07/21 ハワイのカラカウア王の話

オセアニック号・カラカウア王訪日:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

通算来店回数では恐らく2位であろうえいねんさん。彼の薦めで、店では湘南ビーチFMをかけていることが多い。ちなみにインターネットラジオでは同じサイマルラジオの中の熱海コミュニティFM、Ciao!も贔屓だ。子供のころに週末を過ごした網代やら熱海周辺の話が懐かしく楽しいし、ローカル番組の良さで70年代のディープな歌謡曲が飛び出したりで楽しい。難点はPCの不具合かどうか、たまにつながらない事で、結局葉山の湘南ビーチFMと半々くらいで掛けている。さて、前々回、ピースボートのポスターの話を書いたが、そのピースボートが使っているオセアニック号(どう考えてもoceanicはオーシャニックと読めるのだがオセアニックのやっぱり表記が多い)と同名の船名が湘南ビーチFMから聴こえてきた。ハワイのカラカウア王が1881年(明治14年)にオセアニック号に乗って来日したという話だ。

以前からハワイの王様が来日して、明治大帝に皇室との縁組を提案したという話は知っていた。船の名前が出たついでに調べてみると、この来日は興味深いもので、大日本帝国にとっては(もっと言えば日本国)史上初めて来日した国家元首だったそうで、カラカウア王の乗ったオセアニックが横浜に入港する際は、港にいた英国やロシアの軍艦は礼砲をならし、王の上陸にあたっては日本の軍楽隊が当時のハワイ国歌を演奏したのだとか。そして、明治大帝との会談でカラカウア王が提案したのが養女にして次のハワイ王になるのが有力とされていたカイウラニ王女と山階宮定麿王の結婚であった。(山階宮定麿王は後の東伏見宮依仁親王、海軍大将元帥)当時、ハワイは経済的にはアメリカに依存しつつ19世紀中ごろには英国やフランスが領有権を宣言するなど列強の抗争に巻き込まれており、特に米国系移民による米国との併合の気運には抗えない深刻な状況にあった。巷で言われるように米国よりも日本との併合を望んだ・・・という事実は大げさな作り話の感があるものの、日本との縁組でカメハメハ大王以来のハワイ王朝とハワイの独立を維持しようとしたことは事実のようだ。明治大帝は米国との摩擦を杞憂してこの縁談を断るが・・・ここからはタラレバ話が多く、もし縁組がなっていたらとなると、歴史学者にいわせれば、少なくともハワイ王朝は延命されたとされているし、奇想転外な話ならいずれハワイを日本が併合して布哇県(はわいけん)が出来て・・・なんてものもある。当のカラカウア王は太平洋地域の島の合衆国を建国することを望み、その支持基盤に日本との縁組を考えたとされている。ハワイ王朝崩壊のクーデターはアメリカ人農場主と海兵隊によるもので、いわばハワイ領有のための自作自演クーデターのような側面もあり、結果を見ればカラカウア王の危惧は現実となったわけである。

で、カラカウア王の乗ってきた船、オセアニック号、これが20世紀初頭から半ばあたりが得意な僕にとってはすぐにピンと来ないものの、なかなか歴史的に意義深い存在の客船で、オーナーはあのタイタニックのホワイトスターラインである。1840年にキュナードが英国の郵便輸送業務を請け負うと、誰もが儲け話には敏感なもので次々とライバルが現れることになる。有力なのは北ドイツロイドライン、インマンラインなどだったが、そこに彗星のごとく現れるのがトーマス・イズメイ(あのタイタニックのブルース・イズメイの父親)だった。彼は有力な出資者を得て、アイルランドのハーランド&ウォルフ社で全ての船を建造することを条件にホワイトスターラインを興した。既に船会社での勤務経験を持つイズメイには、その現場経験をもとにした理想的な客船の構想がきっちりと描かれており、その構想が1871年3707トンの第一船オセアニックとして姿を顕した。この船は、今なら当たり前といいながら、当時は画期的な構造を持っていた。船体の長幅比が10:1でスマートで一等船室が中央にあったことである。外輪船の時代は巨大な外輪が船体中央にあるため一等客室は船尾にあった。(帆船時代の船長公室も船尾だ)外輪船からスクリュー船に変わってもこの伝統を破るものはいなかったところ、イズメイは一番乗り心地の良い中央部に躊躇無く一等船室を移したのである。さらに船体幅一杯のメインダイニング、主機関の効率は高く同クラスの船と比べて石炭消費量はほぼ4割減・・・さらに第二船第三船のブリタニック、ジャーマニックがブルーリボン(大西洋最速横断記録更新に与えられる)ホルダーとなったことでもわかる安定した高速性能、当時”現代客船の母”ともてはやされたのが、このオセアニックだったのである。

このオセアニック、定期航路としてはリバプールとニューヨークで運用されたが、就航から10年後、別の船会社にチャーターされ世界一週航海に出る。サンフランシスコを出港した次の寄港が横浜、カラカウア王はこの時にオセアニックで来日して、明治天皇を会談、その後もオセアニックで世界を回り各国首脳と会談する中でハワイの状況改善の機会を伺っていたのだそうだ。布哇県・・・ハワイ王朝には申し訳なくも、もしハワイが日本だったら・・・イイナ(2009,7,21)

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