今となれば・・・

用事で中野の実家に行った。僕が中学のころは偏差値絶頂期で、年に何回か受ける学力テストのオレンジ色の成績表を親子先生ともどもにらめっこしてケンケンガクガクやったものだった。今から思えば”身の程”というものがあるわけで、本人の能力をよくよく見てやれば良いものを・・・申し訳ないこととは思いつつ今になって両親にはやんわりと恨みごとを言わせていただいている。

次女は僕が教員免許をもっていることを信じてくれないので、行ったついでに免許を探していると小学校から大学までの成績表がごっそりあって、久しぶりに小学校時代の我が通知表を見て両親が僕に空しい期待を寄せたのも無理はないもんだと思った。今更、先生方を恨むつもりはなく当然感謝の念だけをいだくのみではあるが・・・

「成績も良好です」「すべてにおいて速度はありますが粗雑です」(3年)「能力もありやればできるのですが(出ました決め文句!)努力しないため良い結果が得られません。残念です」(4年)「優れた能力を持っていますので、今後の努力によっては素晴らしい力が・・・」(6年)

こう書かれちゃ親もその気になるわなあ・・・まあ、ついでに書けば「わがまま」「自分勝手」「勝ち気」「権利主張が強い」あたりは先生方みなさんの共通した意見で、一方「明るく」「素直」とも記されている。これは確かに一生変わらないものではあるなあ(苦笑)

父もその頃のことを思い出して、QE2が横浜に来たこと、NHKで商船大学の練習航海を見たこと、そして父が小型船舶の免許をとったことなどが重なって・・・親子共々、僕が商船大学に進み船乗りになることにあこがれていたことを思い出して笑い転げてしまった。何せ、僕が外国航路の船長になって横浜あたりに入港するのを父がクルーザーでお迎えするという壮大な夢物語だったのだ(笑)

まあ、夢は夢で、その当時はすでに氷川丸も退役して日本に太平洋航路の定期客船などないことなぞ承知しちゃあいない。

そんなことを思っていたら、日本郵船の幻の太平洋航路客船のことを思い出した。残念ながら資料を手元に持ってはいないが、以下、高橋光彦さん著”クリスタルクルーズの20年”に”二引きの旗のもとに 日本郵船100年史”から引用されている一文を引用する。

氷川丸引退か? の噂を伝え聞いた社内外から、「何とかもう一度、客船を造ってくれ」という声が、潮のように押し寄せてきたという。日本郵船も客船事業を存続すべきか、撤退の道を選ぶのか、非常に苦悩した。客船継続論を、単なるノスタルジアで片付けるわけにはいかない。客船は、「もの」と「人」でつくる芸術品であり、その国の文化遺産でもある。だからこそ欧州では、外洋を走る豪華客船を持たなければ、一流の海運会社と見なされない時代があった。金があれば、誰でもタンカーを持つことはできる。それは「もの」自体だからである。しかし客船は、金で買うことはできない。「人」自身だからである。客船を継続することは一つの文化(技術)の伝承であり、廃めることはその中絶を意味する。この日本に、伝承できるものは日本郵船しかいない

3万1000トン、航海速力26ノット(※1ノット=時速1・852キロ)、最高速力31ノット、客船定員1200人。これを2 隻そろえて、サンフランシスコ、ロサンゼルスの航路に配船する。船価は2隻で250〜300億円という概算である。
(中略)
 日本船主協会、海運造船振興協議会など業界団体から客船建造の要望書が出された。ホノルルやロサンゼルスの日系人商業会議所から総理大臣あての要望書も到着した。
 運輸省(当時)は田中委員長の強力なバックアップと、これらの要望により1959年度予算で一般会計10 億円、財政投融資13 億7500 万円の予算案を策定。計画通りに進めば第一船は63 年7 月、第2 船は64 年7 月に完成するはずであった。
 しかし天災が夢のプランを本当に夢のままにしてしまう。
 59年9月に猛烈な台風が紀伊半島や東海地方を襲い、5000人以上の死者・行方不明者を出した。伊勢湾台風である。当時の大蔵大臣・佐藤栄作は客船に当てていた予算を伊勢湾台風被害の救済復旧にまわすことを決定。こうして新造船プランは伊勢湾台風という風と共に去ってしまう。
 日本郵船首脳は、ジェット機時代を迎えて、もはや客船の時代は去ったと判断するしかなかった。氷川丸の引退、そして客船業務からの撤退を決断した。経済合理性という厳しい現実が、ついに海からロマンを奪った 引用ここまで

昨年は残念ながら船の科学館が休館になってしまった。海の向こうに目をやればどこの国でも官立の海事博物館的なものはあるのに日本ではなかなか難しい。引用の文にあるように、ひとつの文化が廃れてしまったのかもしれない。幻の太平洋航路客船があれば違ったかもしれない。少なくとも僕の船長は”たられば”にもならない話だったけれど、郵船の幻の客船は”たられば”に足る勿体ない話だったと思っている。(2012,4,18)

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氷川丸固定説(笑)

船のポスター・オーシャンノート 日本郵船・氷川丸

昨日は臨時休業をいただき、久しぶりに日本郵船歴史博物館と氷川丸を見てきた。よくよく聞いてみれば娘達は氷川丸に乗ったことがないというので、それは我が家の名折れとばかりヤフオクで二束三文で売られてる株主優待券を入手して(4枚、八名分で80円也!)関内一周の小旅行。関内駅から郵船博物館、象の鼻、山下公園、氷川丸、中華街、元町、石川町駅・・・徒歩5時間余りの素敵なお散歩である。

昔とは違いネットに情報があふれる時代なので、何の分野であっても無人の野を行くような史料集めからは開放されて学者と素人の差は縮まってはいるのだろうが、それでも機会あるごとに自分で集めた情報は検証すべきであろうから時間を置いてパブリックな施設に出かけることは良いことだ。特にネット社会では一旦間違った情報が伝わるとコピペやリンクで定説になってしまっている恐れがあるので自分の目と足で確かめることは肝要だ。

日本郵船の戦前の現存史料は、その企業活動規模からすればおおよそ少ないものである。ある一枚の雑誌広告を見つけたとする。それ一枚を純粋に史料として”楽しむ”のは悪くないが、その年にリリースされた他の広告、そのデザインのシリーズ性、内容の背景・・・これらをモザイクのように組み合わせると、その時代の活動が鮮やかに浮かび上がったりするものだ。しかしながら、例えば仮面ライダーカードが546枚あるという全貌が判っていて集めるのと違って、最初に存在する史料の全体像が判っているわけではないからなかなか一筋縄ではゆかぬもので、そういった大きさの判らない欠けたモザイクを埋めるにも博物館といった存在は嬉しい。

もし、これをお読みの方で未来永劫貴方の属する集団が存続すると思うなら、社史編纂のようなものを充実するべきである。それは100年後の後輩たちに計り知れない財産をもたらすことであろう(笑)

さて、娘達に昨日一番良かったことを尋ねれば・・・中華街のブタマンでも随所の売店のおみやげでもなく、氷川丸に乗ったことだという。ヨシヨシ

僕は古い俗説で氷川丸は船底にバラストを積み(コンクリ?)海底と柱でつながっていると思ってはいたものの、階段を上って船に乗るとやっぱり揺れている気がするし、女房と長女に聞いてもやっぱり揺れていると答える。ところが次女は身長が低いせいか最後まで「揺れていない」という。結局、頭の中は???のまま帰ってきたが、戦車研究室というウェブサイトを主宰される管理人さんが2011年5月19日に氷川丸(046-641-4362)に問い合わせたところ海底には固定されていないという正式回答を得たとのことである。さらに、以前にもお世話になった(関西大学の塙友雄先生のタイタニック事故の検証論文)関西造船協会会報”らん”に三菱重工の竹田大樹氏が寄せた一文によればドルフィン2本、陸上係船杭3本、アンカー5個で”係留”、暴風の際は海水バラストで着底できるように浚渫されていると記されている。従って氷川丸は揺れている(笑)

1930年就航の客船・・・もう船齢82年である。冷静に考えればこれは国家的遺産ではなかろうか? 一民間企業の日本郵船さんに保存をお任せするには荷が重いだろうし、国を挙げて保存に取り組むべきと思うがいかに? それともやはり将来仕分けされてしまうだろうか?(2012,3,30)

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戦没船員の碑

客船のアートポスター・オーシャンノート 戦没船員の碑

26年振りの寒さだとか・・・26年前といえば、僕ァまだ新入社員の駆け出し営業マンだった。会社という不条理な組織(今だってライン系とスタッフ系の不合理な格差はあるだろうけれど)というものに悩みを抱えつつ、今思えば仕事も遊びも随分と無茶をしたものだった。だから・・・寒かったなんて記憶は一向にない。

三浦半島は晴れるも降るも南房総とお天気がつながっていて、暖かさもそこそこだけど、それだけに今年の冬は堪える。週末は久し振りに暖かかったので観音崎をウロウロしながら戦没船員の碑まで足を延ばす。

太平洋戦争中に亡くなった民間の商船船員は約6万人。海軍軍人軍属は43万人、陸軍軍人軍属は165万人、人数は戦線に出た軍人軍属が当たり前に多いのだけれど、驚くべきはその死亡率で海軍が16%、陸軍が23%だったのに対し、商船船員の死亡率は何と43%に上った。丸腰の輸送任務がいかに無茶なものだったかわかる。

戦没船員の碑の設置とここでの追悼式は公益財団法人 日本殉職船員顕彰会によってなされているそうだ。観音崎の中でも五指の絶景ポイントである (2012,2,6)

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CAZZO!

ポスター販売・オーシャンノート コスタコンコルディア

イタリアのクルーズ船、コスタ・コンコルディアが座礁事故を起こしたのは報道の通り。ポスターやアート、デザインの関係で、僕が多少船のお勉強をしているせいで「大変ですね」とか「タイタニックみたいですね」とか言われるのだけれど(苦笑)、クルーズ船が起こすべくして起こした事故を僕は関知しないし、コメントも特に無い。元々、今時のクルーズ船を客船だとは思っていないし、あれは海に浮いてるホテルだ。

まして、タイタニックの事故から100年ということもあって、強引に因果をこじつける向きもあるけれど、遊びの航海で座礁したものと定期船が意地とプライドと使命をかけて大西洋横断航海をやってたのとは本質的に事柄が違っている。乗船客だって、当時の定期船には自分と家族や子孫の人生を米国への移民に賭けたギリギリの切羽詰った状況がそこにあるわけで・・・

だから、船長も・・・平気で逃げる。イタリアの沿岸警備隊が先に逃げた船長に”Vada de board, cazzo!”(船に戻れ!こん畜生!)と言ったそうで、これが評判になりイタリアやフランスではTシャツまで売られているそうな・・・先日、読んだ日本郵船・浅間丸の本の中に、第八代船長・藤田徹の最後に触れた一文がある。浅間丸を降りた後、昭和19年、元フランス船の貨客船・帝亜丸の船長を任じられた藤田さんはルソン島北で米潜水艦に攻撃され沈没した帝亜丸と運命をともにした。巷では藤田さんが沈没寸前に拳銃自決したとの風聞が流れるが、これを聞いて「御立派な最後!」と褒められた藤田さんの未亡人殿は「藤田はそんな死に方などしません。船乗りらしく、海のなすがままに死んでいったはずです」とおっしゃったそうだ。

コスタ・コンコルディア・・・まったく CAZZO! である (2012,1,22)

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浅間丸

ポスター販売・オーシャンノート 浅間丸

日本郵船の二引きのファンネルが窓の向こうを行かない日は無い。大正期の有名な美人画ポスターをきっかけに、戦前の郵船のデザインをあれこれ掘り下げているうちに内藤初穂さんの”狂気の海 −太平洋の女王 浅間丸の生涯−”という本を見つけた。

内藤初穂さんは大正10年生まれ、御父君は”星の王子様”の翻訳で知られる内藤濯さん、東大の造船を出て海軍の技術畑に進み、戦後はノンフィクション作家として活躍したが昨年10月に天寿を全うされた。本は古書で買い求めたが、表紙見返しには署名と面白い為書きがあった。ご覧の通りの為書宛名は日本郵船のオランダ現地法人の代表を務められた方とお見受けした。献本されたのだろうか・・・

ホルムズ海峡のことを書いたばかりだけれど、船がなければすぐに干上がってしまうのが日本である。その逆も真なりで、戦さで幾らか勝ったとして・・・造船の能力を考えて補給のことはよくよく考えるべきで、すでに”幾らか勝っていた”???時期にすでに軍艦の護衛なしの商船補給船団が潜水艦に攻撃されていたわけだから、一体誰がどのようにそこのところを練っていたのやら・・・

観音崎には、天皇陛下が皇太子時代から度々献花にお出ましになる戦没船員の碑がある。

戦日に逝きし船人を 悼む碑の彼方に見ゆる 海平らけし (天皇陛下御製)

1929年から1930年、日本郵船は太平洋航路に一挙に六隻の新造船を就航させる。サンフランシスコ線には浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線には氷川丸、日枝丸、平安丸である。このうち、奇跡的に戦禍をかいくぐったのが、御存知、横浜の氷川丸。同じ太平洋航路とてサンフランシスコ航路とシアトル航路の船は別物だったらしい。模型や写真でしか見ることができないのでピンと来ないが、太平洋の女王と呼ばれた浅間丸は美しかったそうである。シアトル航路の氷川丸は大圏航路で北緯53度あたりまで北上するのでブリッジを高くして頑丈に作らねばならなかったらしい。実は日本郵船の社員の間では「一番恰好悪い船が残った」と囁かれたのだとか・・・僕はそうは思わないけれど・・・太平洋の女王は余程美しいものだったようである。

”狂気の海 −太平洋の女王 浅間丸の生涯−” 古書では結構お安く買えるので、作者さんも昨年亡くなられたとのことだから、ご興味の向きの御仁は一読をお薦めする (2012,1,21)

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ホルムズ海峡

ポスター販売・オーシャンノート 客船

毎日毎日大きな船が沖を行くのを見ていながら、これが自分の生活と直結していることに連想が追いつかない。しかしながら、ひとたびきな臭いニュースが飛び込んで来ると「ああ、この船がなければ日本はとたんに往生するんだなあ」と改めて気づかされる。

核開発を止めようとしないイランへの制裁として、昨年からイランが輸出する原油代金の決済ルートとなるイラン中央銀行との取引を制限する措置を米国がとっている。米国内で活動できないと銀行は成り立たないので、各国は実質的にイランからの原油輸入ができなくなる。(日本は輸入削減を策定中、中国の同調は不明) これに対して、イランはホルムズ海峡の封鎖をちらつかせている。サウジアラビアとクェートの原油=世界の原油の3割はホルムズ海峡を通ってくるわけで、もしイランが海峡封鎖という暴挙に出ればただでは済まない。

で、思い出したのが本宮ひろしさんの漫画”男一匹ガキ大将”である。何でも本宮さんの考えでは、本当は主人公の戸川万吉が富士山麓で天下分け目の決戦で堀田(だったかな?)に槍で刺されて完結だったらしい。ところが、連載元の少年ジャンプは完結を認めてくれず(笑)、仕方なく日本一のガキ大将に・・・で終わりと思ったら、それでも連載終了させてもらえず描き続けたのだとか。

その無理やり続けた後半にいくつかのエピソードがあるけれど、当時子供の僕にはピンと来なかったのがペルシャ湾のエピソードだった。師でもありライバルでもあった水戸のおばばの遺志で水戸屋商事を継いだ万吉。この水戸屋の乗っ取りを狙ったのがアメリカのコックフェラー(笑)・・・

ある日、ペルシャ湾から原油を運ぶタンカーが攻撃され日本は原油不足でパニックに・・・コックフェラーは日本政府へ原油の供給を申し出る。条件は水戸屋商事をコックフェラーに寄こせというものだった。万吉は二面作戦に出る。まず日本政府と敵対することになりながらも水戸屋商事を守るためにコックフェラー原油船団を入れないように船団を組み東京湾を封鎖。そして、ペルシャ湾には日本の原油タンカーを守るための護衛船団を送る。ペルシャ湾=ホルムズ海峡では攻撃を受け次々と子分が死んでしまう中、援護で何と旅客機を使って相手側を爆撃・・・その相手が実はコックフェラーだと判り事態は解決! というお話だ。

連載当時は当時としても、まさにホルムズ海峡が封鎖されたらと思うと、本宮さんの漫画もあながち荒唐無稽と笑ってはいられない。現に、昨年の銀行制裁が決まった時もガソリンは値上がりして震災の時とは比べようもないけれど10台待ち位の行列になった。

この一週間ばかり日本郵船のことをお勉強している。大西洋航路にばかり目が行って、足元の日本の船には疎かったのだが、戦前の先人達が東洋の片隅の小さな新興国をどうやって列強と競えるものにしたのか・・・結局、先鋭的な部分で競り合ったとしても、それは奇しくも一時的に版図を拡大して補給が追いつかなかったのと同じで、立派な軍艦を持っていても内地じゃ竹ヤリ・・・そういうシニカルな見方もできるけれど、今も昔も先人たちがそのために頑張ったのと同じように船がこの国を支えていることに変わりはない。どうかこのホルムズ海峡の件が紛争にならないことを祈るばかりである (2012,1,13)

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コダック

おととい、写真のことについて少し書いたら、昨日はコダックが米連邦破産法を申請するらしいと伝わってきた。日本でいう会社更生法のようなもので、ただちにコダックにフィルムが無くなるわけではない。何といっても1880年頃にフィルムを発明、今でもコダックはフィルム生産世界一なのだ。

お歌はポール・サイモンのコダクローム。良く聞くと、「コダクロー オー オー ム」のところの次のメロ繰り返しのところ、「アイ ゴッド ア ナーコン キャメラ」と歌ってる。(ひどいな、このカタカナ 苦笑) ナーコンはニコンのこと。

我が家にはコンタックスT3が眠ってる。写真という趣味には無縁でいようと思ったけれど、であればなお更一番上等なコンパクトカメラがいいと思ったからだ。ところが、表参道のサービスセンターに修理に出していたときに、繋ぎのつもりでデジカメを買ったら戻ってきたときには出番が無くなってしまった。

子供達は、レコードを知ってはいても触ったことさえない。考えてみればフィルムという物体もいじったことがなかろう。気が向いたら久しぶりにフィルムでも買って何か撮ってみることにしよう (2012,1,6)

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アメリカスカップ 続き

ポスター販売・オーシャンノート アメリカスカップ

オリジナルの状態のアメリカスカップの写真は余り見つからない。上左の写真は1951年に英国の博覧会に貸し出していたのがニューヨークに戻ったのを機に、クラブハウス内大広間=ハーフハルモデルが一面に飾ってある、いわゆる”ザ・モデルルーム”から、新たに作られたトロフィールームに写された時に撮影されたアメリカスカップの写真とされている。

さてカップ本体には何やら字が刻んである。いわゆるオールドイングリッシュのような字体なので銀製の水差しだから反射もあってなかなか読めない。

100 Guinea Cup won August 22nd, 1851, at Cowes, England. By Yacht AMERCA, at the Royal Yacht Squadron Regatta, "Open to all Nations"

”すべての国に開かれた”が強調されているのは・・・ある意味皮肉である。とんねるずの”泣きのもう一回”ではないが、はるばる大西洋を渡ってワイト島カウズまで行ったのに、敷居の高いロイヤルヨットスクォードロンはアメリカ号のレース参加を認めず、各方面からお願いした末、やっとのことでワイト島一周レースに出ることができたのだ。ちなみにワイト島一周レースは大体、淡路島を一周する感じだという。次にレースに負けた英国の13艇の名前が書いてある。

Alarm (193t カッター),Arow (84t カッター),Bacchante (80t カッター),Beatrice (117t スクーナー),Brilliant (393t スクーナー),Constance (136スクーナー),Eclipse (50t カッター),Freak (60t スクーナー),Gipsy Queen (99t スクーナー),Ione (57t スクーナー),Mona (56t カッター),Volante (48t カッター),Wyvern (127t スクーナー)

なぜか2位だったオーロラ、Aurora (47t カッター)の名前は刻まれていない。

Schooner AMERICA, 170 tons Commodore JOHON C. STEVENS Build by GEORGE STEERS of New York 1851

Presented to the NEW YORK YACHT CLUB as a Challenge Cup Open to all Foreign Clubs By Owners

余程、英国では屈辱的な扱いを受けたのだろう。最後にも丁寧に”すべての国のクラブからの挑戦を受ける”としてある。英国にしてみれば、とうとう叶わなかったけれどもカップを奪還して鋳つぶしてしまいたかったことだろう。

ずいぶん若い頃に、会社で厳しくも優しかったお隣の部署の課長さんには良く説教された。ある時「小野寺、愛からは何も生まれないよ。憎しみとか恨みが一番強力なパワーになるんだよ」とコンコンと言われた。確か、上司にコテンパにやられて凹んでいた時に言ってくれたのだったと思う。要は、「悔しかったら見返してみろ!」というわけだ。(また別の時は「小野寺、いやな上司とあたちゃったら思いっきり働け。そうすりゃ、その上司は出世して居なくなるから」・・・これは本当にそうだった 笑)

1983年に、ついにアメリカは負けてアメリカスカップはオーストラリアに渡るが、この立役者、オーストラリアのアラン・ボンドは、1970年にニューポートの船だまりでとある12mクラスカップ艇のヨットを覗きこんだらポカリと一発殴られて罵倒されたことから打倒ニューヨークヨットクラブ!を宿願としてアメリカスカップに挑戦、13年後ついに望みを果たしたのである。

この時に負けたデニス・コナーは有名だから書くこともないが、個人的にはコマーシャリズムを持ちこんでアメリカスカップを台無しにした張本人と思うものの、心情はよくわかる。ニョーヨークヨットクラブのためにせいぜい働いたのに、結局、肝心なところでウィングキールの是非について味方になってくれず孤独な戦いをした挙句、負けたら誰も寄り添ってはくれず冷淡で・・・そりゃあ自力でスポンサーを捕まえて自分が属する本当のクラブ(この場合はサンディエゴヨットクラブ)から好きなように奪回をやりたわなあ・・・見事にカップ奪還を果たしたのはご存知の通り。その後、ニューヨークヨットクラブはカップとは無縁である。

今のカップは台座がふたつ追加でくっつけられて背が高くなっている。勝者の名前を刻むスペースが足りなくなったからだ。ちなみに、広くヴィクトリア女王から下賜されたカップとなっているが(日本版ウィキにもそのように書いてある)、これはウソ。1848年にロンドンのロバート・アンド・セバスチャン・ガラードという宝飾店で3個ほど作られたもので、これをロイヤルヨットククォードロンが買った。使い道のなかった水差しがたまたま1851年のワイト島レースのトロフィーになっただけである。水差しといっても底はないそうだから、F1の優勝カップや相撲の大関杯のようにこいつに並々とシャンパンやらお酒を注いで飲むことはできないそうだ (2012,1,5)

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アメリカスカップ

ポスター販売・オーシャンノート アメリカスカップ

ご要望が多かったオリジナルポストカードの額装品 The Historic Collection のリリースを開始した。今まで余り知られていなかった写真がゴッソリ見つかったりエキサイティングな日々だったが、これをきちんと見られるモノに仕上げるのは一苦労だった。

カメラとゴルフには近づかないようにしてきた。どちらも”道具”に(多分)ウルサイ世界で、凝り性の僕がはまると一財産あっても追いつかないと思ったからだ。

というわけで、”写真”というものには詳しくないのだが、今回は乾板写真というものに出会ったので良い機会なので少しだけ聞きかじってみた。乾板というのはガラス板にあらかじめ銀塩液を塗っておき必要な時に取り出して現像できる、いわばフィルムのガラス板のようなもので普及するのは1870年代で、これがその場で塗ってすぐに現像しなければばらない湿板を駆逐した。1900年になるとジョージ・イーストマンが発明したフィルムを使うコダック・ブローニーカメラ発売、これが今度は乾板を駆逐した。戦後は35mmフィルムが爆発的に普及、フツーの人がカメラをいじる時代が来た。

とまあ、概説はこんな感じだが、面白いのはアメリカスカップの写真をこの写真の進歩と重ねると、それぞれの写真家が重ならなかったことだった。乾板はJ.S.ジョンストンという人で、この人はブローニー発売の前年に亡くなった。ブローニーはエドウィン・レヴィックで、ブローニー発売の前年に英国からニューヨークに移住、1929年には亡くなったがスタジオ(モーリス・ローゼンフェンルドも働いていた)としては1940年代初めまで写真を残している。

ワイト島のビーケンは三代、初代の乾板、二代目のブローニーから始まって今もとり続けている。アメリカのローゼンフェルド家は二代、ブローニーから1980年代まで、写真は博物館に売ってしまって撮るのを止めてしまった。いぜれにせよ、デジカメのデータや画像のデジタルデータはハードディスクが飛んじゃえば終わりだが(当家でも子供が小さい頃の写真が半年分くらいやられた)乾板もフィルムも強い。100年もつのだから・・・

で、これまた良い機会なので、しばらく前に古書で求めた”アメリカ杯物語”(吉谷龍一 著)を読んでいる。1986年発行の本だがとても良い本である。人間ドラマの部分とレース詳細の部分のバランスが良く、新事実というほどのものはないが日本には詳しく伝わっていないお話もある。(と思った) しかしB4版で247ページ、写真多数、当時のお値段18000円也の超労作である。

序文の一節に「・・・誰かが一度は書かねばならないと思っていた・・・」とある。まさに、我が意を得たり! である (2012,1,4)

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