01/15 帝京大 ラグビー大学選手権四連覇

ラグビー大学選手権は、我が母校、帝京大学の四連覇で幕を閉じた。対筑波大学戦決勝、ニュースでは圧勝、快勝の文字が躍るが、ライブでテレビ観戦している分には、平均体重差8kgによる力任せの試合では無く、国立競技場のフィールド全面をダイナミックに使い切った、正々堂々とした満足感のある内容だったように思う。まずは、頑張った後輩たちに祝意を表したい。
僕が学生の頃は、まだまだ学内でさえラグビー部の存在感は大きいものではなく、トップリーグに自学が入っていることさえ知らない学生が多かった。それは、僕も全く同じことで、帝京大学ラグビー部の存在を知ったのは、後に転籍され、松山大学の法学部学部長になられた現代法がご専門の助教授、田村譲先生の民法の講義によってであった。田村先生はある時、講義時間の大半を使って帝京大学ラグビー部秘話を講義されたのだ。いわゆる40年代私学のひとつである帝京大学は、現在でも恥ずかしながら決して学業優秀な方ではなく、そんな新興大学に伝統を重んずる対抗戦グループに入れてもらえる余地は本来なかった。田村先生が講義で話されたことを要約すればこうである。
「まず、対抗戦グループに帝京が加盟していることはラグビー界の七不思議のひとつである。誰も相手にしてくれなかった帝京の対抗戦グループ加盟を支持してくれたのは早稲田大学であり、逆に絶対反対を唱えたのは慶応大学、その因縁があるため慶応大学とはマッチメークされない一方で、明治と早稲田は新規加盟の帝京と試合を組んでくれた。帝京の指導者は早稲田出身で、華麗なるライン攻撃でバックスが走る早稲田のラグビーを標榜しており、早稲田には勝って恩返しをしたい。バックスの鬼沢(多分、東芝府中に入られた鬼沢氏と思う)は留年しても大学選手権に行こうと覚悟している。だから、皆で秩父宮に応援に行こう・・・」
これを延々と一時間以上に渡って話されたのである。
流石、大学の先生である。話が上手いし説得力があった。田村先生がラグビー部とどうして近しかったのか承知しないが、多分、田村先生は文学部でも法学部でも1〜2年生の集まる一般教養や基礎専門の講義で同じことを力説されていたのじゃないかと思う。僕の在学中はちょうど”赤い旋風”というキャッチフレーズが生まれた赤丸急上昇の時期にあたっていて、当時、大学選手権には対抗戦グループとリーグ戦グループそれぞれの上位4校が交流戦を行い、その勝者4校が進むシステムだった。当時強かったのは早稲田、明治、慶応、日体大で、それまで交流戦までたどり付けなかったのだが在学中の1983年、1984年には対抗戦4位、さらに交流戦でリーグ戦1位の法政に勝ち、大学選手権に進出、確か両年とも平尾誠二率いる同志社に負けたように記憶している。
もう少し解説すれば、対抗戦グループに帝京大学が加盟できたのは、二代目監督の水上茂さんが早稲田出身だったことが大きいと言われており、その早稲田に初勝利して恩返しできたのは、僕の在学中の1983年のことで、交流戦でもリーグ戦1位の法政を破り学内は盛り上がった。また帝京大学の加盟に反対し「新興チームであり伝統校ではないので対戦するに値しない」と対戦を拒否した慶応との初対決は、対抗戦グループが総当たりへと変更された1997年のこと、見事、慶応に勝利し翌日のスポーツ紙の見出しを飾った。
(注:元々クラブマンシップが強いラグビーでは、特に大学クラブ同士は互いのクラブの話し合いでマッチメークが行われていた。つまり、オーガナイザーにより試合が組まれるのではなくクラブ同士の親睦試合と考えれば理解が早い。古き良き時代のアメリカズカップのようなものである。ただし、そうなると強い大学同士はどんどん強くなるし強い選手も集まるが、弱い大学は試合も組めず弱くなる。また学校によって試合数や試合相手がマチマチなので、全国大会進出クラブ決定の都合上、順位を決めなければならない点で不公平が生じることもあった。前出、田村先生の言を借りれば、「なかなか上位に行けず思うように試合も組めない数校が不満を持って飛び出して出来た」のが結成当初から総当たり戦を行ったリーグ戦グループである。ただし、正式には対抗戦グループ、リーグ戦グループというものは存在せず、各校クラブは同じ関東ラグビーフットボール協会に属しており、クラブ同士のマッチメークへの考え方の違いで自然発生的な2つのグループがあるというクラブマンシップに則った解釈がなされている。野球のように正式にリーググループになったのは1997年からで、この年から対抗戦グループも総当たりになり正式に順位が与えられるようになった)
正月には、箱根駅伝で過去最高と同じ4位(最後の早稲田とのゴール争いは手に汗にぎった)し、母校の頑張りは励みになる。僕は何ら母校に貢献することがないことを恥じるばかりだけど、あまり優秀な大学とは言えない母校出身であることを胸を張って言うことが唯一の貢献かもしれない。
ちなみに、2010年に永眠した義父は、旧東京教育大卒(現筑波大学)で、もし存命であればおとといは一緒に互いの母校を応援、観戦でも出来たものを・・・と思いを馳せた (2013,1,15)

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