12/30 どうした クイーンメリー2

客船は皆、年越しクルーズで沖に出ている。新春4日頃まではどこの港も空っぽだろう。昨日、残念なニュースが飛び込んできた。クイーンメリー2でノロウィルス集団感染の疑いがあるそうだ。19日にニューヨークを出港してカリブ海の島々に寄港したあと、1月3日ニューヨークに帰港、すぐさまサウザンプトンへ大西洋横断の予定だが・・・

ノロウィルスは検疫感染症でもなければ、隔離の必要な感染症(伝染病)でもないから、入港拒否や乗員乗客の上陸制限があるわけでもなく、夢物語みたいに幽霊船になることはないけれど、格式を誇るオーシャンライナーとしては不肖のイメージは免れない感じがする。

200人近い感染が疑われるそうだが、この数だと出港から10日ばかりで乗客同士で感染していったというよりは、食事が原因である可能性が高いだろう。つまり、厨房スタッフの衛生管理に手落ちがあったということである。そのあたりなると「どうなるんだろう?」と我が家でも話題なったのだが、これが日本の陸の話であれば食事の提供元や食料品店は食中毒で営業停止だ。しかし、船では、他で食事をとることはできない訳だから・・・「腹減っちゃうよなあ・・・」ということで、はてどうなるんだろう。

いずれにせよ、速やかにこの事態を解決し、航海に穴をあけずに 「流石!」と言わせて欲しいものだ 安航を祈るばかりだ (2012,12,30)

Ocean-Note, Queen Mary 2, Dan Cosgrove 2005

12/27 東北にオリンピックを

どうでも良いことかもしれないし、一介の町場の商人が言ったところではじまらないが・・・アメリカズカップ(正確にはアメリカスカップ。”ス”と”ズ”の違いは・・・今更どっちでもいいじゃない 笑) の行く末を憂いている。すっかり近未来的なカタマラン艇(双胴艇)になってしまって、まるでSF漫画で未来を見ているようだし、きっとやってる当人たちだって、どこか違うと思いながらやっていると思う。ただ、アメリカズカップはもう抜き差しならないほど商業イベントになり、そこにアリが沢山群がっていて、儲かるものだから誰も止めることはできないのだ。オリンピックが元に戻せないのと同じで、見てる僕たちだって”オリンピック精神”なんて大きいこたぁ言えないもんで、タダでテレビを見て北島康介に勝手な喝采を送ってられるのも商い盛んなるお陰だ。

東京都知事は猪瀬さんに変わっても、相変わらず東京オリンピックはやりたいのだという。何度も言うけど個人的な意見としては 1、まだやってない国でやるのが自然 2、もし日本でやるなら東京はもうやったのだから他でやるべき 3、それよりもそんなお金があるならアメリカスカップを本気でとろう・・・ これは安倍新総理の政策とも一致してて、現にニュージーランドはそれをやってしまった。ニュージーランドはアメリカズカップで国民一人当たりGDPを瞬間的?にせよ世界一位にしたのである。

まあ、そのことは良いとして・・・東京のオリンピック招致のネックは国民の支持率の低さだそうである。そりゃあそうだろう、アメリカスカップは別としても僕と同じような考えの人は沢山いると思う。で、思うのは、東北オリンピックはどうだろう? いささか辛辣だが、民主党さんの政権交代ごっこのおかげで、東北の復興のスピードは全然なっちゃあいないと思う。津波でやられた水際に家は建てられないから、ここに運動場を作って、競技場は再開発が必要な高度のある土地に作る。この再開発とオリンピックを一緒にしてしまえば、商業地と住宅地が一緒にできないだろうか?いっそのこと、中央官庁も幾らか移転させてしまえば尚宜しい。 この寒いところ、仮設住宅には32万世帯が暮らしているという。

再開発と復興、振興、新内閣が唱える公共投資・・・まるごとできるのは東北オリンピックきゃあないと思うのだが・・・ (2012,12,27)

12/14 客船オーシャンドリーム

オーシャンドリーム世界一周へ出港:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

ピースボートの客船オーシャンドリームが出帆・・・第78回世界一周へ旅立った。横浜への帰港は来年3月25日の予定だそうだ。

Bon Voyage (2012,12,14)

11/24 横浜

横浜20121124:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

一月半ぶりの横浜。横浜みなと博物館の客船ポスター展の会期がいよいよ終わりなので家族四人で出掛ける。弁当開きは例によって大桟橋。ロイヤルウィングのトップデッキにもサンタクロースが乗っかって、今日くらい北風が吹いてりゃ冬の風情一色である。

横浜マリタイムミュージアムが横浜みなと博物館に衣替えしてからは初めての訪館、常設展の方は見なかったけれど客船ポスター展は素晴らしかった。見たことがあるものもあったが、ほとんどは初めて見るものばかりで、日本は敗戦で何もかも燃えて無くなってしまってるとばかり思っていたが、あるところにはあるんだと認識を改めた次第。出展協力者の中にはお客様としてお付き合いのある方もおられて「ウンウン成程」とうなづきつつ、函館の図書館や神戸大学の所蔵品は未知だったし、どうしても1920年代から1940年あたりまではフランスや英国の客船ポスターが飛び抜けて優れているのでそっちの方に目が行ってばかりだったから、純粋にデザイン的の優劣では一歩劣ると感じるのは止むをえないものの、目を留める価値は十二分にあるものだった。今回は、わざわざフランスから見に来た個人研究者なども居られたそうだ。

客船ポスターに限らず、そういったものがもっと広く目に触れるためにも、博物館の底上げが必要だと感じる。どこの市区町村も、そこそこの人口=予算規模を持っていれば博物館・資料館的なものを持っているだろうが、運営は厳しいものと思う。横須賀の博物館には、当社でも良くお買い物していただいた天皇陛下のご友人の元館長さんがおられて、何でも陛下は元館長さんに会うために即位されてからも数度博物館を訪問されたとか・・・で、その元館長さんはと言えば、御身分は単に横須賀市の職員(役職や職階は知らず)であり、役所の筋に聞けばその元館長さんのように定年まで博物館員を全うされるような方は稀で、普通は学芸員といえば聞こえはいいけれど公務員として人事的な側面からは不安定な立場な方が殆どで、とても研究に没頭できる環境ではないのだそうだ。大学で自然科学を研究するのと違い、特に人文科学の研究と言うのは難しいものらしい。その研究は主に過去のものでありマネーの種にはなりにくいからだ。

横浜みなと博物館も詳しい事情は関知しないが、マリタイムミュージアムの企画運営はかつて東京の某企画設計会社が請け負っていた筈で、それがいろいろな面で齟齬をきたしていたものと推察される。上手くいってりゃ衣替えする必要は無かった筈である。いずれにせよ、その辺がもっともっと上手く行ってくれないと、まだ未分類(笑)のまま埋もれている史料が山ほどあるのかもしれないということになるわけだ。

お城や建築物は自分では動かないから良いけれど、人が持って動かせるものはイケナイ。今回の展示協力に名を連ねてる当社のお客さんは、鑑定団なんかでも笑い話になるように、やっぱり家人の皆さんは収集品に無関心だそうだし、平塚の客船紙モノ収集家の某氏は、かれこれ数年わたって収集品の処分をされていて、すでに史料の大半が散逸している真っ最中である。恐ろしい話である。

そう言えば、同じように気になるのが福岡の永井敬二さんの家具のコレクションだ。永井さんのマンションにお邪魔した時に一部だけ見せていただいたけれど、永井さんは誰にも見せない、見せたくもないとおっしゃっていたっけ・・・世界で二番目ともいわれる永井さんのコレクション(一番はスイスのロルフ・フェルバム・・・ヴィトラの会長だ)、永井さんは無くなったら一緒に燃やしてもらうと言うのだが・・・永井さんのコレクションのことは以前の日記にも ・・・

大桟橋で鎮座しているノルマンディーの模型・・・かつて丸の内の洋服屋さんに飾られ、大桟橋に寄贈されたそうだが、僕が知る限りあの模型の銘板に書かれた作者は模型の発注者さんらしく、本当の制作者は一昨年亡くなられた日本指折の模型制作者さんだそうで・・・それこそ博物館級の代物である。今日じっくり見ても、今のところ若干の塗装割れがあるのみだが・・・文化というものは刹那的なもので、残されて伝わってゆくものは、ほんのわずかばかりしかないのかもしれない (2012,11,24)

11/26追記 今回のポスター展の参考文献の中に懐かしいお名前を見つけた。田付 茉莉子先生である。何が懐かしいかといえば、田付先生は大学の担任の先生である。無論、大学の担任なんていい加減なもので関わりは殆ど無く、新入年度のオリエンテーション程度しか記憶にないが、それでも卒業間近に悪友7人ばかりと教室で一緒に写真を撮ったのを憶えている。当時は先生の専門分野も存じあげなかったが、企業経営史がご専門で、中でも海運史が研究分野だったそうだ。僕は関東の人だから、どちらかといえば郵船びいきなので残念だが商船三井の社史編纂にも携わっておられるようである。いつかお目にかかれるだろうか・・・

11/19 アメリカズカップをとるために

アメリカズカップをとるために:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

娘達の学校は土曜参観の振替で休み。仕事の合間をぬって観音崎で散歩。観音崎・たたら浜のあたりも護岸整備なって、明治以来の崩れかけた石積みが無くなった。真新しい護岸はそれはそれで宜しいが、調べれば東京湾神奈川県側を湾奥までたどれば、馬堀海岸南側の走水が最後であとは湾奥までたった1mばかりも自然の海岸線は残っていないのだそうだ。浅野・渋沢の偉人コンビが成した京浜工業地帯ってそういう側面もあったということだ。魚釣りの人は判るかもしれないが、東京湾は企業による海岸線支配が強く糸を垂れるのもままならない。海って、近いようで遠い・・・この国では。

アメリカズカップの本を読み漁っていると、このあたりの海との距離感が、自分たちでは海洋民族と思いこんでいる日本人が、本当は根っからの農耕民族である由縁だ。アメリカズカップの防衛艇を5度にわたってデザインした鬼才ナットハルショフ、ある種トリッキーなレーシングマシンからは想像できないヨットも造っている。ハルショフ12 1/2というディンギーで、ハルショフのカップ艇はひとつも残っていなくとも、こっちは米国東部では沢山残っている。

以前、絵本の翻訳をやっていたころ、ロバート・マクロスキーのOne Morning In Main、Time Of Wonderという素晴らしい本に出会った。どちらもメイン州のペノブスコット湾を舞台にしたお話だがマクロスキーの絵にはハルショフ12 1/2らしきものがフツウに描かれている。そうそう、北米に限らずそんな光景は世界中どこでも当たり前で、多くの子供達はセーリングという経験をしてる。

キャプテン翼を読んだ世代が、子供の頃からサッカーボールに親しんで、出るだけで大変だったワールドカップが現実のものになったように、海の生活文化の底辺拡大をしなきゃアメリカズカップなんて夢のまた夢のようである。最後の挑戦からはすでに10数年が経ってしまったが、ニッポンチャレンジのことを認めた著作を読み返すにつけ、やるんなら大学ヨット部の延長ではベクトルが違っている様子だ。

別に・・・自分が乗ってみたい(無理だ!)とか、カップに関わりたいってわけではない。ただ、F1レースに心躍らせたように、4つの車輪で地面を走るのと海を行くヨット、日の丸ニッポンが世界一だったらいいじゃない・・・そう思う。尤も、アメリカズカップもカタマラン艇が使われていて、これが正常な発展か否か大いに疑問で、この状態はかつてのF1ホンダターボエンジンのようにチャンスのようにも見えるもののヨットレースとは言いにくくなってるような気がする。

さて、アメリカズカップの本を読み返して気づいたことを2つ。

昔、日記に書いたことがあるのだけれど、もし日本にカップが来たら、カップレースは城ケ島沖が良い・・・実は、当時のニッポンチャレンジのベースが蒲郡になる前に、シンジゲート会長の山崎氏(SB食品会長)は城ケ島にアプローチしたのだそうだ。がしかし、漁船が多く、島の内側の波も高いそうで適さないのだそうだ。島の上から沖を見れば、サンディエゴのラマ岬のようで良いと思ったのだが・・・

それと・・・、あのデニス・コナーは泳げない! 自著で書いている。驚いたねえ・・・笑   (2012,11,19)

11/12 日本郵船氷川丸の模型

ポスター・販売・Ocean-Note・blog・日本郵船氷川丸の模型

戦艦三笠で開かれていた船の模型コンクールが終ったので、展示されていた次女の夏休みの宿題、氷川丸の模型が戻ってきた。賞はもらえなかったけれど、次女は本当に一生懸命にやったし・・・力作だと思っている。

グッと話が下世話になるのだが、船の模型というのは難しいもので、とうとう上町の店を構えていた時には納得できるものには出会えなかった。勿論、模型探しに注力した訳ではないし、艦船模型は奥が深いから門外漢である僕がどうのこうのと言える筋合いではないのだろうが、好き者の一般ピープルとして・・・例えば自動車の1/43精密模型の様なモノが何で船には無いんだろうと不思議に思ったりしてる。

客船ではないけれど、「これは凄かった」と思えたのは、フランス・アボルタージュのモデルヨット。値段も凄い(1/50でざっと30万円)けれど、それはそれは惚れ惚れするものだった。10年ほど前は平河町にお店(MAREという)があったのだけれど今は見ることはできない。ちょっとしたことで問い合わせをしたことがあるのだが、社長の安田さんは誠実な方で丁重に取引の条件などご連絡いただいた。僕は口利きでいくばくか頂くつもりもなかったので、買い取って当社で在庫が出来る状況ではないことを正直に申し上げたのだが、こんな切った貼った売り逃げ(笑)の時代に商材も上等ならば商いも誠実なものと感じ入ったものだった。

逆に、高名な船舶模型の某社さんには煮え湯を飲まされた。失礼がないようにと某海事博物館の知人に紹介をお願いして丁重にお取引をお願いしたら・・・「こんなもん、作るのに何年かかるかわかりせんよっ!」と随分なことを言われてしまった(笑) こちらは小売店舗だったから、同じものを幾つも並べても仕方が無い・・・有償のカタログを購入して、掲載商品を10ばかり選んで値切りもせずにお願いしただけなのだが・・・直に話せばいかに僕がノンキなトーサンであっても判る。僕だって、世界は違うけれど家具ギョーカイではいろいろな会社を見て、沢山の職人さんと仕事をやってきた。   「ここん家はいい仕事はできない!」

素人考えで恐縮ながら、今のところ小さな船舶模型はポリレジンのものが優位だろう。プラッツというところで作っている1/2000の大和なんか値段から見たら信じられないような出来である。少量もしくは型抜きしにくいものならシリコン型、ある程度量産ならロストワックスだろうが、金型・金属模型は難しい時代で、先の某社さんの模型の出来もまあそんなもんだろうといったところか(笑) 近い将来・・・きっと3Dプリンターの時代がやってきて、模型の価値観は劇的に変わってしまうだろう。

と、奥深い模型の世界と、我が家の氷川丸は全然別世界で・・・アイデアはクルーズトラベラーという雑誌の創刊号に載っていた、おもちゃコレクターの北原照久さんが持っておられる客船クィーンメリーのおもちゃである。考え方は単純で、デッキプランが一層ずつ厚めのボール紙に印刷されていて、これを重ねれば船の形になり、バラせば船の構造(デッキプラン)が見えるというものだ。(9月の日記にも)

船の形を木などで削ったことがあれば判るが、角材から削り出すのは難しい。僕も中学くらいの頃に帆船ゴルヒ・フォックの船体を角材から作ったことがあるけれど、船底に向かうテーパーなんかなかなか上手くできるもんじゃあない。ところが、ヨットのハーフハルモデルの作り方や、もちろん本格的にはタンクテスト(水槽実験)用のモデルもそうだが、船を水平方向に輪切りにしたものを重ねると割と簡単にプロポーションが表現できてしまう。

郵船博物館や氷川丸のたもとの売店で売ってる”氷川丸ガイドブック”に一般配置図が載っている。渡りに船でほぼ1/750、作り易い。この一般配置図の一層ずつの船体ラインを3mm厚のバルサ板に書き写す。少し大きめにバルサを切って重ねて仮止め。段々になるのでこれを滑らかに切ってペーパーを掛けて塗装。あとは仮止めを外し、デッキプランを書き写す。ファンネル、救命ボートなどを付ける・・・といった段取りだ。なかなか雰囲気のある船体が簡単に作れる。

次女は、モノ作りが好きで、この模型作りも中々気に入った様子。入賞ならなかったけれど、親子ともども納得の行く作業で、来年も同じ作り方でやるという。今年の氷川丸は少々小さすぎるきらいがあった。スケールアップする方法もあるが、そうなると3mmの上の5mmバルサでは板厚が足りない。であれば・・・元々大きな船を作っちまえばいいということになっている。タイタニック・・・かねぇ・・・ (2012,11,12)

10/31 柿2012

柿2012:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

週末は法事で平将門が政庁を構えたことで知られる岩井まで行く。レタスの名産地で横須賀のスーパーでも”うまかっぺレタス”として出回っている。法事は弓田のぽっくり不動で知られるお寺で、将門の政庁からちょっと北のあたりである。

ちょっと都会を離れればどこでもそうだろうが、岩井も柿が多い。お邪魔した家内の親戚宅にも、一杯実のついた柿の木がある。以前にも書いたが(古っ! 2007年の店長日記) 柿には目がない。好きだ。 僕は、牛肉食べるなら豚肉といった程度の嗜好はあるものの(だから当家では焼き肉屋さんに行ったことがないし、すき焼きは10年で一回しかやったことがない 笑 ちなみに小豆だけはダメで大福を食べるとお腹が痛くなる)、好き嫌いはないし食べられないものは無いけれど、果物一般は自分から食べることはない。面倒だし、今時の果物は甘すぎて気味悪い・・・例外は梨と柿だけである。

サザエさんでは相も変わらずカツオ君が柿を人ン家の庭から失敬する話があるけれど、僕は子供の頃から今に至るまで好きなわりには柿を失敬したことがない。その理由は単純で「柿というのは本来渋柿で、どれも採っても食べられない」と言われてきたせいだ。父は山形庄内地方の生まれで、なるほど庄内柿というやつは採ってもそのままでは渋柿で、ヘタに焼酎か何かをチョンチョンとやってしばらくしてからでないと食べられない。不思議である。じゃあ、その辺で渋い柿を採ったら同じかどうか・・・いろんな人に尋ねたが未だ結論を得ない。柿のことに詳しい人と言葉を交わす機会も無く、結局その辺の柿を失敬したことがないという訳だ。

岩井の庭の柿は次郎柿、と由緒正しき品種で、これは最初から甘いものである。昨年はここん家の方が豪快に柿を叩きおとすので目を白黒させるばかりだった。今年は竹竿の先を割ってこいつで実のついた枝の元部分をはさんで棒を回して枝を折って採るという正調田舎流の採りかたで一時柿採りを楽しんだ。増分と熟れたのはスプーンですくって頂き硬いのは皮をむいて・・・美味である。

柿を見ればこの故事 ”桃栗三年、柿八年” 

それならいいのだけれど、続句がいろいろあって 「桃栗三年、柿八年、梅はすいすい十三年、ゆずは大馬鹿十八年、リンゴにこにこ二十五年、女房の不作は六十年、亭主の不作はこれまた一生」 は傑作かもしれない。刹那的でいいじゃない(笑) (2012,10,31) 

10/12 業務用御用達

三井デザインテック・モデルルーム:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

ホテルニューオータニ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今月末からの呉・大和ミュージアム特別展”客船の旅”で、当社の額装アートが展示装飾に使用される。博物館での利用は大阪・なにわの海の時空館でクイーンメリー2の大阪入港イベントで展示装飾と参加者へのギブアウェイに利用されて以来だ。まあ、言わば業務用というかプロユースな訳だが・・・

業務用(笑)といえば、モデルルームの案件は結構多くて、しかしながらどのように使用されているのかは意外に知らないままだったが、このところデザインされたコーディネターさんが竣工後に写真を送ってくれたり、ネットでたまたま当社の額装アートが飾ってある写真があったのでご覧のとおり。いずれも某大手不動産系デザイン会社さんからの仕事だ。(ついでにその下は某高級ホテルのラウンジ)

かれこれ20年、輸入家具ギョーカイで専ら建築家やデザイナーさんをお相手に仕事していた影響だろうか、知らず知らずのうちに僕の感覚はそういったプロユースの側にあるらしい。もちろん当社のアートは一般のご家庭にも沢山買っていただいているけれど、会社や飲食・商業施設、医院などの使い道が少なくない。

コンシュマーとプロユース、どこがどう違うかと言われても難しいけれど、余計な飾りがなく、必要以上に感覚的にならず論理的な普遍性があって価格が妥当だということだろうか? もちろん流行り廃りとは無縁である。 何でもそうだが、本当のプロユースの商品はその辺の雑誌になんか載っちゃあいないものである。そういうものは往々にして派手さや新しさは無く、セールストークに欠け、オマケがなかったり(笑)しているものだ。

地味に地道に質実剛健、ヒトもモノもそうありたいものである (2012,10,12)

10/09 大桟橋

大桟橋サン・プリンセス:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日、朝から仕事場でサンプリンセスを拝んでから気分良く横浜に出かける・・・が、根岸線車中で「昨日まで三連休・・・ウン? ってえことは、今日は月曜休館の振替で日本郵船も氷川丸もお休み?」と気づき、桜木町で電車を降りたところで娘達に告白。 でも、来ちゃったものは仕方が無いし、長女は元町で買い物があるし、丁度サンプリンセスもいることなので納得一件落着。

旧横浜港駅停車場を見たかったのだが、汽車道を通ってそのあたりまで行くともうサンプリンセスの威容が見える。手前には護衛艦ひゅうが。僕はミリタリー方面はさっぱりだが、友人の自衛官が竣工引き渡し式に出席して、就航記念の絵ハガキをおみやげに持って来がてら話を聞かせてくれたので記憶にある船だ。巷では事実上のヘリ空母とやらで話題になった最大の自衛艦である。

サンプリンセスは今年最後の外国大型客船の寄港だそうだが、大桟橋界隈から元町あたりまで乗船客が歩き、シルクセンターのスーパーではクルーたちがカップ麺を買い込んでいたり街中の風情も宜しい。でも、銀杏が臭うので日本というのは随分臭い処だなどど思われやしないかと心配した。

少し前の数字だが、飛鳥2の乗船客の平均年齢は65歳だったそうで、サンプリンセスの乗客もお年寄りが多い。お金はともかく、船旅は時間が掛かるからなあ・・・ 新幹線、飛行機・・・早くなったのは便利で良いことだが、旅の風情は無くなったわけで、もうちょっと世の中のスピードがスローモーでも良いような気がする (2012,10,09)

10/09 客船サン・プリンセス

客船サン・プリンセス:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

AM0555、例によって窓に目をやれば大きな船。プリンセスクルーズのサンプリンセスだ。いちいち横浜の入港予定を見てはいないけれど、今日は長女が元町で買い物があるので日本郵船と氷川丸は寄るつもり。いつも大桟橋で弁当開きなのだが、久々に大きな船を大桟橋で眺めることができる。

昨日は観艦式の事前公開のものか、朝9時頃からずっと軍艦だったけどそっちは皆同じグレーの船体で風情も色気もなく(軍艦に風情や色気があったら大変だ)、どれがどの船かも判らなかったけれど大きな客船は浦賀水道では一際目立つからすぐに目に飛び込んでくる。

サンプリンセスは、1995年の就航当時は世界最大の客船だったそうだ。もう客船も最大では20万トンを超える時代なので77000トンのサンプリンセスは番付番外である。

朝から綺麗な客船をみると気分が宜しい (2012,10,09)

10/06 城ケ島にて 50歳誕生日

城ケ島20121006:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今時の小学校は二学期制で”秋休み”というのがある。折角なので横浜の日本郵船と氷川丸には行くつもりだが、今日のところは天気予報はかなり怪しかったものの城ケ島。意外にも結構な暑さで恒例の島一周踏破は出来ないほどだった。

磯野カツオ君は年がら年中お父さんに「バッカモーーン!」とやられているが、僕は子供達の通信簿を見ても小言は言わない。僕は子供の頃に通信簿で随分怒られた・・・ひどい時は熱いお茶をぶっかけられたこともある(苦笑) その反動だ。 それほどまでに文句があれば僕に言うのは筋違い、その成績をつけた先生に言えば宜しかったのだ・・・(笑)

今日で50歳になった。僕の通信簿はいかがなもんだったろう、と思わないでもないが、実際には反省することばかりで一層謙虚な気持ちなるものだ。生かしていただいてありがとう・・・それだけである (2012,10,6)

追記 iPS細胞の山中伸弥京大教授ノーベル賞受賞のニュース、テレビで50歳とだというので調べると9月4日のお生まれ。ああ、同じ50歳でもなあ・・・凄いなあ、偉いなあ・・・ハハハ

10/04 客船アムステルダム

客船アムステルダム:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

AM06:10、大きな客船が横浜に向かっている。観音崎のように近くで見える訳ではないが、浦賀水道北端あたりを望むこの仕事場からは、大きな船が通れば気づく。(その割に、空母ジョージ・ワシントンは一回しか目に入ってこなかったけど・・・苦笑) 客船アムステルダムだ。

今日の大桟橋は大忙しらしい。昨日、コスタビクトリア75,000tが初入港、今日はアムステルダム、日本のぱしふぃっくびーなすは昨日入港・・・タイミング次第でには大型客船が沢山とまっているとFM横浜で案内している。

暫く前から、キュナードのクイーンエリザベスの横浜初入港が話題だ。というのは、正式にセーリングスケジュールが発表されて2014年の寄港は決定したのだが、果たして大桟橋につけることができるか否かで注目されている。横浜ベイブリッジをくぐることができるかどうか? ということである。

クイーンエリザベスのマストの高さは設計上は56.5m、横浜ベイブリッジの橋の下面は海面から55m、これじゃあ橋をくぐれないのは子供でもわかることだ。当日のクイーンエリザベスの喫水はわかりようもないけれど、まあバラスト水で喫水を設計上の高さにするとして、この計算上足りない1.5mが微妙なのだ。というのは、ベイブリッジの55mは測量上の標高の高さで、平均水位(東京湾標準潮位=日本の水準原点の大元、新川霊岸島)から割り出すと実際の平均水位から2mほど高いらしい・・ということは57mでくぐれる??? 当日は上弦の4日前で満潮は午前7時過ぎ、潮位140・・・当然、早朝の入港だから満潮で、僕が考えるには実際にはぴったりの56.5m前後あたりだろうか・・・きついよなあ・・・

ちなみに昨日入港のコスタビクトリアは全高64m、喫水8.0m、つまり計算上の56mで計算上55mのベイブリッジをくぐっている(笑)

いずれにせよ、計算上の余裕は50センチとか1mのお話になるし、低気圧が来たら海面は上がるし、万が一にも橋にマストを引っ掛けたら世紀のニュースだけど、それだけじゃあ済まないだろう・・・横浜市港湾局とキュナードはいかなる結論を出すものか・・・注目である (2012,10,4)

追記・・・14:50、目を上げたらコスタビクトリアが出て行く

客船コスタビクトリア:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

10/01 戦艦三笠 東郷長官の風呂桶

戦艦三笠・東郷長官の風呂桶:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

次女の夏休みの宿題、氷川丸の模型が飾られているので”第49回 船の模型コンクール”を軍艦三笠に見に行く。出展児童には学校(教育委員会)から入館パスを貰える。艦内で三笠新聞というのがフリーだったので頂いて読んでみると、この模型コンクール・・・第49回・・・と聞けば「ああ、そうなんだ」となるだけだが、第一回は昭和37年とのこと。 驚いたねえ・・・僕の生まれた年である。作った模型は残念ながら入賞ならなかったが、とても良いものなので三笠から戻ってきたら紹介したい。一般配置図さえあれば、とても簡単に、そこそこ精密な船が作れるのである。

三笠は大賑わいだった。何の団体さんかわからないが、20-30人の団体さんが次から次、おまけに後部デッキでは模型教室なんかもやってるし、お酒に酔ったグループさんがブリッジ上の戦闘指揮所でワイワイやってるのは危なそうだったけれど結構な盛況ぶりだ。三笠は何度も行ってるけれど、艦内を歩いていたら東郷長官の風呂桶の話を思い出した。この話は・・・当事者たる60年余り前の悪童たちしか知らない秘話である。

ワシントン軍縮条約により廃艦が決まった三笠だったが、保存運動の声は大きく、武装を解いて船底にコンクリを打って同条約締結各国了解の上、保存艦となったものの、戦後は連合国に接収されて荒れ放題、やがて進駐軍の遊び場となってキャバレー・トーゴーとか呼ばれてデッキには水族館まで作ってしまう始末。これを憂いたチェスター・ニミッツ(元帥)が先頭に立って、返還と保存に尽力した結果、現在の保存艦三笠がある・・・これは誰でも知ってる大まかなお話。

多分、進駐軍に接収される前のつかの間(昭和20年8月末から9月前半と推測される)のことなのだろうが・・・それこそ戦後の無政府状態の時、三笠は出入り御免の略奪場だったそうだ。真鍮やら鉄、デッキのチークまで外して持って行けるものは、皆勝手にかっぱらわれたらしい。そんな状態だから・・・悪童たちが黙っているはずがない(笑) 彼らにとってはせいぜいいい遊び場だったそうだが、ある日長官浴室のバスタブを見て誰が思いついたか、「これに乗って猿島に行こう!」となったのだそうだ。で、皆でバスタブを外してえっちらおっちら海に浮かべて進水、威勢よく猿島目指して漕ぎだした。ところが・・・その元悪童の方の話によれば、三笠のある白浜と猿島の真ん中あたりで浸水、そのままバスタブは沈没してしまった。で、悪童たちは泳いで帰ってきた。まあ、真ん中あたりだと結構泳ぎが達者でないと大変だし、いずれ沈んだバスタブだから真ん中よりはずっと近いと僕は思うのだが・・・

その話を思い出してバスタブをじっくり見ると、確かに明治33年当時のものには見えない。(どこかからその頃のものを調達したかもしれないからわからないけど) いずれにせよ「東郷元帥の風呂桶は猿島との真ん中あたりに沈んでいる」のだそうだ・・・ (2012,10,1)

09/26 横須賀学の会 船の観察会

船の観察会:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

風は強いものの初秋らしい気候の良さにつられて、夕方観音崎まで出る。たたら浜手前の展望園地は気分の良い場所だ。浦賀水道は右側通行で、東京湾を出て行く船はこの辺りからが一番近い。横須賀学の会から、今年も船の観察会のお知らせが届いた。以下テキスト平文にて転載

海にもっと目を開いて! ★ 観音崎で「船の観察」 
2012年11月3日(土・文化の日)午前10時30分〜12時30分 
<第10回「観音崎フエスタ」参加行事>    主催「横須賀学の会」

昨今、私たちを襲ってくるいろいろな事件や紛争=日頃おろそかにしていた「海」に関わる問題が多いようです。北方四島、竹島、尖閣諸島、捕鯨、まぐろ、津波、離岸流----。海洋国日本としては、学び、しっかり対応しておかなくてはいけないことだったのでしょう。私たちのご案内は船のウオッチングです。
99.8%の貨物を運ぶ船は、あなたの夢も遠い外国へ運んでくれます。観音埼灯台は毎日600隻近い船を見送っています。船の数と種類では、日本一恵まれた船舶観察場所なのです。クルージング船、コンテナー船、自動車運搬船、タンカー、LNG船、潜水艦、空母。今回はどんな船と出会えましょうか。関東大震災で落下した灯台も残骸が波に洗われています。<なだしお>の遭難碑もあります。観音崎であなたの海への関心を深めましょう。離岸流の見わけ方や船長さんのお話もあります。子どもさんには分かりやすくご案内しますよ。  
---------------------------------------------------------
日 時 / 2012年11月3日(土・祝日)午前10時30分〜12時30分
参加申込/ はがきかメール、あるいはファックスで参加の登録をして下さい。
定 員 / 先着40名 保険用に名前、住所、電話を頂きます。
参加費 / 無 料 (横浜、川崎、東京など、他都市からのご参加を歓迎します)    
集合場所/ 三軒家小公園・観音崎バス停留所斜め前。(10時10分受付け開始)
観音崎バス停に案内人がお待ちします。案内図が必要な方はご請求下さい。
講 師 /齋 藤 隆 志 「横須賀学の会」事務局長
解説ガイド/岡田新一、網代幸隆(講師陣)、広田和夫(特別講師、元外航船船長)
*雨天中止のときは、3日(当日)午前7時30分までに電話でご連絡致します。
*当日は、観音崎フェステイバルの催しがたくさんあります。いろいろお楽しみ下さい。
<その他の注意>海は急に風が変化し、気候が急変したりします。寒さ対策は十分過ぎ
るほどお考え下さい(ジャンパー、帽子、マフラー)。双眼鏡・望遠鏡、手袋など
お持ちでしたらご持参下さい。<海岸では、お互いに十分注意しあいましょう>
*当会発行の本『ふね、フネ、船の力』を実費でご希望者にお分けします。
★解散後、昼食ですが、お弁当持参で、スタッフとの懇親の時間にご参加下さいませんか。(ビジターセンターの展望園地で、日露戦争の模擬大砲の説明もあります)
主 催「横須賀学の会」 転載ここまで (2012,9,26)

09/25 京浜急行 堀ノ内

昨夜の脱線事故で今朝から京浜急行は一部不通、横浜方面からは金沢文庫までで折り返し、本線及び久里浜線は堀ノ内で折り返し運転をやっている・・・というのを朝からニュースでずっとやっているので堀ノ内の駅名を聞いて「あっ、あいつは生きてるだろうか?」と思ってくれた方もおられるだろう。

今日は横浜・東京へ出掛ける予定だったが不通で中止。眼下の堀ノ内駅がやっぱりいつもとは違うので落ち着かない。

娘達とも話してたが、堀ノ内の駅名が全国放送で連呼されるなんてえのは、これが最初で最後だろう。たまたま大きな事件もなかったようでトップニュースのまま・・・笑

昔知人から聞いたが(その人は京成で働いていたことがある)、京急の保線というのはすごく優れているそうで、あれだけのトンネル(横須賀市はトンネルの数が全国一、200を超えるそうだ)を、あれだけのスピードで走らせるのは鉄道屋さんからすれば大変なことなのだとか。確かに京急が不通になることは滅多にないし、その知人に言わせれば、相互運転の都営地下鉄や京成からしてみりゃ「絶対止めない」京急は融通が利かない相手だったのだとか・・・

確かに保線のがんばりは感じるところで、25年前に横須賀に来た頃は二日酔いで上りの電車に乗ると具合が悪くなるくらい揺れたけど、今は吊り革に捉らなくても立ってられるくらい揺れなくなった。子供のころに二度ほど京急に乗った時も「怖い」という印象だったが(京急はこれまたスピード狂?で、確か私鉄で100kmを越えたのも京急が最初だったと聞いたことがある)、都内の高架化が進んだこともこともありすっかり恐怖感もなくなった。

しかし、初めて堀ノ内の駅で降り立って25年、このあたりは三春町という町名で堀ノ内という地名はない。少し先には馬堀海岸があるけれど、その”堀”が何に由来するかわからない。馬堀の方は防衛大学に上る坂のたもとにある浄林寺の井戸が由来だとか・・・そのこっち側で堀ノ内なんだろうか・・・ (2012,9,25)

09/09 東京湾のロブスター

ロブスター・日本郵船龍田丸:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

以下引用 

高級食材の「オマールエビ」や「アメリカンロブスター」として知られる外来種のアメリカウミザリガニが東京湾で発見された。日本近海では生息しておらず、東京湾で公式に確認されたのは初めて。捕獲されたアメリカウミザリガニは体長約30センチ、体重1.2キロ。7月15日に横浜市の八景島沖約8キロメートル、水深50メートルの海底で、横浜市漁業協同組合柴支所(金沢区)が底引き網をしている最中に見つかった。県水産技術センターに持ち込まれ、横須賀市の自然博物館に標本として寄贈された。同センターによると、アメリカウミザリガニは北米やカナダの太平洋岸に生息しており、飼育用か食材用などで輸入された個体が東京湾に放されたと見られる。同センターの職員は「自然繁殖しているとは考えにくいが、生態系が崩れる可能性もある」と話している。

朝日新聞9月9日

というわけで、今朝早速、横須賀市人文博物館に立ち寄る。学芸員の方が応対して下さったが「展示予定はありません」とのこと。「人為的に放された可能性が高く、生態系への悪影響が考えられます。新聞やテレビに出て、却って面白がって放す人がいないものか心配なので、騒がずにそっとしておいてほしい」と困惑気味だった。

僕は海老、カニ、焼き肉(牛肉全般、ついでに言えばトロだの中トロなど)に全く興味がない人なのだが、ロブスターは大好きだ。といっても、見境なくロブスターを食いたいわけではなく、この世のものとは思えない美味しいロブスターをプリンスエドワード島の Fisherman's Wharf Lobster Suppersで食べたいだけだ。PEIに滞在した十数年前、余りに美味しくて一週間に三度も食べに行ってしまったくらい美味しい。ここのはスチームドロブスターで、大きな蒸し窯で蒸したやつに澄ましバターをかけていただく。ただし、今は僕が行った時より幾らか値段は高くなってるようだ。1ポンドの奴を食べたら大抵は大満足のはずだ。場所は赤毛のアンのグリーンゲイブルスから車で東に20分くらいの漁港、ノースラスティコ。写真はその時のもの、PEI西部のティグニッシュの港でロブスターの水揚げ(左)、ロブスターを食す(中)、PEI東端のポイントプリム灯台の下の海岸でロブターの幼生を見つけて観察の図(右)

ロブスターつながりでひとつ。ホテルオークラ神戸のレストランカメリアで日本郵船・龍田丸の復刻メニューを一日十食限定で供しているそうだ。このメニュにロブスターカレーというのが入っている。良く知られているのは郵船のドライカリーだが、史料をひっくりかえすと欧州航路のメニューには確かにドライドアンドロブスターカレーというのが見受けられる。この頃の郵船のメニューの一例では煮込みやグリルのメインプレートのサイドディッシュ的な形で小さめのカレーが供されることがあったようだ。

龍田丸は日本郵船が1930年の船腹更新で一気に建造した8隻の貨客船・・・欧州航路に照国丸・靖国丸、シアトル航路に氷川丸・日枝丸・平安丸、桑港航路に浅間丸・龍田丸・秩父丸・・・のうちのサンフランシスコ航路に配船された客船で、太平洋の女王と謳われた浅間丸と同型姉妹船だった。定航客船としての最後の航海はいわくつきの米国陽動作戦航海で真珠湾攻撃のカモフラージュだった。すなわち、米国引き揚げの外国人で満船ながら最初から開戦と同時にギリギリのところで反転して横浜に引き返す予定だったという。

昨夜は吉田茂のドラマを見たばかり、近年領土境界で隣国三国ともうまくないようだし吉田のような気迫の外交を見直すこと多々あるが、難しい外交交渉やら戦争、国境もロブスターには関係ないことだ。どうやって来たかはともかく、はるか大西洋からえっちらおっちら海底を歩いてやってきたかもしれない・・・なんて考えれば思わず噴き出す。それが自然の摂理であれば、東京湾がロブスター天国になるのも・・・悪くない。美味しいからなあ (2012,9,9)

後日付記 ロブスターのことは、勿論、大西洋を行き来するバラスト水に幼生が入っていて東京湾で繁殖した可能性だってある。今や東京湾のムラサキ貝は北米産のムール貝が殆どになっている。また、4年前に日本郵船の船と牡蠣のお話を書いた。

09/08 氷川丸 2012夏

日本郵船客船氷川丸ガイドブック:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今年は次女が夏休みの宿題に、(財)三笠保存会主催の”船の模型コンクール”への応募作品へ取り組んだ。横須賀の小学生対象に毎年行われているものだ。このところ我が家では横浜プチお出掛けが多く、行くたびに郵船博物館と氷川丸には必ず寄るのだが、折角氷川丸に何度も乗っているのだからこの模型を作ってしまおうということになったわけだ。

アイデアは海人社のクルーズトラベラー創刊号に載っていた北原照久さんのコレクション、クイーンメリーの古いおもちゃである。デッキ一層ずつがデッキプランの描かれた厚紙で出来ていて、これを重ねるとクイーンメリーの形になるという面白いものだ。この氷川丸版を作っちゃおうということになった。

まさに渡りに船!(笑)  郵船博物館で求めた”氷川丸ガイドブック”の巻末には約1/750の一般配置図が掲載されており、全長20センチ余りは作るにしてもちょうど良い大きさである。デッキ一層分を平均しておおよそ2500mm前後と計算して、ホームセンターに駈けてゆくとちょうど3mm厚のバルサ板があるので購入。178円也。マストは串団子の串、スクリューはビールの空き缶、スクリューシャフトは廃品のプリンターの松葉バネ、舵板はボール紙、旗竿はギターの弦(ピアノ線)等々、ああでもないこうでもないとケンケンガクガクやりながら完成。写真は模型が学校から戻ってきたら紹介しようと思っている。なかなか・・・良い出来である。

一般配置図を老眼に鞭打って見る。これじゃあ情報が足りず、同じ”氷川丸ガイドブック”の中とじに掲載されている谷井健三さん作画のカッタウェイ図も見ながら氷川丸のプランをお勉強する良い機会になった。タイタニックの映画を見ててフツーの同年代の日本人のピンと来ない点のひとつは船室の等級だと思う。氷川丸でも一等、二等、三等、それぞれのデッキエリアが明確に分かれているのは頭で理解していても配置図に落とし込むと、その境目は良くわからない。現在の氷川丸では二等部分は非公開だし、ギャレーの壁から三等アコモデーション(客室)への通路部分では二等と三等の”境目”があるはずだがやっぱり良く分からない。

ある史料で夏目漱石が明治33年にドイツ客船・プロイセンで欧州留学に向かった時の日記を読むと、公費留学の漱石は二等で、たまたま日本での知人が一等船客におり知人の方から漱石を訪ねてきたというくだりがあった。そう、上等から下等へは出入り自由だがその逆はエスコートがないとダメなのだ。タイタニックでもローズがジャックに「あなたが出て行きなさい。ここは一等のプロムナードデッキなのだから・・・」といったような科白があるのだけど・・・とにかく、また近々氷川丸を訪ねるので(何度行っても飽きない。我が家は皆好きなのだ・・・笑)、そのあたりじっくり見て見ようと思う。

こうして、氷川丸のお勉強ができるのも”氷川丸ガイドブック”のお陰だ。似たようなブックレットに日本財団(船の科学館)発行の”戦前日本の最優秀客船 新田丸”があるのだが、全7冊のブックレットのうち、この新田丸のものだけは持っていない。(6冊は船の科学館を訪ねた時に学芸員のSさんが揃えて下さって手許にある。ちなみに新田丸のものは日本財団のホームページアーカイブで公開されていてネットでも閲覧は可能だ)

こういった安価な小冊子を馬鹿にしてしまいがちだけど、史料集めから作画、紙面デザインまで一冊の本を作るのと同じくらいの手間ヒマがかかっていると想像できる。図版があるから文字だけよりも大変な部分もあるかもしれない。パンフレット、プログラム、図録、小冊子・・・果ては雑誌・ムック、馬鹿にすることなかれ、文字だけ読めば散文の集まりかもしれないが凄い情報量である。(2012,9,8)

09/07 横須賀のクマゼミ

クマゼミ:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今年の夏の我が家の三大ニュースのひとつといえばクマゼミを捕まえたことだ。もうすぐ半世紀を迎える生涯で初めてのことだ。

僕は東京中野の生まれ育ち、石神井で3年ほど過ごし、25年ほど前に越してからはずっと横須賀。西の方の人にはどうってことないセミだろうが僕にとってはギンヤンマ捕獲以来(通算捕獲数は3、多いか少ないかは御判断にお任せする・・・笑)の事件だった。

日本産の大型セミであるクマゼミは南方系のセミで、例のミンミンゼミではないが徐々に分布範囲を北方に拡げているのだそうだ。三浦半島では、10年以上前から城ケ島には生息していたそうで、北東の涼しい風を滅法嫌うのだそうで長いことそのあたりまでで留まっていたらしい。数年前までは三浦半島での北限は金沢区だったそうだがこちらも暑い最中にセミを追っかける趣味もなくついぞ見たことはなかった。

別に、これが横須賀での生息発見になるわけでもなかろうが、この日は何ともう一匹、道路で死んでいたクマゼミも発見した。「こりゃあ、沢山いるぞ!」と喜んでいたが、結局以後は見ることはなかった。

長女も僕も感想は同じ・・・手で持つと「ブルンブルンブルン」ってな感じで同じセミとは思えない。僕は指に捕まらせたけれど、足の力は強くて引き離す時は痛いくらいだった。地球温暖化は少しづつ進んでいるから(いやあー・・・横須賀に引っ越してきた頃はエアコンいらず、横須賀は北向きに開けてる街だから夜は湾奥からの北東風で窓を開けて寝たら風邪をひくくらいだった。今は暑い!)、暫くすればクマゼミもフツーに見られるようになるんじゃあなかろうか。ミンミンゼミがフツーのセミになったように・・・(2012,9,7)

09/06 文科系男子

成山堂・豪華客船スピード競争の物語:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

以前から読みたかった本、成山堂”豪華客船スピード競争の物語”を手に入れた。10年以上前のものだが、半ば専門書だから高価だし、再版されないのでちょっと前まで某オークションでもプレミア価格がつくほどだった。手許から離せない名著、トム・ヒューズ著”大西洋ブルーリボン史話”と対をなして史実の空白を埋めてくれるのではないかと大いに期待した。

普通科高等学校・文系学卒なんてものは、笑われてしまうかもしれないがこんなもんで、「GTRが何百馬力」なんてえことは良く知っていても、2サイクルのエンジンさえバラしたことはないから(憶えているのは、中学の技術科で2サイクル・4サイクル・ディーゼル・・・つまり内燃機関の行程をノートに書いたことくらいだなぁ)蒸気機関のことが全然わからない。ある種の苦痛を伴いながら大型船舶の機関発達史的なこの本をめくる次第だ。

要は、蒸気というものがどうして機関として動くのかこの手でやってみないと前に進めない。(苦笑) ボイラーなんかもいじる機会が無かったしなあ・・・そもそも蒸気レシプロ主機もともかくボイラーから入って復水器などの補機などわかっちゃあいないから、蒸気レシプロ時代の石炭をボイラーにせっせと放り込むあたりの実感がわかない。このあたりが判るとタイタニックの映画だってもっと面白く見ることができるだろうし(笑)、それが蒸気タービンの時代になっても、ターボエレクトリックになろうとも”蒸気”はついてまわるからお勉強しても損はなさそうだ。

梅ちゃん先生なるドラマを見てて安岡製作所の旋盤のシーンは憧れを持って見てる。最近は男子もいろいろいわれて、やれ肉食系だの草食系、雑食系、果ては無職系だのと散々だが、僕は相も変わらず昔ながらの文科系男子なのだと実感。ああ・・・なんかエンジニアーって憧れだ。(2012,9,6)

06/14 メダカ

メダカ2012:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今の小学校5年の理科では、命の誕生を学ぶためにメダカの飼育をやるそうだ。長女の学校では一人ずつにメダカをくれて、家で飼育せよとのこと。

早速、水槽を買い求めて飼育。まだ生まれて間もないヒメダカだった(2-3週間くらいかな?)が、比較的簡単と言われているが気合いを入れてやっている。父は好きものだったから鯉やら金魚はいろいろやっていたし、金魚も卵を産ませていたりしてたから(確かオランダシシガシラだった)、一応一通りの経験はある。

今年のメダカだから、卵を生むのは来春以降・・・あれっ?5年生は終わっているなあ・・・????

自宅は昼間不在で夏場は無理だし、自宅ベランダも猫がウロウロしてるから宜しくない。結局、仕事場の玄関横に置いてあるベンチの上がメダカの住処となった。

飽かず眺めて・・・朝は僕が餌をやるし、当の長女は学校から帰ると「だたいまぁっー、行ってきまぁーす」と遊びに行ってしまうので・・・夕方も僕が餌をやる。で、スモーキングタイム(屋内禁煙である)は水槽をながめて・・・なんのこたあない、メダカに夢中なのは父親の方である。多分、どこん家も同じだろう(笑) (2012,6,14)

06/11 CRAFT MUSICA ギタールシアー高山氏

久しぶりにモアーズの平坂書房に立ち寄る。子供達が児童図書館に行くので、こちらは時間つぶしだ。用があれば平成町のSCの本屋に寄るのでモアーズの方は久しぶりで、どのくらい久しぶりかといえば、3月発売のアコースティックギターマガジンVol.52を今ごろパラパラめくったくらい久しぶりである。平成町のSCの方では置いちゃあいなかったのである。

アコースティックマガジンも創刊から買い続けたが、Vol.41までで止めてしまった。10年前に娘が生まれた時にギターを実家に避難させてから弾かなくなっていたし(ちなみに去年、一念発起してストリートミュージシャンデビューするつもりだったが、そこそこ練習したものの・・・あの大震災で吹っ飛んでしまった。あの時は米とパンを得るのに大変だったなあ・・・しかし、復興は進まないなあ)、ちょっとマニアックだったアコギが結構流行ったりしたもんで、何だか気がそがれたし、何より押尾コータローが登場して「一生かかってもとてもあんなに弾けない」と思ったら気が萎えてしまった(笑)

本屋に行っても、例に依ってそそられる本や雑誌が無い。で、お決まりのようにアコースティックマガジンをパラパラめくると・・・高山さんが出ている!

高山さんは、僕が最後に勤め人をやっていたウィルクハーンジャパンの時に、工場方だった五反田グループの埼玉工場で職人さんだった方で、丁度、僕がウィルクハーンを辞したのと前後して独立してギター制作を始めた。お互い「これから」ってな訳でエールを交換したものだった。

やっぱり、石川鷹彦さんやら安田裕美さんあたりだっただろうか・・・レコードから聞こえてくるアコースティックギターの切なげな音にすっかり聞き惚れてしまった。強く弾けばビビるくらいの弦高にセッティングされていたのか、はたまた当時のイコライジングの所為なのかいいもんだった。思えば、弾いて上手になるよりアコースティックギターというモノそのものに惚れてしまっていたのかもしれない。手は二本、指は十本であることはいつまでも変わらないのに、よくまあ次から次へとギターを買ったもんだ。今はマーチンのEMP1とヤマハのFG-1500しか残っていないが、これは娘達に一本ずつ形見にするつもりだ(笑)

30歳の時、岐阜の高峰楽器が職人を募集していた。問い合わせはしたり、「全てを捨てて岐阜に行く!」  親しい仲間には宣言したものの、結局仕事が忙し過ぎて沙汰止み・・・32歳の時には当時勤めた会社のオーナーシップ交代劇があって不愉快な出来事も多かったのでギター屋さんを開業しようと準備の準備のそのまた準備くらい手をつけたが・・・叶わなかった。誰のせいでもない、人生なんてそんなものである。

高山さんは偉い。一所懸命に拍手。とにもかくにも、20年近くも続く専門誌の連載記事できちんと取り上げられる程に名を上げられた・・・見上げたものである。これからもルシアーとして成功されることを祈ってやまない。

高山さんは決して人あたりの良いタイプでではないけれど、真面目で頑固で一本気な・・・まさに職人肌の方である。仕事を任せられる方だ。 

友がみな我よりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむ (啄木)

やる気満々にさせられる出来ごとなり (2012,6,11)

06/03 横浜お散歩 汽車道

横浜汽車道2012:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

横浜というところに馴染みが深いわけではない。ハマッ子じゃあないし所詮上っ面のものだけなんだろうが、それでも小さな頃から父に連れられ年に何度かは山下公園あたりを訪れていたような記憶があるし、学生時代はカフェバー全盛で元町の山側あたりをうろついたり、伊勢佐木町に玉を突きに行ったりしてたこともあった。

少しばかり縁が深くなったのは、勤め人時代に20年近く一緒に仕事をした上司が生粋のハマッ子だったこと(この人は中区、西区・・・少し譲って保土ヶ谷区あたりの生まれ育ちしかハマッ子じゃあないと言っていた。保土ヶ谷が入ってるのはこの方の現住所が保土ヶ谷区だからで(笑)、ホントは中区、西区の生まれ育ちだけということらしい)、石神井のアパートを引き払って八王子あたりに住もうとしていた僕にこの方が「お前、バーで女性と知り合って・・・お住まいは・・・と訊かれて八王子なんて言えるか?横浜に住め!横浜に」という怪しい助言がきっかけで、生憎横浜は叶わなかったけれど横須賀に住むことになったこと、通勤途上になったこともありランドマークタワーの新築の営業に桜木町に足繁く通ったことなんかが重なって少しは横浜を歩くようになった。

今でも、神奈川以北、磯子以南はそうだが、日本は海際の土地を工場や企業が占有していて、横浜も山下公園あたり以外は港を望む場所が少なかったように思う。現在のようにまるごと海辺のパブリックスペースがドーンと広がるのを見ると随分大掛かりな事業で(観光立地として)都市再開発の優等な事例になると拍手を贈りたい。

子供の頃から不思議に見えた光景は、かつてあった山下公園の高架だった。問うてみれば、父も庄内から上京して仕事を始めたのは昭和30年過ぎだったろうし、そんなに詳しくはなかったろうから「汽車でも通っていたのかな?」といった程度の答えだったように記憶してて僕の疑問は消えずにいた。

昨日は、少しお散歩の範囲を広げて、桜木町から汽車道で郵船博物館、大桟橋に寄ってから山下公園、元町、石川町から帰るコース。電車を降りてから乗るまでブラブラで休み休みではあるものの六時間のお散歩は結構ハードである。

汽車道を歩きながら、はなっから貨物線の名残と思って疑いもしなかったし、それは正解は正解なのだけれど、前回郵船博物館で見た氷川丸最後の航海のビデオを再度ゆっくり鑑賞してたら、氷川丸出港の場面に汽車が出てきて、汽車から乗船客が降りてきて埠頭に歩いている。この辺が知識の乏しさ、僕はてっきり氷川丸が大桟橋から出入港してるんだと思っていたから、大桟橋まで汽車道が続いていて汽車のホームもあったのかと感心した。ところが今の高架の名残を見るとどうしても大桟橋に軌道が引き込まれていたようには思えない。モヤモヤしたまま郵船博物館で一杯サービスされるドリンクのコインを使って、カフェテリアでバナナオーレ(これが美味しい)を頂いていると、壁に飾ってある説明パネルの一枚に赤煉瓦倉庫の横に残る横浜港(よこはまみなと)駅のホームの説明が・・・・

で、結局、昨日歩いたことと、帰宅後調べたことを簡単にまとめると、横浜開港後、イギリス波止場=象の鼻、フランス波止場=山下公園を造ったものの大きな船は係留できず沖留めしかできなかったので鉄桟橋=大桟橋を造った。これでも足りずに造ったのが新港=赤煉瓦パークで、荷役と乗船客の便宜を図るために臨港線を敷いた。これが現在の汽車道で当時、横浜駅(現在の桜木町駅)から汽車道に入り新港四号埠頭に横浜港駅が設けられたのだそうだ。横浜港駅は・・・氷川丸が航海を終えた1960年10月で役割を終えて使われなくなった。郵船の定期船が終わり駅も終わったわけだ。

で、ほぼ同時期、港の拡張は進んでおり山下埠頭が建設された。この貨物を運ぶために延伸されたのが山下臨港線で現在の赤煉瓦から大桟橋まで高架のプロムナードがその一部名残で、2000年頃には撤去されたかつての山下公園の謎の高架へとつながっていた。この山下公園の高架は結構な反対運動で建設が遅れたのだそうで、そうしている間に本牧埠頭や大黒埠頭に貨物も移って行き、自動車輸送に変わっていったことも重なり謎の高架は余り活躍することはなく廃線に至ったそうだ。

とまあ、読んでいただいてもピンと来ないことと思う。そう、大事な事は考古学や僕の仕事の信条ではなけれど”現場主義”。あの辺を歩いてからお勉強しなきゃあピンとは来ないのである。一生勉強とは良くいうけれど、足を棒にして歩けば得ることも多いのである。ちょいと郵船博物館のタダ券を入手したお陰で、船のことから発展して、すっかり・・・にわか郷土史家になってしまった(笑) (2012,6,3)

05/28 優美なり ガフリグのカッター

ガフリグ・クラシックヨット:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今日は運動会の代休で娘達の学校はお休み。昨日は出荷が忙しく出掛けることもできずに娘達も仕事場で一日頑張っていたので、今日は午前中観音崎までプチお出掛け。レストハウスの駐車場に車を突っ込んで海の子砦まで登り、ぐるっと回って美術館の辺りに降りて京急ホテルの前のデッキをブラブラしていたら珍しいヨットが浦賀水道を南航している。

正確にはわからないものの70フィートは優に越えるガフリグのカッターである。第二次大戦以降はバミューダリグが一般的になったので建造されることが少なくなったスタイルだ。ご覧の通りバウスプリットもありだ。マストは補強の部分までは見えないけれど木製のように見える。どう考えても、余程のクラシックレプリカでなければ1920年代までに建造されたヨットに見える。

スターンには英国のヨットエンサイン(民間のヨットだからレッドエンサイン、これが軍籍を持つ船長だとブルーエンサインとなる)・・・ということは、はるばる英国からやってきたヨットである。

残念ながらいろいろググっても、この優美なフネの情報は得られなかった。2007年のエンデバーが来た時は、上町の店を空けることもできずとうとう見逃してしまったけれど、今日は偶然ながら良いものを見た。観音崎を回って見えなくなるまで20分ほど楽しませてもらった (2012,5,28)

05/24 47億年

横浜20120524:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

先週末は横浜散歩。3月末の時の逆コース、石川町・元町、山下公園・氷川丸、郵船博物館、関内の半日コース。子連れの散歩には丁度良いし、横浜は旧いものがいろいろと残っているから退屈しない。上まで登ったことがなかった港の見える丘公園のフランス山も初めて登った。郵船博物館は盛況らしかった模型展が終わって、”収蔵品展・船旅への思い”という展示になっていたけれど、橋口五葉の美人画ポスター(カレンダー版)の本物が飾ってあったり、浅間丸のお宝映像(NHKで放映された無声のカラー以外では初めて動く浅間丸を見た。ハンフリー・ボガードのAcross the Pacificというプロパガンダ映画の舞台が浅間丸らしいのだがこちらはまだ入手できず)、氷川丸の最後の太平洋横断の映像などが見れたり、僕にとってはむしろ”つなぎ”のような今回の展示は生唾モノであった。こうしたものに触れるとたった50年や100年前のことながら歴史の重みを実感する。

時の重みといえば・・・そんなものは泡沫の夢と思える良いお話を聞いた。この頃、ブラウザを立ち上げないで済むreikoを使ってインターネットラジオを聞いているが、今朝はニッポン放送で京大大学院教授、地球科学研究者の鎌田浩毅さんという方がゲストで、地球というスケールでモノを考えれば、人間の営みなど取るに足らぬものと思わされるお話を聞いた。

地球が誕生して47億年だそうだ。で、地球の寿命は100億年であと50億年もすれば太陽に飲み込まれてしまうのだそうだ。富士山・・・おおよそ10万年前から噴火して1万年前ほどからちょっとお休みしているだけだと言う・・・今は休火山などといういう言い方は無くなったそうで、たかだか人類が存在してる600万年ほどお休みしているから云々というのは地球科学的には僭越だと言う訳だ。

ところが、こうして何億年やら何百万年やら言われてもピンと来ない。そこで鎌田先生がおっしゃったことが面白く、はたと膝を叩いてしまった次第。「年を円に置き換えてお金にして考えると判り易いんですよ!」  なるほど!!! 確かに、100億年の寿命の地球であと半分の50億年の寿命があって、富士山はわずか10万年前から噴火して出来た山・・・こいつを円に置き換えれば、あと50億円もの使いきれないお金があって、10万円ほど使って旅行をしたところで・・・となれば感覚的にはピッタリ。したがって、80年ほどの寿命を全うしてもたった80円ほどの人生・・・ある意味淋しくもあるが・・・

たかだかそれだけの人生ならば・・・ひょんなことから石原裕次郎さんの”我が人生に悔いなし”

たったひとつの星をたよりに
はるばる遠くへ来たものだ
長かろうと短かろうと我が人生に悔いはない(2012,5,24)

05/17 天皇陛下訪英 昔はAPLで

プレジデントウィルソンと政府専用機:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

天皇陛下がエリザベス女王の即位60周年の祝賀に参加されるために訪英しておられる。1953年(昭和28年)の載冠式の時も御訪英された由、思い入れもおありとのこと、心臓の手術からそう時間も経ってないながら強いご希望がおありだったとか・・・御無理をなさらぬように慮るのは僕だけではなかろう。

勿論、僕は昭和37年の生まれなので60年前のことを知る由もないが、4月に鹿島立ちして御帰朝は10月、帰朝の折にはまだ今ほど多種発行されることもなかった記念切手が発行されたほどだから(鳳凰と鶴の2種)、当時の日本にあっては大きなニュースだったのだろうと思う。

その約60年前の訪英の時、明仁皇太子殿下(今上天皇)が乗船されたのはアメリカンプレジデントラインズ(APL)のプレジデント・ウィルソンだった。一応、第二次大戦を生き延びた氷川丸も不定期ながらシアトル太平洋航路を再開していたようだったが(正確にはこの年の秋頃からのよう、氷川丸も太平洋航路復帰したものの占領下にあっては日の丸の船尾掲揚が許されず、米国港入港の際には入港を拒否されそうになったところ-航海法で外国港入港の際には国旗を掲なければならない-たまたま乗船していた国連大使が国連旗を貸してくれて、こいつを掲げて入港して拍手喝采を浴びたのだとか・・・以後日の丸使用か許されるまで国連旗を使用したとか・・・”してやったり”の美談である)、そのあたりの経緯はちょっとその辺の書籍をひっくり返しただけでは調べがつかなかったが、病院船、引き揚げ船で酷使された氷川丸よりは、APLの船の方が船足も速かったし、揺れの問題(まだ4月のことだから、APLのハワイ経由の航路はシアトル大圏航路よりは穏やかな筈)や、勿論警備など安全のことも含めてウィルソンでの太平洋横断に落ち着いたのだと推測される。

それにしても、60年・・・APLの船で出かけたのも今は昔(当時のことは以前お客様から話を聞いたことがあった→2009年日記)、そろそろ買い替えが検討されているそうだが(ボーイング747-400とのことだが最新のものと比べると燃費も悪いし運用コストもかかるのだとか)、今は立派な?政府専用機・・・陛下におかれても隔世の感をお感じなのではなかろうか・・・(2012,5,17)

04/18 日本郵船・幻の太平洋航路客船

用事で中野の実家に行った。僕が中学のころは偏差値絶頂期で、年に何回か受ける学力テストのオレンジ色の成績表を親子先生ともどもにらめっこしてケンケンガクガクやったものだった。今から思えば”身の程”というものがあるわけで、本人の能力をよくよく見てやれば良いものを・・・申し訳ないこととは思いつつ今になって両親にはやんわりと恨みごとを言わせていただいている。

次女は僕が教員免許をもっていることを信じてくれないので、行ったついでに免許を探していると小学校から大学までの成績表がごっそりあって、久しぶりに小学校時代の我が通知表を見て両親が僕に空しい期待を寄せたのも無理はないもんだと思った。今更、先生方を恨むつもりはなく当然感謝の念だけをいだくのみではあるが・・・

「成績も良好です」「すべてにおいて速度はありますが粗雑です」(3年)「能力もありやればできるのですが(出ました決め文句!)努力しないため良い結果が得られません。残念です」(4年)「優れた能力を持っていますので、今後の努力によっては素晴らしい力が・・・」(6年)

こう書かれちゃ親もその気になるわなあ・・・まあ、ついでに書けば「わがまま」「自分勝手」「勝ち気」「権利主張が強い」あたりは先生方みなさんの共通した意見で、一方「明るく」「素直」とも記されている。これは確かに一生変わらないものではあるなあ(苦笑)

父もその頃のことを思い出して、QE2が横浜に来たこと、NHKで商船大学の練習航海を見たこと、そして父が小型船舶の免許をとったことなどが重なって・・・親子共々、僕が商船大学に進み船乗りになることにあこがれていたことを思い出して笑い転げてしまった。何せ、僕が外国航路の船長になって横浜あたりに入港するのを父がクルーザーでお迎えするという壮大な夢物語だったのだ(笑)

まあ、夢は夢で、その当時はすでに氷川丸も退役して日本に太平洋航路の定期客船などないことなぞ承知しちゃあいない。

そんなことを思っていたら、日本郵船の幻の太平洋航路客船のことを思い出した。残念ながら資料を手元に持ってはいないが、以下、高橋光彦さん著”クリスタルクルーズの20年”に”二引きの旗のもとに 日本郵船100年史”から引用されている一文を引用する。

氷川丸引退か? の噂を伝え聞いた社内外から、「何とかもう一度、客船を造ってくれ」という声が、潮のように押し寄せてきたという。日本郵船も客船事業を存続すべきか、撤退の道を選ぶのか、非常に苦悩した。客船継続論を、単なるノスタルジアで片付けるわけにはいかない。客船は、「もの」と「人」でつくる芸術品であり、その国の文化遺産でもある。だからこそ欧州では、外洋を走る豪華客船を持たなければ、一流の海運会社と見なされない時代があった。金があれば、誰でもタンカーを持つことはできる。それは「もの」自体だからである。しかし客船は、金で買うことはできない。「人」自身だからである。客船を継続することは一つの文化(技術)の伝承であり、廃めることはその中絶を意味する。この日本に、伝承できるものは日本郵船しかいない

3万1000トン、航海速力26ノット(※1ノット=時速1・852キロ)、最高速力31ノット、客船定員1200人。これを2 隻そろえて、サンフランシスコ、ロサンゼルスの航路に配船する。船価は2隻で250〜300億円という概算である。
(中略)
 日本船主協会、海運造船振興協議会など業界団体から客船建造の要望書が出された。ホノルルやロサンゼルスの日系人商業会議所から総理大臣あての要望書も到着した。
 運輸省(当時)は田中委員長の強力なバックアップと、これらの要望により1959年度予算で一般会計10 億円、財政投融資13 億7500 万円の予算案を策定。計画通りに進めば第一船は63 年7 月、第2 船は64 年7 月に完成するはずであった。
 しかし天災が夢のプランを本当に夢のままにしてしまう。
 59年9月に猛烈な台風が紀伊半島や東海地方を襲い、5000人以上の死者・行方不明者を出した。伊勢湾台風である。当時の大蔵大臣・佐藤栄作は客船に当てていた予算を伊勢湾台風被害の救済復旧にまわすことを決定。こうして新造船プランは伊勢湾台風という風と共に去ってしまう。
 日本郵船首脳は、ジェット機時代を迎えて、もはや客船の時代は去ったと判断するしかなかった。氷川丸の引退、そして客船業務からの撤退を決断した。経済合理性という厳しい現実が、ついに海からロマンを奪った 引用ここまで

昨年は残念ながら船の科学館が休館になってしまった。海の向こうに目をやればどこの国でも官立の海事博物館的なものはあるのに日本ではなかなか難しい。引用の文にあるように、ひとつの文化が廃れてしまったのかもしれない。幻の太平洋航路客船があれば違ったかもしれない。少なくとも僕の船長は”たられば”にもならない話だったけれど、郵船の幻の客船は”たられば”に足る勿体ない話だったと思っている。(2012,4,18)

03/30 氷川丸固定説(笑)

日本郵船・氷川丸固定説:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

昨日は臨時休業をいただき、久しぶりに日本郵船歴史博物館と氷川丸を見てきた。よくよく聞いてみれば娘達は氷川丸に乗ったことがないというので、それは我が家の名折れとばかりヤフオクで二束三文で売られてる株主優待券を入手して(4枚、八名分で80円也!)関内一周の小旅行。関内駅から郵船博物館、象の鼻、山下公園、氷川丸、中華街、元町、石川町駅・・・徒歩5時間余りの素敵なお散歩である。

昔とは違いネットに情報があふれる時代なので、何の分野であっても無人の野を行くような史料集めからは開放されて学者と素人の差は縮まってはいるのだろうが、それでも機会あるごとに自分で集めた情報は検証すべきであろうから時間を置いてパブリックな施設に出かけることは良いことだ。特にネット社会では一旦間違った情報が伝わるとコピペやリンクで定説になってしまっている恐れがあるので自分の目と足で確かめることは肝要だ。

日本郵船の戦前の現存史料は、その企業活動規模からすればおおよそ少ないものである。ある一枚の雑誌広告を見つけたとする。それ一枚を純粋に史料として”楽しむ”のは悪くないが、その年にリリースされた他の広告、そのデザインのシリーズ性、内容の背景・・・これらをモザイクのように組み合わせると、その時代の活動が鮮やかに浮かび上がったりするものだ。しかしながら、例えば仮面ライダーカードが546枚あるという全貌が判っていて集めるのと違って、最初に存在する史料の全体像が判っているわけではないからなかなか一筋縄ではゆかぬもので、そういった大きさの判らない欠けたモザイクを埋めるにも博物館といった存在は嬉しい。

もし、これをお読みの方で未来永劫貴方の属する集団が存続すると思うなら、社史編纂のようなものを充実するべきである。それは100年後の後輩たちに計り知れない財産をもたらすことであろう(笑)

さて、娘達に昨日一番良かったことを尋ねれば・・・中華街のブタマンでも随所の売店のおみやげでもなく、氷川丸に乗ったことだという。ヨシヨシ

僕は古い俗説で氷川丸は船底にバラストを積み(コンクリ?)海底と柱でつながっていると思ってはいたものの、階段を上って船に乗るとやっぱり揺れている気がするし、女房と長女に聞いてもやっぱり揺れていると答える。ところが次女は身長が低いせいか最後まで「揺れていない」という。結局、頭の中は???のまま帰ってきたが、戦車研究室というウェブサイトを主宰される管理人さんが2011年5月19日に氷川丸(046-641-4362)に問い合わせたところ海底には固定されていないという正式回答を得たとのことである。さらに、以前にもお世話になった(関西大学の塙友雄先生のタイタニック事故の検証論文を閲覧)関西造船協会会報”らん”に三菱重工の竹田大樹氏が寄せた一文によればドルフィン2本、陸上係船杭3本、アンカー5個で”係留”、暴風の際は海水バラストで着底できるように浚渫されていると記されている。従って氷川丸は揺れている(笑)

1930年就航の客船・・・もう船齢82年である。冷静に考えればこれは国家的遺産ではなかろうか? 一民間企業の日本郵船さんに保存をお任せするには荷が重いだろうし、国を挙げて保存に取り組むべきと思うがいかに? それともやはり将来仕分けされてしまうだろうか?(2012,3,30)

02/06 戦没船員の碑

戦没船員の碑2012:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

26年振りの寒さだとか・・・26年前といえば、僕ァまだ新入社員の駆け出し営業マンだった。会社という不条理な組織(今だってライン系とスタッフ系の不合理な格差はあるだろうけれど)というものに悩みを抱えつつ、今思えば仕事も遊びも随分と無茶をしたものだった。だから・・・寒かったなんて記憶は一向にない。

三浦半島は晴れるも降るも南房総とお天気がつながっていて、暖かさもそこそこだけど、それだけに今年の冬は堪える。週末は久し振りに暖かかったので観音崎をウロウロしながら戦没船員の碑まで足を延ばす。

太平洋戦争中に亡くなった民間の商船船員は約6万人。海軍軍人軍属は43万人、陸軍軍人軍属は165万人、人数は戦線に出た軍人軍属が当たり前に多いのだけれど、驚くべきはその死亡率で海軍が16%、陸軍が23%だったのに対し、商船船員の死亡率は何と43%に上った。丸腰の輸送任務がいかに無茶なものだったかわかる。

戦没船員の碑の設置とここでの追悼式は公益財団法人 日本殉職船員顕彰会によってなされているそうだ。観音崎の中でも五指の絶景ポイントである (2012,2,6)

01/22 CAZZO!

客船コスタコンコルディア:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

イタリアのクルーズ船、コスタ・コンコルディアが座礁事故を起こしたのは報道の通り。ポスターやアート、デザインの関係で、僕が多少船のお勉強をしているせいで「大変ですね」とか「タイタニックみたいですね」とか言われるのだけれど(苦笑)、クルーズ船が起こすべくして起こした事故を僕は関知しないし、コメントも特に無い。元々、今時のクルーズ船を客船だとは思っていないし、あれは海に浮いてるホテルだ。

まして、タイタニックの事故から100年ということもあって、強引に因果をこじつける向きもあるけれど、遊びの航海で座礁したものと定期船が意地とプライドと使命をかけて大西洋横断航海をやってたのとは本質的に事柄が違っている。乗船客だって、当時の定期船には自分と家族や子孫の人生を米国への移民に賭けたギリギリの切羽詰った状況がそこにあるわけで・・・

だから、船長も・・・平気で逃げる。イタリアの沿岸警備隊が先に逃げた船長に”Vada de board, cazzo!”(船に戻れ!こん畜生!)と言ったそうで、これが評判になりイタリアやフランスではTシャツまで売られているそうな・・・先日、読んだ日本郵船・浅間丸の本の中に、第八代船長・藤田徹の最後に触れた一文がある。浅間丸を降りた後、昭和19年、元フランス船の貨客船・帝亜丸の船長を任じられた藤田さんはルソン島北で米潜水艦に攻撃され沈没した帝亜丸と運命をともにした。巷では藤田さんが沈没寸前に拳銃自決したとの風聞が流れるが、これを聞いて「御立派な最後!」と褒められた藤田さんの未亡人殿は「藤田はそんな死に方などしません。船乗りらしく、海のなすがままに死んでいったはずです」とおっしゃったそうだ。

コスタ・コンコルディア・・・まったく CAZZO! である (2012,1,22)

01/21 浅間丸

日本郵船浅間丸・狂気の海:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

日本郵船の二引きのファンネルが窓の向こうを行かない日は無い。大正期の有名な美人画ポスターをきっかけに、戦前の郵船のデザインをあれこれ掘り下げているうちに内藤初穂さんの”狂気の海 −太平洋の女王 浅間丸の生涯−”という本を見つけた。

内藤初穂さんは大正10年生まれ、御父君は”星の王子様”の翻訳で知られる内藤濯さん、東大の造船を出て海軍の技術畑に進み、戦後はノンフィクション作家として活躍したが昨年10月に天寿を全うされた。本は古書で買い求めたが、表紙見返しには署名と面白い為書きがあった。ご覧の通りの為書宛名は日本郵船のオランダ現地法人の代表を務められた方とお見受けした。献本されたのだろうか・・・

ホルムズ海峡のことを書いたばかりだけれど、船がなければすぐに干上がってしまうのが日本である。その逆も真なりで、戦さで幾らか勝ったとして・・・造船の能力を考えて補給のことはよくよく考えるべきで、すでに”幾らか勝っていた”???時期にすでに軍艦の護衛なしの商船補給船団が潜水艦に攻撃されていたわけだから、一体誰がどのようにそこのところを練っていたのやら・・・

観音崎には、天皇陛下が皇太子時代から度々献花にお出ましになる戦没船員の碑がある。

戦日に逝きし船人を 悼む碑の彼方に見ゆる 海平らけし (天皇陛下御製)

1929年から1930年、日本郵船は太平洋航路に一挙に六隻の新造船を就航させる。サンフランシスコ線には浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線には氷川丸、日枝丸、平安丸である。このうち、奇跡的に戦禍をかいくぐったのが、御存知、横浜の氷川丸。同じ太平洋航路とてサンフランシスコ航路とシアトル航路の船は別物だったらしい。模型や写真でしか見ることができないのでピンと来ないが、太平洋の女王と呼ばれた浅間丸は美しかったそうである。シアトル航路の氷川丸は大圏航路で北緯53度あたりまで北上するのでブリッジを高くして頑丈に作らねばならなかったらしい。実は日本郵船の社員の間では「一番恰好悪い船が残った」と囁かれたのだとか・・・僕はそうは思わないけれど・・・太平洋の女王は余程美しいものだったようである。

”狂気の海 −太平洋の女王 浅間丸の生涯−” 古書では結構お安く買えるので、作者さんも昨年亡くなられたとのことだから、ご興味の向きの御仁は一読をお薦めする (2012,1,21)

01/13 ホルムズ海峡

ホルムズ海峡・浦賀水道:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

毎日毎日大きな船が沖を行くのを見ていながら、これが自分の生活と直結していることに連想が追いつかない。しかしながら、ひとたびきな臭いニュースが飛び込んで来ると「ああ、この船がなければ日本はとたんに往生するんだなあ」と改めて気づかされる。

核開発を止めようとしないイランへの制裁として、昨年からイランが輸出する原油代金の決済ルートとなるイラン中央銀行との取引を制限する措置を米国がとっている。米国内で活動できないと銀行は成り立たないので、各国は実質的にイランからの原油輸入ができなくなる。(日本は輸入削減を策定中、中国の同調は不明) これに対して、イランはホルムズ海峡の封鎖をちらつかせている。サウジアラビアとクェートの原油=世界の原油の3割はホルムズ海峡を通ってくるわけで、もしイランが海峡封鎖という暴挙に出ればただでは済まない。

で、思い出したのが本宮ひろしさんの漫画”男一匹ガキ大将”である。何でも本宮さんの考えでは、本当は主人公の戸川万吉が富士山麓で天下分け目の決戦で堀田(だったかな?)に槍で刺されて完結だったらしい。ところが、連載元の少年ジャンプは完結を認めてくれず(笑)、仕方なく日本一のガキ大将に・・・で終わりと思ったら、それでも連載終了させてもらえず描き続けたのだとか。

その無理やり続けた後半にいくつかのエピソードがあるけれど、当時子供の僕にはピンと来なかったのがペルシャ湾のエピソードだった。師でもありライバルでもあった水戸のおばばの遺志で水戸屋商事を継いだ万吉。この水戸屋の乗っ取りを狙ったのがアメリカのコックフェラー(笑)・・・

ある日、ペルシャ湾から原油を運ぶタンカーが攻撃され日本は原油不足でパニックに・・・コックフェラーは日本政府へ原油の供給を申し出る。条件は水戸屋商事をコックフェラーに寄こせというものだった。万吉は二面作戦に出る。まず日本政府と敵対することになりながらも水戸屋商事を守るためにコックフェラー原油船団を入れないように船団を組み東京湾を封鎖。そして、ペルシャ湾には日本の原油タンカーを守るための護衛船団を送る。ペルシャ湾=ホルムズ海峡では攻撃を受け次々と子分が死んでしまう中、援護で何と旅客機を使って相手側を爆撃・・・その相手が実はコックフェラーだと判り事態は解決! というお話だ。

連載当時は当時としても、まさにホルムズ海峡が封鎖されたらと思うと、本宮さんの漫画もあながち荒唐無稽と笑ってはいられない。現に、昨年の銀行制裁が決まった時もガソリンは値上がりして震災の時とは比べようもないけれど10台待ち位の行列になった。

この一週間ばかり日本郵船のことをお勉強している。大西洋航路にばかり目が行って、足元の日本の船には疎かったのだが、戦前の先人達が東洋の片隅の小さな新興国をどうやって列強と競えるものにしたのか・・・結局、先鋭的な部分で競り合ったとしても、それは奇しくも一時的に版図を拡大して補給が追いつかなかったのと同じで、立派な軍艦を持っていても内地じゃ竹ヤリ・・・そういうシニカルな見方もできるけれど、今も昔も先人たちがそのために頑張ったのと同じように船がこの国を支えていることに変わりはない。どうかこのホルムズ海峡の件が紛争にならないことを祈るばかりである (2012,1,13)

01/06 コダック米連邦破産法を申請

おととい、写真のことについて少し書いたら、昨日はコダックが米連邦破産法を申請するらしいと伝わってきた。日本でいう会社更生法のようなもので、ただちにコダックにフィルムが無くなるわけではない。何といっても1880年頃にフィルムを発明、今でもコダックはフィルム生産世界一なのだ。

お歌はポール・サイモンのコダクローム。良く聞くと、「コダクロー オー オー ム」のところの次のメロ繰り返しのところ、「アイ ゴッド ア ナーコン キャメラ」と歌ってる。(ひどいな、このカタカナ 苦笑) ナーコンはニコンのこと。

我が家にはコンタックスT3が眠ってる。写真という趣味には無縁でいようと思ったけれど、であればなお更一番上等なコンパクトカメラがいいと思ったからだ。ところが、表参道のサービスセンターに修理に出していたときに、繋ぎのつもりでデジカメを買ったら戻ってきたときには出番が無くなってしまった。

子供達は、レコードを知ってはいても触ったことさえない。考えてみればフィルムという物体もいじったことがなかろう。気が向いたら久しぶりにフィルムでも買って何か撮ってみることにしよう (2012,1,6)

01/05 アメリカスカップ 続き

アメリカスカップのトロフィー20120105:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

オリジナルの状態のアメリカスカップの写真は余り見つからない。上左の写真は1951年に英国の博覧会に貸し出していたのがニューヨークに戻ったのを機に、クラブハウス内大広間=ハーフハルモデルが一面に飾ってある、いわゆる”ザ・モデルルーム”から、新たに作られたトロフィールームに写された時に撮影されたアメリカスカップの写真とされている。

さてカップ本体には何やら字が刻んである。いわゆるオールドイングリッシュのような字体なので銀製の水差しだから反射もあってなかなか読めない。

100 Guinea Cup won August 22nd, 1851, at Cowes, England. By Yacht AMERCA, at the Royal Yacht Squadron Regatta, "Open to all Nations"

”すべての国に開かれた”が強調されているのは・・・ある意味皮肉である。とんねるずの”泣きのもう一回”ではないが、はるばる大西洋を渡ってワイト島カウズまで行ったのに、敷居の高いロイヤルヨットスクォードロンはアメリカ号のレース参加を認めず、各方面からお願いした末、やっとのことでワイト島一周レースに出ることができたのだ。ちなみにワイト島一周レースは大体、淡路島を一周する感じだという。次にレースに負けた英国の13艇の名前が書いてある。

Alarm (193t カッター),Arow (84t カッター),Bacchante (80t カッター),Beatrice (117t スクーナー),Brilliant (393t スクーナー),Constance (136スクーナー),Eclipse (50t カッター),Freak (60t スクーナー),Gipsy Queen (99t スクーナー),Ione (57t スクーナー),Mona (56t カッター),Volante (48t カッター),Wyvern (127t スクーナー)

なぜか2位だったオーロラ、Aurora (47t カッター)の名前は刻まれていない。

Schooner AMERICA, 170 tons Commodore JOHON C. STEVENS Build by GEORGE STEERS of New York 1851

Presented to the NEW YORK YACHT CLUB as a Challenge Cup Open to all Foreign Clubs By Owners

余程、英国では屈辱的な扱いを受けたのだろう。最後にも丁寧に”すべての国のクラブからの挑戦を受ける”としてある。英国にしてみれば、とうとう叶わなかったけれどもカップを奪還して鋳つぶしてしまいたかったことだろう。

ずいぶん若い頃に、会社で厳しくも優しかったお隣の部署の課長さんには良く説教された。ある時「小野寺、愛からは何も生まれないよ。憎しみとか恨みが一番強力なパワーになるんだよ」とコンコンと言われた。確か、上司にコテンパにやられて凹んでいた時に言ってくれたのだったと思う。要は、「悔しかったら見返してみろ!」というわけだ。(また別の時は「小野寺、いやな上司とあたちゃったら思いっきり働け。そうすりゃ、その上司は出世して居なくなるから」・・・これは本当にそうだった 笑)

1983年に、ついにアメリカは負けてアメリカスカップはオーストラリアに渡るが、この立役者、オーストラリアのアラン・ボンドは、1970年にニューポートの船だまりでとある12mクラスカップ艇のヨットを覗きこんだらポカリと一発殴られて罵倒されたことから打倒ニューヨークヨットクラブ!を宿願としてアメリカスカップに挑戦、13年後ついに望みを果たしたのである。

この時に負けたデニス・コナーは有名だから書くこともないが、個人的にはコマーシャリズムを持ちこんでアメリカスカップを台無しにした張本人と思うものの、心情はよくわかる。ニョーヨークヨットクラブのためにせいぜい働いたのに、結局、肝心なところでウィングキールの是非について味方になってくれず孤独な戦いをした挙句、負けたら誰も寄り添ってはくれず冷淡で・・・そりゃあ自力でスポンサーを捕まえて自分が属する本当のクラブ(この場合はサンディエゴヨットクラブ)から好きなように奪回をやりたわなあ・・・見事にカップ奪還を果たしたのはご存知の通り。その後、ニューヨークヨットクラブはカップとは無縁である。

今のカップは台座がふたつ追加でくっつけられて背が高くなっている。勝者の名前を刻むスペースが足りなくなったからだ。ちなみに、広くヴィクトリア女王から下賜されたカップとなっているが(日本版ウィキにもそのように書いてある)、これはウソ。1848年にロンドンのロバート・アンド・セバスチャン・ガラードという宝飾店で3個ほど作られたもので、これをロイヤルヨットククォードロンが買った。使い道のなかった水差しがたまたま1851年のワイト島レースのトロフィーになっただけである。水差しといっても底はないそうだから、F1の優勝カップや相撲の大関杯のようにこいつに並々とシャンパンやらお酒を注いで飲むことはできないそうだ (2012,1,5)

01/04 アメリカスカップ

アメリカスカップ・アメリカ杯物語:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

カメラとゴルフには近づかないようにしてきた。どちらも”道具”に(多分)ウルサイ世界で、凝り性の僕がはまると一財産あっても追いつかないと思ったからだ。

というわけで、”写真”というものには詳しくないのだが、今回は乾板写真というものに出会ったので良い機会なので少しだけ聞きかじってみた。乾板というのはガラス板にあらかじめ銀塩液を塗っておき必要な時に取り出して現像できる、いわばフィルムのガラス板のようなもので普及するのは1870年代で、これがその場で塗ってすぐに現像しなければばらない湿板を駆逐した。1900年になるとジョージ・イーストマンが発明したフィルムを使うコダック・ブローニーカメラ発売、これが今度は乾板を駆逐した。戦後は35mmフィルムが爆発的に普及、フツーの人がカメラをいじる時代が来た。

とまあ、概説はこんな感じだが、面白いのはアメリカスカップの写真をこの写真の進歩と重ねると、それぞれの写真家が重ならなかったことだった。乾板はJ.S.ジョンストンという人で、この人はブローニー発売の前年に亡くなった。ブローニーはエドウィン・レヴィックで、ブローニー発売の前年に英国からニューヨークに移住、1929年には亡くなったがスタジオ(モーリス・ローゼンフェンルドも働いていた)としては1940年代初めまで写真を残している。

ワイト島のビーケンは三代、初代の乾板、二代目のブローニーから始まって今もとり続けている。アメリカのローゼンフェルド家は二代、ブローニーから1980年代まで、写真は博物館に売ってしまって撮るのを止めてしまった。いぜれにせよ、デジカメのデータや画像のデジタルデータはハードディスクが飛んじゃえば終わりだが(当家でも子供が小さい頃の写真が半年分くらいやられた)乾板もフィルムも強い。100年もつのだから・・・

で、これまた良い機会なので、しばらく前に古書で求めた”アメリカ杯物語”(吉谷龍一 著)を読んでいる。1986年発行の本だがとても良い本である。人間ドラマの部分とレース詳細の部分のバランスが良く、新事実というほどのものはないが日本には詳しく伝わっていないお話もある。(と思った) しかしB4版で247ページ、写真多数、当時のお値段18000円也の超労作である。

序文の一節に「・・・誰かが一度は書かねばならないと思っていた・・・」とある。まさに、我が意を得たり! である (2012,1,4)

ページトップへ