12/21 有楽町西武

あと4日で西武有楽町店が閉店すると昼食時のワイドショーで放送していた。子供の頃、テレビの朝日新聞ニュースは怪獣映画みたいな音楽をバックに当時の朝日新聞本社が映るタイトルバックで今でも結構強烈に脳裏に残っている。日劇はまだ子供だったから入ったこともなければ記憶もない。その朝日新聞跡地に1984年開店したのが有楽町西武(現、西武有楽町店)だった。

堤清二さんという方、あれこれ批判するのは簡単だけど、僕は今でもエライ人物だと心底思ってる。セゾンというグループがある種のバブル状態にあってアチコチからの無軌道とも思える巨額の現ナマの突っ込みで成長し続けたのは概ね事実と思うが、さりとてそれだけお金を突っ込んだところで他の誰かがあれだけの消費文化を創り得ただろうか?

当時、中野という土地に住んでいると池袋という場所は生活圏外だったし、今は一般的にどのように捉えられているか承知しないが、それこそ中野が本店だった丸井などは月賦屋さんというイメージが強くて、地元の中野の人は余り出入りしたくない百貨店だったように、月賦割賦ではないものの僕の両親あたりの世代にとっては西武はワンランク下の百貨店であり、多かれ少なかれその影響があったから僕もわざわざ西武に出入りもしなかった。

池袋の西武に出入りするようになったのは高校時代の終わり頃だった。僕の通った都立鷺宮高は西武池袋線沿線に住まう者も多かったから、友達と一緒に遊んだりしてると池袋あたりをうろつく機会もあるようになったからだ。その頃は、丁度、西武鉄道の方でプロ野球の西武ライオンズが誕生して常勝になりつつある時期で、歩調を合わせるように流通グループのセゾングループも赤丸急上昇の時期にあり、池袋をうろつきがてら西武に寄れば子供心になかなかオシャレな百貨店だということは感じた。

就職したプラスという会社は護国寺にあったから、社会人になると自然と池袋で過ごす時間も多くなった。当然、買い物も西武を利用するようになる。輸入家具の営業員になると買い物場というよりはお仕事先として西武を見るようになる。当時のプラスという会社は同業他社に比べて歴史が浅かったから市場開拓は荒野の切り株を一個づつ掘り起こすようなものだった。亡くなられた西沢健さん(元GK社長、若かりしころ池袋の事務所を訪ねて禅問答のようなお説教をしていただいた)などが尽力した先達のハルクや老舗の三越や高島屋を差し置いて、カッシーナやらアルフレックスが輝いていたのはむしろ西武だったから一見してエイギョウに行きたくなるのは人情だ。だが誰も教えてくれる人もいなかったからほとんど飛び込み状態・・・これじゃあ上手くゆかない。

確か、これもいきなり訪問したと記憶しているが、まだ新しかった有楽町西武のスタジオカーサ(これまたセゾン流、まるでアメーバのような存在だった)でカタログを快く受け取ってくれて、その後親しくさせていただいたのが故剣持勇さんの甥子さんの剣持Kさん。とても良くしてくれて渋谷と池袋のカーサのキーマンたる人を紹介してくれた。有楽町西武にはそんな縁で結構足しげく通ったものだが・・・

化粧品やアクセサリーなど女性向けの商品はともかく、同じ女性向けでも服などはそんなに量が置いてあるわけじゃなし、カーサの売り場も”何を”売ってるのか分かりにくかった。まるでパルコのCM状態である。パルコのCMがそうだったようにセゾンのイメージを売っていたのだろうが、そのイメージ作りには大いに成功しても肝心の”売り物”がついてこない。だから・・・わかりにくい。それこそ・・・入場料でもとれば良かったのダ(笑)

結局、堤清二さんが湯水のようにお金を使って素晴らしい”セゾン”を作ったけれど、それを上手に利して”売る”人物がお傍にいなかったということだろう。有楽町西武で外車、保険、果ては不動産まで売る試みは新しかったかもしれないが、日銭にはならなんだ。突っ込むお金が止まれば・・・おわかりの通りだ。

セゾンのシンボルだった有楽町西武も閉店で懐かしい場所がまたひとつ減るが、見渡しても”生活総合産業”なる夢のある言葉も聞かなくなった。どこもかしこも業績業績・・・もっと優雅なお大尽様がいたら面白いがなあ・・・僕には・・・残念がらあまりゆとりがない(苦笑) (201012,21)

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