04/06 船舶という分野 職人腕を競う

昭和37年の生まれである。昭和も40年代半ばだろうか、インテリアブームのようなものがあって、父も相当に家具というやつを買ったように憶えている。どこで?  デパートである。でも、子供心に何で、家具はデパートで買うのか不思議だった。デパートは、やはり洋服を買うところのように思っていたからだ。三越だって、高島屋だって大丸だって元は呉服屋だし、両親が買い物をしてた伊勢丹だってそっちの出である。

時は下って、僕は学校を終わるとプラスという文具メーカーに就職した。てっきり、文具を生涯の生業にするのかと思いきや、配属されたのは建装部という部署。建装なんていう言葉、それまで聞いたこともない。平たく言えば、置き家具、造作家具から内装、調度品を含めた室内装飾全般を行うことを建装と言う。僕が配属された時のこの部署は間仕切りを売り出し中で、建装業務全般の中でも間仕切り販売に特化しようとした営業部隊だった。今も4月で新入社員たちが苦戦しているだろうが、電話が聞き取れなくて大変だったのを憶えている。「Ru Ru Ru Ru Ru ・・・」、電話が鳴る、「ハイ、プラス建装部でございます!」。「カミサですがぁ」「エッ?」「カミサです」・・・聞き取れない。隣席の上司に尋ねる「カミッサとか何とか言ってます」。「ああ、カミさんね」と電話を代わる。この電話の主、苗字は上入佐(カミイリサ)という珍しい方で、この部署の外部スタッフとして間仕切りの現場実測とか割付、積算などを手伝って下さっていた。新人の営業マンに難しい間仕切りの営業が勤まる筈も無く、暫く経ったある日、先輩の現場立会いの代理で夜遅くまで掛かったら、このカミさんが「小野寺、飲みに行くぞ」と歌舞伎町に連れて行ってくれた。僕にとってはカミさんは、とにかくどんな困難も屁ともせず間仕切りを納めてしまう神様みたいな人だったから、この夜、「カミさんって、どんな風に間仕切り覚えたんですか?」と訊ねた。今は、随分と街中の建物が良くなったからそんな苦労も減ったろうが、当時の建物の床と天井のレベル(水平ということ)はお話にならない。「俺はねえ、長く船舶やっていたんだよ・・・」船舶って何だ?

聞けば、こういうことだ。昔は、船舶の艤装や内装は最高の技術を持つ職人が腕を競っていた。船は一国の技術や文化レベルを世界に示すものだったから、予算もたっぷりあったし、何よりも職人達も最高の現場であるという誇りを持ってやっていたし、船の艤装は造作や間仕切りを納めるにもかなりの経験と実力が無いとできいものなのだそうだ。そもそも、船の床は水平に作られていないし、(今は違うようだが)その水平じゃなく、おまけに動けば”たわみ”が出る船内に間仕切りを建てて、造作家具を作るのは並大抵の技術じゃないそうなのだ。で、その時に聞いたもうひとつの話は、「百貨店の装飾部とか建装部、装工部なんていうのも、元々は船舶の艤装をやるとこだったんだよ」という話だ。

僕もインテリア業界で走り回ると、建築家やデザイナーが商品を指定してくれても、販売は最終的にデパート=百貨店を経由して・・・というケースが多かった。では、なぜ百貨店が室内装飾の請け元となっているのか?現在ではそれが一種の商習慣でもあり、資金力や価格交渉力など合理的理由もあるものの、時間を遡れば呉服屋さんであった百貨店の主力事業のひとつに室内装飾がなっており、それだけの技術力を持っていたからに他ならない。日本に西洋建築が入ってきたものの、当時、西洋流の室内装飾をできるものはいなかった。百貨店は、元々の生業の着衣で得た納入実績を役所や企業に持っており、このコネクションを活かして室内装飾までドメインを広げていったのだ。誰も出来ないから業種を開発したと言っても良い。土木上がりのゼネコンよりは、服飾から来た百貨店に分があったのも事実らしい。こうして、高島屋工作所、三越装飾部、大丸装工部などがホテルや銀行、宮内庁などで腕を競うが、その競争が一段と華やかだったのが船舶艤装・装飾で前述のとおり、納めるのが難しいからとりわけ腕の良い職人だけが選りすぐられた。このような室内装飾の伝統が、昭和40年代のインテリアブームの時のデパートの大きな家具売り場となっていったのである。

何で、こんな事を思い出したかと言えば、古い雑誌広告を集めて額装していることは以前にも書いたが、とにかく様々な広告を見ていて、いかに船会社に文化的な資源が集中していたかを感じざるを得なく、改めて感心するからだ。準備が追いつかず、額装品をリリースしそこなっているが、それをトリビュートしたポストカードシリーズは随分とリリースできた。タイタニックを沈めたせいで、評価がイマイチのホワイトスターラインが英国らしい野暮ったさを持たず、フランスやドイツのバウハウス様式、アールデコ様式の雑誌広告を出している事、フレンチラインは水彩画家マリー・ローランサンにも雑誌広告の絵を描かせているし、戦後もヴィルモットが何枚も描いている。ドイツはナチスの影があるゆえに偏見を持ってしまいがちだけど、生粋のバウハウス流で、現在見ても旧さを感じないほど洗練されたデザインセンスが光る・・・では、同時代の、他業種はどうかと見ると、当時の文化的資源が、香水、ファッション、客船に集中していたことは戦前の雑誌を見ればすぐに判る。戦前、美しいイラストの入った広告はこれらの絞られた業種しかやっていない。僕は、貴重な人類の遺産だと感じている。

ポスターというメディアは、19世紀末にロートレックなどが成功したことが奏して、1920年代には広く利用されていた。雑誌広告より早い。ここでもやはり、今に伝わる名作は旅行、客船、ファッションが圧倒的に多い。つまり、件の腕を競う場はそういったところにあったわけである。とりわけすごいのは、1935年就航のノルマンディーだ。この一隻に船のため、フレンチラインはカッサンドルポール・コランヘルコマージャン・オーヴィーヌの4人にポスターを描かせている。さらにブローシャー(作者不詳)が良く知られるものだけで2種類、一隻の船にこれだけ寄って集って画家たちが腕を競ったのは前代未門だろうし、カッサンドルは遡ること4年、1931年には、これまた歴史的アールデコの名作L'ATLATIQUEで衝撃を与えたばかりで、再び傑作のNORMANDIEを描いたのである。その気迫はいかばかりのものだったろうと興奮を禁じえない。ウチの店は海と船専門だからちょっとマニアックなものだと敬遠される方も多かろうが、僕は普遍的な名作が集結した貴重なデザインの歴史をダイジェストでご覧いただける場にもなっていると強く感じている。(2009,4,6)

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