10/11 横須賀沖・帆船日本丸

横須賀沖・帆船日本丸:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

まったくもって久しぶりの店長ブログである。アサイチで野暮用を済ませて、いつものスーパー、“エイヴィ”で今夜のスパゲッティペルカトーレの材料を揃えて仕事場に戻ると海には帆船・日本丸。いつも行き来しているのだろうが、この風景のど真ん中でじっと見るのは初めてだったかもしれない。恥ずかしながら姉妹船の海王丸との見分け方を知らなかったが、これはつとに有名なもので、日本丸は救命ボートが赤くて舷側のシアーらいんが一本、海王丸は救命ボートが白でシアーラインが二本なのだそうだ。

以前にも書いたことだが小学生の頃の小野寺家では、僕が商船大学に進みハワイに練習航海に行き、やがては外航船の一等航海士やら船長になって日本に帰ってくる・・・それを親父殿は30フィートほどのモータークルーザーでお出迎えする・・・何もわかっちゃあいない馬鹿なガキだった僕は、やはりシュールな夢想家の父親と壮大な構想を語っていたものである。もちろん、かなうはずもない(笑) 人生ってのはもっともっと刹那的なものである。

写真をとっておいていうのも何だが、個人的には日本丸は、優雅は優雅だが一本マストが多すぎて美しくないように思う。もうちょっと見た目で精悍で小回りが利きそうな3本マストが好きだ。まあ、ドイツのゴルヒ・フォックだなあ。米沿岸警備隊所属のイーグル(WIX-327)が同型艦である。イーグルはアメリカが第二次大戦の賠償でドイツから引き継いだ帆船である。沿岸警備隊の所属ながら今日まで、沿岸警備隊と米海軍の士官候補生を半分づつ乗せて練習航海を行っている。帆船での練習航海を今も続けるには理由があって、第二次世界大戦の戦訓に由来するのだそうだ。大戦の戦死を分析したところ、帆船での練習航海を経験した兵士・士官の生存率が高かったのだそうである。実際に帆船に乗ったことがないので実感はないのだけれど、海で生き延びる力を身につけることができるのが帆船での練習航海というわけだ。

もちろん、東京湾内の日本丸は展帆はせずに機走である。今回は八丈島沖での帆走訓練に向かい、17日には清水港に入港するようである(2013,10,11)

07/02 横須賀のカブトムシ

横須賀のカブトムシ:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

恥ずかしくも50年も生かしていただくと、生きてて良かったとつくづく思うことに出会う。横須賀に移り住んで25年になる。東京から引っ越してまずビックリしたのがムカデだった。あんなもの、ゴムのおもちゃでしか見たことなかったし、まるでゴキブリのようにそこいら中にいるものだとは思っていなかったから大変である。もっとも、これは住んでるロケーションにもよるようで、わずか家から300mほどのこの仕事場ではムカデは一度も見ていない。ちょっと出かけて某所でギンヤンマを捕ったのにも感激したが、去年はクマゼミを捕まえて温暖化を実感したり・・・それでも子供の頃に勲章だったクマゼミ(もっとも当時の東京でクマゼミはいる筈もないが 笑)だから嬉しかった。あとは、オニヤンマを残すのみと密かに機会をうかがっていたが、大物を忘れていた。ここで、断っておけば、僕の生まれ育ちは東京・中野、練馬・石神井の3年を経てあとは横須賀、野山の中で生きてきたわけじゃないし、遊びは海ばかりだからムシとの縁は国民平均レベルである。基本的に都会の人なのであり、大自然とともに生きている方なら笑っちゃうことも、実にひとつひとつが貴重な体験なのである。

今朝は早くから仕事場で一仕事終え、「ああ、今日は資源ごみだなあ・・・」などと考えながら自宅に戻ると、マンションのアプローチの階段に黒い物体。オスのカブトムシである。あとは家中大騒ぎ。カブトムシは縁遠いムシで、子供のころに逗留した母の田舎の山形(最上川近く)では、それこそ蜻蛉と蝉と蛙(これは虫じゃないな)は無数にいたが、カブトムシだけはいなかった。ずっとそこに暮らす叔父も捕ったことがないと言ってたくらいだ。やはり週末ごとに過ごした、伊豆・網代の山でもカブトムシは見たことがなかった。横須賀では一度だけ、網戸にメスのカブトムシが来たことがあったし、別の機会にメスを捕まえたことがあった。横須賀上町の店をやってた頃は、出社途中の公郷の踏切近くでオスのカブトムシを捕まえたことがあったが、これは相当に弱っていて上町に着いて暫くしたら死んでしまった。今日のカブトムシは羽化からそれほど経っていないと思える立派なオスで、元気元気もいいところ。本物である。匂いを嗅いでみると、スイカの匂いがする。カブトムシの匂いは、スイカやキュウリを餌にやるから、あの匂いになるわけじゃあないのだ。あれがカブトムシの匂いなのだ。僕にとっては大発見である。長女はムシがすっかり苦手になってしまったのだが、次女はムシが大好きだしバッタやら蝶やら捕まえるのも上手い。多分、25年で初めてだから、例の焼酎漬けのバナナでもやらんかぎり、これが最初で最後のカブトムシだろう。一期一会である。次女がしばし遊んだ後、そっと庭に逃がした・・・アリガトウ、Good Luck・・・である(2013.7.2)

05/05 大桟橋・コスタビクトリアと客船アート展覧会

自衛隊とサンダーバードのポスター:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

ゴールデンウィークながら、次女が前半戦のあとに風邪をひいて調子があがらず、これ幸いにせっせとお仕事の日々。連休後半3日目にしてほぼ調子も取り戻したようなので横浜へお出かけ。今回は、大桟橋で22日まで船舶絵画サークル SOUTH PIER の皆さんのP&O客船の絵の展示を見るのが主目的だ。当家では横浜へ出るには京浜急行で杉田まで行き、杉田の商店街を冷やかしながら新杉田でJRに乗り継いで石川町・関内・桜木町へ向かうが、杉田の改札を出るとサンダーバードのポスターが! これはご機嫌である。ポスターの主旨は難解で、自衛隊員募集をサンダーバードでパロッただけなのかと思ったら、サンダーバードのDVD発売と自衛隊のPRのコラボレーションだそうだ。愉快である。いっそ、自衛隊の中に国際救助隊サンダーバードを作ってしまえば宜しい(笑) ちなみに、ご存知かとは思うが米空軍の曲技展示飛行隊は本当にサンダーバーズである。

客船コスタブクトリア・大桟橋客船アートの展示会:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

桜木町で降りて汽車道に向かうと、もう今朝入港のコスタビクトリアのファンネルが見える。でかい。赤煉瓦経由で大桟橋へ到着。早速 SOUTH PIER の作品を拝見する。上町に店を構えていた頃にいらしていただいたpunipさんの御縁で毎度御案内は頂戴していたが、店をやっている頃は外出がままならずお邪魔することができなかった。今回は6名の作品を拝見することができたが、その活動のパワフルさには感服するばかりである。幾らとは言わないが、大桟橋の展示だってタダではないしちょっとした御苦労だと思う。改めてエールを送らせていただきたい。

今日は、コスタビクトリアが17:00の出帆だった(15:00に変更したらしい?)が、その乗船客の多さにビックリ。どうも、チャータークルーズになったようで、7日間で済州島、長崎、高知、一週間のクルーズだったようだ。横浜は、この日トライアスロンがあったようで、この交通規制のせいか大桟橋から出る車が大渋滞、従って入る方もダメで乗船客は汽車道のガード辺りからスーツケースをゴロゴロして大急ぎで乗船手続きに向かっており御気の毒であった。HISも大桟橋もなってないゾ!

氷川丸は後部デッキ開放なので乗るつもりだったが、これも氷川丸では初めて見る行列(笑) 並ぶのはかったるいのでパスして元町YOSHIDAで娘たちの買い物に付き合い、チャイナタウン経由で横浜球場で大学野球を見て帰宅。横須賀に帰れば坂と階段・・・ああ、横浜って何て平らなんだろう・・・いいトコだなあ・・・(2013.5.5)

04/30 客船ふじ丸・最後の横浜出港

客船ふじ丸・最後の東京出港:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

ここから見える客船は全部見て、全部写真を撮ってやろうと思っていたが・・・上手くゆくとは限らない。誤解されてはいけないので断っておけば、仕事はほぼ真北の窓に向かってやっているが、浦賀水道はもうひとつの北東方向の窓に広がっており、きちんと目を挙げて首を右に振らないと船は目に入らない。何も、年がら年中ボォッーと海を眺めているわけではないのである。ヒマ人のように思われてはかなわないので一応・・・(笑)

今日は、売却予定のふじ丸が最後の横浜出港だというのできちんと予定をチェックしていたが、セレブリティ・クルーズのセレブリティ・ミレニアムの横浜初入港を失念していた。ふじ丸最後の大桟橋ということもあったので、どれどれ最後の出港はどんなかな・・・と思って大桟橋ライブカメラを覗くと、あらっ? 見慣れない大型客船が泊っている。すっかり初入港のセレブリティ・ミレニアムを忘れていたのだ。多分15時くらいに通ったはずだが、あいにく今日はベルナール・ヴィユモの客船フランスのポスターを仕上げるのが大仕事だったので窓の外には目が行かなかった。残念。明日の出港は遅いので暗くて写真は無理だろう。(横浜出港予定は17:30だが、浦賀水道入航は19:15。東京湾海上交通センターの情報の方が正確だから、出港はもう少し遅い筈である)

ふじ丸の就航は1989年、25年の船齢はまずまずだっただろうし、当時日本最大の純クルーズ客船としてデビューした頃には20万トンもの巨大客船が建造されるとは誰も想像しなかっただろうから随分大きなものに見えたことだろう。ふじ丸就航の年には、問題の横浜ベイブリッジが開通して、橋の高さを決める時にキュナードのクイーンエリザベス2より大きな客船が造られることはないと考えてクイーンエリザベス2が通る高さにしたくらいだそうだから、この25年の客船の大型化は想定外だったろう。一方で、23000トンのふじ丸の運営は簡単ではなかったそうで、チャーター料金は1日で850万〜1000万ほど、稼働日数は270日ほどだったそうである。ふじ丸が居なくなると、日本船籍の外航客船は飛鳥供△僂靴佞っくびいなす、にっぽん丸の三隻となるが、日本のクルーズ人口10万人には丁度良い供給量らしい・・・

何事にも終わりはつきもの、出会いがあれば別れがある、これは世の常である・・・(2013,4,30)

04/27 客船サン・プリンセスと客船ボイジャー・オブ・ザ・シーズ

客船サン・プリンセスと客船ボイジャー・オブ・ザ・シーズ:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

昨日の早暁には横浜入港でサン・プリンセス、今日の早暁には東京港(大井埠頭)入港でボイジャー・オブ・ザ・シーズ、暗けりゃ煌々と灯された照明が美しくはあるものの、デジカメで撮るのは無理だ・・・というより、撮り方が良く分からない。乗船客に皆さんが楽しんでいただくことが第一故、陸から船を眺めるだけの人間に船会社が何ら配慮する必要はないだろうが、明るい時間だと有難いなあ。しかし、見る分には好天の日が暮れたばかりの辺りで煌々と照明をともす光景が一番宜しい。

今日は休みをとらせていただき、朝の6時出発で、茨城の坂東まで法事に出掛ける。幸浦から首都高に乗って湾岸で葛西、中央環状で小菅、三郷線で常磐道、谷和原で降りて坂東岩井に向かうのだが、途中ベイブリッジ上から大桟橋のサン・プリンセスを眺め、期待をしつつ空港北トンネルを抜けて大井の上り坂を上ったあたりで・・・ボイジャー・オブ・ザ・シーズのファンネルの頭だけがチラリ。

坂東岩井での法事は、このところ半年に一度のペースが続いている。段取り慣れもしたものか、今日はたまたま集まった人数が幾分少なかったせいか、住職のお経もやや短く、続く会食も早く終わったのでいつもより小一時間早く坂東岩井を出る。早く出れば渋滞もなく、再びボイジャー・オブ・ザ・シーズのファンネルの頭と大桟橋のサン・プリンセスをやり過ごし、大黒PAで小休憩を入れながらも横須賀に着いたのは午後6時過ぎ・・・おおっ!何と両船の浦賀水道入航予定に間に合ってしまった。

今日の横須賀の日の入りは18時24分とのこと。予定ではサン・プリンセスが大桟橋離岸17:00・浦賀水道入航予定は18:00、同じくボイジャー・オブ・ザ・シーズの大井離岸は17:00・浦賀水道入航予定は18:20・・・仕事場に駆け上り御向いの豪邸の隙間から僅かに見えるスカイツリー方向の海を見やると、何と遠目に両船は交差するようにこちらに向かっている。これは遠くて撮れないものの、双眼鏡で見れば何とも感動的な光景、まるで客船黄金時代である。18:15頃サン・プリンセスが通過、パシャリ。18:25頃ボイジャー・オブ・ザ・シーズ通過、パシャリ、実際にはボイジャー・オブ・ザ・シーズの方は写真よりずっと薄暗く、観音崎に差し掛かるころには撮れないほど夕闇が迫っていた。

返す返すも、大井の埠頭も決して大型客船向けのものではないし、大桟橋も大型客船はベイブリッジをくぐれない・・・先日も、参議院予算委員会で大型客船誘致と入国(一時上陸手続き)の簡素化が質疑に上っていて、国としての対応に進捗はあるような説明ではあるが、横浜を含む首都圏の客船ターミナルがしっかりとしていないのは寂しい限り。いっそのこと羽田沖にでもデカい埠頭を作って、空港と一体化、飛行機と船で簡単にトランジット出来たり、出入国管理だって一本化したりして・・・面白いと思うのは僕だけだろうか・・・(2013,4,27)

04/16 客船フォーレンダム

客船フォーレンダム;ホーランド・アメリカ・ライン:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

ホーランド・アメリカ・ラインのクルーズ客船ヴォーレンダム(フォーレンダム)。例によって、カレントポジションをチェックして浦賀水道入航を待つ。今日は横浜入港予定が16:00なのに、浦賀水道の入航予定は13:45、通常は横浜から1時間程前に浦賀水道入航なので事情がわからない。春霞と陽炎でやや写りが悪い。しかし・・・“カレントポジション”を憶えたのは良かった。観音崎、当社からだと真東を見て観音崎手前の旗山崎・走水小学校をかわして入ってくる船をひたすら待つのは骨が折れるし時間がかかりすぎる。カレントポジションを見ていれば、今日であれば、まだ伊豆半島の南だとか、大島の北側を通過したとかが10分遅れほどで判るから有難い。シープリンセスが見えなかった時も、カレントポジションで猿島を越えたから「ああ、見えなかったんだな」と判断がつくので延々と待ちぼうけになることもない。

これはきっと僕だけではなくて、日本では沢山の人がそのように思っていると思うのだが、カタカナで“○×・オブ・ザ・シーズ”とか“○×・プリンセス”とか良く似た名前が多く、願わくばもう少し判り易くて個性的な憶えやすい船名にならないもんだろうか?ついでに、船の意匠も遠目に見て一目でわかるようになると尚宜しい。その方が陸から見る分にはずっと楽しい。さて、フォーレンダムは横浜初入港、由緒正しき1873年創業のホーランド・アメリカ・ライン(HAL)のクルーズ客船である。HALも、今はオランダに会社があるわけではなく、1971年に北大西洋定期航路を閉鎖してクルーズ客船に転業した時、アメリカに会社を移している。1989年には、ミッキー・アリソン率いるカーニバルの傘下に入った。ミッキー・アリソンはカーニバルCEOを父親から引き継ぐと、株式を上場して資金を調達、この資金でロイヤルカリビアンクルーズのTOB(敵対的買収)を仕掛けるも失敗、取って返してHALを買収した。これが、後にキュナードやP&Oを買収して世界一のクルーズ船会社に巨大化してゆく第一歩になった。フォーレンダムは、新船建造第二シリーズ、ロッテルダム級の二番船である。今回は中国から日本、ベーリング海を経由してバンクーバーまでの北太平洋クルーズ、その前は南太平洋を回っているようだから、全体で右回りの太平洋一周ということか・・・

地球規模で見た場合にクルーズ旅行はものすごく需要が伸びている分野で、10万トンを越える客船はすでに30隻以上を数えている。船は殆ど海に出ているわけで、10万トン超客船だけで定員を平均4000名X消席率85%として一隻3400名、30隻ならばこれだけで約10万人! 10万トンに満たないクルーズ客船が一体どれだけあるかわからないが、ざっと総乗客数をその倍くらいとすれば20万人(随分大雑把な計算だ 苦笑) 〆て、30万人! である。 毎日30万人もの人が船に乗ってクルーズを楽しんでいる。30万人を、ざっと一乗船あたり1週間として、船の稼働率95%X52週=49.4週、30万人X49.4週で14,820,000名(小4に進級した次女の算数の授業は、不得手な“大きな数”から入るらしい。恥ずかしながら僕も営業部長やってた割には大きな数字は得意じゃない。参ったな、何でこんな計算しちゃったんだろう・・・)年間1500万人の人がクルーズ客船に乗っていることになる。1915年頃に最も乗船客が多かった北大西洋航路の乗客数が100万人ちょっと、交通手段が船だけだった当時でこれだから1500万人というのはとてつもない数である。(注:ここまで書いて、あまりいい加減な数字じゃいけないと思って、一応それらしい資料をひもといてみると2007年あたりで、世界クルーズの需要は1550万人くらい・・・当たらずも遠からじである)

日本のGDPは、2010年で全世界GDPの8.68%にのぼる。日本のクルーズ需要は概ね20万人弱だそうだから、世界のクルーズ人口のわずか1.2%ほどしかない。何もかもGDPと比例するわけではなかろうが、相対的に低い。原因のひとつはクイーンエリザベス2にあったらしい。(笑) クイーンエリザベス2が日本に来た時に“豪華客船”とやってしまったものだから、日本ではクルーズ客船の旅が“豪華客船”の高級レジャーと認識されてしまったらしい。欧米でクルーズ需要が爆発的に伸びたのは、エコノミーツアー(これをマスマーケットと呼ぶ)が普及したことが要因だ。だから、どうのこうのというつもりは・・・ない。

GDPが出たついでに、先日、素朴な疑問が解けたので一筆。アメリカは世界一の経済大国だが、人口では世界3位で世界比4.5%、この4.5%の人口で世界GDPの22%以上を稼いでいる。一体何をそんなに作っているんだろう? と思ったことはないだろうか。(笑) 実は、アメリカという国は消費大国で、アメリカのGDPは生産ではなく消費によって稼ぎ出されているのだそうだ。僕らが受けた教育も今や相当古典的なものになっていて、何と言ってもGDPではなくてGNP(国民総生産)だったからなあ・・・そのころ学校で習ったのは、せっせと電気製品やカメラや自動車や船を作った生産高がそのままGNPのように習ったものなあ・・・だから、僕は今でも、産業の空洞化を真剣に心配するのだけど、それは雇用という側面では大問題ながらGDPには影響が少なくて、むしろ買って食って買って食って・・・こいつを皆で裏付けのないカードで支払って・・・とやればGDPは増えるようなのである。もう、額に汗して作りだした純粋な付加価値なんて考え方は古いのかなあ・・・GDPのことはわかったけれど、不思議なことが多すぎる、この人類は・・・(2013,4,16))

04/10 パナマの死角 Across the pacific 1942

ハンフリーボガード・パナマの死角:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

1942年に米国で公開されたハンフリー・ボガード主演の“Across the pacifc”という映画を見た。ジョン・ヒューストン監督の傑作選シリーズのDVDというのが日本でもリリースされていて、これを買えば日本語字幕でスイスイなのだが、如何せん高価で手を出しにくい。そもそも、映画を見たかったわけでもなくて、この映画の撮影に使われている船を見たかったのだ。というのは、佐藤早苗氏著“輝きの航海”(1993年、時事通信社)という本にこの映画のことが書いてあったので興味を持ったのである。その内容は

以下引用 ごく最近、アメリカから日本郵船本社に実に興味深いビデオテープが送られて来た。戦前の映画をビデオテープにとったもので、日本人にも懐かしいハンフリー・ボガード主演のものである。それが日本郵船に送られてきたのは、その映画がNYK(日本郵船)の船が舞台になっているからである。 〜中略〜 私もちょっとだけビデオを見たが、NYKのマークや二引の煙突があったり、日本郵船の船なのに、日本人を演じている役者が中国人らしく、日本人が見るとちょっと妙なところが目立つ。戦前はまだ日本を理解していない国がほとんどで、なぜか日本と朝鮮ではなく、日本と中国が交錯しているらしい。このビデオは、いま準備されているNYKミュージアムに納められることになっている。 引用ここまで

物語は、アメリカ陸軍を除隊させられるリック(ハンフリー・ボガード)が、職を求めてハリファックスに行きカナダ陸軍の面接を受けるも不採用、以前駐留していたパナマを目ざし、ハリファックスからニューヨーク、パナマ、ホノルル経由、横浜行きの日本郵船ジェノア丸に乗るというもの。リックは、スパイ戦に巻き込まれ日本軍が計画していたパナマ運河爆破作戦を阻止するというものだ。アメリカでの劇場公開は1942年の9月だが、この映画の撮影が始まったのは1941年の12月に入ってからだったという。以前、どこかで浅間丸がこの映画の撮影に使われたといったことを読んだので、大いに期待したのだけれど船は浅間丸でも何でもなかった。浅間丸に限らず、日本郵船黄金時代の客船の映像というのは本当に少なくて、郵船博物館で見られるプライベートフィルムや氷川丸の退役記念のフィルムくらいしか見たことがないから、どこかで読んだ通りならお宝発見だったのだが・・・

映像をみて、浅間丸でないことはすぐに判る。では日本郵船の二引ファンネルマークのこの貨客船は一体何だろうと思って、日本郵船の客船古写真や写真集、資料、社史など片っ端から付き合わせてみたがそれらしい船がない。船名はシャレが効いていて“下野亜丸”となっている。ジェノア丸が何で下野亜丸かと思えば、下野亜丸は音読みで“げのあまる”、これをローマ字に置き換えると“GENOA MARU”、すなわちジェノア丸となるわけだ。この艦首部船名とファンッションプレート後端の位置関係、また船名と船首アンカーの位置関係、門型デリックポスト、ブリッジと中央ハウス部分形状、後部ハウス・・・これらを判断材料にしたのだが、少し似た船であれば、N型貨物船、A型貨物船、S型貨物船などがあるにはあったが、門型デリックポストはヨシとしても、アンカーの位置も違えば船尾ハウスも違うし、根本的に映画では蒸気レシプロなのに両船はデーゼル船だからありえない。そう思いつつ映画を見ると、サロンの入口に“娯楽室”と書いてあり、読めるには読めるがどうも日本の漢字ではないし、撮影のために後から書いたものに見える。またサロンには、何と昭和天皇の肖像画らしき大きな絵(大体A1サイズかな)が飾ってあるが、日本の船に天皇陛下の肖像画はありえない。当時は神聖なものだから御真影が祠の中にあることはあっても絵画のようには飾らない。その他にも、細かくは船内の案内は紙が貼ってあり“→甲板”みたいなことが書いてあるが・・・紙で貼らんでしょう(笑)。ハリファックスを出てニューヨークに寄った際には、立派な“N.Y.K. LINE”のギャングウェイが乗船口に掛けられるけれど、内側を良く見れば真新しい材木で組んだ造り物である。ファンネルの形状もきちんとした楕円注や円柱ではなくおかしい・・・と挙げればキリがないのだが、何のことはない、ファンネルを二引きには塗ってるものの日本郵船の船ではない! という結論である。

さて、この映画の製作はハリウッドのMGM映画だが、MGMは1940年代に“ミニヴァー夫人”のようなプロパガンダ映画を多数製作していた。(ちなみにハンフリー・ボガートといえば“カサブランカ”だが、こちらはワーナーのプロパガンダ映画) この“Across the pacifc”という映画がプロパガンダ映画であるということと当時の日米情勢、加えて題名の違和感と脚本が途中で書き換えられたという裏話・・・これらのことから興味深いことが見えてくる。未だに論争の種となる真珠湾攻撃を米国が事前に知っていたか否か・・・真珠湾攻撃はやはり米国の想定内の出来事だったとしか思えないのだ。

1940年頃には日米開戦が不可避になりつつあり、1941年にはルーズベルト大統領が世論と議会を大戦参戦賛同に導き対独開戦に踏み切るため、石油の禁輸によって日本に仕掛けさせようとしていた。三国同盟の日本への宣戦布告は対独開戦と同義である。すでに多品目の対日禁輸措置で日本船が米国で貨物をとれる状況にはなく、在米日本資産凍結に至り、7月には北米定期航路が閉鎖、8月にはパナマ運河の閉鎖が宣言され、北米にあった日本船籍の船には日本への引き上げ命令が下り、以後は政府チャーターの引き揚げ船のみの運航となる。“Across the pacifc”は、反日的プロパガンダ映画であり、舞台に日本郵船の客船を選んで、なおかつチケットエージェントの描写や張りぼてのギャングウェイなど、かなり日本郵船=日本の船であることをリアルに描写しようとしており、当時の米国における日本郵船の知名度と敵国日本のフラッグキャリアとしての認知度が強いものだったことがわかる。しかし、この映画の撮影が開始された1941年12月の時点で、すでに日本郵船の船は一隻たりとも米国にはなかったし、すでに開戦前夜に撮影に使える日本の船などありようもない。ついでに言えば、日本人を演じているアクターはみな中国人で、「かしこまりました」とか「よろしく」とかの日本語は明らかに日本人の日本語ではない。船だけでなく、日本人のアクターも使える状況にはなかったということがわかる。

それにも増して興味深いのは、この映画の製作裏話で、実はこの映画の脚本で主人公リックが阻止する日本軍の作戦はもともとは真珠湾攻撃だったということである。パナマのコロンで終幕を迎えるこの映画の題名が“Across the pacifc”であるのは、日本軍のパナマ運河爆破を阻止して太平洋への航路を守るという意味で的外れとは言えぬまでも、映画の中では一度も太平洋は登場しないから不自然だ。本当は、パナマではなくハワイで物語のクライマックスを迎え、日本軍の真珠湾攻撃を阻止するという脚本だったという。ところが、ここが大事なところで、米国ではすでに真珠湾が攻撃される予感があったため、その場合には脚本をパナマに差し替え、題名はどちらにも使える“Across the pacifc”にしたのだそうだ。実際に、1940年9月には日本の外務省(と海軍)の暗号は解読されており12月までには複製の暗号機が8台配備され、日米交渉や海軍の作戦は米側に筒抜けだった。1941年に“Across the pacifc”の撮影が始まると、案の定、日本は真珠湾奇襲を敢行した。脚本は真珠湾からパナマへ書き換えられ、リックが1941年12月6日(真珠湾攻撃は米国時間1941年12月7日だったから、現実の真珠湾攻撃の一日前)に日本のパナマ運河爆破作戦を阻止するものとなった。この辺も手が込んでいて、パナマで迎える決着の日は、ご丁寧にもパナマの新聞の見出しが大写しになるシーンがあって、日付は1941年12月6日、見出しは“HIROHITO REPLY TO ROOSEVERT WILL INSURE PEACE...SAY NOMURA AND KURUSU”となっており、映画公開時には、いかにも真珠湾がだまし討ちだったように強調しつつ、実はその一日前にパナマ運河爆破を阻止したのだというロジックである。戦前といえども、昭和天皇がそのように考えていると米国大使が言うことはないのだが、結局、「平和を保障する」と言っておきながら真珠湾をやった卑怯な日本のパナマ運河爆破を阻止したリックは偉い!というわけである。さて、ここで良く考えなきゃならないことは、日本では未だに米国が真珠湾攻撃を事前に察知していたか否かとケンケンガクカクやってるわけだが、現実としては街場の映画会社が真珠湾攻撃の脚本を真珠湾攻撃が起こる前に書いていた訳で、日本海軍機動部隊のハワイ接近に誰かが気づいていたかどうかは不明だが、少なくとも真珠湾攻撃、もっと言えばパナマ運河攻撃を日本が計画していることが広く一般に認識されていたことが良く分かる。この興味深い事実をスタートにして真珠湾攻撃陰謀説を考えないと結論は感情的に過ぎるあらぬ方向にいってしまうだろう。ちなみにパナマ運河爆破は、駐米武官として山本五十六提督が米国にいた時から山本提督が頭の中に描かれていたといわれる。山本提督暗殺後は、山本提督の遺志・弔い合戦として海軍がパナマ運河爆破計画を立てていたそうだ。

日本郵船・パナマの死角:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

冒頭の佐藤早苗氏の著書によれば、“Across the pacifc”は郵船博物館に納められたかもしれない。しかし、これが博物館の資料にもならなかったのは、郵船の船が無関係だったからであろう。もし、郵船OBの竹野弘之さんが存命であればお目に掛かった折にでも笑い話を伺えたかもしれない。しかし、話が変わるがハリファックスのチケットエージェントの映像は見ものであった。当時の郵船のポスター、“ゲオルギー・ヘミングのNYK around the world”や“戸田芳鉄の江戸城”がきちんと壁に貼られているではないか・・・これはわざわざ作ったりしないだろうから本物があったのだろう。僕にとってはこれこそ大変貴重な資料である(笑)(2013,4,10)

04/07 80日間世界一周・・・1922年の世界一周クルーズ

80日間世界一周・トーマスクック世界一周1872:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

ジュール・ヴェルヌ著、80日間世界一周を読んだ。恥ずかしいことながら読んだことがなかったのである。うっすらとしか記憶が無いが、確か小学校の時間割には読書という時間が一コマあったはずで、道徳の時間と同じく他の科目が押してくると真っ先につぶれていたような気がするものの、記憶にあるくらいにはクラスで図書室に行くことがあったような気がする。その頃から、題名だけはずっと見つつとうとう読まなかった。あるいは何ページかめくって止めたかもしれない。そういう記憶にはある本だったのだ。ちなみに、僕はその時間になると、もっぱらずっと同じ本を飽きもせずに繰り返し読んでいた。古田足日さんの“もぐらはらっぱのなかまたち”である。思い立って読むきっかけは、客船の世界一周航路について調べごとをしていると、世界一周旅行は英国の旅行会社トーマス・クックが1872年に世界で初めて催行、ヴェルヌはこのトーマス・クックの世界一周旅行の広告を見て80日間世界一周の執筆を思いついたという記述からだった。実は、これはトーマス・クックの世界一周とヴェルヌの80日間発表が同年だったための俗説で、ヴェルヌはトーマス・クックが広く世界一周旅行の募集を始めた1872年5月より前から執筆を始めていたし、西回りと東回りの違いもあれば、経路も若干違う。特に西回りと東回りの違いは重要で、ヴェルヌが読者をはめるどんでん返しのトリックが東回りの部分に隠されているので、トーマス・クックの旅行とヴェルヌの小説は無関係なのだろうと結論づける方が賢明だ。

好い歳して気恥ずかしいが、80日間世界一周は大変面白く、文庫本上下巻を延べ6時間ほどで一気に読んでしまった。ちなみに、光文社、仏語翻訳家の高野優さんによる2009年の新訳である。さて、そうは言うものの、やっぱりこれは子供の頃に読んでもしんどかったかな・・・と感じた。そもそも、世界一周のことを調べてる途中のことだったわけだし、僕だけかもしれないが、戦後の日本人は明治・大正の先達よりはるかに世界観が小さいから地名や港が出てきても距離感や船の速度はピンと来なくて面白くないかもしれない。現に長女は、呆れるほど本を読む子で、先日もアルセーヌ・ルパンを夢中に読んでいたが、80日間世界一周は10ページほど、まだフォッグ氏が世界一周に出立する前、ロンドンに留まったままでギブアップである。(苦笑) いずれにせよ、いつかは読んでみるかと思っている方には読むことをお薦めしたい。さて、フォッグ氏が80日間で世界一周に挑戦することになる事の起こりは、インド横断鉄道が開通したという記事から80日間で世界一周が出来るか否かの論争からだった。本当は、東インド航路があるのだから、インドを鉄道で横断する必要はないのだが、パナマ運河の開通は1914年のことなのでアメリカは大陸横断鉄道で行かねばならない。もちろん、こちらもホーン岬を回る航路があるが時間がかかりすぎる。ヴェルヌのインド横断鉄道は物語の展開上必要になる挿話であり、物語の思いつきは1869年にスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通したことから得たと推察される。では物語はさておき、当時、現実に催行されたトーマス・クックの世界一周とはどんなものだったのだろう。

トーマス・クックは、熱心なプロテスタントの伝道師にして禁酒論者だったが、1841年の禁酒大会に信徒を大量に送り込みたいがために、列車のチケットを一括購入して旅費を安価にすることを思いついた。この試みは見事に成功を収め、一般旅行者に代わってチケットを手配する世界で初めての近代的な旅行代理店業を創出した。事業は順調に伸張し、10年後のロンドン万博で飛躍、ロンドン万博入場者のうち5%近くはトーマス・クックの顧客で占められることになる。1871年には息子たちが事業に参加して法人化、その翌年1872年に件の世界一周旅行が企画されたのである。このツアーの料金は200ギニー、旅程は222日(資料により122日となっているものもあるが、これは間違い)、1872年7月にリバプールを客船で出発してニューヨークへ渡りナイアガラ瀑布、デトロイト、シカゴ、ソルトレイクシティー、シェラネバタを経由してサンフランシスコからパシフィックメールの客船コロラドに乗船した。アメリカでは伝説の豪華列車プルマンにも乗車し、スー族の襲撃(見ただけかもしれない)も見たようである。太平洋を渡り横浜へ到着。日本では横浜、東京、神戸、長崎に寄っているようだが、この年(明治5年)に新橋・横浜間の鉄道が開通したばかりなので、横浜・東京は往復したかもしれないが、神戸、長崎は船で寄った筈だ。P&Oの客船ミザポールで上海、香港、シンガポール、ペナン、セイロンを経由してカルカッタに到着。ここから、ヴェルヌの80日間世界一周よろしくインド横断鉄道でベナレス、アグラ、デリーを経由してボンベイ(現ムンバイ)へ到着、スエズまでP&Oの船で行き、カイロ、エルサレム、ダマスカス、バールベック、ベイルート、コンスタティノープルを経て(この辺りが鉄道か船かはっきりしない。いずれ機会があったら勉強するつもり)、欧州を鉄道で横断、英仏海峡を渡って英国に戻るというものだった。トーマス・クックのツアーは、ヴェルヌの80日間世界一周が物語としての早回りへの挑戦だから、本質的にちがっていた。ちなみに、この旅行にはトーマス・クック本人も同道したようである。

鉄道と船を乗り継ぎ、いかにも大変そうで、僕ならばピースボートではないがひとつの船室に落ち着いて世界一周したいものだ。スエズ運河の開削に成功したレセップスは、続いてパナマ運河の開削にも挑戦した。これは失敗するものの、パナマ運河は米国によって1914年開通した。いよいよ、船に乗ったままで世界一周することができるようになった。この辺のお話は 客船ポスター四方海話 巻拾 ダラーライン に書いた。時は・・・第一次大戦開戦の頃である。世界一周どころか、あちこちにUボートがいる訳で通常の航海もままならず、第一次大戦が終わり欧州が戦禍から立ち直り始めた頃からやっとパナマ運河の本格的利用が始まる。1921年には米国移民法が改正され、米国への大量人口移動が止まった。客船は・・・余った。船主が三等客ではなく観光客へ目を向ける時代がやってきたのである。アメリカン・エキスプレスと聞けば、僕も含めて多くの人がクレジットカードの会社だと思うことだろう。アメリカン・エキスプレスのルーツは運送業で、この輸送網を活かした旅行代理業とトラベラーズチェック(TC)の発行で世界的な企業に成長してゆく。TCのために世界中に構えた出先は旅行者サポートセンター的な役割を担うことになる。TC発行は1841年のトーマス・クックが世界初だったが、50年遅れで世界2番目に発行したアメリカン・エキスプレスは、ドル紙幣程度の大きさの使い勝手の良さで、小切手然としたトーマス・クックのTCを追い抜き世界トップになり、TCと旅行代理業を複合した世界的総合旅行業として発展する。やがて、プラスチックのクレジットカードの時代が到来すると、TCで培った“信用”のノウハウを活かしご存知のとおり世界有数のクレジットカード会社となってゆくのである。客船による初めての世界一周航海は、このアメリカン・エキスプレスによって募集された。1922年のことである。

1922アメリカンエキスプレス世界一周:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

このアメリカン・エキスプレスによる世界初のスエズ・パナマ両運河を利用する客船による世界一周には、416名の米国人観光客が参加、使用された客船は1922年リバプール・ボストン線に就航したキュナードのラコニアだった。1922年11月21日、ラコニアはニューヨークを出帆、以後主な寄港地はハバナ、コロン(パナマ運河)、サンフランシスコ、ホノルル、横浜、神戸、大連、上海、基隆、香港、マニラ、ジャカルタ、シンガポール、ラングーン、カルカッタ、コロンボ、ボンベイ、スエズ(スエズ運河)、アレクサンドリア、ナポリ、モナコ、ジブラルタル、1923年3月30日ニューヨークに戻った。約130日間の世界一周である。さて、エルナー・フェルプスさんによって書かれた、この世界初の世界一周クルーズの貴重な乗船記が米国某大学のライブラリーに残されている。全部読むのは時間を掛けてやってみたいと思っているが、なかなか結構なボリュームなので、たまたまタイピングされている1922年12月28日から1923年1月2日の日本滞在記を引用する。以下引用

Dec. 28; Landed at 8.p.m. and went by rikisha thru Theater Street before going to the geisha dance at the Grand Hotel at 9.30 p.m.
Dec. 29; Left by auto at 8.15 for Kamakura via Nigishi, Hommoku and Mississippi Bay. At Kamakura visited first the Dai Butsu and then Kwannon Temple;then the beach back of the Kaihin Hotel. Then lunch at the Hotel-some flirting with the waitresses, then the retrn trip to Yokohama leaving via Hachiman Shrine where a former emperor is worshipped under the title of the god of war. Near he Bund in Yokohama met a very long Chinese funeral proeessiin;passed along the Bund to railway station; left for Tokyo at 1.44 and arrived at 2.45 ; took autos for drive by the Imperial Palace, thru Hibiya Park, to Imperial Hotel, to Shiba Park, whos a visit was made to the Tomb of the Second Tokugawa Shogun;from here past the Parlament buildings, thru Ueno to Asakusa Park ; saw the street of little shops leading up to the Asakusa Temple;returned to Imperial Hotel for dinner; left at 7.30 and 830 for Kyoto.
Dec. 30: Arrived Kyoto 7.30 and 8.30 a.m.:went to Kyoto Hotel for breakfast then by rikisha to Imperal Palace,Nijo Castle,and Nishimura Silk Store before lunch. After lunch to Ishaida San's( Mr.Stonefield) garden;then to Yamanaka( Center Mountain) Art Store; then to Yokoyama(Cross Mountain) Bead and Silk store,then to a damascene shop and a pottery under the name of Kinkozan.
De. 31: By auto to Nara passing thru the Uji tea distriet and stopping at Momoyama(Peach Mountain) the tomb of Mutsuhito, the great Mikado who overthrew the last of the Tokugawa Shoguns in 1868 and reigend until 1912.His reign is known as the era of enlightened government(Meiji), while the present reign is known as Taisho(the era of great rightsousness),and the Daibutsuden,the temple of the Great Budda;took lunch at Nara Railway Hotel,and then returmed by auto to Kyoto. Nigt:By rikisha to the Gion Temple to see the ceremony of lighting the New Year's home fire at the temple and carrying it back to the home.
Jan. 1. By auto to Kitano Shrine;Kinkakuji(golden pavilion) Higashi Hongwanji,the great Buddhist temple,Sanjusangendo,the temple with 33,333 gods in it,and Kiyomizudera, from Whish point we had the great view of Kyoto.Lunch at 11.30 and left at 1p.m. for Kobe.Dinner at the Oriental Hotel in Kobe and off by night express for Shimonoseki.
Jan. 2 Woke at Miyajima in a snow storm.Snow all the way to Shimonoseki.Arrived at Shimonoseki at 9.30 and went on bord ferry at once. Rougher'n Halifax.引用ここまで

少しミスタイプもあるが、難しい英文ではないので翻訳は割愛して、注釈も交えて解説するとこうなると思う。
1922年(大正11年)12月28日、ラコニアは前港ホノルルから横浜に入港。夜8:00に上陸し力車(人力車のこと。人力とか力車と呼ばれていた)で劇場通り、現在の伊勢佐木町を通ってグランドホテルにチェックイン、文脈からすればグランドホテルで芸者ダンスを見たということになる。グランドホテルは、翌1923年、関東大震災で倒壊、再建は果たせずにニューグランドが出来るのは1927年のこと、旧グランドホテルは現在の横浜人形の家がある場所にあった。
12月29日、自動車で、Nigish(根岸)や本牧、ミシシッピー湾(ペリー大佐が来航時に名付けた根岸湾のこと)を経由して鎌倉へ。根岸まで行っているので鎌倉へは金沢から朝比奈を越えて入ったのではないだろうか。大仏(高徳院)とKwannon Temple(観音寺?多分、長谷寺)を見物した後、鎌倉海浜ホテルで昼食。鎌倉海浜ホテルは現在の由比ヶ浜海浜公園の場所にあったジョサイア・コンドル設計のホテルで外国人宿泊客や文化人、華族が集う別荘文化の中心地だった。ウェイトレスをからかったというような記述があるが意味不明。鶴岡八幡宮を経由して横浜に戻る途中で中国人の葬儀の行列を見かけつつ、鉄道駅に向かったようである。1915年、東海道線が開通して現在の横浜駅が開業している。この後、東京に向かうので現在の横浜駅に向かったものと思われる。再びグランドホテルに寄ったようにも思えず、何故、鎌倉から直接鉄道を利用しなかったのかは不明である。13:44発の列車で東京駅着は14:45、車で(1912年にタクシー誕生、takeなのでタクシーではないか)皇居、日比谷公園の横を通り帝国ホテルに入り、再度車で出掛け、芝公園で徳川秀忠廟、上野を通り浅草では仲見世から浅草寺に寄り、帝国ホテルに戻り夕食、19:30にホテルを出て20:30には列車に乗ったものと読み取れる。当時、東京・下関間は下関・釜山の定期船と連絡しており、遠大な話ながら東海道線は、釜山から先をたどればシベリア鉄道を経由してパリ、ロンドンまでを結ぶ東西交通路の一部であった。そのため、欧州豪華列車に劣らぬ特急夜行列車が特別に編成されており、これが俗に名士列車、あるいは編成番号から1・2列車と呼ばれた。後の特急富士である。結局、帝国ホテルでは夕食を採っただけ(あるいはステイでシャワーでも浴びたか・・・)となる。
12月30日、7:30に京都着、8:30には力車で京都ホテルに入り朝食を摂る。再び力車で京都御所、二条城、そして昼食前に西村絹織物店へ寄っている。西村絹織物店は、当時英文でS Nishimura & Coを名乗っていた京都三条通り、京友禅の老舗(創業元治元年、1555年)現在の千總と思われる。S Nishimuraは西村總左衛門を意味する。昼食後、石田さんの庭園に寄り(残念ながら石田さんの庭園は意味不明。記載はないが知恩院に立ち寄っているようなので、ここに石田さんがいたのかもしれない)、山中美術、横山ビーズシルクストアーに寄ったと記されている。山中は、伝説の美術商・山中商会(The Yamanaka Art Galleryまたは、高名なHouse of Yamanaka)のことのようで、粟田口にショールームを構えていた記録がある。横山は明治期に創業、主に外国人向けに古美術を扱っている弁財天町の店だったようだ。京都の最後は京焼の陶家、粟田の錦光山に寄っている。特に記載されていないが京都ホテルに宿泊したようだ。
12月31日、車で宇治を通り、明治天皇伏見桃山稜を見て奈良に向かう。徳川将軍家に大政奉還をさせて明治政府を作り現在は大正に至っていることも書かれている。奈良では東大寺の大仏を見物し、奈良鉄道ホテル(奈良ホテルのことであろう)で昼食、京都へ戻る。夜は力車で祇園に行き八坂神社のおけら参りに行き火を持って帰ったようである。
1月1日、車で北野神社(現、北野天満宮)、金閣寺、東本願寺、三十三間堂(33333体の仏像と記しているが勘違いである。正確には1001体)に立ち寄り、清水寺で京都を一望する。(Whish pointは清水の舞台の意だろうが・・・) 11:30から昼食、13:00に京都を立ち神戸に向かう。神戸のオリエンタルホテルで夕食後、下関に向けて出立。
1月2日、吹雪のなか宮島で見が覚めるとあるが、当時は山陽本線から宮島が見えたのであろうか?下関へは9:30着、釜山行きの連絡船に乗る・・・最後のワンセンテンスは意味不明。この日、記載はないものの列車の食堂車で食事、食堂車の運営は精養軒であった。

いやいや面白い。このラコニアの世界一周ではショア・エスカレーション(上陸地から次の出港地までを陸路でゆくこと)やオプショナルツアーも豊富に設定されていて、日本では横浜から日光に行くオプショナルツアーもあったようだ。フェルプスさんはショア・エスカレーションとオプションを組み合わせ日本では横浜、東京、京都、奈良、神戸、下関、釜山に渡って京城から北京、1月11日に上海でラコニアに戻ったようである。1922年に始まった世界一周クルーズは、第二次世界大戦がはじまる1939年(シーズンとしては1938年末〜1939年初春)まで、毎年4〜6隻が行い、料金は米ドルで2000〜4000ドルほどだった。世界一周の客船は戦前戦後、ダラーラインの西回り定期航路客船が寄港していたし、日本郵船も米国大陸横断と大西洋横断こそ提携に任せたものの世界一周の乗船券を売っていた・・・さても大正11年のお話であったが、今やベイブリッジをくぐれず横浜に入港できない客船は片手で数えられないほどになった。こりゃあ・・・一種の鎖国状態ともいえるわけで、国家100年の計のためにも、一刻も早くベイブリッジを高くするよう願って止まない (2013,4,7)

4月8日追記、さいたま市の鉄道博物館で、昭和5年製の特急富士の客車が展示されているとテレヴィのニュース。一世代後のものとなるが、上記、名士列車の実物を見ることができる。展示車両は展望車と呼ばれるサロン車、桃山様式、漆塗りに金箔の内装は外国人観光客を意識したものと解説されていた。公開は6月10日までとのこと

04/02 客船シープリンセスは見えず

客船シープリンセスは見えず:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

06:15頃浦賀水道、プリンセスクルージズのシー・プリンセス・・・がこのレンズの方に確かにいる筈だが雨で見えず。この船もカレントポジションがトレースできるので地図で追ってはいたが・・・ カレントポジションによれば浦賀水道入航は予定通り、ほぼ05:45くらいだったようだ。視界は、目を凝らすと水平線があるようなないような、近くの漁船は見えるものの浦賀水道の船は全く見えない。大きさと真っ白い船体に期待して、来れば判ると思ったものの、カレントポジションで06:20くらいになると猿島をかわしていたなので全く見えなかったということだ。勿論8倍の双眼鏡も使いながらだから、それこそ影も形も見えなかった。横浜入港をチェックしていちいち見てみようとしたのは去年からだが、このくらいのお天気だとこうなるのだという良い経験になった。(泣)

折角なのでシープリンセスのことをちょっと・・・総トン数77,499トン、全長261.31メートル、全幅32.25メートル、乗客定員は1,950人は1998年に就航したクルーズ客船である。プリンセスクルージズの客船としてシー・プリンセスの船名は二代目にあたる。パナマックスで世界最大を競っていた時代の適当なサイズのクルーズ客船といえるだろう。

プリンセスクルージズは、旧社名でありブランド名・事業名になっている。調べれば、日本の政党の血脈図か英国王室の系図のようにややこしい(苦笑)が、正式にはP&Oの客船部門とプリンセスクルージズが合併したP&Oプリンセスクルージズという船会社で“P&O”“プリンセスクルージズ”の旧社名二本立てでブランド・事業展開をしており、さらにややこしいのはP&Oプリンセスクルージズ自体がアメリカのカーニバルの傘下にあるということだ。古のJ・P・モルガンのIMMではないが、ミッキー・アリソンはそのうちクルーズ客船の事業を独占してしまうのではなかろうか?尤も・・・海運が国家的事業だった時代とは違い、クルーズはレジャーだから、それが米国資本で独占されたところで昔とは意味合いが違うのだろうが・・・

それはそれとしてP&Oプリンセスクルージズはクルーズ客船に大きな影響を与えた足跡を残している。今日見られるクルーズ客船は、いかにも客船らしかった姿を失ってホテルのような客室の塊が船殻に乗って動いているような印象を受ける。これは客室がすべてAデッキより上のハウス部分に設けられ、レストランやシアター、ショッピングエリア、カジノ、バー・・・公室が殆どAデッキより下に配置されていることによる。このような形式で建造された初めての客船が1984年就航のP&Oプリンセスクルージズ“ロイヤルプリンセス”だった。以後、御存じのとおり、殆どのクルーズ客船はこの方式を一斉に真似ることになるのだ。

クルーズ客船の歴史を正確に知る入門手引書としては、故竹野弘之氏の著書“タイタニックから飛鳥IIへ”という良書がある。日本郵船のクルーズ客船部門クルスタルクルーズを立ち上げた御当人だけあって、内容は非情緒的だが資料としては大変にありがたいものだ。御存命のうちにもっとお話を伺うのだったと後悔している(2013,4,2))

04/01 観音崎 ワカメと客船オーシャンドリーム

客船オーシャンドリーム2013:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

4月1日、世間的にはエイプリルフールであったり朝ドラであまちゃんが始まったり(前回の朝ドラは、どうも朝っぽくなくて、見るとさっぱり調子が出ないので見なかったが、今度は乞うご期待という雰囲気だ。テレヴィカメラ越しながら三陸の海ってえのは綺麗だなあと感心しきり。久慈市あたりが舞台なんだそうだが、機会があれば一度は浄土ヶ浜に行ってみたいと思っているので、惚れ惚れと見てしまった次第)、テレヴィのニュースなんかはアナウンサーが変わっていたり、すっかり新年度だがあんまりピンと来ない。オーシャンノートの決算は3月ではないし・・・

雨も上がって、寒さも収まったので観音崎にワカメ拾いに出かける。2月頃にワカメが拾えず久しぶりにアカモクを拾って来て食べたが、やぱっりメカブには全然敵わない。今年は3月に入ってからメカブをちょくちょくやってるが、これだってせいぜいゴールデンウィーク前まで、年にふた月だけの美食だ。(今年はまだツクシも食べてないなあ・・・) 観音崎は、ワカメ、天グサ、アサリ・・・それぞれ狙ってるものは違うが何やら捕ってる人も多く(もう解禁になったと思うが、ヒジキなんか歩いて行けるんじゃないかと思うくらい、ジュータン状態だ)、しかし今日は2日ほど前に強い北が吹いたのを期待した割に流れたワカメは少ない。仕方なく防衛庁の敷地の手前まで足を伸ばした。成果はご覧のとおり、デカいメカブは〆て四つほど(もちろん、ワカメは刺身ワカメ、茎は茎ワカメ、残れば干して夏前までは食べる)ゲット。

展望所で一休みすると、ピースボート=オーシャン・ドリームが来た。そうだ、今日は世界一周の出帆日だった。103日間、横浜に戻ってくるのは7月12日だ。Bon Voyage (2013,4,1)

03/29 SSコロンビア

ディズニーシー・SSコロンビア:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

昨日は、巷で話題のキュナードの戦前レプリカ客船の処女航海ショートクルーズに乗船してきた。この客船・・・要は1935年のクイーンメリーの3本ファンネルをコンセプトに、1914年のアキタニアのブリッジを乗せて、1921のラコニアのスケール感でまとめたものをほぼ1/2に縮めた感じと思えば良い。ニューヨークの旧チェルシー埠頭からハドソン川を下りロングアイランド沖で引き返す半日クルーズだったが100年前の大西洋横断気分である・・・というのはもちろん冗談で、浦安のディズニーシーにあるSSコロンビアという客船の造り物である。(笑) 皆レストランだと思っていて意外と知られていないそうだが、Aデッキまではレストランに入らずとも上れるらしいと聞いていたので、ちょっとだけオーシャンライナー気分。プロムナードデッキやボートデッキには上れない。ブリッジなんか、だた造っただけならもったいないなあ・・・

本業とは別に、とある会社のウェブの管理とメンテをお手伝いしているのだが、その社長さんが「いつもお世話になっているから」とお気遣いで家族4名分のディスニーランドのチケットを下さったのである。有難いことである。僕は高いところやジェットコースター的なものが全くダメで、自然とそちら方面には足が向かなかった。どのくらいダメかというとロサンゼルスのディズニーランドホテルに3泊ほどしながら、とうとうディズニーランドには入らなかったというくらいダメなのである。それでも娘たちが生まれて人並みの父親になりたいと思って、2度ほど禁断のディズニーランドには行ったものだが、今回は折角なので行ったことの無いディズニーシーの方に行ってみた。(そう言えば、巨人の星で一徹が星雲高の監督になる時、親子の縁を切るから、その前に父親らしいことをってなもんで・・・飛雄馬を遊園地に連れて行く。発想が貧困かもしれないが、今も昔も人並みの父親と言えば遊園地なのかもしれない 笑) 長女は、きっと次に浦安に出かける時は友達と行くのだろう。おそらく父親とディズニーランドはこれが最後だ。逆にそうじゃなくては困るし・・・(2013,3,29)

03/23 飛鳥II、花見の横須賀走水水源地から

飛鳥II、横須賀走水水源地開放:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

桜が咲いてしまったので3月29日から4月7日の予定で開放される筈の横須賀走水水源地、一週間繰り上がって今日から開放になったので弁当持参で出かける。今年は寒かった後に急に咲いてしまったせいか、はたまたこの開放は10年ほど前からになるのだろうか、幾分傷んだ桜や花のつかない枝も見られるので、花の時期だけ根を踏まれるのが宜しくないのか、花の色が白かった。それはそれとして・・・今年は飛鳥IIがおまけでついてきてご機嫌である。

おとといは客船アマデアが横浜入港、昨日は飛鳥IIが入港、僅か数時間だったが横浜大桟橋では旧飛鳥のアマデアと飛鳥IIが並ぶシーンを見ることが出来た筈だ。昨夜は20:55前後に浦賀水道を行くアマデアを見送ったが、今日は11:00の予定で飛鳥IIが出港、折角近くに見られる走水にいるので飛鳥IIを今か今かと待つ。通常横浜出港から1時間ほどで浦賀水道だが、出港がやや遅れたのものか走水水源地沖浦賀水道通過は12:40過ぎだった。しかし・・・僕の影響ですっかり娘たちも船ウォッチャーになってしまった。まあ、悪くはない(笑)

気づいた人も居れば居なかった人もいたが、それでも飛鳥IIのような船が通ると、不思議なことに景色が一瞬明るくなる。船のオーラって好きだなぁ・・・(2013,3,23)

03/21 客船アマデア(AMADEA 元・飛鳥)

客船アマデア(元・日本郵船飛鳥):店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

客船アマデア(AMADEA)が本日横浜に寄港。入港は遅れて、仕事からちょくちょく目を上げて窓外を見やりつつ、観音崎・東京湾海上交通センターのライブカメラや大桟橋のライブ映像をチェック(おまけにアマデアのライヴトラッキングまで見て、房総半島を入ったところから追って・・・現代の技術はすごいなあ、最近防犯カメラが犯人逮捕に大活躍だが・・・こりゃあいよいよ悪いことはできない・・・笑)、娘達も「来ないねぇ、来ないねぇ・・・」  16:20、約3時間半遅れ程でやっと浦賀水道を見やる仕事場よりアマデアを眺める。今更言うまでもないことながら、アマデアは1991年に三菱長崎造船所で竣工した日本郵船のクルーズ客船、(初代の)飛鳥である。日本郵船が客船事業に復帰したのは1990年のこと。氷川丸が退役して北太平洋定期航路を閉鎖、合わせて貨物船の乗客サービス(貨物船では12名以下の乗客サービスができる)も含め客船事業から完全撤退したのは1960年のことだった(そうである・・・というのは、僕はまだ生れていない)

客船事業への復帰といっても、定期航路はもう存在しえない訳で、子会社クリスタル・クルーズ社を設立、責任者となったのは後に日本郵船博物館長もつとめられた故・竹野弘之さんである。北米市場に投入したのはクリスタル・ハーモニー、日本市場へは飛鳥、いずれもラグジュアリー・マーケットの位置づけで、クルーズ客船事業への参入は見事に成功した。この辺の事情は成山堂書店“タイタニックから飛鳥IIへ”(竹野弘之著)に詳しい。

北米で3隻体制まで進捗するが、3隻体制によってやや消席率が落ちたこと、日本では逆に飛鳥が満席気味だったことが重なり、北米向け第一船クリスタル・ハーモニーを日本に引き揚げ改装したのが飛鳥II、初代の方の飛鳥は2006年2月に一旦運航停止され、ドイツのフェニックス・ライゼン社に売却され三菱重工横浜製作所で改装、翌3月に改称してアマデアとして再デビューした。以後、バルト海のクルーズ客船として運用され、横浜へは2007年、2012年に寄港、今回で改称後三度目の凱旋帰国となる。今回は、横浜、清水、大阪、別府、鹿児島、名瀬、那覇、石垣島と、まるで日本縦断で飛鳥を各地で眺めることができそうだ。(2013,3,21)

03/04 横浜新港9号岸壁

コスモワールド観覧車より横浜港:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

昨日は、当家に義姉を加え総勢5人、Aチーム(義姉+長女)とMチーム(僕+女房+次女)の二チームに分かれて横浜散歩。義姉は横浜に土地勘がある方ではないので、関内駅で簡単にブリーフィング。最初から預けることにしていたので、義姉は長女のために横浜のガイドブックまで買い込んで勉強してくれたらしい。最後は元町で落ち合うことにしていたので、一応オススメとして伊勢佐木町の有隣堂スタートで日本大通り、大桟橋、山下公園のルートを説明すると・・・「男の人って大変だったのねぇ・・・ホントに苦労がわかったヮ」 そうだろそうだろ、皆同じだろうが僕なんか寝ないでデートコースを考えたもんである。それでも今のようにネットがあるわけではないから、行ったところに不測の事態があったりするわけで、そのためにバックアップも考えて・・・涙ぐましい努力の割に・・・実りは少なかった(笑)

人生は一度こっきりだから「何でもこの目で見てやろう」という気持ちは大切である。ネット時代になって「あ、それ知ってる」っていうのが益々頻繁だが、それだけでは寂しい。暫く前にニュースの見出しにハッとした。“「知っている」が学ぶ心を妨げる ”というものである。何でも興味を持って、調べて、考えて、できることならこの目で見ることが肝要である。

「何でもこの目で見てやろう」が、思うような結果にならないこともある。いまから17〜8年前の丁度今頃、僕は二度目の転職にあたって1週間程の休みをとれたので、思い立って数日掛かりで“浦賀道”の研究をやった。浦賀道は神話にも登場するような古道で、鎌倉から金沢、横須賀、走水、東京湾を渡り房総に至る古東海道の三浦側南端にあたる。現東海道が主街道になったのは江戸時代からで、東海道が藤沢から東上して戸塚へ向かうようになってからも浦賀湊が栄えたので、江戸方面からは東海道を保土ヶ谷で分岐して古東海道南端が浦賀道として使用された。僕が住む周辺では、浦賀道の一部は国道16号よりも良く使う現役の生活道路でもあり、古道を庚申塔やお地蔵さんを頼りに観音崎まで辿って歩いてやろうという計画である。実は・・・江戸時代以降の浦賀道は、馬堀海岸から矢の津坂という現横浜横須賀道路浦賀インターのある方の道が正解(坂本竜馬が浦賀に行ったのもこっちである)だったのだがこれを知らず、お地蔵さんをたどりつつ推測混じりで進んだら馬堀海岸駅前の通りを進んでしまった。これがまた都合良く、突き当たりの右手防衛大学に登る交差点の向こうには淨林寺というお寺、そしてこのお寺を迂回するように急な細い山坂道が付けられており、これを進めば走水のトンネル向こう側のお地蔵さん(これは以前から良く見ていた)に辿りつけるに違いないと思って進む進む進む。実は、郷土史家も浦賀道は散々研究しているが、走水に至る古道の方は今もって調査が進んでない・・・それこそ、その時は神話で走水から東京湾を渡ったという日本武尊にでもなった気分(笑)  すると突然、視界が開けた! 目の前には立派な鉄筋コンクリートの建物が並ぶ並ぶ!?  暫くすると警備員のような人に呼び止められる。「何をしてるんですかっ!。あなたはどちら様ですか?」と問われ、「実はお寺の横からお地蔵さんをたどったらここに出ました。怪しいものではありません。ここはどこですか?」と逆に尋ねる。  「ここは防衛大学です。門まで送りますから、出て行って下さい」  (笑)

昨日の横浜散歩は、長女のAチームに負けてはならじと大サービス。次女をハッピーにするために全力を尽くし(笑)、普段なら考えもしないコスモワールドへ連れて行ってしまった。僕は、高いところが滅法苦手なので乗らなかったが、次女と女房は大観覧車にご満悦である。お土産に撮ってきてくれた写真は大観覧車から見降ろした横浜港。その後、汽車道伝いに大桟橋に行くが、途中遠くに横浜新港岸壁を望むと、先般知人からもらったメールを思い出した。何でも、それはカナコロ(神奈川新聞)の記事で、横浜市が「新港ふ頭の9号岸壁を客船埠頭とする整備の計画。今年は9号岸壁の耐震診断と設計の予算を計上、あらゆる客船の受け入れ体制を強化する」という内容だ。実は9号岸壁と言われても「フムフム」とはならなかったのだが、それは僕だけではなく殆どの人が同じではないかと思う。わからないので調べたら、赤煉瓦の向こう海上保安庁が使っている岸壁から海に向かってもうひとつ左手にあたる岸壁の左っ面が9号岸壁だとわかった。さて、その9号岸壁、赤煉瓦をやり過ごし、Aチームは今いずこと思いつつ大桟橋でおやつ休憩、山下公園の大道芸やらストリートライブを横目に、次女お気に入りの氷川丸の売店を経て元町へ。娘たちのお気に入りの元町YOSHIDAで無事Aチームと再開を果たし喜久屋さんでケーキをいただく。16時解散・・・ で、気になって帰ってきた後に、再度、新港埠頭のことを調べる。幾ら汽車道や赤煉瓦上屋、旧横浜港駅が再整備されたとて、はっきり言って途切れ途切れで往時が偲ばれることはないし、そう思うのは僕だけではないだろう。大体、氷川丸が新港から出港したのは知ってるし、乗客が横浜港駅まで鉄道で行ったのもわかっていて、氷川丸最後の出港・入港の写真もあるが、それが現在の新港のどの部分にあたるのかは、多分現在65歳から上くらいの方じゃないと判らないと思う。

横浜新港・昔と今:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

カナコロで言うところの9号岸壁というのがややこしくて、じゃあ9号以外の岸壁はどこ? と気合い入れて調べると、8号は9号の反対側、その対面は5号4号で海上保安庁であること、みなとみらいの開発で埋め立てが進められたため突堤基部にあたる6号7号10号11岸壁は無くなってしまっていることがわかった。だから数字が飛び飛びで訳がわからなかったのだ。上の写真は現在の横浜新港と横浜新港の竣工当時(大正2年・1913年、現在の赤煉瓦・国営保税倉庫が出来た頃)の平面図、そして現在の写真に竣工図を重ねたもので、赤数字が岸壁(バース)のナンバーである。客船ターミナルがどの部分にどの大きさでできるかは承知しないが、恐らくは8号岸壁も含むこの突堤全体の耐震にしないと意味は成さないはずで、この8号9号岸壁の突堤全体の整備になる筈だ。

さて、調べたついでにざっと言えば、開国して横浜開港、象の鼻ができたものの、これは荷役専門で船自体は沖留めだったし、客船も確か山下側の桟橋からランチを使って乗り降りしていた筈である。この不便を解消するために出来たのが鉄桟橋(大桟橋)だったが、これもバースにすれば4隻分しかない。当時、神戸や大阪は港の整備が急だったそうで、このままでは横浜港の地盤沈下は避けられないとの危機感から横浜財界中心に築港の機運が高まり造られたのが現在の新港である。無くなったものも含めて、1〜11まで11のバースが設けられ、このうち4号を日本郵船太平洋航路サンフランシスコ線、9号を同じく日本郵船欧州線が使用したのだそうだ。ちなみに日本郵船大平洋航路シアトル線は大桟橋のまま、そして外国客船も大桟橋発着だったそうである。戦後、たった一隻になったシアトル線氷川丸は、戦前に浅間丸などサンフランシスコ線客船が使用した現在の海上保安庁大桟橋対面側の新港4号岸壁の発着に変更され、氷川丸の運行停止1960年まで汽車道の終点・横浜港駅から乗船客が乗り降りしたわけだ。今後の客船埠頭を目指して整備されるのは9号岸壁、日本郵船欧州線の照国丸や靖国丸(1930年就航)がここから発着していた。なかなかロマンチックなお話で横須賀市民としては羨ましいところである。古事記や日本書紀の頃からの道があたっりはするんだがなあ・・・(2013,3,4)

02/28 タイタニック II(or タイタニック2 or タイタニック2世)

タイタニック II、タイタニック2、タイタニック2世:店長日記・アートポスター販売・Ocean-Note

昨日はタイタニック IIのことがニュースになっていた。随分前に知人からタイタニックのレプリカが建造されるらしいといった話を聞いてはいたものの気に留めることもないまま昨日のニュースである。で、どれどれと調べると・・・ま、一言で言えば、ニューヨークではちょっとした話題にはなったのだろうが、それは話題になっただけであって、ざっと調べてみると実現の可能性は薄いように感じた。上は発表された3Dレンダリング。

タイタニック IIの計画概略は、101年前のタイタニックと大きさはほぼそのままで、45000トンを65000トンにアップ、外観上は全通デッキの下(旧CデッキとDデッキの間にあたる)に新たにボートデッキを造り救命ボートを降ろせるようにするところが現代風である。一番上部、あのボートデッキにも救命ボートらしきものが描かれているが、ボートダビットまでは見えないので用途不明である。機関はもちろん蒸気レシプロではなくクイーンメリー2などと同じディーゼル電気推進のようだ。予定出力は64000馬力、101年前の方は46000馬力だから総トン数からすれば幾分パワーウェイトレシオは劣るが、水線下ではバルバスバウにするなど造波抵抗は減らされるようなので、発表されてはいないものの20ノット程度の巡航速度は出るかもしれない。だとすれば、クルーズ船としては俊足の方になる。内部装飾は、防火基準が違うので当時のように木材は使えない。その辺がリリースを読んでも良く判らないのだけど、多分防炎仕様の合板を使うのだと読み取れる。図面は公表されていないが、映画のセットで再現したくらいだからメインの見せ場、一等食堂のエントランスホールガラス屋根のドームや大階段はほぼそのまま再現するのだろうと思う。101年前の方は乗客2435名に乗員892名、タイタニックIIの方は乗客2400名に乗員900名でほぼ同じだ。今年、2013年に着工し2016年に就航、処女航海はサウサンプトン・ニューヨークになるのだという。

ということらしいが・・・何だかピンと来ない。まず、これを建造する船会社はブルースターラインという船会社のようだが、もちろんタイタニックのホワイトスターラインとは縁も所縁もなく、また1911年創業の英国のブルースターラインとも名前は同じでも関係がない。もっとも、ホワイトスターラインやレッドスターラインと違って、ブルースターラインは貨物専門で最後はマースクラインの傘下、1998年に消滅しているようだが。このブルースターラインは全く新たに興した船会社であり、まだ・・・運航実績はない。つまり、このタイタニックIIのために作った会社といっていいだろう。造船は中国の造船所が請け負ったそうだが、記者発表された裏で造船所は「まだ契約していないし、2016年竣工は無理」と談話も出ており270m近い船を造る船台もないのだという。

まだ先のこととは言え、客船の運航というのはえらく手の掛かる仕事だ。日本郵船だって、飛鳥で客船事業を再開する時は、ほぼゼロからの再構築だったそうだし、何をもっても人がいない。外航客船の船長から航海士、パーサーからマネージャーまで経験を持つ人材が必要だ。郵船も、かつてのノウハウはあっただろうに、スタッフや航海士たちは外国のクルーズ船に乗って経験を積んでから飛鳥をやったと聞いたことがある。ゼロからの船会社にそんなことが出来るんだろうか・・・まさか、北大西洋横断専門のクルーズ船にするわけでもないだろうし、どこをメインにクルーズするんだろう・・・などなど

一言で言えば「何のためにタイタニックIIなのか、良く分からない」と感じるのは僕だけだろうか?これはレクイエムにも何もなりゃあしないと思う。遊園地にタイタニックのアトラクションを造るのとは訳が違うのだ。別に、僕がお金を出すわけではないし乗りたいとも思えないのでとやかく言うことではないが、出来ることならタイタニックの船名を安易に使って欲しくは無かった。これをやるならばホワートスターラインの事業を引き継いだ現キュナードライン(キュナードはカナダのタイタニック犠牲者の墓地の維持管理もやっているのだ)がやるべきだったのだろうし、仁義的にはキュナードラインにしかタイタニックの船名を使う権利は無いのじゃないかと思う。それと・・・この計画を実行しよとしているオーストラリアの大富豪クライヴ・パーマー氏、以前にやはり飛行船ツェッペリンの復元レプリカをぶち上げて途中で止めたこともあって、パーマー氏が15年近くも粘り強く頑張ってアメリカズカップをアメリカから奪取したアラン・ボンドのようになれるか・・・果てさてどうなることやら・・・ (2013,2,28)

02/11 船に手を振る

横須賀鎮守府、逸見波止場跡20130211:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

今日は建国記念の日。2673年前に神武天皇が即位した日である。日本書紀の真偽の程は誰にもわからないことだが、昨日はフィギアスケート、昔を思えば札幌オリンピックのスキージャンプで日の丸が3つ並べばウルウル。サッカーやボクシングの試合前に君が代が流れりゃ低く口ずさむし・・・それで宜しいのではないだろうか? 日の丸や君が代や紀元節がどうのこうの言うよりも、もっと国民が心ひとつにしてこの国に貢献して、子供達に日本を渡すために足元観て一生懸命励むことが肝要である。

2673年前に出来た国(笑) ニッポンは、歴史こそ古いものの面積は世界61番目の小さな国だ。ところが、領海と排他的経済水域の面積では世界6位、領土と領海に排他的経済水域を足すと世界9位の大国である。日本の現在と未来は海にあるし、船がこの国の命運を握っているかもしれない。

おととい、久しぶりにJR横須賀駅横のヴェルニー公園に出かけた。横須賀鎮守府の逸見波止場跡である。向かい側は米海軍横須賀基地だが、基地内ちょうどヴェルニー公園の向こう岸は海上自衛隊潜水艦の泊地になっていて3隻が泊っていた。今から10年程前、長女がまだ一歳ちょっとの頃に肩車で二人、散歩をしたことがある。その時、ちょうど一隻の潜水艦が泊地から出港していった。甲板には自衛官たちが整列してこっち岸を見ている。「手を振ってごらん」と長女に言った。「これから海に出て行くんだから、元気でね、無事でねって」と付け加える。長女は一生懸命に手を振ったけれど、つれなくも自衛官たちは全然手を振り返してくれなかった。何年か経って、この時のことを、親しかった旧帝国海軍から海上自衛隊と潜水艦乗り一筋で退官された方に話した。「そう言うの、艦長の人格によるんですよ」とおっしゃった。

僕が社会人になった頃はまだ週休二日ではなくて、半分くらいの土曜日は出勤日だった。確か14時が終業だった筈だが、こいつが中途半端で家に帰ると大体5時過ぎくらい、そうなるといつも遊びに行くのは横浜だった。当時の土曜日は20〜21時くらいに家を出ると、環七、246、環八、第三京浜、どれも空いていて丁度良かったのだ。横浜大桟橋は寂れていて、車を停めるのもどこでもどうぞ、先端に停めて夜の海を眺めてサザンかなんかをカーステで聞いて・・・こんなんがオシャレだったのだ。日付が変わる頃になると元町裏通りのカフェバーあたりをウロウロするのだが、確か22時半だったか23時だったか、土曜日は東海汽船の船が大桟橋に寄る。竹芝を出港して横浜でもお客を乗せてから大島に向かうのである。その時間が来ると、僕は大桟橋2階のデッキに上がって、出港する船に手を振ったものだ。いくらかは船のデッキにも人が出てるから、手を振り合うわけだ。誰から聞いたわけでもないのだが、船の出港ってえのはそういうもんだと思っていた。

飛行機に乗ると、空港で飛行機が輪止めを外して滑走路に向かう時に、整備員さんが手を振ってくれる。何でも、日本の航空会社だけの習慣らしいとも聞くが、気持ちのいいもんだ。諸説あって、那覇空港の整備士さんが乗客に「また沖縄へどうぞ」という気持ちで始めたともいわれるが、意味合いとしては「整備は完了したので安心して飛んで下さい」というメッセージのこもったお見送りなのだとか。こうしたちょっとした気遣いは美徳だと思う。先般の日記にも登場した日本郵船関連の元船乗り氏からも聞いたことがある。氏は、ご自身もそうだったとのことだが、部下や後輩たちにも「岸に手を振ってる人がいたら必ず手を振れ。子供を見かけたら必ず手を振れ。そうして、皆、海や船や港を好きになってくれる」と厳しく言い続けたそうだ。

この国は、そりゃあ二千六百何十年やってるかもしれないが、船がなけりゃ半月もやってゆけないのだ。願わくば、船が居て人が見えたなら手を振りたいものだ。その船の安航を祈るおまじないみたいなものだし、例えばそれが大桟橋の外国客船であれば、乗客は「日本っていい国だなあ」と思うだろうし、いわばそんな挨拶は・・・船出を祝い無事を祈る・・・本当にいい国の第一歩かもしれない (2013,2,11)


02/03 横浜散歩・「日本郵船」は黄門様の印籠

日本郵船横浜20130203:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

久しぶりの横浜散歩。氷川丸は塗装工事中なのでパス、石川町から大桟橋、郵船博物館、赤レンガ、汽車道のコースでブラつく。素通りしていた象の鼻、わずか100mばかりの湾曲した突堤だが先端まで行ってみる。汽車道の上から見ても気づかなかったのだが、突堤中央部外側に10mばかり堤防が切ってあるところがあったので眺めると、海面ギリギリに水没した堤防が見える。そこの解説パネルの説明が判りにくい(笑) 以下引用 ”工事中に、大正12年(1923)の関東大震災で沈下したと思われる象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材が発見されたため、一部をそのままの形で保存・展示するとともに復元した石積みにも利用しています” 引用ここまで こちらの頭が悪いのか、これじゃあわからない。何のことはない、「関東大震災で水没してしまった元の象の鼻」である。

日本郵船博物館では現在特別展はやってないのだが、氷川丸の最後の航海、19分のビデオはまだ上映していたので再び見入ってしまう。見終わってから無料サービスのティーラウンジでバナナオーレ(これが滅茶苦茶美味しい 笑)を頂きながらふと展示スペースの天井を見上げるとこれまた見応えのあるクラシカルなしつらえ。○×○×様式と言い切るのは難しいが、外観がコリント列柱を備えた新古典主義:当時の保険会社や銀行がこぞって使った建築様式とするならば、内部は外観に釣り合ったアールデコといったところか・・・この天井高6mものオフィスで日本郵船の社員はどんな風に働いていたのだろう。銀行ならば、やっぱり長いテラーカウンターがあって云々と想像はつくけれど、昭和37年生まれの僕には往時の船会社の雰囲気は想像がつかない。そう物心ついたころには航空機の時代で、船会社というのは近しいものではなかった。

先日、ニュースをチェックしていたら生涯給与の話題が出ていた。僕は偏屈なところがあって、最初の転職時はボーナスを貰わず会社を辞め、二度目の時は役職も給与も下がると判っていてを辞めた。とり返して行ける行ける自信があったし、もっといい仕事をやりたい気持ちに抗えなかったからだ。そんなやり方だから、生涯給与なんて考えたことも無かったし、今も実入りより仕事や生き方を全うする大望でオーシャンノートをやっており、それでもオーシャンノートを愛してくれる家族には感謝している。まあ自分はさておき、その東洋経済新報社のデータである生涯給与の番付を見ると、上の方は放送局がズラリ。おお、そうなんだ! と感心して見ていると37位に日本郵船。それより上には商船三井も川崎汽船、飯野海運も入っている。船会社、うん凄い高給取りなんだ・・・ 

そういえば、昔の上司の御尊父が外航船の船乗りで、決して高級船員ではなかったそうだが、家には外国の珍しいものがゴロゴロしてたし、暮らしも豊かだったと聞いたことがある。かなり古い話だが、二口一雄著”豪華客船の航跡”(S63、成山堂書店)には新人の会計掛、日本郵船の船員としての著者の給与が昭和13年当時、本給55円! 概ね帝国大学卒の初任給と同じくらいで、今の価値に直せばざっと40万円くらいになるではないかと思うので高給である。曰く「当時の一人者、チョンガーでは、実に使いでがあり、親孝行も出来たものである」だったのだそうだ。船員の待遇が手厚いのはもっともな事で、毎日この仕事場から浦賀水道を行く船を見ていて、この国はもし船が止まったら一日たりとも生きて行けないのだと実感するばかりだ。船乗りの社会的地位が高いのは、やはり国力の源泉を船に頼った英国の伝統が由来で、日本でもこれを踏襲している。

長い時間で見ると、船員の待遇が飛びぬけて良かったのは昭和40年頃までだったそうだ。余りに給与水準が高く、国際競争力維持のために外国人船員を使用せざるを得なくなり、日本人船員の給与は他業種に比べ上がらなくなった。つまり、現在の船員の実入りは昔のように良くは無く、他の仕事とそれほど変わらない・・・らしいが、実際には生涯給与番付を見ればやっぱり悪くはない。まあ、この調査資料は陸上勤務の高級事務方も含めて全社員の数字だろうからイコール船員の待遇ともならないのだろうが。

そんな事が片隅に残っている頭で日本郵船横浜支店を見上げると、神々しく見える。大桟橋だって、象の鼻だって、いわば横浜は日本郵船の城下町みたいな風情だったのではないだろうか。横浜の会社といえば日揮が話題だが、日揮よりも日産よりも、今のみなとみらいで船を造っていた三菱重工やフラッグキャリアの日本郵船は、きっとピカピカの時代だったのだろうと、横浜をブラブラしているとそう思う。何でそう思ったかと言えば、もうひとつ面白い話を聞いていたからだ。その方は、日本郵船の関連会社で船に乗っていたのだが、丁度、船に乗り始めたのが待遇の悪くなかった昭和40年前後だろうと思う。何でも、職場はまさに横浜郵船ビルだったそうだが、とにかく給与が良くて、今から思えば若気の至りと頭を掻いておられるが、桜木町まで電車で行くと颯爽とタクシーに乗って、「郵船!」と言うのだそうだ。すると運転手さんは「あっ、郵船さんですかっ」とハッハァッーという感じで敬意を表して下さったのだそうだ。それだけ、横浜では日本郵船のステータスは高いものだった。ちなみに、郵船ビルの事務所に寄らず大桟橋に向かう時は「サウスピアー!」とやるのだそうで、これまた大桟橋をサウスピアーと言うのはごく限られた人々で、それも郵船の関係者が多かったので、やはりタクシーの運転手さんはハッハァッー郵船様となったものだそうだ。

まるでギョーカイ用語だが、旅客埠頭の大桟橋はサウスピアー、貨物埠頭の瑞穂埠頭はノースピアーと呼ぶのだそうだ。何だかカッコいい・・・新しくも古い横浜散歩の雑感であった (2013,2,3)


01/27 客船 エクスプローラー

客船エクスプローラー20130127:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

2013年1月27日AM0840、客船エクスプローラー入港、例によって仕事場より撮影。横須賀沖、浦賀水道北端、中の瀬航路に入航するちょっと前のあたりということになる。横浜大桟橋着岸予定は0930。

余談・・・家人を教会の日曜学校へ送って待ち時間のクルマの中で1992年のアメリカズカップ・ニッポンチャレンジの資料に目を通していると、FM横浜で変なことを言っている。横浜ポートサイドインフォメーションというコーナーでナレータが喋るのだが、入港予定で客船エクスプローラーを言うのは当然ながら、着岸時間が1025だというのである。ハテ・・・大桟橋を離岸出港しても、横浜に向かうにしても概ね横須賀を通過すのは1時間前、1時間後なのだ。間違いなく0840頃に写真を撮ってる訳だし、遅くとも1000くらいには着岸の筈だが・・・横浜まで駈けて行ったとて確かめられないし、今年最初の外国船なのに、釈然としないままである(苦笑)  (2013,1,27)


01/15 帝京大 ラグビー大学選手権四連覇

ラグビー大学選手権は、我が母校、帝京大学の四連覇で幕を閉じた。対筑波大学戦決勝、ニュースでは圧勝、快勝の文字が躍るが、ライブでテレビ観戦している分には、平均体重差8kgによる力任せの試合では無く、国立競技場のフィールド全面をダイナミックに使い切った、正々堂々とした満足感のある内容だったように思う。まずは、頑張った後輩たちに祝意を表したい。
僕が学生の頃は、まだまだ学内でさえラグビー部の存在感は大きいものではなく、トップリーグに自学が入っていることさえ知らない学生が多かった。それは、僕も全く同じことで、帝京大学ラグビー部の存在を知ったのは、後に転籍され、松山大学の法学部学部長になられた現代法がご専門の助教授、田村譲先生の民法の講義によってであった。田村先生はある時、講義時間の大半を使って帝京大学ラグビー部秘話を講義されたのだ。いわゆる40年代私学のひとつである帝京大学は、現在でも恥ずかしながら決して学業優秀な方ではなく、そんな新興大学に伝統を重んずる対抗戦グループに入れてもらえる余地は本来なかった。田村先生が講義で話されたことを要約すればこうである。
「まず、対抗戦グループに帝京が加盟していることはラグビー界の七不思議のひとつである。誰も相手にしてくれなかった帝京の対抗戦グループ加盟を支持してくれたのは早稲田大学であり、逆に絶対反対を唱えたのは慶応大学、その因縁があるため慶応大学とはマッチメークされない一方で、明治と早稲田は新規加盟の帝京と試合を組んでくれた。帝京の指導者は早稲田出身で、華麗なるライン攻撃でバックスが走る早稲田のラグビーを標榜しており、早稲田には勝って恩返しをしたい。バックスの鬼沢(多分、東芝府中に入られた鬼沢氏と思う)は留年しても大学選手権に行こうと覚悟している。だから、皆で秩父宮に応援に行こう・・・」
これを延々と一時間以上に渡って話されたのである。
流石、大学の先生である。話が上手いし説得力があった。田村先生がラグビー部とどうして近しかったのか承知しないが、多分、田村先生は文学部でも法学部でも1〜2年生の集まる一般教養や基礎専門の講義で同じことを力説されていたのじゃないかと思う。僕の在学中はちょうど”赤い旋風”というキャッチフレーズが生まれた赤丸急上昇の時期にあたっていて、当時、大学選手権には対抗戦グループとリーグ戦グループそれぞれの上位4校が交流戦を行い、その勝者4校が進むシステムだった。当時強かったのは早稲田、明治、慶応、日体大で、それまで交流戦までたどり付けなかったのだが在学中の1983年、1984年には対抗戦4位、さらに交流戦でリーグ戦1位の法政に勝ち、大学選手権に進出、確か両年とも平尾誠二率いる同志社に負けたように記憶している。
もう少し解説すれば、対抗戦グループに帝京大学が加盟できたのは、二代目監督の水上茂さんが早稲田出身だったことが大きいと言われており、その早稲田に初勝利して恩返しできたのは、僕の在学中の1983年のことで、交流戦でもリーグ戦1位の法政を破り学内は盛り上がった。また帝京大学の加盟に反対し「新興チームであり伝統校ではないので対戦するに値しない」と対戦を拒否した慶応との初対決は、対抗戦グループが総当たりへと変更された1997年のこと、見事、慶応に勝利し翌日のスポーツ紙の見出しを飾った。
(注:元々クラブマンシップが強いラグビーでは、特に大学クラブ同士は互いのクラブの話し合いでマッチメークが行われていた。つまり、オーガナイザーにより試合が組まれるのではなくクラブ同士の親睦試合と考えれば理解が早い。古き良き時代のアメリカズカップのようなものである。ただし、そうなると強い大学同士はどんどん強くなるし強い選手も集まるが、弱い大学は試合も組めず弱くなる。また学校によって試合数や試合相手がマチマチなので、全国大会進出クラブ決定の都合上、順位を決めなければならない点で不公平が生じることもあった。前出、田村先生の言を借りれば、「なかなか上位に行けず思うように試合も組めない数校が不満を持って飛び出して出来た」のが結成当初から総当たり戦を行ったリーグ戦グループである。ただし、正式には対抗戦グループ、リーグ戦グループというものは存在せず、各校クラブは同じ関東ラグビーフットボール協会に属しており、クラブ同士のマッチメークへの考え方の違いで自然発生的な2つのグループがあるというクラブマンシップに則った解釈がなされている。野球のように正式にリーググループになったのは1997年からで、この年から対抗戦グループも総当たりになり正式に順位が与えられるようになった)
正月には、箱根駅伝で過去最高と同じ4位(最後の早稲田とのゴール争いは手に汗にぎった)し、母校の頑張りは励みになる。僕は何ら母校に貢献することがないことを恥じるばかりだけど、あまり優秀な大学とは言えない母校出身であることを胸を張って言うことが唯一の貢献かもしれない。
ちなみに、2010年に永眠した義父は、旧東京教育大卒(現筑波大学)で、もし存命であればおとといは一緒に互いの母校を応援、観戦でも出来たものを・・・と思いを馳せた (2013,1,15)

01/10 新電子立国

新電子立国:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

まだ、ビデオ鑑賞は続いている。”電子立国・日本の自叙伝”(NHKスペシャル1991年)を見て今更ながら感動したが、そうなれば当然”新電子立国”(同1995-1996年)の方もを見ずにはおれない。題名を踏襲したので旧編・続編なのかと思えば余り関連性はなく、電子立国の方が壮大なるモノづくり物語であるのに対して、新電子立国の方はどちらかと言えば散漫で、8話にも及ぶ大作ながら芯のあるテーマが感じられない週刊誌みたいな物語である。

話はそれるが、先日ニュースで経済三団体合同新年パーティーで出席者に今年のキーワードを書いてもらい放映したものを見た。相変わらず”改革”だとか”革新”みたいな主旨ばかりが並ぶ中、僕が感心したのはトヨタ自動車の豊田章男社長が書かれた”原点”であった。電子立国・日本の自叙伝を見て感じたのがこれで・・・日本という国・民族が敗戦から立ち上がり経済大国に上りつめた原動力って何だろうか? ”モノ作り”である。 使い勝手の良い安価な外国の労働力を頼みにマーケティングゲームをやるようになってからニッポンはダメになった。原点=モノ作り(インタビューではキーワードの説明で自らそのようなことをおっしゃていた)に言及したところ、まさに我が意を得たりであった。

さて、新電子立国の方、一応折角だから全話見たが、実は最初から見たい部分は決まっていた。そう、伝説にもなっている 第5話 ソフトウェア帝国の誕生 -天才たちの光と影- (1996年2月放送)である。冒頭、Windows95の発売の熱狂、そして95年当時40歳だったビル・ゲイツがトヨタ・クラウンのハンドルを自ら握ってマイクロソフトに出社するシーンからお話は始まる。主なキャスト・・・

ビル・ゲイツ・・・マイクロソフト会長
ポール・アレン・・・マイクロソフト共同創業者
西和彦・・・元マイクロソフト副社長
ゲイリー・キルドール・・・元デジタルリサーチ社長、MS-DOSの元とも言われるOS、CP/Mの開発者
ティム・パターソン・・・MS-DOSのベースとなった86DOSの開発者
スティーブ・ジョブス・・・アップルの共同創業者、出演拒否のため写真のみ
アラン・ケイ・・・今日のPCの原点、ゼロックスのワークステション試作機ALTOの開発者

物語りのヤマ場はIBMが急遽PCを開発しなければならなくなったところだ。簡単に書けば・・・CPU=マイクロプロセッサの生産成功でコンピュータの製造がオープンになったことでソフトウェア開発競争も始まることになる。アップルのAppleIIは初の量産型マイクロコンピュータとして大成功、一般ユーザーを想定せずに開発を行っていたIBMは急遽AppleIIに対抗できる商品の開発を決定する。ハードの量産にメドはついたもののOS開発で手が詰まったIBMはゲイリー・キルドールにCP/Mのライセンス契約を持ちかけるも交渉は不調、マイクロソフトに打開策を打診する。当時OS開発をしていなかったマイクロソフトは、ティム・パターソンが開発したCP/M同等の86DOSを50000ドルで買い取り、IBM用にMS/DOSに作り直して大成功・・・一方、1970年代、ゼロックスが次世代オフィスソリューションを見据えた商品開発の中で作った、今日的PCの基礎といえるGUIを備えたALTOに目を付けたのがスティーブ・ジョブス。ゼロックス役員会はALTOの商品化を却下したものの、GUIシステムはアップルのLisa、続くMachintoshiで開花して一気にPC時代の扉を開けることになる。このGUIを取り入れ、巧みなライセンス戦略で世界を席巻することになるのがWindows・・・・・・・・

と、まあ500文字以内にまとめるとこんな感じだが、何せジョブス氏を除けば全部本人出演である。キルドール氏に至っては当インタビュー収録の2日後に急逝している。世紀のチャンスを逃したといわれるキルドール氏がゲイツ氏を批判、キルドール氏を評し「かわいそうにねぇ」という西氏・・・余りの生々しさに息を呑む。

調べれば、この辺りのお話では、そちこちで訴訟合戦になっていたようで、それこそ続編を作ってもらいたいくらいだが(笑)・・・ひとつの頂きに、チキチキマシン猛レースよろしく、あの手この手で上って行く男たちの素晴らしいドラマである。勝者はいたのだろうか・・・

3年前に”電子立国・日本の自叙伝”はDVD化されたが、”新電子立国”はその気配がない。しかし、第5話 ソフトウェア帝国の誕生 -天才たちの光と影-  は、こうしてPCの利便性を享受する我々必見の元気の出るドラマで、幸いあちこちの動画サイトで見ることができるので改めてじっくりご覧になることをおすすめしたい。改めて言うまでもないことだが、動画をダウンロードして保存したら違法、ストリーミングで動画を鑑賞すること自体は全く違法性はない。Google動画で検索すれば出てくる (2013,1,10)


01/06 電子立国・日本の自叙伝

電子立国日本の自叙伝:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

年末年始、何もタイタニックの100周年のビデオばかり見ていた訳ではない。もうひとつ、ずっと見直してみたかったのは、ご存知、1991年のNHKスペシャル”電子立国・日本の自叙伝”である。全6話は通しで見れば8時間にもなるから大作である。見たことがない方、見たけど良い話だったよなあ・・・と言う方は機会があったら是非ご覧になることをお薦めしたい。高価だがDVDも販売されているようだし、ストリーミング動画でもあちこちで見ることができる。

僕の実家は電気屋さんだった。物心ついた頃はIC時代が幕あけつつあり、テレビの修理などはすでに街場の電気屋の手に負えなくなっていたが、店の隅には大きな段ボール箱いっぱいに古い真空管があったり、テレビの回路図が山ほど積まれてた。今になって、僕が生まれる前の昔話(真空管時代)を父が語るところによれば「当時テレビは高くて買えるもんじゃなかったけれど、秋葉原で”キット”を買ってきて組み立てると安くできるので飛ぶように売れた。メーカーの完成品には物品税がかかったけれど、キットの組み立て品には掛からなかったから・・・」 

という環境に育ちながら、恥ずかしながら未だに真空管やらトランジスタが一体全体どういう仕事をしているのかと問われると何一つわかりゃあしない。そりゃあ、ラジオの電波が何も小さな音になって空中を飛んでいるわけでもなく、微弱な交流電気信号になっている電波をアンテナで受信して直流化する・・・んだろうなあ(苦笑)くらいは判るけど・・・その直流化=整流するのが真空管やらトランジスタなんだろう・・・貧しくもそのくらいしか知識がない。しかしながら、あの真空管がちっちゃなトランジスタになって、それをくっつけてる基盤全体がICになったのがすごいことだったのは電化製品がゴロゴロしてた店で肌身で感じていた。街場の電気屋さんが出来る仕事は減り、店の作業台でテレビがバラされている光景は段々無くなっていった。

”電子立国・日本の自叙伝”はトランジスタ、IC、LSIといった半導体の世界で、米国のベル研やRCA、WS(ウェスタン・エレクトリック)が凌ぎを削る技術開発競争の中に日本企業が乗りこんでゆき、どうやって世界一の電子立国になっていったかという、言わばニッポンのサクセスストーリーだ。

この番組が放映されたのは1991年だから僕は29歳、輸入家具のセールスマンとして清水建設本社やIBM事業所の案件などで千万単位の荒稼ぎをしていた頃だ。僕は結構なマイペース派で朝は一番早く出勤するけど帰るのも一番早くて、夜遅くまで仕事をやるのは性に合わなかったからNHKスペシャルも見ることができたんだろう。それでも、酒場で過ごすことも多かったから全話を見たのは再放送を待ってのことだったと思う。今から振り返れば、奇しくもバブルが崩壊した年であり、もしかしたら”電子立国・日本の自叙伝”を見たこの時にバブルの夢からさっさと足を洗ってニッポンのモノづくりを見つめ直すべきだったのかもしれない。

そりゃあ、円が360円だったりだとか、朝鮮特需だったりだとか、エクスキューズを言えばキリがないかもしれないが、根本的にモノづくりに賭ける気迫が違う。確かに、全6話の最後にロバート・ノイス(LSIの発明者)が言ってるように、日本が発明したものは全然なくて上手に(本家以上の)真似をしただけかもしれないが、一方でこのドキュメンタリーからは当時のモノづくりに賭ける情熱が伝わってくる。未だに企業秘密だったらしくて正確な数字は出てこなかったけれど、その努力は歩留まりにあらわれており、日米のこの分野における歩留まりには天と地ほどの差があったようだし、それを叶えたのは何も科学者や技術者の頭脳だけではなく、まさに勤勉な工員や創意工夫に長けた町工場の職人技だったことがわかる。

新しい自民党政権は10兆円もの景気刺激策を計画しているそうだが、昔のように道路や橋を作ったところで一時の効果に終わるだろう。景気を刺激するのは大事で、これが上手く需要を喚起してくれれば宜しいが、それに応えるモノづくりに励まねば、需要が喚起されても欲しいものや必要なものがないといった状況になってしまう。今改めて”電子立国・日本の自叙伝”を見ると、何だか元気が出るし、ガンバレニッポンという気分になる。

どことは言わないが、このドキュンメンタリーにも出てきた戦後創業の電器メーカーは判り易い。僕は輸入家具のセールスマンとしてこの会社に出入りさせていただいていた。この会社の当時の本社ビルは受付から一歩裏に入ると天井さえ貼ってなくて配管むき出し、先方の担当者さんは「いつでも工場に戻せるようにしてあるんですよ」と笑いながら教えてくれた。また、この会社では創業者の会長さん以下、社員は全員作業着風のベストを着用していて、まさにモノづくりスピリットを一時とも忘れないような社風は大好きだった。(スティーブ・ジョブスがこのベストを気に入ってアップルでも同じようなベストを作ったのは有名) 高価な輸入家具を買ってはくれたものの、生産設備や材料でないところへの出費に対してはシブチンで(手形のサイトが長かったなあ)、本社外の事業所の役員室へ商品を届けると「こんな立派な椅子はいらねえよ」なんて言われることも良くあったし、お付き合いしていて本当に質素な会社だと感じて、本当に良いものってえのはこんなモノづくりスピリットから生まれるんだと勉強させてもらった。  時は流れて、その10年後・・・この会社は変わっていた。僕は別の会社に移っていたが、その会社から注文があるというので懐かしい思いもあって家具を納める現場を手伝いに行った。10年で・・・玄人好みでどこか垢ぬけないけれど高性能な独自技術の固まりだったこの会社の商品は、誰が見ても美しいデザインをまとって華やかなテレビコマーシャルや広告で目を奪うものになっていた。その裏で、家具を納めに行ってみれば豪奢なオフィス、社員はあのちょっとダサいベストを脱ぎ捨てて流行りのイタリアンスーツの裾をさっそうとはためかし、トレンディドラマ(古ッ)から抜けだしてきたようだった。でも、この豪奢でリッチな費用は・・・製品コストに跳ね返るわけで・・・それは華やかな広告や宣伝も同じこと、肝心のモノ作りは大丈夫なのかと・・・昔を知る僕は密かに眉をひそめたものである。ちなみに、この家具を納めに行って以降、この会社の製品は購入したことがない。さらに10年後・・・この会社は大きな赤字を出して社長交代、ニュースを賑わせた。往年のファンとしては復活を願うばかりである。

いいものを作る。こんな基本的なモノづくりスピリットを思い返さなければ・・・これはこの先のニッポンの浮沈に関わることである。僕たちは先人たちが血のにじむような努力で築き上げた経済大国ニッポンの遺産を食いつぶしてしまったかもしれない。本当に良いものなら、テレビが某国製品に敗れ去ることはなかった筈だ。小手先の販売ゲームに浮かれて、肝心の技術や創意工夫、そしてこの手を使ってモノを作ることを怠った。10兆円の景気刺激策もどうか米百俵の精神をもってやってもらいたいし、今一度、それぞれの持ち場で頑張って子供達に素晴らしいニッポンを渡したいものである。”電子立国・日本の自叙伝”は、今だからこそ、そんなことを強く思わせてくれる元気の出るドキュメンタリーテレビ番組だった(2013,1,6)


01/02 ジェームズ・キャメロンとボブ・バラード

タイタニック ミルビナ・ディーンのサイン:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

あけましておめでとうございます。

僕の仕事に盆暮れ正月はないのだが、流石にご注文も少なく、家人も三日ほど留守なのでタイタニックの映像鑑賞に勤しんだ。去年はタイタニック100周年で大いに期待していたものの、ザッとみたとことろ目ぼしい映像プログラムもないようだったので時間をかけて見ることが無かったからだ。 1985年にボブ・バラード(ロバート・D・バラード)がタイタニックを発見してからもう25年以上、最後の生存者ミルビナ・ディーンさん(上掲写真はミルビナ・ディーンさんのサイン 当社蔵)も2009には亡くなって、いろいろとそれらしい新証言やら秘密は散見されても、”新事実”などもう出ようもなく、100周年といったところでナショジオもディスカバリーもヒスチャも話題性のあるプログラムを組めなかったというのが本当のところだろう。この御三家だけでも今まで数十本のドキュメンタリーを製作しているだろうし、再び3600mの深海まで潜ったところで得るものは少ない。

話は変わるが、一昨年の地デジ移行は僕にとってはエラク迷惑なことで、テレビの録画ができなくなってしまった。元々、映画とかビデオに興味が薄かったせいなのだろうが、ついぞビデオカメラなるものを買ったことがないし、VHSのビデオなんか壊れても不便を感じたことがないくらいだった。多分・・・実際、録画したテレビなんか意外に一度見たら終わりでしょ???(笑) テレビをPCで録画できるようにせいぜい頑張ってあれこれやってたのに、地デジでシステムは全てパー・・・以後、なんとかしようとせず、新しいリモコンの使い方さえ覚えられず・・・でも問題なく生きている。家内もそうだが、ついつい「チャンネル回せ!」・・・今時”回す”チャンネルなんてどこにもありゃあしませんよ。

そんな訳で、BSからドキュメンタリー御三家まで見れる環境にありながら、ケーブルテレビの膨大な番組表を見る根気もなく、見逃したタイタニック100周年は、もっぱらネット動画で見る。実は・・・マークした動画、多分10数本になるけど、まだ見終わってない。ある動画サイトなんかでは45分の動画を見るのに2時間以上かかったりする。サーバーが混んでるのか一旦通しでプラグイン再生してキャッシュしてから再度見ないと見れやしなかったりするのだ。いやはや・・・

さて、まだ最終まで行かぬものの感じていること。とにかく、全般にタイタニックという船と乗客、その出来事へのリスペクトが失せてしまっていることに残念な思いを抱く。例えば、ある日本の放送局がタイアップ翻訳した映像プログラムは酷くて、同時代のモレタニアやルシタニアに比べて古臭い設計であり、タイタニックは船史上無意味だったくらいの趣旨のことをいう。また、別のところではブルース・イズメイを批判されて当然ように扱う。僕が残念に思うのは、多分日本で一番高名な放送局が、事もあろうにそのような偏見に満ちたプログラムを買ってきて翻訳して100周年としたことである。オリジナルの製作者は、そりゃあ思想も違えば立場も違うから一意見として拝聴するばかりだが・・・しかし、この番組を買ってきた放送局の見識には疑念を持つばかりだ。それはそれとして、当段最初に書いたとおり、どの映像プログラムにもリスペクトが感じられず、それは人間の尊厳を軽んじていやしないかというフラストレーションを生じさせてしまった。

そんな中にあって、「やっぱり」と思ったこと。決して内容は面白くないのだが、タイタニック発見者である米海洋学者のボブ・バラード博士の"Save the TITANIC with Bob Ballard"は良かった。それともう一本良かったのは、あのジェームズ・キャメロン監督の"The Final Word With James Cameron"・・・とても大事なことだが、それぞれ共通しているのは”タイタニック”という事実に対する強いリスペクトがその底流にしっかりとあるということだ。非難するのは簡単だけれど、100年前に全長300mの船を造ろうとしたことには率直に敬意を持つべきだろうし、今まさに死の淵が口を開けているところでそれぞれが精一杯とった行動は、こうして平穏に暮らしてテレビを見てる僕たちが批評するにはあたらないと思う。

もう、公開から15年にもなるが映画タイタニックが心を打ったのには製作者にしっかりとした強い意志があったからなのだと改めて感じた次第である。(2013,1,2)


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