06/03 横浜お散歩 汽車道

横浜汽車道2012:店長日記の写真:ポスター販売・Ocean-Note

横浜というところに馴染みが深いわけではない。ハマッ子じゃあないし所詮上っ面のものだけなんだろうが、それでも小さな頃から父に連れられ年に何度かは山下公園あたりを訪れていたような記憶があるし、学生時代はカフェバー全盛で元町の山側あたりをうろついたり、伊勢佐木町に玉を突きに行ったりしてたこともあった。

少しばかり縁が深くなったのは、勤め人時代に20年近く一緒に仕事をした上司が生粋のハマッ子だったこと(この人は中区、西区・・・少し譲って保土ヶ谷区あたりの生まれ育ちしかハマッ子じゃあないと言っていた。保土ヶ谷が入ってるのはこの方の現住所が保土ヶ谷区だからで(笑)、ホントは中区、西区の生まれ育ちだけということらしい)、石神井のアパートを引き払って八王子あたりに住もうとしていた僕にこの方が「お前、バーで女性と知り合って・・・お住まいは・・・と訊かれて八王子なんて言えるか?横浜に住め!横浜に」という怪しい助言がきっかけで、生憎横浜は叶わなかったけれど横須賀に住むことになったこと、通勤途上になったこともありランドマークタワーの新築の営業に桜木町に足繁く通ったことなんかが重なって少しは横浜を歩くようになった。

今でも、神奈川以北、磯子以南はそうだが、日本は海際の土地を工場や企業が占有していて、横浜も山下公園あたり以外は港を望む場所が少なかったように思う。現在のようにまるごと海辺のパブリックスペースがドーンと広がるのを見ると随分大掛かりな事業で(観光立地として)都市再開発の優等な事例になると拍手を贈りたい。

子供の頃から不思議に見えた光景は、かつてあった山下公園の高架だった。問うてみれば、父も庄内から上京して仕事を始めたのは昭和30年過ぎだったろうし、そんなに詳しくはなかったろうから「汽車でも通っていたのかな?」といった程度の答えだったように記憶してて僕の疑問は消えずにいた。

昨日は、少しお散歩の範囲を広げて、桜木町から汽車道で郵船博物館、大桟橋に寄ってから山下公園、元町、石川町から帰るコース。電車を降りてから乗るまでブラブラで休み休みではあるものの六時間のお散歩は結構ハードである。

汽車道を歩きながら、はなっから貨物線の名残と思って疑いもしなかったし、それは正解は正解なのだけれど、前回郵船博物館で見た氷川丸最後の航海のビデオを再度ゆっくり鑑賞してたら、氷川丸出港の場面に汽車が出てきて、汽車から乗船客が降りてきて埠頭に歩いている。この辺が知識の乏しさ、僕はてっきり氷川丸が大桟橋から出入港してるんだと思っていたから、大桟橋まで汽車道が続いていて汽車のホームもあったのかと感心した。ところが今の高架の名残を見るとどうしても大桟橋に軌道が引き込まれていたようには思えない。モヤモヤしたまま郵船博物館で一杯サービスされるドリンクのコインを使って、カフェテリアでバナナオーレ(これが美味しい)を頂いていると、壁に飾ってある説明パネルの一枚に赤煉瓦倉庫の横に残る横浜港(よこはまみなと)駅のホームの説明が・・・・

で、結局、昨日歩いたことと、帰宅後調べたことを簡単にまとめると、横浜開港後、イギリス波止場=象の鼻、フランス波止場=山下公園を造ったものの大きな船は係留できず沖留めしかできなかったので鉄桟橋=大桟橋を造った。これでも足りずに造ったのが新港=赤煉瓦パークで、荷役と乗船客の便宜を図るために臨港線を敷いた。これが現在の汽車道で当時、横浜駅(現在の桜木町駅)から汽車道に入り新港四号埠頭に横浜港駅が設けられたのだそうだ。横浜港駅は・・・氷川丸が航海を終えた1960年10月で役割を終えて使われなくなった。郵船の定期船が終わり駅も終わったわけだ。

で、ほぼ同時期、港の拡張は進んでおり山下埠頭が建設された。この貨物を運ぶために延伸されたのが山下臨港線で現在の赤煉瓦から大桟橋まで高架のプロムナードがその一部名残で、2000年頃には撤去されたかつての山下公園の謎の高架へとつながっていた。この山下公園の高架は結構な反対運動で建設が遅れたのだそうで、そうしている間に本牧埠頭や大黒埠頭に貨物も移って行き、自動車輸送に変わっていったことも重なり謎の高架は余り活躍することはなく廃線に至ったそうだ。

とまあ、読んでいただいてもピンと来ないことと思う。そう、大事な事は考古学や僕の仕事の信条ではなけれど”現場主義”。あの辺を歩いてからお勉強しなきゃあピンとは来ないのである。一生勉強とは良くいうけれど、足を棒にして歩けば得ることも多いのである。ちょいと郵船博物館のタダ券を入手したお陰で、船のことから発展して、すっかり・・・にわか郷土史家になってしまった(笑) (2012,6,3)

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