思うに任せない右腕に泣かされながらの作業にはいささか同情してくれたようである。

その右腕の大怪我、18日の転倒から11日目だが、これはやはり10年に一度の大怪我といっても良いほどのアクシデントである。右の肘付近を強打したものだが、その後の腕全体の腫れ方と内出血の拡がり方は尋常ではなく、日に日に拡がる内出血は「このままいったら顔とかにも拡がってゆくのかね?」なんて言っていたくらい・・・もっとも不思議な事に、丁度腋の下あたりでストップして、これはやはりリンパ節とかがある所為なのだろう。下の方は徐々に・・・とうとう3日目には指先まで紫色になってしまった。腫れも一緒なのでボールペンを握る事も出来ない。怪我から一週間、何がすごかったかといえば眠気である。とにかくずっと眠いのだ。人間の治癒力はすごいもので、休め休めと体が大号令を出していたのだろう。一週間目の日曜日あたりから、やっと腫れと内出血が快方に向かうが・・・現在は右肘が90度くらいまでしか曲がらない。何が不自由といって・・・食事である。結局ご覧のとおり、左手で箸を使うしかなく、これを機にサウスポーに転向するしかないかと半ば本気で考えざるを得ない。ちなみに昨日は長女の遠足で、そのリクエストに応えた女房の唐揚げ弁当である。

まあ、こんなアクシデントもあり、気分転換も必要かと、先日の日曜は3年ぶりに子供達の教会日曜学校についていった。兼ねてより、上町教会の森田先生は、僕が日曜学校に顔を出すことを切望されていたから、3年ぶりの宿願が叶いお喜びのようで、昨夜は外出の帰りに店にお立ち寄り下さった・・・こうして3年振りに日曜学校・・・実はこれも左手で食事をしている所為のように思っている。まだ、慣れないものの、右脳と左脳の使い方が違ってきていて・・・いろいろと変化が出てきているのでは??? この大怪我で家族と回りの皆様に大変ご心配をお掛けしているにも関わらず、本人は自分の眠っている感性が覚醒するのではないかと変な期待をしてる。相変わらず・・・迷惑な僕なのである(2009,9,29)

09/21 自転車転倒、大怪我

インテリア業界・運動会と怪我:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

インテリアギョーカイもなかなか大変なようである。

18日の金曜日は4回目となった(仮)ウワマチナイト(集まりの名称もきちんとつけたいものだしウワマチナイトが良いと思っているけど皆で話す間がない)だった。翌19日は次女の運動会、長女の時から都合5年目のめぐみ幼稚園の運動会も父兄としては最後だし、いくつかの競技に出なきゃいけない、パーティにお集まりの皆さんにお断りして多少早めに切り上げたつもりではあったが・・・深夜の帰路、自転車で大転倒。顔には傷、右腕は倍くらいに腫れあがって・・・めぐみ幼稚園は小さい幼稚園で皆知り合いだから、運動会当日は各方面に大層ご心配をかけて面目なし。それでも綱引きは、さすがに今年はトップに着くのは無理で、一番後ろで綱を引いたが左手一本で健闘。諦めたの玉入れだけだ。右腕はなかなか重症で、それでも折れてりゃこうしてキーボードを叩けるはずもないと思って、周囲の「医者に行け」コールの大合唱にめげず自然治癒を図っている。そう、僕は医者に行くのが大の苦手なのである。腫れはあまり治まらないが、最初は肘が曲がらなかったのが曲がるようになったので、楽なのと安静を兼ねて、今日は生まれて初めて腕を吊っている。それよりも鼻の下の傷は目立つので、以前にお目にかかっている方はどうかご来店の際は驚かれませよう。喧嘩でも事件でもありません、ただ自転車でコケたのです(苦笑)

さて、景気の悪化で大変なインテリアギョーカイ、先般は久しぶりにウィルクーハーン時代からお世話になっているA工場長から電話をいただいた。ギョーカイの話にもすっかり疎いのだが、出る話出る話、宜しくない話ばかり。そして、昨日はウィルクハーン時代に一緒に仕事をしていたコクヨのM君がひょっこり来てくれた。彼は、家具の仕事を離れて文具の方面で活躍しているそうで、去年は文芸春秋出版の「東大生のノートは必ず美しい」から生まれたドット罫線入りノートの広告宣伝の仕事で忙しかったそうで、開発秘話なんかも聞かせてもらった。(で、そんなに良かったというなら一冊くらい見本を持って来いよ!と言うと彼は恐縮しきり。だからこの場もっと宣伝しても良いけれどドット罫線入りはこの辺にしておこう・・・笑)で、ノートは良いけどオフィス家具はどうなの?ってことになると・・・7掛けですよね・・・やっぱり大変なのだ。

たまに覗いてはいるのだが、そんな昨今だったので、久しぶりにウィルクハーンジャパンのサイトを見ると・・・懐かしいスタッフたちが居る居る!(5年の月日は長いもので、勿論、知ってるのは半分にも満たない。皆、僕が辞めた後に入った人たちばかりだ)まあ、不思議なもので、彼らの顔を見れば、業績は大変なのだろうが、そんなに深刻でもないだろうと感じる。ドイツのウィルクハーンは良くも悪くも創業100年を越えた名門だ。そりゃあ、100年もやっていれば波もあるし、いい時ばかりではないだろう。外国のギョーカイ事情を見れば、派手派手な勢いのあるメーカーと比べりゃ地味かもしれない。でも100年の経験としたたかさ、一時の勢いに気おされることなく地道にやっていれば良いと思うのだ。それは、日本のウィルクハーンジャパンのスタッフにも同じことが言えることで、まぐれで大きな仕事をとることに驕ることなく、地道に良い仕事に参加できるように心がけてもらいたいものだ。無論、これはオーシャンノートも同様だし、そのように心がけて実践している。

しかし、昨日は余りにも東大生のノートがコクヨのヒット商品で、やたらノートがノートがと連呼されたので「おい、ノートはノートでもオーシャンノートはまだまだ楽ではないぜ」思わず言ってしまった。ヒット商品・・・当社のような地道な事業には無縁だが(苦笑)・・・ あ・や・か・り・た・い ・・・ものである。(2009,9,21)

(後年加筆:ちょうど連休前で医者が休みということもあり、とうとう医者に行かずに直してしまったが、右肘はポッキリ折れた骨折であった。腫れがひいて腕が動かせるようになると、はっきりと折れたあとがわかるように。ちゃんと海で泳げるように回復しました。決しておすすめはしないが、人間の回復力は大したもので、医者にゆかずとも折れた骨はくっつく)

09/16 アテンションプリーズ BOAC CUNARD

海ではなく空の話になるが・・・ニュースは日本航空がアメリカのデルタ航空かアメリカン航空に出資されることになりそうだと伝えている。日本の航空法で外資の出資は1/3以下となっているそうなので身売りする事とはならないようだが、世界第3位の売上高(ちなみに航空会社のランキングは輸送キロの単位で決まるので、それだと15位、3位は売上高である)を誇る日本のフラッグキャリアが外資の出資を扇ぐというのは気分的に寂しい。おとといお客様の齋藤さんとも話したが、何でANAと一緒になれないんだろうと不思議である。尤も、その理由も分かっていて、競合分野が多く複雑な労働組合を持つJALとはメリットを見出せないのだろうと落ち着いた。イタリア国営だったアリタリアもエールフランス・KLM連合に買収されたし、そもそもかつて国営だったエールフランス、国営色の強かったKLM両社が経営統合したのだから、フラッグキャリアなどという一種古風な考えも経済競争の中では成り立たないのかもしれない。パンナムが破産したというのもあったことだし・・・

しかし、JALといえば、あの懐かしき憧れの鶴丸マークが忘れられず・・・今朝の通勤途上でふと口ずさんでいたのがアテンションプリーズ!(Youtube 削除につき動画不掲載)1970年のテレビドラマというから、もう少し後で見たものかと思ったら、僕は小学校2年である。当時、飛行機に乗ったことも無い割りに(ちなみに新幹線は大阪万博をみるために、この1970年、初めて乗った)、羽田で飛行機を見るのは大好きで、展望デッキにあったレストランで機内食を食べるもの楽しみだった。美味しかった記憶はないけれど・・・

Aero Classics 1/400 VC-10 BOAC CUNARD:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

さて、そんなんで、フラッグキャリアが生き残りを賭けたお話の遺産がここにもある。これは、当店自慢のコレクション?のひとつ、Aero Classicsの1/400ダイキャスト模型、ビッカーズ・スーパー・VC-10、BOAC CUNARDである。528個限定の478番のものとなる。船に加えて飛行機までやったら、とても追いつかないし、それこそ商売か趣味かわからなくなるので、そこに足を踏み入れないようにしているが(同様の理由で、ゴルフとカメラもやらない。道具から入るタイプの僕は、恐ろしいほど”集めて”しまうことが分かりきっているからだ)、たまたま60年代の客船ヴィンテージ広告を探していて見つけたものだ。この飛行機がきっかけで調べてみると1962年から1966年まで、BOACとCUNARDが事業統合をしていたらしき事実を突き止めた。(英文ではオペレーションと強調されているので資本統合した様子はないようだ)1958年に、大西洋横断における航空機と客船の旅客数が逆転、国の誇りとしてキュナードを潰したくない英国政府が動いて、簡単に言えば旅客機のサービスにキュナード流の最上のサービスを導入しBOACを一頭地抜けたものとし、大西洋横断の料金を飛行機と客船で統一し、片道は飛行機、片道は客船という旅の提案をするという主旨だったようだ。つまり、この時点で移動目的の大西洋横断の旅客が100%航空機に乗ってしまうとは考えられず、客船の市場は残ると考えたわけであり、フラッグキャリア(この時代はまだ客船運航会社ということである)たるキュナードを生き残らせようとした意図があったのだ。しかし、残念ながらそうはならず、船の時代は完全に終わって、クルーズ目的でしか人は船に乗らなくなるのである。大勢の見えた1960年代後半にはBOAC CUNARDのオペレーションは解消される。(日本で言えば、日本航空・日本郵船ってなもんであろう)それでも、キュナードは存続したわけだから会社の勘定がどうなっているかは知らないが大したものである。特にオイルショック以降は客船の運航は完全に赤字のはずだったのだ。ご存知の通り、かつてのフラッグキャリア、今はアメリカ資本の軍門に下っているが、それでもキュナードはキュナード、この春にクイーンメリー2を見たらそれは立派に伝統を背負った船の歴史は終わっちゃあいないと思ったものである。

先般、偶然にも、かつてBOACの日本支社に勤務された経験がおありだというお客様が見えて、このBOAC CUNARDの飛行機を見て感心されていた。まさに時代に埋もれたお話で、この顛末を知る人は少ないようだ。しかし、こうしてフラッグキャリアを国で維持しなくても良くなった・・・と考えれば、世界は平和になってきているということだろう。そうフラッグキャリアの使命は有事の際は・・・という訳だからだ ・・・いよいよ近年になると木村拓哉さんのGood Luckなんかじゃあその舞台をANAに奪われてフラッグキャリアのすっかり形無しだったようだが・・・まあ、ドラマでどっちが採用されるか・・・なんて・・・やっぱり平和なのである。(2009,9,16)

08/25 鈴木英人、英語の教科書

英語教科書・鈴木英人:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日、はるばる大宮からお客様が見えて、鈴木英人さんのポスターを2枚ほどご購入いただいた。(追記:鈴木英人さんの作品は2014年10月で取り扱いを終了いたしました)お聞きすれば、ご自宅を購入されたばかりでネットが繋がりにくく、ポスターと額装の大きさや質感を確かめたいこともあって「行ってしまった方が早いや・・・」とのことだった。ご満足いただけて幸いだったが、商品をお見せしたり包装したり手を動かしながらお話すると、僕よりは幾らかお若いそうだが同年代ではあるので、「英人さんのきっかけは、やっぱりFM STATIONですか?」とお尋ねすると、「それもあるんですけど、中学の英語の教科書ですね。中身はともかく、表紙が大事でお気に入りの教科書だったんです」とのこと。先般も長野のお客様とメールのやりとりをしていたら、やはり中学の時の教科書以来、とても鈴木英人さんの作品は好きで息子さんのお部屋に飾ろうとご購入するとのことだった。鈴木英人さんのプロフィール等で、中学の英語教科書NEW HORIZONの表紙を手がけた事は当然知ってはいるが・・・実は現物は見たことがない。早速調べると、上記の表紙が問題の教科書である。お懐かしい方も多いことだろう。

現在、検定に受かっている中学の英語教科書は6種類、僕が中学に通った1975年(昭50)から1978年(昭53)に何種類あったかは承知しないが、開隆堂のNEW PRINCE、東京書籍のNEW HORIZON、三省堂のNEW CROWNあたりが殆どだったように記憶している。東京・中野区の区立中学では、そのうちNEW PRINCEとNEW HORIZONを各学校が選んで使っていたようだ。僕の通った中野九中ではNEW PRINCEだったし、お客様から鈴木英人さんの表紙の英語の教科書と聞いても実はピンと来ていなかった。僕の両親は実に教育熱心で(苦笑)、それがアダとなって僕はますます勉強嫌いになってゆくわけだが、中学入学と同時に中野駅前の中野英数学院なる塾に行かされた。そこには違う中学の連中も居て、彼らが持っている英語の教科書がNEW HORIZONなのは見て知っていた。しかし、僕が知ってるNEW HORIZONは赤い朝焼けのような表紙だったはず。昨日のお客様が同年代と言っても、わずか5-6歳も違うと・・・ジェネレーションギャップがあるのだと痛感した。僕の記憶は当たっていて、1983年(昭58)頃までは、僕の知っているNEW HORIZONだったのである。すると、中学入学早々鈴木英人さんの英語の教科書を手にしたのは1971年(昭46)生まれ以降、ギリギリ最終学年中学3年生で鈴木英人さんの教科書を手にしたことのある人は1969年(昭44)生まれ、1968年(昭43)生まれ以前の人は・・・英人さんのNEW HORIZONは見ていないわけだ。このところ続いたNEW HORIZONの話はとりあえずケリがついた感じである。

懐かしついでに・・・実家を建て替えたこともあり、教科書はきれいさっぱり手許から失せてしまったが、僕が使ったNEW PRINCEはこんなであったはず(右写真)。当時はNEW PRICEのシェアが一番高かったそうだが・・・驚くなかれ、今はNEW PRINCEなる教科書は・・・無い。開隆堂の英語教科書はSUNSHINE ENGLISH COURSEと名を変えてしまったようだ。ああ、懐かしい、主人公のBen、ガールフレンドのLucy、Benの友達Dick、あと先生だったかなMs. Green。彼らの住むところは、確かウィスコンシン州だ。普通の生活している日本人にはあまり馴染みの無い土地だ。僕だって、映画のタイタニックでジャックがウィスコンシン州出身というので久しぶりに聞いた土地の名前だ。懐かしいのはともかく、それぞれの人にとって懐かしいところは思うが、僕は英語の授業はあんまり好きではなかったから、後々、英語が上手になれなかったこともあって少々ほろ苦い思い出だ。まあ、それでもメールのやりとりには問題無いし、お店にアメリカ人のお客様がいらっしゃれば何とか喋っている。必要は全ての物事の母であり、受験というのは僕の勉強のモチベーションにはならなかったのである。(我不出来を・・・かなり強引な言い訳である・・・苦笑) (2009,8,25)

08/18 北風に負けて蜻蛉とり

観音崎20090818:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

ハードな夏季営業も今日で終わり。明日は定休であさってから通常営業に戻る。この一週間居座っていた大陸育ちの高気圧(とNHKの気象予報士は言う)のお陰で、地球温暖化どこ吹く風のさわやかさは結構だが、海で泳いで遊ぶにはちょっとしんどい。風邪が冷たいから海水がまるでお風呂のように感じるくらいだし、子供達は例年のようにガリガリくん(昔からある氷菓子です)を欲しがることもないほどだ。40の坂を登るこの身も今朝は少ししんどく、子供たちも心なしか元気がないようだったので、今朝は観音崎で虫獲りとする。

生涯3回目のギンヤンマ捕獲に成功した。おととしの日記にも初捕獲の時にギンヤンマのことは書いた。去年はゼロ、ことしはひと月くらい前に観音崎に行った時にギンヤンマとオニヤンマを見かけていたが、2年前と違って自我の芽生えた子供達は自由に捕虫網を貸してくれないから(苦笑)、お願いして上手いこと言いくるめて貸してもらって?挑戦。待つ事5分で捕獲成功!たった4人のパーティな訳だがヒーローである。父の威厳も少しは保てたかしらん?

今年がコンディションが良いのか、今朝はギンヤンマを沢山見かけた。ダブってみているものもあるだろうから正確にはわからないが、少なくともオス、5匹はいる。オニヤンマは1匹たけだ。帰り際には生涯5回目のツクツクボウシ捕獲にも成功。虫獲りに関してはいよいよ、オニヤンマとクマゼミが目標になってきたゾ。そうそう、今年は通勤経路の京急線の線路際でオスのカブトムシもゲットした。残念ながらこれはかなり弱っていて、すぐに死んでしまったが・・・あまり大げさなワナなど使わずにカブトムシやオオクワガタにも挑戦したいものだ。

もう3週間ほど前になるが、お世話になった家具モデラー(この言い方は好きじゃない。職人さんじゃいけないのかな?)の宮本茂紀さんのことが読売新聞一面のコラムに載っていた。かいつまんで言えば、農林関係の管理の仕事の人は往々にして家具に製材された木がわからなくて、家具職人は山に生えてる木が何の木だかわからない・・・しかし宮本さんはボスコというシリーズのハイバックチェアーで(我が家にも2脚ほどあります)木目の様々な表情を表現する、そんな内容だ。宮本さんの会社のAさんと深いお付き合いがあるが、昔、いろんな新しい突き板素材に挑戦していた頃、僕は丁度盆栽に凝っていて、色んな花に妙に詳しくなっていた。ある日二人で仕事に行った時の事、枝振りの良い木を見た僕は「Aさん、あの木は何だろうね?」・・・「小野寺ぁ、わかんないよ、俺は突き板にならないと」・・・「僕も花が咲かないとわかんないんだよね」・・・で、結局分からず仕舞。カブトムシやクワガタはクヌギの木にいるという。クヌギ・・・晩秋になってドングリが落ちてこないとどれがクヌギだかわかりません。(涙)ひとつのことを極めるには周辺の勉強が欠かせないものである。(大げさかしらん)(2009,8,18)

08/16 冷夏 それでも観音崎で泳ぐ

観音崎20090816:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

13日から18日まで6日間、午後からの開店とさせていただき何をしているかと言えば、このように観音崎で子供たちと海水浴にいそしんでいる。昨夜は常連のMさんがお酒を持って店にきて一杯やったが、彼はバリバリのライフセーバー(今日は鵠沼でライフセーバーをやっているはず)で、彼に言わせれば「海水浴場でなく、ライフセーバーのいない観音崎で子供を泳がせるのはイカン!」と怒られてしまったが、何せここではかつてスズキ釣りをずっとやっていたこともあり、毎年若干の違いはあるものの、大体海底の様子が頭に入っているから安心だし、基本的に遠浅で子供達も毎年のことなので安心して遊べるので他所に行く気になれない。たまたま11日に台風が来てしまったため、海藻が多くてコンディションは例年より悪いが、それよりなにより冷夏を実感する。水温こそ変わらないが風が冷たいのである。現在居座ってる高気圧が大陸育ちということもあり、乾いて冷たい北風を吹かしている所為なのだが、さわやかで実に結構ではあるものの、まるで・・・カリフォルニアの風である。

昔、2週間ほどカリフォルニアに出かけた時のこと、泊めてくれた友人には「アメリカ人と同じ格好していたら風邪ひくよ。彼らは真冬もTシャツで大丈夫なんだから」と注意されたが、なるほど、サンタモニカに北側のビーチに泳ぎに行って大変、今年の観音崎はまだ水温はまともだが。カリフォルニアは寒流だから、えらく海が冷たいのである。正直、ちょっと浸かるのがやっと、大人も子供も平気で海に入っているのが信じられない。おまけに湿度は低い(その後、ロスの友人宅から移ってサンタバーバラのモーテルに一週間ほど逗留、夕食はもっぱら近所のデリのパスタサラダと、本場のチートス・・・これがえらくオイシイけど高カロリーかな・・・とバーボンだったが、開けたチートスは一週間、しけることがなかった。さすが砂漠のカリフォルニア!)からさわやかはさわやかだけど、水に濡れた体は心底・・・冷え切ってしまった。どうやら人種ごとに温度の感じ方は違うらしい。

野菜の不作がニュースを騒がしているが、海に行くと実感。まさに冷夏である。それでも夏休みは夏休み、あと3日、頑張るつもりである。残念ながら長女は今年も浮輪を外せなかったが・・・オーシャンノート開業以来、きちんと休みをとってどこかに連れて行ってやることも出来ない。せめて、夏の一週間、観音崎で泳ぐのは当家にとっては大切なイベントだ。しかし、朝早起きして、昼食の準備を整えて海に行き、3時間半泳いで遊んで帰ってくる。すぐに昼食を作って食べてから出社・・・午後は、殆ど船を漕いでいる状態・・・でももう何年かすれば娘達は僕と出掛けようなんて思わなくなるだろうし、人生には”今だけ”って時があるもんである。(2009,8,16)

07/31 講師 無事終了

横須賀市生涯学習講座講師:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

横須賀学の会と横須賀市生涯学習センターの企画になる”横須賀の海を楽しむ”、全4回の生涯学習講座最終回の大トリの講師のお仕事を無事終えた。正直なところ、受講者の皆さんのリアクションを見ていると、”クイーンメリー2を神々しく見よう!”というテーマからクイーンメリー2の真髄を知っていただくためにオーシャンライナーの歩み-大西洋編といった感じで話したが、やはり普通の一般的な方々には、大西洋航路っていうものが縁遠く(僕もそうだけれど)、いまひとつピンと来なかったかもしれない。残念だったのは、思ったとおり時間がとても足りなかったことだ。それでも、今後、この講座は発展してゆく可能性が高いので、再度、反省を踏まえ質の高いものにしてゆきたいものと決意を新たにするばかりである。今回の講座を受け持ったことは、体系的に知識を整理する良い機会だったし、自分の知識のどのあたりが弱いのかも知る事ができて何よりだった。

まあ、何十年経っても、ダメなところはダメで・・・若かりしころ、教育実習生として母校の教壇に立った時、生徒たちから評判が悪かったのが板書。この写真の字を見りゃ・・・時間が足りなくて慌てて書いたなんて言い訳が通用しないくらいお粗末。猛省するばかりだ。歴史系の先生に多かったが、とにかくやたら板書、下手すると黒板を2つに分けてそれを都合6面くらいやる先生もいたりしたが、さすがそれだけの物量をこなすだけあって、字の個性はともかく、あの水平を保った状態の板書っていうのは神業だと、自分がやってみると尊敬に値する事と痛感する。しかしそれが仕事とはいえ、違うクラスではまた同じ事を書くわけで・・・それだけで僕には教員になる資質が無かったのだろう。ちなみに母校、鷺宮高校では日本史の授業を受け持った。

さて、今年は冷夏、確かに、子供達とセミを採りに行っても例年より少ないし、今年はやたら羽化に失敗したセミを見かける。先日は羽が伸びきらなかったアブラゼミの羽をぬるま湯と冷水を使って伸ばしてあげたが(無事飛んでいったようだ)、来週は阪神タイガースの死のロードならぬ”魔の一人暮らし”だ。一昨年は5kg以上体重が落ちてえらい目にあって、昨年はその顛末をしっていた牧師のM先生が「とにかく肉を食わせなきゃならん」と心配してくれてホルモン焼きを食しに誘ってくださった。今年は、冷夏だからそこまでは行かないと思うものの、よっぽど気をつけて掛からなければいけない。若くはないんだしねぇ・・・苦笑(2009,7,31)

07/21 ハワイのカラカウア王の話

オセアニック号・カラカウア王訪日:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

通算来店回数では恐らく2位であろうえいねんさん。彼の薦めで、店では湘南ビーチFMをかけていることが多い。ちなみにインターネットラジオでは同じサイマルラジオの中の熱海コミュニティFM、Ciao!も贔屓だ。子供のころに週末を過ごした網代やら熱海周辺の話が懐かしく楽しいし、ローカル番組の良さで70年代のディープな歌謡曲が飛び出したりで楽しい。難点はPCの不具合かどうか、たまにつながらない事で、結局葉山の湘南ビーチFMと半々くらいで掛けている。さて、前々回、ピースボートのポスターの話を書いたが、そのピースボートが使っているオセアニック号(どう考えてもoceanicはオーシャニックと読めるのだがオセアニックのやっぱり表記が多い)と同名の船名が湘南ビーチFMから聴こえてきた。ハワイのカラカウア王が1881年(明治14年)にオセアニック号に乗って来日したという話だ。

以前からハワイの王様が来日して、明治大帝に皇室との縁組を提案したという話は知っていた。船の名前が出たついでに調べてみると、この来日は興味深いもので、大日本帝国にとっては(もっと言えば日本国)史上初めて来日した国家元首だったそうで、カラカウア王の乗ったオセアニックが横浜に入港する際は、港にいた英国やロシアの軍艦は礼砲をならし、王の上陸にあたっては日本の軍楽隊が当時のハワイ国歌を演奏したのだとか。そして、明治大帝との会談でカラカウア王が提案したのが養女にして次のハワイ王になるのが有力とされていたカイウラニ王女と山階宮定麿王の結婚であった。(山階宮定麿王は後の東伏見宮依仁親王、海軍大将元帥)当時、ハワイは経済的にはアメリカに依存しつつ19世紀中ごろには英国やフランスが領有権を宣言するなど列強の抗争に巻き込まれており、特に米国系移民による米国との併合の気運には抗えない深刻な状況にあった。巷で言われるように米国よりも日本との併合を望んだ・・・という事実は大げさな作り話の感があるものの、日本との縁組でカメハメハ大王以来のハワイ王朝とハワイの独立を維持しようとしたことは事実のようだ。明治大帝は米国との摩擦を杞憂してこの縁談を断るが・・・ここからはタラレバ話が多く、もし縁組がなっていたらとなると、歴史学者にいわせれば、少なくともハワイ王朝は延命されたとされているし、奇想転外な話ならいずれハワイを日本が併合して布哇県(はわいけん)が出来て・・・なんてものもある。当のカラカウア王は太平洋地域の島の合衆国を建国することを望み、その支持基盤に日本との縁組を考えたとされている。ハワイ王朝崩壊のクーデターはアメリカ人農場主と海兵隊によるもので、いわばハワイ領有のための自作自演クーデターのような側面もあり、結果を見ればカラカウア王の危惧は現実となったわけである。

で、カラカウア王の乗ってきた船、オセアニック号、これが20世紀初頭から半ばあたりが得意な僕にとってはすぐにピンと来ないものの、なかなか歴史的に意義深い存在の客船で、オーナーはあのタイタニックのホワイトスターラインである。1840年にキュナードが英国の郵便輸送業務を請け負うと、誰もが儲け話には敏感なもので次々とライバルが現れることになる。有力なのは北ドイツロイドライン、インマンラインなどだったが、そこに彗星のごとく現れるのがトーマス・イズメイ(あのタイタニックのブルース・イズメイの父親)だった。彼は有力な出資者を得て、アイルランドのハーランド&ウォルフ社で全ての船を建造することを条件にホワイトスターラインを興した。既に船会社での勤務経験を持つイズメイには、その現場経験をもとにした理想的な客船の構想がきっちりと描かれており、その構想が1871年3707トンの第一船オセアニックとして姿を顕した。この船は、今なら当たり前といいながら、当時は画期的な構造を持っていた。船体の長幅比が10:1でスマートで一等船室が中央にあったことである。外輪船の時代は巨大な外輪が船体中央にあるため一等客室は船尾にあった。(帆船時代の船長公室も船尾だ)外輪船からスクリュー船に変わってもこの伝統を破るものはいなかったところ、イズメイは一番乗り心地の良い中央部に躊躇無く一等船室を移したのである。さらに船体幅一杯のメインダイニング、主機関の効率は高く同クラスの船と比べて石炭消費量はほぼ4割減・・・さらに第二船第三船のブリタニック、ジャーマニックがブルーリボン(大西洋最速横断記録更新に与えられる)ホルダーとなったことでもわかる安定した高速性能、当時”現代客船の母”ともてはやされたのが、このオセアニックだったのである。

このオセアニック、定期航路としてはリバプールとニューヨークで運用されたが、就航から10年後、別の船会社にチャーターされ世界一週航海に出る。サンフランシスコを出港した次の寄港が横浜、カラカウア王はこの時にオセアニックで来日して、明治天皇を会談、その後もオセアニックで世界を回り各国首脳と会談する中でハワイの状況改善の機会を伺っていたのだそうだ。布哇県・・・ハワイ王朝には申し訳なくも、もしハワイが日本だったら・・・イイナ(2009,7,21)

07/18 灯ろう夜市2009 開店3周年

横須賀灯ろう夜市2009:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

17日、今や横須賀上町の風物詩にもなった感のある灯ろう夜市が開催された。併せてこの日は第三金曜日で、先月から始めたウワマチナイトの日、外では灯ろうの風情の中、お酒や食べ物を持ち寄っての宴会である。メンバーも先月とは若干入れ替わり、独身女性の参加者も約一名あって大いに盛り上がって何よりである。22時を過ぎたあたりから”空白の時間”でやたら楽しいことだけが記憶にあるものの、とりとめのない笑い話・・・これがイイんだなぁ・・・

さて、この日は大げさなモンでもないが、オーシャンノートの開店3周年でもあった。改めてお客様にはこの場を借りて感謝いたします。石の上にも3年とはいうものの座った石はまだまだとても温まったとはいえず、機転が利かず意固地で頑固といえば「スミマセン」というしかないものの、ほぼ初志を貫徹し続けていることにだけは誇りを持っている。同様に、ウチの商品・・・にも揺るがぬ自信を持っているつもりである。

思えば3年前の開店も、ささやかなスタートで、商店街からの昔ながらの花輪だけがそれらしく見えたのみで、ただひとつ、上町教会の森田牧師夫妻がいらして下さって、開店のお祝いに祝祷(になるのかな?)、多分マタイの福音書なのだと思うがタレントの説教をしてくれたのをありがたくも良く憶えている。「神様は小野寺さんにオーシャンノートというお店を作るタレント=才能を与えてくださいました・・・」  そのタレントを活かしきれているかどうか、結局、時の流れは止まらず句読点を打って総括することもできないが真面目と頑固くらいしか能がないことは良くわかったし、格好良く市場がどうだとか需要がどうだとか、そんなモン今のオーシャンノートにはあまり関係ない。日々、実に地道に淡々と努力するのみである。(2009,7,18)

07/14 ピースボートのポスター

SS OCEANIIC、ピースボートのポスター:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

いつの頃からか、店先にピースボートのポスターを貼らせてあげている。僕はピースボートの何たるかを詳しくは知らないし、調べてみればいろいろな問題点やら不評もたくさんあるようだが、別に自分が乗るわけではなし、一部で言うほど政治的な陰謀があるようにも感じないし、学生さんらしき若者がボランティアで「ポスター貼らせて下さい」と来れば、「ヨシヨシ」ってなもんである。もっとも、ある時に来た若者と立ち話したら、彼らはボランティアでポスターを貼ってピースボートの乗船料金を稼いでいるのだそうで、しかしながらいずれにせよそうして夢を叶えることに頑張っていること自体には賛同している。詳しい料率は聞いて忘れてしまったが、ポスター貼りだけで旅費を全額賄うには3600枚くらい貼らねばならないらしい。今回やってきた女子は強者で、全額タダを目指しているそう・・・すでに10万円分やっているとか・・・ピースボートの是非はともかく、若者が世界一周するのには良い機会であることは確かで、このところ親しい横浜のマッド客船グッズコレクターのAさん(この方のコレクションは凄い、ノルマンディーの荷札ステッカーだけで10枚くらい持っているし、戦前の郵船の食器なぞ400点以上持っているのダ)と話していたら、「やっぱ、いよいよクイーンメリー2に乗ったら?」というと「冗談じゃあないよ。一週間くらいのクルーズでも100万円の衣装代がかかるんだよ・・・」  ギョッギョッギョッである。Aさん、飛鳥IIなんかしょっちゅう乗ってるらしいが、親しい旅行会社にクイーンメリー2の事を聞いたら「その辺の量販店の30万円くらいで揃う衣装じゃあだめですヨ!船内で相手にされませんから。デパートで100万円くらいで揃えてくださいネ」と言われたとか・・・いやはや、ピースボートを難民船みたいだという人もいるが、現実的にはクルーズは相当余裕がなければ楽しめないわけで、そういった意味でひとつの意義のある企画だと思っている。

現在、ピースボートは第66回地球一周の最中でベネズエラを出港してカリブ海にいるが、8月26日にスタートする第67回地球一周の出港前日、8月25日に使用している客船SS OCEANIICが一般公開される。この数ヶ月、店に来る船キチさんたちが口々に「オーシャニックのときは・・・」やら「オセアニックは・・・」とか口にするので気になっていたが、僕は専ら戦前のオーシャンライナー専門で(専門といのも格好良すぎるが・・・失礼)、フェラーリファンにポルシェの話をしたところで上の空であるのと同様、右から左であった。しかしちょっと調べると、これがなかなか素晴らしい客船で、主にジェノバとカナダを結んだ1965年就航のれっきとしたオーシャンライナーなのである。カリブ海のクルーズでも大成功した船でその消席率は95%まで達したこともあるそうだ。定義はないが、海外では一般的にスーパーライナーという場合、5万トン、巡航28ノット以上とされるので、38000トンで巡航26.5ノットのオーシャニック(オーシャニックと読めるが、オセアニックと表記されることが多い)はスーパーライナーとはいえないが、それでも建造当時とほぼ同じままで維持されており黄金時代のオーシャンライナーの一端をみるには十分のようである。

しかし船齢40年以上となっても25ノット以上のサービススピードを保っていることになっているが、これは実に素晴らしいスピードだ。客船としてはクイーンエリザベス2なき今、クイーンメリー2の次に速い(排水型)高速客船といえるのではなかろうか?いずれにせよ、一見の価値はあるので8月25日の大さん橋はお薦めだが、オーシャニックのオーナーは正式にピースボートとなっていて・・・これはチャーター船ってことではないらしい・・・ハテ?(2009,7,14)

07/10 講師の準備

横須賀市生涯学習講座資料・客船史レジメ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

横須賀市生涯学習財団の講座にてクイーンメリー2を中心としたテーマで講師を務めることになったことは既に書いた。7月30日の予定だったが、全4回のうち、16日の第3回目は船の観察会で屋外で実施するが、もしこの日に台風でも来たら第3回と第4回を入れ替えるかもしれないとの連絡をもらい、月末と思ってノンビリ構えていたところが大慌てで準備をしている。丸一週間かかったがやっと一段落といったところでこうして店長日記を書く時間もできた。いまさら世界一の大きさでもなく、かなりの高速船であるには違いないが黄金時代の客船ほどのスピードもない(QE2の方が退役時でも速かったはずだ)、それなのに何故この客船が特別な存在なのか?・・・来年も横須賀沖を通って横浜に寄港するが、心してクイーンメリー2を見るべし!そんなお話にするつもりである。そうなるとこの船が背負っているものを話さなきゃならないから、結局20世紀100年分の大西洋横断客船史を分かり易くまとめることになった。ありそうでないのが主要な客船の一覧表で、結局悪戦苦闘しながら100年間の主要な大西洋定期客船一覧の資料を自分で作ってしまった。(自己満足陶酔型の僕だから、この資料一枚だけでも講座に出た甲斐がある・・・くらいだと自負している)

こうしてビジュアルに見ると、驚くのは・・・船の寿命の短さだ。QE2は40年も活躍したが、これは異例だとしても、本来30年くらいは使える”豪華客船”が5年10年でいなくなってる・・・そう戦争である。日本の場合、1万トン以上の客船で残ったのはわずかに氷川丸1隻のみ、いかに戦争というものが損失多きものか改めてわかろうというものだ。

当日の講座はレジメ・資料をOHPで写しながら喋る。実は、僕はパワーポイントアレルギーなのだ。僕はあまのじゃくだから、皆がこぞってパワポを熱心にやっているからついついソッポを向いてしまって、そんなことしてるうちにすっかり遅れてしまって今更面白くないし、使う機会もないから縁遠いままなのである。本心から言えば、昔ながらのポジフィルムを使ったスライドショーでやりたいくらいなのだが・・・やはり、写真の美しさではこれには叶わないから・・・ところでコダックがコダクロームの生産を止めたとか・・・ポジフィルムなんて今時売っているんだろうか(苦笑)

いずれにせよ、随分久しぶりに人前で喋る機会となるわけで、果たして上手くできるやらどうやら・・・(2009,7,10)

06/29 横須賀市長選挙 蒲谷さん敗れる

蒲谷元横須賀市長:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

巷のニュースでも散々話題(ニュースステーションでもトップだったなあ・・・)になったのでご存知のとおり、昨日は横須賀市長選挙の投票日、現職で2期目を目指された蒲谷亮一さんが、元横須賀市議の吉田雄人さんに敗れた。僕は、一介の町場の商店主だから政治的な発言は控えるし、我が一票を誰に投じたかを明らかにはしないが、オーシャンノート開業3年、蒲谷市長(任期は7月9日までだから、今はまだ市長さんだ)とは頻繁ではないものの、2回ほどこの横須賀上町の店までお運びいただいたし、負けは負けとしても一言「4年間ご苦労様でした」と申し上げたい。

蒲谷市長に初めてお目に掛かったのは3年前の3月、横須賀市ベンチャー支援事業認定の認定書授与の時だ。大変、紳士で真面目なお人柄とお見受けしたのが今でも印象に残っている。その年の夏、無事オーシャンノートを開店してしばらくした頃、商店街視察とのことで上町に見えた際には市役所の某氏が気を利かせてくれて、ベンチャー支援事業にかこつけて蒲谷市長の立ち寄る店にオーシャンノートを入れてくれたので、店を市長に披露させていただいた。この時にはわざわざ、お運びいただいたのに手ぶらでお帰ししては申し訳ないことと、ちょっとしたお土産をお渡しした(市長室に飾ってあるはずだが、これもなくなるんだろう)ところ、後日、大変に丁重なお礼状を下さった。気配りにもなかなか長けた方と感じ入ったもの。そして昨年末は、優良商店表彰のためにお見えになった。これは、お得意さんやら友人やらが集まってくれてちょっとしたお祭り騒ぎになってしまったが・・・まさか、その時に蒲谷さんに2期目が無いなんて夢にも思わなんだ・・・

自民党に民主党、公明党の総相乗り状態、市議40数名のうち30人が支持表明、小泉元総理も全面支援、足元見れば商店会だって基本的には支持・・・これで負ける・・・吉田さんがよほど凄いのか、新聞やテレビじゃあ、さもわかったように解説するが、当の有権者にしてみれば、結果はこうなったものの、何が何だかわからないってえのが本音だろう。先週半ばも、お得意さんのお一方が見えて「今回はわからないんだよ。どうしたら良いかと思って、店をやってる小野寺さんならいろんな情報もあるかと思って来たんだが・・・」なんてこともあった。実は僕自身は、特に迷いも何もなかったが、投票所に行ってから、まさにその間際で迷いに迷った。そんな声は、店のご近所の某商店主さんも同じだったらしく、投票を済ませて店を開けていたら目の前のバス亭に居たその某さんと「難しいねぇ・・・」で盛り上がってしまった。この迷いと難しさの結果が・・・ご存知のこの結果なのだと思う。吉田さんは新市長になられるが、諸手を挙げての支持だとはくれぐれも思われないことだ。吉田さんのマニフェストは横須賀市全戸に配ったと大声で言っているが我が家にも店にも届いていないし、具体的にそのマニフェストのデティールも知らないし、平均的な市民の僕が分かってないくらいだからそこに票が集まったと思うのはいささか僭越というものだ。ちなみに呉東さんのマニフェストは頂いたし、店にもいらしたのでお話もした。蒲谷さんも見えて5歳の次女も親しくお話したし、意外に選挙期間中一番縁が薄く、僕自身、見たことはあっても会ったことのないのは3人のうち吉田さんだけだった。有権者は、僕自身もそうだし、みんな僕の知るところでは迷って迷って・・・たまたまギリギリの微風が吉田さんに吹いただけ、そう思ってどうかこの横須賀市の発展に尽くされるよう願うばかりだし期待している。逆に、市長の椅子から去る蒲谷市長におかれても、明確な不支持(実際、争点に乏しい選挙だった)で負けたわけではないと思っていただいて宜しいのではないかとも思っているし、4年間の功績に率直に敬意を表する。チェンジ・・・か。(2009,6,29)

06/20 カクテル オーシャンノート

横須賀上町ナイト20090620:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

居酒屋オーシャンノート開店?・・・冗談である(笑)

来月でオーシャンノートもお陰様で開業3年を迎える。石の上にも3年とは言うものの、まだまだ仕事自体は道半ば、いやいや考えてみれば仕事というものは永遠に道半ばかもしれない。僕は享楽主義者ではないが、折角3年、陰に日向にいろいろな形で応援してくれている皆さんを招いて ささやかながらパーティを開いたというわけである。ご他聞に洩れず、ここ横須賀上町もややシャター通りになりつつあるし、なんだか賑やかにやっているゾ、ってな街のムードを作ることの一助にでもなれば尚宜しかろうという考えもあったし、何より会社勤めを辞めてすっかり一杯飲みに行く機会も減ったので僕もお客さんも楽しむにはもってこいだ。

オリジナルカクテル?の”オーシャンノート”が大好評だったのでデザートワインを飲むために思いついたワインと焼酎のチューハイをご紹介させていただく。簡単で夏にはピッタリである。白ワインと焼酎を1:1で混ぜる。ここに750mlのボトルに対して10%程度のブルーキュラソーを混ぜる。氷を入れたグラスに注いだら、好みでソーダを入れレモンスライスを浮かべて出来上がり。昨日は20度の焼酎を使ったのでワインと混ぜてブルーキュラソーを加えてればほぼ16度くらいだから、多少ソーダで割った方が宜しいかもしれない。このお酒の良いところは、パーティ用に便利なこと、あらかじめ、ワインボトルで混ぜちゃって冷やしておけば、あとはいちいち作る必要がない。

つまみは3軒隣のお惣菜屋さん、高城食品さんに願いしたが、今回はとても少ない予算に合わせて出血サービスをしてくださった。ここん家の漬物は・・・絶品である。50年モノのぬか床、30年研究したキムチ・・・これは真似ができない。一応、毎月第三金曜日に恒例とする予定だが、来月は丁度17日(金)、横須賀上町の灯ろう夜市と重なるので今から楽しみである・・・(2009,6,20)

06/08 白石康次郎さん 不屈のひみつ

アート・ポスター・写真・海・販売・通販【Ocean-Note】blog白石康次郎

昨日の読売新聞日曜版、「不屈のひみつ」コーナーにヨットレーサーの白石康次郎さんの記事が載っていた。この記事、その人の人生が折れ線グラフで描かれていて、そのカラッとしたところが重たくなくて良いコラムだと思ってる。白石さんの場合、やはり世界一周ヨットレースに二度失敗した時が折れ線グラフの最下点とされていて、このことは白石さんにお目にかかった時もお聞きして言葉では頭に入っているつもりだったが、改めて折れ線グラフで見ると人の人生の山あり谷ありを感じる。僕の人生をグラフにすれば、端から見れば営業職としてそこそこの栄達を得て独立開業、順風満帆に見えて折れ線グラフは最高点に達しているように見えるかもしれないが(苦笑)、これはやってる方ならお分かりのとおり店を構えて自分で商売をやるってえのは本当に楽なことではないし、その商売が心底好きじゃあなきゃとてもできないと思う。おまけに身内の不具合も重なったりすれば・・・「こりゃあ、俺の折れ線グラフは最下点かもしれんゾ」・・・などと(また苦笑) そんなときにこの記事の白石さんが初めて単独世界一周レースを完走して人生観が変わったというお言葉が胸にしみる。曰く(以下引用)「泣いたからわめいたからって風は吹かないし、逆に収まらない嵐もない。人生も同じ。暑くても冬は来るし、寒くても夏は来る。時々に応じていけばいい。」(引用ここまで、読売新聞6月7日付け日曜版) (2009,6,8)

05/31 大さん橋・ベイブリッジの高さの記事

横浜開港150周年とのことで、今年の横浜はお祭りムードが盛り上がっているようだが、先々週から今日までの読売新聞日曜の神奈川版地域欄に掲載された大さん橋全三回の記事はなかなかお勉強になった。僕は昭和37年の生まれだから外国への玄関として全盛だった頃の大さん橋は余り知りようもなく、最初の記憶はクイーンエリザベス2が初入港したのを見物に行ったことだったが、現在のアレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ設計によるものになる以前の大さん橋には随分と馴染みがあったものだった。20代の早い時期は車を運転してどこかに行きたい盛りだったから、土曜の夜になると良く大さん橋まで車を飛ばしていたのを覚えている。日によるが、当時の大さん橋は昼間ならいつも、土曜の夜もたまにさん橋の先端まで車で入れた。土曜の夜は東海汽船の伊豆七島航路の船が寄っていて、それを見送るのも大好きだった。時にはさん橋の先っぽでカーステのボリューム上げて音楽を聴くことなどもあった。まあ、その後は大抵、元町の裏のカフェバー(懐かしい!)あたりで遊んで帰るわけだが、時は流れ横須賀に移った後は随分長いこと車の無い生活が続いていて、大さん橋といえば、関内あたりで一杯やると電車が間に合わなくて帰れないことが多くて、行くあてもないから大さん橋で朝を待つ事が良くあった。これまた今と違ってターミナルの中には入れなかったがデッキへの出入りは自由だった。

昔話はともかく、読売新聞の記事はざっとこんなことである。ご参考まで・・・開港当時の横浜港は現在復元をやっている(終わったかな?)象の鼻がメイン、現在のニューグランドあたりにフランス波止場ができたものの、いずれにせよ外国航路の船は直接接岸できずもっぱらはしけを使って人貨の積み下ろしをしていた。で、大きな埠頭を造る必要があったわけだが当時の明治政府にはお金が無くて造れない。1864年下関事件で日本は300万ドルの賠償金を支払う事になるが、1883年、この賠償金が高すぎたとの理由でアメリカは日本に77万5000ドルを返還する。(補足:増上寺にグラント松という松の木があるが、この松を植えた南北戦争で有名なグラント将軍は親日派で、グラント将軍が日本の早々の発展を願って賠償金の返還に尽力したらしい)大さん橋はこの返還された資金を元に建設されたのである。完成したのは1894年、長さ457メートル、幅19メートルの大さん橋は直径32センチ、長さ16-20メートルのスクリューパイル(補足:先端がスクリュー状=螺旋状で回転させながら打ち込む杭)を約500本海底に打ち込んで建造された。そのため大さん橋は別名鉄桟橋と呼ばれたそうだが、このスクリューパイル、結局、現在の2002年に完成した大さん橋になるまで100年以上大さん橋を支えたのである。1899年には幅を41.8メートルに広げ、海底を7.9メートルから10.6メートルに浚渫し1万トン級の船も停泊できるようになるが、1923年に関東大震災でさん橋は海に沈んでしまう。政府は、これをわずか2年で復旧、太平洋定期航路も戦前の最盛期を向かえ、送迎デッキ(僕が朝を待ったデッキである)や、帝国ホテルが運営するレストランも新設される。記事にはチャップリンの挿話もある。チャップリンが帰国に際して選んだのは日本郵船の氷川丸、この決め手となったのは天ぷらだそうで、氷川丸の乗船中、チャップリンは毎日天ぷらを食していたそうだ。戦争をはさみ、接収されたいた大さん橋が返還されるのは1952年、以後大さん橋を利用していたアメリカンプレジデントラインはその頃を知る方々には懐かしいものだろう。今年は、横浜市の外国客船誘致でクルーズ船の寄港は過去最高の20隻になるという。ちなみに、記事最後の方には直接大さん橋の話ではないが、今年の3月6日に日本へ初寄港したクィーンメリー2が大さん橋に着く事が出来なかったことも書かれている。

この記事では定説になっているベイブリッジの高さがどうして決まったかも明記されている。退役したクイーンエリザベス2の高さ53メートルをかわせるように56メートルで設計されたので高さ62メートルのクイーンメリー2はくぐれずに大黒埠頭に接岸せざるを得なかったのだ。補足すれば、当店のお客様から聞いた話では、そのことを決めたのは当時の海上保安庁の方(お名前は失念)だそうで、これは当時としては無理の無い話しで、1980年代と言えばキュナードにしたところでクイーンエリザベス2を最後の定期船としてあきらめていたし、世間の流れも船の時代の終焉を惜しむ風潮に浸かっていて、現に当店で扱っているGREAT LINERSなるDVDや絶版ではあるものの素晴らしい内容のナショナルジオグラフィックビデオ"THE SUPER LINERS - TWILIGHT OF ERA"(日本での題名では夢を乗せた豪華客船クイーンエリザベス2世号・・・変な題名になっている)などで見られるように80年代にはもうこれ以上大きな船は出来ないと思われていた。クルーズ客船がこんなに大きくなるとは想像できなかったろうし、クイーンメリー2だってカーニバル社のミッキーアリソンがクイーンメリー2を作るためにキュナードを買収しなければ当然存在しない。もうひとつ余談ながら、クイーンメリー2のスファンペイン氏の当初の設計は高さが70メートルくらいだったそうだが、そうなるとニューヨーク港入り口に掛かっている65メートルほどのヴェラザノ・ナローズ・ブリッジをくぐれないので62メートルにした。ちなみにこれでサンフランシスコのゴルデンゲートも無事くぐれるのである。(参考:読売新聞大桟橋の記事 執筆:横浜みなと博物館 山口祐輝氏、同 志沢政勝氏、市川憲司氏)

京都駅ビルの意匠には賛否両論がある。これに対して設計者の原広司さんが寄せた談話か何かを薄っすら記憶しているが、京都の社寺だって1200年前はモダンな賛否の飛び交うものだったろう・・・といった趣旨だったような。現在の大さん橋にはやや風情が欠けているようにも思うが、まあこれが100年後には結構な風情になっているかもしれない。なにせ22世紀はドラえもんを見る分にはとんでもない未来都市になっているのだから・・・(2009,5,31)

05/26 ケープコッド

先般、上町教会の日曜学校を紹介して差し上げた三浦のGさんがその縁で店にいらして「懐かしい・・・」とおっしゃる。Gさんはご主人の仕事の関係で世界のアチコチの海辺の街で暮らした経験をお持ちで、そんな街にならウチのような店が必ずあるから戻ったような感覚をお持ちになったようだ。Gさんが住まれたことのある場所をお聞きした中に「・・・イギリスのニューキー・・・」が出てきて、これはなかなか日本で知っている人の少ない場所ながら「ああ、コーンウォールの・・・」と、商売柄僕にはすぐにわかるのでGさんも逆に驚かれたようだ。ニューキーなんていえば普通は場所や土地柄を説明しなきゃならないものの、僕は旅行好きでも豊富な海外経験があるわけでもないが、とにかく海の絵やら写真をみるのが商売だから、自然と画題になりやすい素敵な土地の名前は覚えてしまう。このところ急速にマイブームになっいるのはマサチューセツ州のケープコッドだ。アメリカ東海岸には行ってみたいところが沢山ある。ノースカロライナのアウターバンクス、ニューヨークのロングアイランドやニューヨーク湾入り口のサンディーフック、メイン州のベナブスコット湾やポートアイランド、フロリダのベロビーチ・インディアンリバー、無論思いっきり下ってキーウェスト・・・そんな中で外せないのがマサチューセツのケープコッドだ。

メイフラワー号が大西洋を渡って着いたところはプリマス、これは教科書の載っているけれど、本当に最初に投錨して上陸したのはマサチューセツ州のケープコッド、その先端内側、現在のプロヴィンスタウン、1920年11月19日のことだ。それ以前から、ケープコッドは船乗りたちにとってアメリカの格好の目印だったそうだが、移民ももちろんこの半島を目指してきて徐々に街が出来ると、当時は燃料を薪に頼っていたためケープコッドの樹木は18世紀にはあらかた消えてしまったそうだ。漁業基地として一時栄えたものの、この半島が注目されたのは19世紀中ごろからのリゾート地としての人気からだ。夏涼しい海洋性の気候は快適でニューヨーカーやボストニアンの夏の避暑地として一躍脚光を浴びるようになったのである。現在でも産業らしい産業に乏しく、専ら観光が主体の半島だが、その景観の素晴らしさは折り紙つきで、ここを中心に活動する芸術家は多く特に先端のプロヴィンスタウンは芸術家の街として有名になっている。僕がケープコッドを知ったのはアメリカの灯台をあれこれ勉強していた時だった。アメリカの灯台といえば何と言ってもマサチューセツ州北側のメイン州が主役ではあるが、その次は問われればノースカロライナのアウターバンクスかケープコッドだ。ロングポイント灯台、ウッドエンド灯台、レースポイント灯台、ハイランド灯台、ナウセット灯台、チャタム灯台、それこそ灯台を訪ねるのが好きな人にとってはヨダレが出そうなフォトジェニックな灯台がズラリなのだ。ケープコッドは地質学的にはニューヨークのロングアイランドアイランドと連なるアウターランド(海岸線の外側の列島)だそうだが、ケープコッドの肘から上の部分は堆積の洲で、一説によれば侵食で無くなるとも言われる。

ケープコッドの写真・・・写真家ジョエル・マイヤウィッツが素晴らしい作品を残している。1993年に上梓されたBAY/SKYという写真集である。ジョエル・マイヤウィッツといえば911の後、(誰も立ち入れなかった筈の)グランドゼロを撮り続けた唯一の写真家として再び高名となりストリートフォトグラファーとしての真骨頂を見せ付けたが、そもそも1978年にケープコッドで撮った写真を集めたCape Lightという個展をボストン美術館で開いたのが出世となり、再びケープコッドで撮ったBAY/SKYは現代写真の不朽の名作として評価される。海を撮った写真と言えば僕は杉本博司の海景が一番に頭に浮かぶが、このケープコッドもまた名作、そしてそのジョエル・マイヤウィッツの影響を受けたという野寺治孝によるTOKYO BAYも素晴らしい。海を撮るというテーマ、冷静に考えれば、それは波であったり、ヤシの木であったり、ヨットであったり、様々な視点があって風景を撮るのか海を撮るのかというエッセンスの部分は広範になりがちだ。ジョエル・マイヤウィッツのBAY/SKY、杉本博司の海景、野寺治孝のTOKYO BAY、この三者に共通点を見出すのはジョエル・マイヤウィッツの写真集の題名が如実に語る。BAY/SKY、つまり海を撮るというところにテーマを絞ると、それは海面を撮る事ではなくて空を一緒に撮るという事になるのであり、空の表情や光があって無限ともいえる海の表情が生まれているということだ。僕は芸術方面の出ではないからアーティスティックな価値判断は出来ないけれど、見ようによっては退屈かもしれない海の表情である。そりゃあ、例えばこう言っては何だが杉本博司の海景、太平洋、大西洋、地中海・・・と水平線を撮ったモノクロ写真を見てたってどれも似たようなものである。太平洋なら海が赤いわけではないしましてモノクロ写真である。しかし、それが今日世界的に恐るべき高い評価になっていることを考えつつ(杉本博司の写真は世界中の美術館が血眼になって収集している)、頭の中を真っ白にして見直すと言葉にならない良さがある。このあたり、個人的には野寺治孝のTOKYO BAYを見てみると、やがて難解ともいえるジョエル・マイヤウィッツや杉本博司あたりまで入ってゆけるのではないかと思っている。今や絶版で入手が難しくなりつつあるジョエル・マイヤウィッツのBAY/SKYの額装を試みたものを20点ほど、それと、写真集というものはそれはそれで写真家が意図するところの表現のフォーマットだが本と言う体裁である以上、普通は1ページづつしか見れないところに着目し、野寺治孝のTOKYO BAYは複数枚を組み合わせて額装する試みをやってみた。(これはすごく大変な作業、できるものならやってみな・・・ってなもんである)

すっかり憧れのケープコッドになってしまったものである・・・(2009,5,26)

05/21 Spaghetti aglio olio e peperoncino

スパゲッティ・アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日は定休日、昼食にやっと念願のペペロンチーノにありつけた。このパスタを嫌いだという人はあんまりいないと思うが、僕はとりわけ大好きで20代後半の夕食は3日に一回は(もっとかもしれない)麻布台のニコラスで食べていたものだ。このところ定休日でも行事やら何やらで子供達のどちらかが家で昼食だったので辛いパスタはダメ、昨日は子供達が居らずペペエロンチーノを作って食べた。舌とか脳には宜しからぬようだが、僕のペペロンチーノはかなり辛い。ニコラスでも僕のためには特別に唐辛子を多くして作ってくれていたものだった。

麻布台のニコラスはホントかウソかは知らないが、日本で最初のピザハウスといわれている。(もっとも、これまた良く行っていた六本木のシシリアも同時期には開店している。いずれも僕が生まれるずっと前、1950年代中ごろからの老舗だ)ここには実はサラリーマン1年生の時から行っていて、ニコラスで昼食がとれるように六本木界隈のお客さんへのアポをとったりしたものだったが、そんな立ち回り先のひとつにハラー・ジャパン(現インター・オフィス)があって、やがてこの会社に転職して勤めることになるのである。そして当時、このハラー・ジャパン・・・ニコラスの隣の雑居ビルにあったので当然のように入りびたりになってしまった訳だ。今時のイタリア料理屋さんは、ヌーベルキュイジーヌのムーブメント以降、フランス料理との垣根があいまいながら、それはとても良く出来たものでニコラスやらシシリアをイタ飯屋さんと思う人も少なくなっただろうが、個人的にはそんなにエエカッコせんでも美味しいものは美味しいだけで○(マル)なんじゃあないかと思っている。当時のニコラス、ピロティ建築のガランとした店は風情があって大好きだったが、10年ほどしてウィルクハーン・ジャパンに2度目の転職をして六本木に戻ると、建て替えられており、現在は森ビルのオフィスビルに再度建て替えられてしまったようだが店は健在のようだ。

しかしまあ、このペペロンチーノ、何でこんな何も入っていないパスタがこんなに美味しいんだろう?イタリア料理は総じてシンプルな作り方が美味しい。トマトソースを作るのにちょっとフランス料理的にニンジンやらセロリやらをブーケガルニっぽく入れたら全然おいしくない経験をしたが、やはりこのところ我が家でブームのチャーハンは、親心から栄養を慮って色んな野菜を入れたら長女が一言「いつもの方が美味しいね・・・」クールに言われてしまった。料理は作りすぎちゃあイケナイ・・・と日頃思っているが、これは絵や写真も同じようである。このところアメリカの写真家ジョエル・マイヤウィッツさんの写真集BAY/SKY(写真集と侮るなかれ、93年初版のこの写真集は絶版で、コンディションの良いものは500ドルを下らない!)の額装の作業をしいるのだが、杉本博司さんの海景もそう、野寺治孝さんおTOKYO BAYもそう、写真も撮りすぎちゃあイケナイものなのだとつくづく思わされる。マイナスワンを心がける必要はなかろうが、ウィスキーの宣伝さながら足さない引かないはやはり大事なことなのだろう。と思いつつ、昨夜は大好きなカリフォルニアワイン、カルロロッシを焼酎で割って飲んだら・・・旨い、旨すぎる。思っていることとやってる事の違いには・・・誰しも悩ませられるものである。(2009,5,21)

05/14 人生はパッチワーク

観音崎20090514:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日は定休日、たまたま8回目の結婚記念日だった。結婚してしばらくは、今から見ればあきれるほど享楽的な日々を送っており、ケーキと言えば麻布のピラミッド(友人が勤めていたので贔屓だった。そんなに騒がれる店じゃあないが、友人からその材料の良さや、まさに昔ながらのキツイ手仕事を聞くとシンプルながらしっかりした味には惚れ込むばかりだった)のものばかりいただいていたものだったりしたが、自分で商売を始めるとやってる人ならおわかりの通り、そんな余裕のあるものではないから、物心ついた子供達にたまにはいい思いをさせたくて、久しぶりに8年前に結婚式を挙げた観音崎京急ホテルのティーラウンジでケーキをいただいた。

僕の結婚式はこれまたなかなか注文が多いもので、ここの海の前で結婚式をするんだ!と決めてからホテルに打ち合わせに行くものの、最初はイメージを分かってもらうのに苦労した。ホテル側にしてみりゃ、長年の経験でベストな方法論を持っているのだろうが、僕はそんな事はなっから聞いちゃあいない。オーシャンノートの店のイメージもそうだが、どうも僕の頭の中には外国の静かな海辺の街の某所・・・というものがついて回る。言えば、この時のイメージはイタリアの海辺の小さくてこぎれいなレストランの庭で、気の会う友人達が集まってあげる結婚式といったところで、諸事お世話してくださった観音崎京急ホテルのK女史(今は3代目のオーナーになってしまったが、僕が大好きな場所のひとつ、観音崎のマテリアというレストランをプロデュースしたのがK女史で、そんなことからも意気投合した)との話も最初はかみ合わなくて、2時間も3時間も話すうち「要は、大人の結婚式ね?わかったわ!」と・・・あとは、ホテルの出来合い部分をすぐにとっぱらってくれて、ほぼイメージ通りの一日を作ってくださった。この8年で観音崎も変わって横須賀美術館が出来たり、観音崎京急ホテルも大きなスパ施設を作り、チャペルを新設、天候や季節任せのガーデン結婚式はやらせてくれないようだが、今もプールサイドのヤシの木は健在だ。結構な享楽的生活を送っていたとはいえ、結婚した時の気持ちはそれなりに改まったもので、ローマカトリック式の儀式を終え、みんなで食事を終えた後、その足で市役所に行って婚姻届を提出、初めての夕食は・・・イワシを焼いて食べた。そう、質素な暮らしを心掛けようとの思いからである。その通り、今日、誠に質素な生活を強いられている日々(苦笑)であり、昨日の夕食は普段と変わらず、それでも夜は数年前にウィルクハーン・ジャパン創業10周年で貰ったドイツのリースリングワインで乾杯、さあ・・・寝ようと思って歯を磨いていると・・・歯の詰め物がとれてしまった。結婚記念日なのに厄・・・(後日加筆、家の近くの西村歯科医院の西村先生に直してもらった。お医者さんは、ある種職人さんだから、他ん家で直した歯なんかいじりたくもないだろうに、以前も一回あったのだが、西村先生は「問題ないようだからそのまま付けますね」と快く再接着してくれる。訳もなくやたら削られることを思えば感謝である。西村先生は学生時代はヨット部、医院もどことなくそれを感じさせてくれる。ちなみに内科系は、今は仲良しになってしまった上町のうつみこどもクリニックの内海先生に診て貰っている。小児科で見てもらう・・・これは穴場です!)

しかし、思えば人生はパッチワークのようなものである。悪い歯があるからとて、それを抜いちゃうわけにはいかない。直さなきゃいけないのだ。親元を離れて気ままで100%完璧な自分好みの生活を作り上げていたとしても、そこに妻と言うでかいパッチが張られて、次次と娘達が生まれて、僕の人生のキャンバスにはこれまた巨大なパッチが張られる。このパッチ、消しゴムで消えるものとは違うのだ。そうやって日々、パッチを当て当て生きているんだなあ・・・PCの上書き保存とは訳がちがうし、リセットなんて・・・やってるつもりでも出来やしない。それがどんなパッチであろうとも、全く同じ大きさと形のパッチなんてありえないわけで、その人の人生には必ず昔貼ったほんの爪の先ほどパッチが覗いていたりするものだ。あわてず、あせらず、真面目にコツコツ、パッチパッチ・・・(2009,5,14)

05/11 先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

まだ少し先の話ではあるが、横須賀学の会と横須賀市生涯学習センターの企画になる”横須賀の海を楽しむ”、全4回の生涯学習講座最終回、7月30日の大トリで講師を務めさせていただくことになった。横須賀学の会は、昨年8月の店長日記にもあらましを記したが、この第一回研究の船の観察というテーマは活動として継続されており、観音崎での船の観察会も恒例行事となっているし、この延長で生涯学習センターでの講座開催となったものだ。生涯学習センターのホームページで掲載されている題名は”横須賀の海を楽しむ”となっているが、これは企画時点でまだ講師もテーマも完全には固まっていなかったためにそうなっており、今週から市内で配布される案内チラシでは内容が具体的になっている。35名のみの募集だが早々にいくらかの申し込みが入っているそうなので6月7日締め切りではあるものの受講ご希望の方は申し込みを急がれたい。

さて、最終回の講座では、当店のお客様でもある斎藤さんが前半、そして僕が大トリの大役をいただいた訳だが、まだ前半の斎藤さんとの講義の連携など細部の内容は決めていないが・・・本来生涯学習というのは乳児からお年寄りまで、人の一生に渡るものなのだが、その良し悪しは別として、どうしてもリタイアされた方々の参加が多い。今回の講座も平日開催とあって、結果的には大先輩方々をお相手に話すことになるのではないかと思う。そうなると・・・僕が海外に出かけるようになった頃には、すでに航空機時代だったから、実は太平洋を船で渡る機会なんかハナッからなかった。しかし大先輩諸氏は夢を背負って船に乗った世代かもしれないのである。当然「太平洋航路の客船は・・・」なんて偉そうに知った振りしてやろうものなら、「何言っとるか若輩者が!」と一喝されやしまいかと・・・。現に、世間は広いもので、たまに店にお立ち寄りくださるKさんのように、APLの客船でパーサーを勤められ、1953年、皇太子殿下(今上天皇)のエリザベス女王戴冠式出席のためのプレジデントクリーブランド御乗船の際にお世話を勤めたお話をお聞かせいただく方などもおられるのだ。

ただ、そこまで本職の方ならば、わざわざ講座をお受けになることもなかろう。いずれにせよ、横須賀がテーマなのであんまりアチラの話で看板に偽りがあっても困るから、先般、横須賀沖を行ったクイーンメリー2の話を鍵にしたいと考えてはいる。クイーンメリー2は来年も来日することが決まっているし、あの船が他のどんな”豪華客船”とも違う存在であることを理解すると、必然、客船史を全部遡ることになるからだ。聴衆相手に喋るのはかれこれ7〜8年振りのこと。どんな方々が受講されるかもわからないし、「先生と呼ばれるほどの馬鹿はなし」と詠った川柳もあること・・・中身の話は気張ったとしても、ひとつ万事控えめに、あんまり頑張って、せいぜい声帯ポリープが元気にならないようにするとしよう。(2009,5,11)

04/23 サヴィニャックのチョコレート

森永チョコレート・サヴィニャック:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

世間様の状況に疎いのも考え物。元日から大晦日まで営業、決めてる営業時間はあるものの、実際は朝8時ころから夜の8時過ぎまで、良くまあ、飽きもせず店に居る物で、この横須賀上町ではセブンイレブンの次に営業時間が長いなどと笑い話にしてはいても、二月には発売されてた森永さんのサヴィニャックラベルのチョコレートを昨日まで知らなかったとあっては・・・もう少し街をブラブラする時間を持たねばいけないと反省せずにおられない。今でも、少し商品に名残があるが、オーシャンノート開店当初はサヴィニャックの額装ポストカードについては、多分、日本で一番(世界で一番かもしれない)多種類集めて売っていた。例によって凝り性の僕のことだから、売っていそうなところは都内くまなく歩いて、まさに足で集めたラインナップだった。何に惹かれたのかは分からないが、僕もやっぱりサヴィニャックには惹かれる。(ふと思い出すと、高校生の頃に良く行っていた原宿ペニーレーンのイラストが大好きで、思えば、あれがヴィジュアルスキャンダルとの出会いだったかも?このイラスト、かなりサヴィニャック的と思っている)

サヴィニャックの人生は、新しい扉を開いたアーティストの人生らしいそのもので、成功を手にするまでは相当の冷遇時代を過ごしていた。もう、3〜4年前のことで、サヴィニャックに関わることは殆ど無くなっているものの、不思議な因縁を感じるのは、結局、サヴィニャックの師匠であるアドルフ・ムーロン・カッサンドルに傾注し、客船やアール・デコへ急速に興味を深めたことだ。このあたりになってくると、10年も15年も勉強したモダンデザインの起源のあたりと結びついてきて方々に面白い話が転がっている。ウィキペディアで誰がカッサンドルの項を執筆したのかは知らないが、現在の記事ではカッサンドルが”ごく早い段階でバウハウスに興味をもち、徐々にその影響を受けてゆくこととなる”と記述されている。カッサンドルは1967年に自殺しているから、今更確かめようもないが、このウィキの記述の根拠がどこにあるのか、本当かどうか確かめてみたものだ。ちなみに英文のウィキではキュビズムやシュールレアリズムの影響とは書いてあっても、バウハウスの記述はない。いずれにせよ、解釈などというものは後世の人々が勝手に書き連ねるものだからアーティストの業績とは関係あるはずもなく、カッサンドルが成したショッキングなビジュアル表現のみが僕の心には響くわけで、船に乗って大西洋を渡りたい気にさせる、大いなる希望を心に訴える表現には感銘を受けるのみだ。ただし、カッサンドルは1940年でポスターを描くのを止め舞台美術等に活動を移すものの、戦後に知られる業績はイブ・サン・ローランのロゴマーク程度で、その後鬱病を患い自殺に至る。本来印象派の勉強をしたカッサンドルが、ほんの食い扶持稼ぎで手がけたポスターのみが高い評価を受け続けたことがストレスだったのではないかと僕は推測している。サビニャックはカッサンドルが最高傑作と謳われるノルマンディーを描いた1935年にカッサンドルの事務所に入っている。この師弟のつながりは、僕の英語力では深入りして調べるところまでいたらず残念な限りだが(絵本のレオ・レオニとエリック・カールの関係なども調べがつかず手付かず、これも僕にとって英語の壁である。どうしてもディープな資料までたどりつけない)、サヴィニャックはカッサンドルの絵だけで見る人の心をつかむエッセンスを得る事が出来ていた事だけは確かだと考えている。

しかしまあ・・・僕が生まれる前のこと、1958年のミルクチョコレート、森永製菓という会社も、フランスでナンバーワンのポスターアーティストに自社のグラフィックを依頼するなんて・・・当時の進歩的な日本企業の心意気に触れることができて楽しい。ちなみに1951年の有名なChocolat Tobler=ショコラ・トブレー、実はこれは森永に採用されたものではない。森永でも今回の限定パッケージについての説明をしていないが、ショコラ・トブレーは1951年にフランスの製菓会社のためにデザインされたもので、この時には採用されなかったそうで、その後、森永から仕事の依頼があった時に、サヴィニャックは以前デザインしたショコラ・トブレーを森永に提出したのだそうである。で、これが金髪の男の子がダメという理由で不採用、で描き直されたのが1958年のミルクチョコレート・・・らしい。森永はボツにしたという理由で、今回の限定パッケージに使ったのかしん?ご担当者に伺ってみたいものだ。(2009,4,23)

04/20 岬めぐり 三浦半島説

横須賀・三浦の浮世絵:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日の新聞の日曜版に三浦の春キャベツのことが載っていた。三崎口と三浦海岸を結んだあたりから南側に広がる平たい隆起台地の上、昔は大根ばかり作っていた畑だが今はキャベツ→スイカ・メロン→大根の三毛作が主流だ。確か、キャベツは三浦市が大根以外の主力産物を立ち上げようと30年ほど前に取り組みを開始して、今では関東有数の産地になったのだと聞いた記憶があるが、記事によれば現在の三浦の春キャベツは春だから春キャベツなのではなく、春キャベツという三浦向けに品種改良されたキャベツ(早口言葉みたいになってしまった、笑)なのだそうで、まん丸で中も真っ白ならぬ黄緑、柔らかくサクサクで極めて生食に向くものなのだそうだ。潮風が当たる三浦の畑は火山灰質、水はけ良く、生産者が海藻などを与えた土は農薬や肥料も少なく済み、良質な作物が出来るのだそうだ。さて、誌面をめくると、旅の紹介。この日曜版は一面で”食べものがたり”と題して産物を紹介するとその産地の旅を三面で取り上げている。三浦の旅は京浜急行の終点三崎口が旅の出発になっているが、昨年秋から京急の駅では電車の到着を知らせる駅メロが流されていて(オーナー住まう堀ノ内駅は渡辺真知子さんの出身地とのことでカモメが翔んだ日)、三崎口駅は山本コータローの岬めぐりなのだそうだ。作詞家の山上路夫さんは城ヶ島に行ったことはあるが三崎、城ヶ島あたりだけを書いたというわけではない・・・とコメントしているが、地元では岬めぐりの歌詞は三浦海岸、三崎口の駅からバスに乗り、剣崎やら城ヶ島に向かうところを歌っているものと信じられているそうだ。僕も、横須賀に移って自家用車を持っていなかったころ、休みの日にバスで小旅行を楽しんだものだったが、言われりゃなるほど、岬めぐりの歌詞がピッタリくる道程であることは確かである。

岬めぐりと言えば・・・ああ、この”岬めぐり”と”22才のわかれ”・・・この2つの曲が弾けるとギターの名手になれたものだったことを懐かしく思い出した。アコギをいじったことがある人ならわかるだろう。そのメソッドが正解かどうかは疑問だが、フォークギターの教則は大抵、”小さな日記”とか”時代”かなにかでアルペジオをやって、”岬めぐり”と”22才のわかれ”でスリーフィンガーを憶えるプロセスが常套だった。その間に、左手は難関の”F”コードが出てきて・・・この”F”とスリーフィーンガーの成否が”上手い!弾ける!”の分岐点だった。僕は高校入学早々、もう今頃の季節にはスリーフィンガーも”F”もすぐに出来たから、一応、「あいつは上手い」と指折ってもらえる人だった。ある日誰かが、「隣のクラスのTは上手いぞ」と言う。で、ライバル心むき出しでTと会うと意気投合、にわかグループを作って文化祭に出演することになる。学校中見ても、その日の演目のひとつ、アリスの”ジョニーの子守唄”のイントロを弾けるヤツはいなかったから、ルックスとにわかグループの練習不足を除けば一年生にしては良くやったと思っているが、そのライブの一曲目がTがボーカルをとった岬めぐりだった。岬めぐりという唄自体は、小学校の終わりころだったか、中野サンプラザのジュークボックスで友達と聞いて「こんないい歌が世の中にあるんだ・・・」と思ったものの、当時、ギターの腕の良し悪しはそれで決まってしまうような妙な存在感を持った曲だったから、文化祭で演目にとりあげたのも「俺たちは弾けるんだゾ」というアピールのためだったような気もする。”岬めぐり”というのはあくまで唄のタイトルだが、この唄以降、いちいち失恋しなくとも”岬めぐり”という旅の形ができてしまったのも確かなような気がする。

先週から営業時間を変更して、土曜日の午前中を家族で過ごす時間とさせていただいているが、先日は秋谷の立石に出掛けた。実は、このところ商品でリリースしている浮世絵にはまっていて、特に気に入った広重の”相州三浦秋谷の里”の風景を見たくなったのだ。思えば、北斎も広重も海っぱたを歩いて江戸時代の岬めぐりをやったに違いない。浮世絵コレクションは、良く知られる北斎の富嶽三十六景から”神奈川沖浪裏””上総の海路””相州七里浜””相州江の島”は取り上げたものの、横浜〜横須賀〜鎌倉など地元の海を描いた浮世絵に収集を絞ったので、余り知られていないレアモノが多くなった。北斎の”相州浦賀”は世界中で数枚しか現存しないし、広重の”鎌倉諸之内 由比ガ浜””江之嶋路 七里ケ浜””相州江之嶋”といった「東海道之内・・・」で始まるシリーズも日本には殆ど現存しない。(藤沢市がいくらか所蔵してるようだ。当社のものはロンドンのコレクターからソース提供を受けたもの)何故、こんなことにハマッてしまったのかというと・・・そもそも僕には変に研究熱心なところがあって、もう20数年前の話、タッチというマンガに夢中になった僕はマンガの中に出て来る電柱の住所番地を見つけては、練馬の中村橋あたりに出掛けて「ここを南ちゃんが歩いていたんだ」と一人感激したことなどもあったりして(お恥ずかしい・・・しかし喫茶店の南風はとうとう見つからなんだ)・・・そう、浮世絵を眺めていたら、特に三浦半島西海岸を描いたものは往時と現在、湘南道路と建物を除けば、ほぼ風景が変わっておらず200年近くも前の風景が現実にあることが面白くて仕方ないのだ。おまけに人後に落ちずデザインに興味が強い僕は、当然その風景のデフォルメや構成化にもそそられるのだ。地誌的に見れば、江の島が関東大震災で隆起したことも良く分かったり・・・これまた面白い。まあ、齢を重ねれば、”タッチ”が”浮世絵”に化けたりもするものである。(苦笑)(2009,4,20)

04/06 船舶という分野 職人腕を競う

昭和37年の生まれである。昭和も40年代半ばだろうか、インテリアブームのようなものがあって、父も相当に家具というやつを買ったように憶えている。どこで?  デパートである。でも、子供心に何で、家具はデパートで買うのか不思議だった。デパートは、やはり洋服を買うところのように思っていたからだ。三越だって、高島屋だって大丸だって元は呉服屋だし、両親が買い物をしてた伊勢丹だってそっちの出である。

時は下って、僕は学校を終わるとプラスという文具メーカーに就職した。てっきり、文具を生涯の生業にするのかと思いきや、配属されたのは建装部という部署。建装なんていう言葉、それまで聞いたこともない。平たく言えば、置き家具、造作家具から内装、調度品を含めた室内装飾全般を行うことを建装と言う。僕が配属された時のこの部署は間仕切りを売り出し中で、建装業務全般の中でも間仕切り販売に特化しようとした営業部隊だった。今も4月で新入社員たちが苦戦しているだろうが、電話が聞き取れなくて大変だったのを憶えている。「Ru Ru Ru Ru Ru ・・・」、電話が鳴る、「ハイ、プラス建装部でございます!」。「カミサですがぁ」「エッ?」「カミサです」・・・聞き取れない。隣席の上司に尋ねる「カミッサとか何とか言ってます」。「ああ、カミさんね」と電話を代わる。この電話の主、苗字は上入佐(カミイリサ)という珍しい方で、この部署の外部スタッフとして間仕切りの現場実測とか割付、積算などを手伝って下さっていた。新人の営業マンに難しい間仕切りの営業が勤まる筈も無く、暫く経ったある日、先輩の現場立会いの代理で夜遅くまで掛かったら、このカミさんが「小野寺、飲みに行くぞ」と歌舞伎町に連れて行ってくれた。僕にとってはカミさんは、とにかくどんな困難も屁ともせず間仕切りを納めてしまう神様みたいな人だったから、この夜、「カミさんって、どんな風に間仕切り覚えたんですか?」と訊ねた。今は、随分と街中の建物が良くなったからそんな苦労も減ったろうが、当時の建物の床と天井のレベル(水平ということ)はお話にならない。「俺はねえ、長く船舶やっていたんだよ・・・」船舶って何だ?

聞けば、こういうことだ。昔は、船舶の艤装や内装は最高の技術を持つ職人が腕を競っていた。船は一国の技術や文化レベルを世界に示すものだったから、予算もたっぷりあったし、何よりも職人達も最高の現場であるという誇りを持ってやっていたし、船の艤装は造作や間仕切りを納めるにもかなりの経験と実力が無いとできいものなのだそうだ。そもそも、船の床は水平に作られていないし、(今は違うようだが)その水平じゃなく、おまけに動けば”たわみ”が出る船内に間仕切りを建てて、造作家具を作るのは並大抵の技術じゃないそうなのだ。で、その時に聞いたもうひとつの話は、「百貨店の装飾部とか建装部、装工部なんていうのも、元々は船舶の艤装をやるとこだったんだよ」という話だ。

僕もインテリア業界で走り回ると、建築家やデザイナーが商品を指定してくれても、販売は最終的にデパート=百貨店を経由して・・・というケースが多かった。では、なぜ百貨店が室内装飾の請け元となっているのか?現在ではそれが一種の商習慣でもあり、資金力や価格交渉力など合理的理由もあるものの、時間を遡れば呉服屋さんであった百貨店の主力事業のひとつに室内装飾がなっており、それだけの技術力を持っていたからに他ならない。日本に西洋建築が入ってきたものの、当時、西洋流の室内装飾をできるものはいなかった。百貨店は、元々の生業の着衣で得た納入実績を役所や企業に持っており、このコネクションを活かして室内装飾までドメインを広げていったのだ。誰も出来ないから業種を開発したと言っても良い。土木上がりのゼネコンよりは、服飾から来た百貨店に分があったのも事実らしい。こうして、高島屋工作所、三越装飾部、大丸装工部などがホテルや銀行、宮内庁などで腕を競うが、その競争が一段と華やかだったのが船舶艤装・装飾で前述のとおり、納めるのが難しいからとりわけ腕の良い職人だけが選りすぐられた。このような室内装飾の伝統が、昭和40年代のインテリアブームの時のデパートの大きな家具売り場となっていったのである。

何で、こんな事を思い出したかと言えば、古い雑誌広告を集めて額装していることは以前にも書いたが、とにかく様々な広告を見ていて、いかに船会社に文化的な資源が集中していたかを感じざるを得なく、改めて感心するからだ。準備が追いつかず、額装品をリリースしそこなっているが、それをトリビュートしたポストカードシリーズは随分とリリースできた。タイタニックを沈めたせいで、評価がイマイチのホワイトスターラインが英国らしい野暮ったさを持たず、フランスやドイツのバウハウス様式、アールデコ様式の雑誌広告を出している事、フレンチラインは水彩画家マリー・ローランサンにも雑誌広告の絵を描かせているし、戦後もヴィルモットが何枚も描いている。ドイツはナチスの影があるゆえに偏見を持ってしまいがちだけど、生粋のバウハウス流で、現在見ても旧さを感じないほど洗練されたデザインセンスが光る・・・では、同時代の、他業種はどうかと見ると、当時の文化的資源が、香水、ファッション、客船に集中していたことは戦前の雑誌を見ればすぐに判る。戦前、美しいイラストの入った広告はこれらの絞られた業種しかやっていない。僕は、貴重な人類の遺産だと感じている。

ポスターというメディアは、19世紀末にロートレックなどが成功したことが奏して、1920年代には広く利用されていた。雑誌広告より早い。ここでもやはり、今に伝わる名作は旅行、客船、ファッションが圧倒的に多い。つまり、件の腕を競う場はそういったところにあったわけである。とりわけすごいのは、1935年就航のノルマンディーだ。この一隻に船のため、フレンチラインはカッサンドルポール・コランヘルコマージャン・オーヴィーヌの4人にポスターを描かせている。さらにブローシャー(作者不詳)が良く知られるものだけで2種類、一隻の船にこれだけ寄って集って画家たちが腕を競ったのは前代未門だろうし、カッサンドルは遡ること4年、1931年には、これまた歴史的アールデコの名作L'ATLATIQUEで衝撃を与えたばかりで、再び傑作のNORMANDIEを描いたのである。その気迫はいかばかりのものだったろうと興奮を禁じえない。ウチの店は海と船専門だからちょっとマニアックなものだと敬遠される方も多かろうが、僕は普遍的な名作が集結した貴重なデザインの歴史をダイジェストでご覧いただける場にもなっていると強く感じている。(2009,4,6)

04/02 花見 旧横須賀鎮守府長官官舎

海軍横須賀鎮守府長官公邸2009:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日は定休日、子供達は春休みで女房の実家に遊びに行っておりヒマ、夜は牧師さん2人を相手に会食の約束があって(3人会という名前がついているようだ、しかし・・・信仰心乏しい僕が何の縁で牧師さんたちと親しくさせていただいているものか・・・ありがたいやら恐れ多いやら)、どの道、横須賀中央に出なければならなかったので、結局、店を閉めていなければちょっとやりづらい細かい作業を済ませるも良かろうと思い、お昼スギに自転車で漕ぎ出すこととなる。朝のうちはそこそこ冷えたが、11時頃を過ぎた頃から暖かくなり、物見遊山よろしくノンビリと店に向かい県立大学の駅を越えて聖徳寺坂脇のガードを上ると・・・そうそう、暖かさに誘われ、毎年行き損なっている旧海軍横須賀鎮守府長官官舎の公開中であることを思い出した。早速、聖徳寺の角を曲がり、検察庁を超えて高台突き当たりの官舎に入ってみる。

上掲のパンフレットを配布しているので、それによれば、1881年(大正2年)の竣工とのことで、設計は国の重要文化財に指定されている呉の鎮守府官舎も設計している桜井小太郎という人、この人はロンドン大学に学び、日本人としては初めて英国の公認建築士の資格を持った人だそうである。思うよりはだだっ広い訳ではなく、普通の感覚の豪邸よりは執務空間などもあるために広いものの、瀟洒な洋館といったところだ。そうそう。乃木坂の乃木邸とどっこいかもしれない。ダイニングルームやリビングルームは立派で、ダイニングルームの椅子こそ当時のものでないのが残念だが(元家具屋ですから・・・多分、コスガの椅子だ。もう少し良いものを買っても良いように思う)、東郷平八郎のものと思われる書は見もの、また立ち入りは出来ず眺めるだけだが。マントルピースのあるリビングは立派で、当時そのままのスタンウェイのピアノがある。庭は良く手入れされており、残念なのは横須賀の田戸・公郷・三春町あたりからだとどこからもそうだが、残念ながらこの田戸の高台からも海辺のマンション群が折角の眺望を台無しにしている。まあ、もう建てちゃったマンションの上10%を切り落とせともいえないだろうが(国立では大真面目にそんな裁判結果が出たなあ、確か明和地所は建て替えちゃったように記憶しているが・・・)

朝はまだ、2分くらいだった桜、僅か2〜3時間で一気に7分くらいまで咲いたそうで、僅かの時間ながら花見を楽しんだ。官舎を出て、ふと気になった。今はこうして手入れされているが、何に使っているのだろう?門の外にいた自衛官氏に尋ねると、主に外国からの賓客の接待に使用しているそうな。この一般公開、年に一度だけ、今年は4月5日まで公開されている。公開時間は10時から4時まで。最寄駅は京浜急行県立大学(横須賀中央の次)県立大学からは徒歩7〜8分、横須賀中央からでも20分も歩けば行ける。問合せは海上自衛隊横須賀地方総監部 046-822-3500 (2009,4,2)

03/06 クイーンメリー2を見た 観音崎

クイーンメリー2・観音崎20090306:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

クイーンメリー2を拝んだ。大層な早起きである。横浜港入港予定時間は0700。専門家じゃあないので、それが着岸時間か横浜港入港を指すのかはわからない。観音崎の海上交通センターによれば、浦賀水道入航予定時間は0415だが・・・今回はクイーンメリー2が横浜ベイブリッジをくぐることができず、大黒埠頭への着岸となるが、ベイブリッジ到達時刻から概ね2時間前くらいが浦賀水道入航時間にあたるらしい。すると、浦賀水道入航予定時間は0430あたりかも?

駐車場が開いていれば、浦賀の燈明堂に行きたいが締まっている時間なので、観音崎のたたら浜あたりと決めて出かけることと計画。虫の知らせか、はやまた魚釣りで身につけた早起きのせいか、それとも年をとっただけか(笑)、0400起床予定のところ、0320に目が覚める。0415あたりで出掛けるつもりだったが、早いに越した事は無いだろうと思い0400に家を出る・・・それが良かった。家を出て鼻歌まじりで海沿い、馬堀でやたら信号につかまりつつノンビリノンビリ、走水水源地を超え山を登り、走水港へ下って観音崎京急ホテルを超えると・・・あら、もう観音崎をかわしてクイーンメリー2は来てる!でかい!この時時刻は0415。観音崎を越えるどころか、ロータリーまで行く間もなく、横須賀美術館前のなかね(貸しボート屋さん)の前に車を停める。

カメラの知識に乏しく、雨の中、真っ暗の中で撮れたのは上掲の写真だけ。結論から言えば、観音崎をかわしたのが0415あたりとすれば、浦賀水道入航は0400前後、予定より30分ほど早かったようである。前日の予定で出掛けたら見逃すところである。こちらも慌てた。京急ホテルを超えると、見紛うこともない、とにかくでかい!すぐに判る。(8日加筆、昨日は一夜明けて、QM2関係のご来客が多く、横浜市の乗船見学に当たったOさんは、100通も応募葉書を出して当たったそうだが、すでに5日には入港時間が6時に繰り上がった情報を得ていたそうだ。Oさんはとにかく詳しい方で、多々情報をお聞かせいただいたが、QM2・・・来年2月19日の2度目の寄港が決まったそうである。また、中の瀬航路併走クルーズのトライアングルも少し早まるとの情報を得て出航時刻を前夜のうちに繰り上げ、当日は海上交通センターの船舶無線を傍受し、QM2のコールサインを4時10分過ぎに傍受して4時15分過ぎに出航したそうだ。当然、こちらも併走に間に合ったそう)

大きいから・・・だけではない。個人的な思い入れが過ぎるかもしれないが、人類の歴史のバトンを携える、一種の神々しさがある。クイーンの名に恥じない凛とした美しさは唯一無二のものであった。何だが芭蕉の松島の気分、言葉にならない・・・(2009,3,6)

03/05 クイーンメリー2 とは

クイーンメリー2・・・マニアックな方は、それぞれ見識をお持ちであろうから、この記事をご覧になっても、僕の一意見としてご批判はご勘弁いただきたく思う。今回は、この船が何故特別な船であるか私見を認める。やたらとクイーンメリー2検索からの本ウェブサイトへのアクセスが多いのでご参考までに・・・「建造当時世界最大だった」「豪華客船」「洋上の宮殿」・・・大抵そんな接頭文言がクイーンメリー2に付けられているものの、それじゃあ、今は最大ではないし、豪華客船ならゴロゴロしているわけで、あえて大騒ぎするほどのもんじゃあない。結論から言えば、この船のキモは、大西洋横断定期航路客船=オーシャンライナーである点に尽きる。

どれだけ大きくて豪華な船が他にあろうとも、これをやっている客船は今やクイーンメリー2だけ、今のところ最後のオーシャンライナーなのである。タイタニックの映画に詳しい人なら、ジャックが晩餐の場面で「僕の今の住所はタイタニック・・・」というセリフを憶えておられるだろうが、英語では”RMS Titanic”と喋っている。このRMSというのはRoyal Mail Shipの略で、英国の郵便定期運搬船のことを言う。定期航路船は安全基準と一定の性能を満たし、年間の安定した定期運行計画を策定した上、政府と契約しRMSを名乗ることができる。そもそも、帆船から汽船に時代が移るとき、石炭炊きの蒸気機関船が半月もかけて大西洋を横断すると、客船としてはとても採算がとれるものではなかった。キュナードの創業者サミュエル・キュナードは英国政府(当時の担当は海軍省だった)と掛け合って、郵便輸送業務の契約をとりつけ、この業務に莫大な補助金を出させることに成功した。国家としても、風任せの帆船と違い、その当時、速度は帆船より遅くとも、未だ電話も無線も無い中で決まった日に郵便が届くことに大きな国益を認めたのである。やがて移民が爆発的に増加し、19世紀末頃になると客船は乗客だけで採算がとれるようになるが、RMSの響きは絶大な信用力と補助金の金看板であった。日本郵船だって外国では括弧書きで(Japan Mail)を書いて信用力を誇示したし、逆に外国の客船を日本で宣伝する際は「英郵船」とか「仏郵船」と記すことになる。クイーンメリー2は正式にはRMS Queen Mary 2を名乗る。

オーシャンライナーに求められる性能は、豪華さでもサービスでもなく、船の安全性と速度である。すなわち、遊覧船のようなクルーズ船とは違い、嵐の中でも港に逃げることなく洋上を行き、かつその速度は概ね大西洋を一週間以内に渡らねばならない。今は飛行機の時代だから、嵐の中の定期横断を経験した方も少なくなってきたが、横浜に係留されている氷川丸が太平洋横断をやっていたころ、台風に巻き込まれたときは、船が最大27度傾いたそうだ。船が27度傾けば、殆ど床と天井は壁に感じる筈だ。一見、見た目は、ゴロゴロしている豪華クルーズ船と変わらないものの(細部は違いますよ)、クイーンメリー2は現代の船の水準で行けば分厚い鋼板を使い嵐の中を突き進めるし、速度は公試運転で29.5ノットを記録、巡航で28ノット、これは桁外れの性能なのである。船の理論上の速度は水線長(喫水線の長さ)で決まるが、無限に大きくしたところで採算上も、技術上も馬力が追いつかない。かつて大西洋航路に乗客が溢れた時代、つまり船を定員近くまで乗せて採算性と速度を満たすには、全長300m、15〜16万馬力、巡航29ノットという数字がはじき出された。この成功例がキュナードのクイーンメリー(初代、1936年-1967年)、クイーンエリザベス(初代、1939年-1968年)、フレンチラインのノルマンディー(1935年-1939年)だ。船の速度は重要なファクターで、乗せる日数が長ければそれだけコストも掛かり料金も上げざるを得ない。船が速ければ燃料費が掛かりやはり経済上成り立たない。史上最速の客船はUnited Statesという客船だが、軍艦の機関を積んで、巡航35ノットを越えたものの、採算が取れたことは殆ど無く、全速で運転したのは最初の大西洋横断往復の時だけだったという。先ごろ引退したクイーンエリザベス2、これがまた桁外れの性能を持っていて、1987年の機関換装後、34ノットまで試したが、その気になれば35ノットを超えることも出来たと言われる。そのあたりの事情を含みクイーンメリー2の性能を見るとお分かりのとおり、もはや移動目的で乗船する人は皆無なのにも関わらず、巡航28ノット=約5日で大西洋を渡り、映画のタイタニックでも御馴染み、旧き伝統に則り客室の等級があり(戦前ほど極端に待遇が違うわけではないが)、なおかつ、キュナードの伝統、郵便運搬定期船の任を、これまた唯一無二の存在であったクイーンエリザベス2から引継ぎ、そのキュナードの旗艦として君臨するのが・・・・クイーンメリー2なのだ。

キュナードラインはステートメントで「わが社がRoyal Mail Shipの運行を止めることはない」と声明しているがそれは後の事、実は1990年代、クイーンエリザベス2の船齢が寿命を迎えつつあったとき、誰もがクイーンエリザベス2が最後のオーシャンライナーだと思っていた。ところがアメリカのカーニバルコーポレーションはキュナードを買収してクイーンメリー2を作ってしまう。経営者のミッキーアリソンは、タイタニックの映画を観てクイーンメリー2の建造を思い立ったといわれる。そしてあろうことか!クイーンメリー2を建造するために・・・キュナードを買収してしまったのである。ミッキーアリソン曰く「クイーンメリ-2を作るためにキュナードを買った。その逆じゃあない心してご覧あれ、最後のオーシャンライナー、クイーンメリー2!(2009,3,5)

Ocean-Note, Queen Mary 2, Dan Cosgrove 2005

02/21 クイーンメリー2 来たる!

3月6日、いよいよクイーンメリー2がやってくる。

因果なものである。輸入家具業界に20年、そのまま平穏無事に勤めていれば、会社を休んで(苦笑)クイーンメリー2を見に行くことも出来ただろう。幸か不幸か、極めてコアな商売を始めたばかりに、お仕事優先、クイーンメリー2を見に行くことが叶わなくなってしまった。もっとも・・・こんなコアな商売を始めなければ、会社を休んでまで彼女を見に行こうなんて思わなかったかもしれないが・・・当日は、お客様のSさんと横浜のどこに行こうか?などと相談もしていたのに。Sさんは横浜港でタグボートに乗っていた方だから港の隅々までご存知(だろう)だから、僕はSさんに言われるまま運転でもしたら良いと思っていたのだ。

さて、お知らせである。横須賀の三笠桟橋発、猿島航路及び観音崎航路、及び軍港めぐりで良く知られるトライアングルより、決定版!クイーンメリー2見物クルーズの企画が催される。横浜あたりじゃあボートをチャーターしたり、クルーズ船が出たりと、今ひとつ乗り気になれない(ゴメン)企画も目白押しだが・・・ちょいと違う、この企画はスゴイ。何と、浦賀水道の出口あたりでクイーンメリー2を待ち受けて、そのまま中の瀬航路を併走してしまうというとんでもなく面白い企画なのである。トライアングル社の泉谷さんに聞いた話じゃあ、入港時刻は決まっているものの、横浜港と海保の海上交通センターの情報には食い違いがあるそうで、そのあたりを長年のノウハウで情報収集して企画が固まったのだそうだ。僕が心配するのはクイーンメリー2が極めて高速な客船であることで、浦賀水道と中の瀬航路に速度制限があったとしても、追いつけるかどうか甚だ心配だ。その辺も聞くと、浦賀水道と中の瀬航路は規則上12ノットが最大速となっているが、実際は速い船は15ノットくらい出すという。勿論、15ノットで行かれるとトライアングルの船は追いつけないが、それはこの企画の面白いところ。クイーンメリー2を先に待って、彼女が見えると中の瀬航路の外側を横浜に向って走る、つまりクイーンメリー2を横で先導する形になって、その後彼女に追い越されるという計画だそうだ。で、中の瀬航路の出口付近でストップ、入港をお見送りするという寸法だ。これは・・・ユニークなり。昔から、名のある船が入港する時はタグボートやらクルーザーやらが併走するというのは外国の港の華やかな情景のひとつだった。これを当事者としてやってしまおうという訳なのだ。別に宣伝するわけではないが・・・これで朝食付き(サンドウィッチだそうだ)5000円はお得である。

さて、話がこれだけなら、僕がクイーンメリー2を見に行くことには何の障害もなかったのだが・・・泉谷さんに相談されたのは、当日のトライアングル社クイーンメリー2歓迎クルーズの乗船客の皆様に抽選でプレゼントを差し上げたいとの話である。もう・・・時間もない。当社お得意のキュナードの販促品やポスター、船内販売品を作っている英国の取引先から品物を取り寄せる時間も無い。ケンケンガクガク相談しながら、当社在庫で間に合うものと以前から目を付けていたドイツのステーショナリーメーカーのクイーンメリー2グッズを新規に調達することで話がまとまった。トライアングル社とは、当然、狭い横須賀で互いに”船”という共通項で、いろいろなところで接点もあったが、船キチ諸氏への贈り物の気持ちも兼ねて、プレゼントの商品の調達納入に関して協力をさせていただいた。(個人的に企画があまりに面白いと感じた事もあった。名のある船の入港ごとにこんな企画があっても良いと思うのだ)

で、結局、トライアングル社のクルーズの下船予定時間は午前8時、トライアングルでは当社の案内もして下さるそうなので、そうなると店は早めの時間から開けてなきゃあいけない。場合によっては、相当遠方からのお客様も居られるかもしれないのだ。(当社の場合、それはいつものこと。横須賀のお客様は、逆に少ないくらいであるが・・・)といった訳で因果因果。結局、クイーンメリー2をゆっくりと眺めることは叶わず(苦)しかしながら、日頃標榜する海の文化の啓蒙といった点においては、こうした出来事がもっと頻繁にあれば、日本人のあり方も、もっとグローバルなものに変わって行くと信じているし、僕が将来、外国にオーシャンノートの店を出したいと思うのと同時に、子供達は国境を越えた物の考え方、生き方をしてもらいたいと思っている。そう、船ってえのは、そんな気概のシンボル足りえる素晴らしいものだと思うのである。お迎え、見物、お見送りできないのは無念だが・・・(2009,2,21)

02/09 ビンテージアド・府川氏の展覧会

ヴィンテージアドポスター:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

凝り性の僕である。どこまでがビジネスか趣味か自分でもわからなくなる事もままある。このところ、古い雑誌広告を集めている。オーシャンノートをどんな風に育ててゆきたいかについては折りあるごとにここでも書いてはいるが、ひとつの理想は海事博物館があって、そこにミュージアムショップがくっついているイメージだ。博物館構想ではやはり同じ考えをお持ちの方もいて、ネルソンズバーのオーナー斎藤さんが実現に手をお掛けになっている。しかしながら、”集める”という作業は、育ちが良くないと出来るものじゃあなく(笑)、皆が欲しがるモノは市場原理で高価だから僕には手が出ないし、皆が欲しがるものを買って後生大事に押入れの奥に仕舞っておいて自慢しようとも思わない。飾ってなんぼ、見て何ぼ、見せてなんぼである。ここに、ピタッとはまったのが雑誌広告である。

何せ60年から80年も前の雑誌広告そのものである。初めて手にしたときは、少々手が震えたものだ。もちろん、オーシャンノートのテーマは海だから、何でもありというわけではなく、現在は客船の広告を中心に集めている。雑誌広告の切り抜きと一言で言うが、今はまだその価値は知れている。1950年代以降のモノは雑誌発行部数が多いので結構出回る。しかし、大戦前のものはグッと数が減る。20年代になると本当に少ない。雑誌というメディア自体がまだ育っていないし、例えばポスターというメディアは19世紀後半にはフランスのロートレックらの活躍で育っていたのに比べれば、その有用性が認められ広まるのは印刷技術も発展してきた1930年代以降なのだ。これに客船というテーマを重ね合わせると、言えばタイタニック(1912年)の雑誌広告ははなっから存在していないし、1950年代以降はモータリゼーションと航空機の時代だから、自動車や航空会社の雑誌広告はやたらと数が多いけれど、30年代から60年代まで通期で、客船の雑誌広告は総量にして概ね自動車の20分の1、航空会社の10分の1くらいなものと思う。”貴重”と大げさに言うほどではないにせいよ、ゴロゴロしているものではなく、まして総量が限られているから、その一枚を二度と手に出来るかどうかは難しい。アメリカ、英国、フランスあたりでの相場は、名のある船のもので、5ドルから高いのは40ドルを超える。雑誌の切り抜きが高価ではないながら”商品”のように扱われ始めたのは、アメリカでもこの10年くらいのものだ。先行きはわかるものでもないが、今なら比較的手に入りやすいのも事実だ。それでもヴィトンだとかティファニーのものは既に結構な値がつき始めているから、それがどの分野であれ、興味にある方は要マークと思う。ティファニーなんかの正調アールデコは見ものである。

そうやって、せっせと集めると、一枚一枚に伺い偲ばれる当時の情勢やら状況がぎっしり詰まっていて、もっと知りたい・・・という願望に駆られるから不思議だ。1937年のキュナードホワイトスターの雑誌広告に大きく写る航海士・・・名前はボックスホール、そう1912年にタイタニックから生還したボックスホール四等航海士だったりするのだ。さて、これをどうやって飾るか?裏打ちを検討するものの、保存性の問題から手軽な3Mのスプレーやペーパーセメントの使用は見送り、表具屋さんでの裏打ちは湿式なので断念、基本的に両面印刷だから裏が透ける事もありえるので、構想3ヶ月、ビンテージアドポスターシリーズのリリースに至ったのである。材料は無酸性に徹し、やはり、資料として大切にしなければならない点と、保存性、可逆性、鑑賞を極めて納得できる妥協点で商品化したつもりだ。

さて、お知らせでも案内しているが、こうした紙モノの収集家としては日本でも3本の指に入る、府川義辰さんの展覧会が恒例によって平塚の郵便局で開催中だ。(27日まで)府川さんは上述の雑誌の広告も誰も気にしていなかった50年代からしっかりと集めておられたし、その資料としての重要性は”栄光のオーシャンライナー”誌上でも資料として提供されたことからも理解できるところだ。府川さんとは数年来、不躾ながら年賀状も交わさせていただいているが、このところ、府川さんはコレクションの整理・処分をされており、僕も幾らかお譲りいただいたのだが、もしかすると・・・お話をお聞きしてはいないが、今回が最後になるかもしれない。今回の目玉はフランス、サンナザールのアトランティック造船所のクイーンメリー2のデッキプランの展示だそうである。いろいろお伺いして察するに、今後、今までと同様にコレクションに励むことはないようなので・・・幾らかお譲りいただいたこともあり、これをひとつの文化研究のあり方として、”勝手に”意志を継がせていただくつもりである。(2009,2,9)

01/29 また勉強、客船史

客船の本、参考書:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

某ネットモールからの勧誘が3日おきくらいに来るが、先般はガイアの夜明けにそこの成功店さんが出る案内をもらい番組を見た。とても手が回るわけも無く、オーシャンノートがモール出店する可能性はゼロに近いが、第三者的にテレビで見れば、モールであろうと自前であろうと、ウェブで何かを伝える、それはいずれにせよ大変なことだと思う次第だ。わが身に振り返れば、新商品ラインデビューに途方も無い時間をかけている。僕は地道でアナクロな人間だから、このウェブショップでもあまりシャレたプレゼンをすることが出来ない。ウェブ自体をお褒めいただくことも多く、今風の”ウェブマスター”を颯爽とこなしているように勘違いされるが、何のこたぁない、一杯一杯でやっているのだ。時間がかかるのは、ズバリ、商品の説明文だ。簡潔に要領良く書けば良いのだろうが、自分で販売するのに知らないことがあるのは許せないタチだし、僕は分裂症気味にひとつの事を掘り下げてしまうから、結果的にどうしても文章量も多くなる。新商品ラインは、先々横の広がりが出るとは思うが、今のところ客船がテーマになっている。元々、一枚の額装ポスター・アートの画題や作者を調べるのに不合理なほど時間をかけているが(普通の会社なら採算性で問題になる・・・苦笑)、今回はいつもの要領に輪をかけて時間をかけている。時間のかけがいがあると言い換えてもいいだろう。

死ぬまで勉強とは良く言うが、じっくり取り組めば、プチ発見はいくらでもある。先日もニューヨークのモノクロ写真のコレクションで高名なベットマンアーカイヴの間違いを発見してしまった。写真を撮影した年代が間違って記録されていたのだ。まあ、別に間違い探しやアラ探しをやってるわけではないのだが、こうして再度史実を掘り下げると、改めて良い手引き書だと感心するのが上掲の本だ。書籍の中身が、装丁や希少性ではなく内容だとすれば、特に定期航路時代の客船を知るなら入手の機会があれば手にとってみて損はない。5年程前、オーシャンノート開業の準備をしていた頃・・・特に大西洋定期航路客船に強く惹かれて、今も昔も日本にはその手の情報が乏しく、いきなり洋書を買い集めてみた・・・が、大した英語力もなしにマニアックな内容を読解するのは無謀であった。困ったところに栄光のオーシャンライナーが現れた。ムックという体裁を俗っぽいと敬遠する人もいるが、もしこれがハードカバーで英語併記だったら、海外ではベストセラーである。今では、調べごとのために様々な本を手にした結果からも、分かりやすさ、考察、史実の解釈、どれをとっても優れていると承知している。エディターの西村慶明さんは本職はイラストレーターだそうだが、交通史に造詣が深く、これまたソフトカバー、マニアの王道(苦笑)シリーズから上梓されている”客船読本”も、カバーに「誰も教えてくれなかった客船のツボ」のコピー通り、なるほどと思わせる盲点が山盛りでウレシイ。このあたり、俗っぽいといえば俗っぽく、インテリ層には手にしづらい(爆笑)のも事実だろう。僕は定本なんていうものは、人それぞれ微妙に違って結構だと思うし、いまだにピアノを習うのにバイエルばかりじゃあイカンと思うのと同様、手の内をばらすようだがこの二冊、僕にとっての定本である。もう少し、”書籍”寄りに振れば、”豪華客船の文化史”が今のところ、和書で定期航路時代の客船を読むには最良の書籍となるだろう。著者の野間恒氏は、格を付けるのものではないが、2007年の暮に無くなったアメリカのフランク・O・ブレイナード氏、ハンブルグのアーノルド・クルダス氏、アメリカのビル・ミラー氏と並ぶ世界的な客船研究家といって差し支えないだろう。野間氏は特に客船の写真のコレクションに秀でておられ、ビル・ミラー氏の著作のために写真を提供されているし、上記の研究家諸氏との親交もお持ちである。豪華客船の文化史の執筆にあたっては亡ブイナード氏の助言も得たそうだから、内容はお墨付きといっても良い。

長くなったが、このあたりの3冊に加え、どちらも古い翻訳書だが”大西洋ブルーリボン史話”(トム・ヒューズ著)や僕も高価で手に出来ていない”豪華客船スピード競争の物語”(デニス・グリフィス著)あたりを読めば・・・洋書を手にとってもチンプンカンプンになることはない。洋書は、文章が多いものはどの道苦戦するものだが、例えば、オーシャンノートで販売しているものは、図版の多いものを選んで(単にオーナーの能力の問題?・・・苦笑)いる。上掲、ビル・ミラー氏の3部作( The First Great Ocean Liners 1897-1927The Great Luxury Liners 1927-1954Great Cruise Ships and Ocean Liners from 1954 to 1986 ) はペーパーバッグながら一通り時代を網羅しており海外の趣味人には必携の定本である。(1927-1954編は現在絶版、近々必ず再販されるので高価な稀少本は買わない方が良い)こうして、このところ進行が著しい老眼と闘いながら、日々、ある種考古学的な考察に取り組んでいたりするのだが、先般も日記に書いた”世界の新鋭クルーズ客船”の著者でもある府川義辰さん、紙モノのコレクションではナンバーワンではないかと拝察するが、現在のコレクション整理にあたり、僅かながらコレクションをお譲りいただいた。老眼に鞭打って穴の開くほど府川さん譲っていただいたモノを眺めると・・・何とまあ、”栄光のオーシャンライナー”の中で実際に資料として掲載された1930年代当時の雑誌広告そのものだったりして・・・世間は狭いというけれど・・・(2009,1,29)

01/17 多事 APLのプレジデント・ウィルソン

APL客船プレジデントウィルソン:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

やはりメディアの力は凄いもの、年末の優良商店表彰の時に、はまかぜ新聞社の取材を受けたのだが、その記事が掲載されて日に5本ばかりのお電話をいただいている。もちろんご来店のお客様も多い。

記事をご覧になって見えた方の中に意外な方もおられる。飯塚羚児画伯のご子息にあたる方である。恥ずかしながら、飯塚羚児画伯の名を言われても、すぐに手を打てるほど教養が無く(基本的に美術商や骨董商を志していなので暗いのだ。この身が二つあれば・・・)、いろいろと業績を教えていただいた。無論、ご存知の方は多いことと思うので簡単に書けば、戦前は少年倶楽部などの雑誌に軍艦や帆船の挿絵を描き少年達のあこがれの存在として著名になられ、戦後は海洋画家、版画家としてご活躍された。良くあるタイトルだが、やはり徹底したメディア嫌いで”孤高の画家”とも言われる。沖縄海洋博の為に製作された日本丸は香川琴平の海洋博物館に所蔵、咸臨丸の絵は防衛大学に飾られている・・・などなど。ご子息からのお話は多々あったが・・・ひょっとしたら余り大きくない作品をお持ちいただける・・・かもしれない。来るものは拒まず、去るものは追わずなのでどうなるかはわからないが・・・

とか何とか、やっていると”来るもの”で楽しいK様が立ち寄られた。いつも病院の帰りにお立ち寄りになられるのだが、Kさん、お年をお尋ねしたことは無いものの、恐らくは昭和初めのお生まれと拝察する。今日はおみやげに画像の絵葉書を頂戴した。APL=アメリカン・プレジデント・ラインのプレジデント・ウィルソン15359tの客船だ。何とKさんはこの船のパーサーを勤めておられたのだ。以前からお話はお聞きして、1953年、エリザベス女王の載冠式に皇太子殿下(現天皇陛下)が乗船された時のお話とか、当時の丸の内のAPLの東京支店のお話とか・・・本でもDVDでもない、本当のリアルなお話をお聞かせいただけるので僕もKさんが立ち寄られるのを楽しみにしている。今日は、当時のAPLの身分証(乗船パス)をお見せいただき、唸ってしまった。APLは昭和37年生まれの僕には縁が薄い話になるが、戦前生まれの方にとっては、まさに”あこがれ”の客船会社だった。あの”あこがれのハワイ航路”もAPLの事を歌っているのだそうだ。僕の客船研究は、現段階では大西洋航路オンリーで太平洋航路には手が付いていないのだが、APLはアメリカ政府出資の船会社で現実的には東アジアの駐留軍将官御用達の客船を運航という色合いも強かったらしい。アメリカは戦時中に大量の客船型の兵員輸送船を建造したが、その設計をそのまま流用したのがプレジデント・クリーヴランドとプレジデント・ウィルソンだ。速度は19ノット、西航はサンフランシスコ〜ロサンゼルス〜ホノルル〜マニラ〜香港〜横浜(この頃、大桟橋は米軍に接収されサウスピアーと呼ばれていたそうな)、東航は大圏航路をとってベーリング海まで北上して西海岸へ戻る航程だった。1952年には奇しくも大桟橋返還と時を同じくして民間会社に転換、Kさんが乗船されたのはこれ以降のことと思われる。Kさんは、その後70年代までAPLにお勤めだったそうで、1976年にはセール1976(未だに伝説のアメリカ建国200年の帆船パレード)の世話役などもこなされたそうで、今度はその時の資料も見せて下さるそうだ。今から楽しみである。(2009,1,17)

1947年 APL客船ポスター

01/08 松の内 鎌倉開業断念のこと

横須賀・正月2009:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今年最初の店長日記は門松代わりの”小松”のデミタスカップで始めたが、松の明けぬうちに殆ど常連さんの手許へ旅立ってしまった。で、昨日の定休日は松の明けぬうちにお正月をせっせとこなす。

朝は七草粥である。僕は、一人暮らしのお正月でご馳走にあやかってもおらず不要といえば不要だが、店の休日だったこともあり、夜の明けぬ前から5年前の出来事・・・長女が生の七草をかじっていたことをたまたま思い出した。これは、なかなかかわいい写真が残っているのだが、思いついたが好事と思い24時間営業の西友へ車を走らせ七草を求めてきた。その頃の長女は、にんじんでもピーマンでもそのままかじる子で、我が家の野菜にはみんなかわいらしい歯型がついていたものだった。僕以外の3人は僕の実家と女房の実家でご馳走をたらふくいただいただろうし、暦のお陰で水曜日が7日で学校と幼稚園も冬休み最後の日、にぎやかな七草粥をたんといただいた。

次は初詣。結婚してからは横須賀の走水神社に行っている。僕は無神論者ではないが、神も仏もアテにはしない方だ。どこに行こうが構わないが結構な古刹というところと社から海が一望できる走水神社が気に入っている。結婚前までは、鎌倉の鶴岡八幡宮に行っていた。鎌倉という土地がミーハーに好きだったし、密かにわが身を源氏の末裔と信じていたから(これは半ば冗談、小野寺という姓は、由緒正しく行けば平家だ。平家の末裔が会津あたりに土着したものが、秀吉や家康との折り合い悪く取り潰され、実力に勝る、伊達、最上、上杉に追われるように庄内から津軽あたりに散っていったという。もちろん当家がその正統にあるわけもなく・・・)随分長く習慣としていた。結婚して、妻のお腹に長女がいたり、次女が年末に生まれたりと、とても正月に鎌倉まで行く余裕がなかったが、鎌倉離れが決定的になったのはオーシャンノート開業秘話第三の巻(大げさ!)、鎌倉商工会議所と神奈川県中小企業センターのチャレンジショップ応募だった。何の根拠も無く憧れの鎌倉にオーシャンノートを開店したかった僕は、以前にも少し書いたが、ある日、プラス勤務時代の先輩Iさんのヨットの上で「お前、何にも手がかりがなけりゃあ、商工会議所に行ってみな」と言われた。で、門を叩いたのが鎌倉商工会議所。とりたてて意地悪をされたわけでもないが、やはり排他的な土地柄らしく親身になってくれることもなかった。ただ、そこで貰ったパンフレットの中に横須賀商工会議所の創業セミナーの案内があって参加することにした。約3ヶ月、あれこれ勉強する中、腕試しではないのだが、事業計画を客観的にコンペティションする場を紹介された。そのひとつが神奈川県のチャレンジショップというコンペだ。これに合格するとかなり結構な支援が受けられるのだが、約2ヶ月間、現地鎌倉の人口、来街者や消費単価など様々な、いわゆるマーケティング的な研究も含め壮大な事業計画を作ったものの結果は不合格。最後のプレゼンテーションの事は一生忘れない。ネット上の個人攻撃は卑怯なので当然のこと姓名は伏せるが、商品を持ち込んで汗だくになってプレゼンする僕に、まるでゴミを見るように商品を指差し「こんなもん、誰が買うんですか?鎌倉の人はこんなもん買いませんよ!」とご批評下さった中小企業診断士の某のことを僕は一生忘れない。診断士として鎌倉とは縁深いご様子だったが、彼女も行政から業務委託をされてりゃあ、こちらも一応納税者なのだし、度を逸した失礼な物言いは何人にも許されるものではない。誰が買わずとも、お陰さまで沢山のお客様に喜んでいただいているし、鎌倉からわざわざいらっしゃるお客様も数知れない・・・実はこの時、やはり審査員でおられた数名の中のお一人、中小企業診断士のO先生とは別の場で再会することになる。やや傷心で風向きの悪い鎌倉をあきらめ一転、不思議な因縁を感じ、娘の通う幼稚園近く、横須賀上町に開業の場を絞り、やはり横須賀商工会議所の勧めで、横須賀市のベンチャー事業支援に応募、これまた厳しいコンペを勝ち抜き(この選考は本当に厳しかった!)認定に漕ぎ着けるが、さあ開業となった時、たまたま用事で訪れた横須賀市経済部で今度は商店街活性化の為の空き店舗入居への助成制度があることを知らされ、その第一回のコンペに応募することになる。そこでビックリ、その最終プレゼンの審査にO先生が居られるではないか。さすがにお互い苦笑いである。O先生にすれば「こりないなあ・・・コイツ・・・」と思われたことだろう。結果的に、これも合格、O先生が寄せて下さったと思われる講評には「信念がある」と記されていた。そりゃあそうだろう。あれだけ味噌糞にやられた事業計画を諦めないで磨いているのだから。先般、横須賀市優良商店の表彰をいただいたが、実はこの”空き店舗入居への助成制度”には商店会への加入が義務付けられており、横須賀市経済部の橋渡しで上町銀座商店会の役員会に初見参させていただいたことがきっかけとなり足掛け3年、商店会長からの推薦となってゆくことになるのである・・・と、まあ古事記や日本書記にも記される走水神社から随分脱線した話題になって恐縮である。

冬休みも終わりなので、初詣を終えて久しぶりに城ヶ島まで足を伸ばす。島の裏側(どっちが裏になるのか知らん?)の馬の背洞門、なんだが橋になってる部分がひとまわり細くなったような。娘たちが、そのまた子供に、いつか「ここは洞門というアーチになっていて・・・」なんて語る日もあるだろうと思って写真を一枚。10年も経てば、この洞門、崩れてしまいそうである。ちなみに、禁じられているから絶対にやらないでほしいが、女房は結婚してすぐのころ、この洞門の上を歩いて渡った。高いところが苦手な僕は、未だに渡ったことがないし、怖くて渡る気もない。もっとも、女房も洞門のアーチの痩せ方を見て「今なら渡れない・・・」というが、僕には洞門の痩せ振りよりも、彼女の体重が増しただけのようにも聞こえる。やはり七草粥は正解だったと思うのである。(2009,1,8)

01/01 新春 海軍料亭小松のカップ

海軍料亭・小松のデミタスカップ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

あけましておめでとうございます。昨年同様、オーシャンノートは元旦から営業中です!

暮に、海軍料亭”小松”のデミタスカップを入手、松の柄が縁起模様なので、門松代わりに正月用のディスプレーに使っている。このカップの縁起の詳しいことはわからないが、カップの底にはMINOCHIYAとあり、合羽橋のミノチヤキッチンセンターが調製したものとわかる。おそらく多治見あたりの産だろう。戦後、進駐軍の指定飲食店だった頃、1940年代から1950年代に使われたものと思われる。ひょんなことから、全くの未使用品を数客手にいれた。やっぱり横須賀ならではと思わざるを得ない。残念ながら”小松”で食事をしたことはないのだが、よい折と思い勉強のため絶版の海軍料亭”小松物語”を買ったら、これまた無くなられた小松の女将、山本直枝さんの毛筆サイン入り!!何だが因縁めいた小松である。この小松のカップ、オーシャンノートは古物商ではないので、骨董まがいにとんでもない値段で売る事はしないが、御馴染みさんには”個人的”にお譲りしている。

まあ・・・元旦から店長日記を書いたりしてはいるが、さすがにヒマ・・・ではある。午後からは、お馴染みさんがお酒持参で来店の予定、昨年のように前後不覚の居眠りにならんように、自戒自戒(2009,1.1)

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