キュナードホワイトスター

キュナードホワイトスターのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, CUNAD WHITE STAR, Robert Roquin 1939

ポスター四方海話 巻七

キュナードラインといえば船名は“クイーン”の印象が強い。2013年現在キュナードの現役客船はクイーンメリー2、クイーンビクトリア、クイーンエリザベスの3隻、まさにクイーンズである。では、1840年の創業からそうであったかといえば、実はクイーンの名を冠した船名は1936年就航のクイーンメリー以降のことである。カンパニア、ルカニア、ルシタニア、モーレタニア、アキタニア・・・キュナードでは、船名の末尾に “−−−ia“ を付ける習慣があり、ジョンブラウン造船所534番船、後のクイーンメリーの船名はビクトリアになる予定だった。ところが534番船の竣工が近付いたある日、時の国王ジョージ5世が造船所を訪問、新船の船名を問われた造船所は「英国の最も偉大な女王の名を戴きます」と答えた。国王は「それは我が妻も喜ぶであろう」と、てっきり妻の皇后クイーンメリーの名が船名になると勘違い、急遽534番船の船名はビクトリアからクイーンメリーに変更され、これ以降船名にクイーンの接頭語を戴くことになったのである。

1921年の米国移民法改正は北大西洋定期航路に大きな影響を及ぼした。欧州から米国への移民は1910年代第一次大戦前がピークで100万人超、移民法改正後は一気に1/3に減少し1920年代後半にはピーク時の15%程にまで減少した。一方で、第一次大戦の戦禍が癒えた1920年代後半には各国北大西洋航路定期客船は船腹更新期を迎えた。しかし船腹不足は一転して船腹過剰の時代になっており、結果的には奇妙な過当競争・・・船腹数を減らして大きく高速な客船を造る戦略から相次いでスーパーライナーが建造されることになる。技術的には蒸気レシプロから蒸気タービンまたはタービンエレクトリック(さらにディーゼルやディーゼルエレクトリックもすでに実用段階にあり、日本郵船の浅間丸級や氷川丸級はディーゼルを採用した)に進化して選択肢も豊富で、これを活用して独、仏、英各国は客船の高速大型化による収益向上の計画で生き残りを図った。534番船では巡航28.5ノット以上、5日以内で欧州・ニューヨーク間を行き、補給を含め一週間で出港、姉妹船2隻での欧米間週航サービスを実現しようとしたのである。28.5ノットで航海することから逆算すると経済性から乗客は約2000名、大西洋の波の波長(平均320m)を考慮し全長は300m、総トン数は8万トンとなり、奇しくもドーバー海峡を挟んだフランスでもほぼ同様のT6建造計画(後のノルマンディー)が進められており、英534番船と仏T6の建造は僅か一ヶ月違いで起工された。ちなみに、一歩先んじたドイツでは、仏・英の計画を知り急遽建造計画中の客船のサイズアップを図るが失敗、ブレーメンとオイローパともに大西洋最速横断記録は更新したものの巡航速度は足りず、旧船を加えた3隻変則サービスに甘んじた。また、仏のノルマンディーの僚船となる予定だったブリターニュは第二次大戦で幻の計画に終わった。

表題のキュナードホワイトスターの社名は現在では使われることがないので簡単に解説する。後のクイーンメリー、ジョンブラウン造船所534番船は1926年頃から計画・設計が始められ1930年に起工した。しかしながら、その建造は1929年の世界恐慌以降の旅客数減少から資金難に直面し1931年には中断することになる。他方、あのタイタニックのホワイトスターラインは、1902年から米モルガン財閥が北大西洋航路独占を企てて設立したIMM(インターナショナル・マーカンタイル・マリーン社)の傘下にあったものの、1922年にはタイタニックの事故を機に海運業への進出に興味を失っていたIMMから英ロイヤルメールラインに売却、さらに1930年にロイヤルメールラインの不正経理発覚・解散から経営が悪化し手づまりにあった。結局、激しく賛否が交わされながらも表面上は新会社キュナードホワイトスターライン設立、及び新会社への950万ポンドの政府融資を骨子とした北大西洋海運法が英国議会で成立、534番船には政府融資のうち300万ポンドが投じられ建造は再開した。新会社への出資比率はキュナードライン62%、ホワイトスターライン38%、これがすなわち事実上の合併比率であった。キュナードホワイトスターラインは、1945年に名目上存続していた旧キュナードラインが旧ホワイトスターラインの持ち分38%の株式を買い取り、1947年には旧ホワイトスターラインが解散、1949年にはキュナードホワイトスターラインと旧キュナードラインが合併し再度キュナードラインに改称しホワイトスターラインの名称は消滅する。両者の経営方針は好対照で、キュナードが万事節約主義だったのに対し、ホワイトスターラインは速度競争には関わらず専ら快適で豪華、手厚い顧客サービスをモットーとしていた。合併が534番船の建造中断に端を発し政府主導で行われた為にキュナードが主役となったものの、合併時にホワイトスターラインからもたらされた手厚い顧客サービスは良き伝統としてキュナードに引き継がれ、現在でもキュナードラインの船内サービススタッフの胸には“WHITE STAR SERVICE”の小さなバッジが付けられ、ポケットにはホワイトスターサービスのハンドブックの必携が義務付けられている。また、キュナードラインはハリファックスのタイタニック犠牲者共同墓地の管理運営を今日でも続けている。

こうした苦難の末に、1936年クイーンメリーは北大西洋定期航路に就航、1938年まで仏客船ノルマンディーと黄金のスピード競争を演じる。そして、サウサンプトン・ニューヨーク間の二隻による週航体制を目指して建造された第一船クイーンメリーは、政府融資のうち500万ポンドを充てられ1936年に起工したジョンブラウン造船所552番船、後のクイーンエリザベスの完成を待つことになる。両船は姉妹船で基本設計はほぼ同じだが起工に6年の差があり、この間の技術進歩でクイーンメリーの3本ファンネルに対し、強制排気の採用で必ずしもボイラー真上にファンネルを必要としなくなったクイーンエリザベスでは2本ファンネル、ベンチレーション設備を改善しボートデッキのL字型通風塔は廃止され外観上スマートな印象を持つ。古来より、キリスト教圏では創造主が6日で世界を造り1日休息した故事に則り7日間を単位とする週単位の生活サイクルが強く根付いていた。1840年に、サミュエル・キュナードは蒸気船を北大西洋に浮かべ英国政府より郵便定期輸送の契約を得た。当時の外輪蒸気船は8.5ノットでリバプール・ハリファックスを2週間+石炭の積み込みに1週間で合計片道3週間・往復6週間、4隻の同型船で3週間ごとの出港による定期航路の運航を始めた。以来、キュナードの定期船は常に週単位のサービスを念頭に整備され、20世紀に入ると3隻での週航、そして創業100年を目前に、それが紆余曲折の政府援助によるものであったにせよ、究極の2隻週航サービスを実現するところまで辿りついた。クイーンメリーのノルマンディーとの華麗なるスピード競争は、集客や母国の名誉には必要なものだったかもしれないが、キュナードにとっては面映ゆいものだったに違いなく、当時として桁外れな性能の姉妹船の目的はあくまで片道5日、二船それぞれが一週間毎に出港できることにあった。

さて、ロクイン(Robert Roquin, 仏?, 1900?-1990?)によるクイーンメリーとクイーンエリザベス姉妹を描いた1939年のポスターである。ロベール・ロクイン(恐らくフランス人であろうと思われるのでロバートではなくロベールとした)というアーティストについては残念ながら詳しいことがわかっていない。アフリカ航空やブルースターライン、フランスの観光ポスター、香水やボールペンの広告、そしてキュナードホワイトスターラインなどの仕事が残ってはいるものの、フランス人アーティストではないかということ以外、生没年も一部文献にクエスチョンマーク付きで記述される程度である。さらに事をややこしくしたのは、大変恥ずかしながら当社でも間違って表記していたのだが、“Robert Roquin”が“A. Roquin”と間違って解釈されていたことである。サインを拡大(下部画像)してみればお判りのとおり、ファミリーネームRoquinのRに重ねてファーストネームのイニシャルが書かれているが、これがAにも見えることで何者かが“A. Roquin”と解釈したことが恐ろしくも今日まで広く伝わってしまっているのだ。確かにAにも見えるが、どちらかと問われればRが正解であろうし、米フロリダ州の図書館でRobert Roquinのデザインしたブルースターラインのブローシャーが保存されいることを突き止め、このブローシャーのサインが同じものだったのでRobert Roquinが正しいと確証を得た。ただしこの図書館でも名前以外の詳しい来歴は不明のままだ。いずれにせよ古いことを調べていれば良くあることで、これがコピーペーストの危うさだ。

キュナードホワイトスターのポスター・ロクイン:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

同じロクインによるキュナードホワイトスターのポスターである。左は中央部分に文字が入らないもの(A)、右は中央部に1938年9月〜10月のセーリングスケジュールが入れられたもの(B)である。同1938年のセーリングスケジュールをチェックすると一致するので間違いない・・・というのは、上記のロクインの名前ではないが、大変曖昧なことが多いのでこのポスターが1938年に使用されたものであることを確認しておく。ちなみに、ロクインのデザインによる1938年1月〜2月のセーリングスケジュール入りのポスター(C)も発見されている。このセーリングスケジュール入りのポスターがいつ頃から製作されるようになったのかは定かではないが、少なくともロクインのデザインで1938年の前半にはポスターC、後半にはポスターBが上掲のもの以外に広く使用されたことが推測されるとともに、1937年以前にはこのようなセーリングスケジュール入りのポスターが使用された形跡がなく、また戦後1947年以降もこのようなセーリングスケジュール入りのポスターはやはり使用されていない。断言はできないが、そのようなポスターがあれば方々の史料や文献が目につかぬ筈がないので、これらセーリングスケジュール入りのポスターは1938年(あるいは1939年まで)に使用されたとさせていただく。さて、お気づきのこととは思うが表題となったキュナードホワイトスターの1939年製作のポスター、ニョーヨークの摩天楼を背景にクイーンメリーとクイーンエリザベスの船首が美しく描かれた大変にデザインクォリティーの高い名作だが、1938年に使用されたAのポスターと似通っている。1938年のポスターAはハドソン川を登りもうすぐニューヨーク・チェルシー埠頭へ到着するクイーンメリーのメリーの写真に門構えのように青い空をイメージした太枠が回され、その枠の中にセーリングスケジュールを後刷りするための空白、上部にCUNARD WHITE STARの社名が入る。方や1939年製作のポスターは摩天楼を背景にクイーンメリーとクイーンエリザベスが船首を並べやはり青い左右の太枠が立てられ、上部にCUNARD WHITE STARの社名が入るがエンパイアステートビルらしき建物が薄くグレーで描かれるものの、やはり中央部は空白である。そう、つまりこの1939年のポスターは1940年のクイーンエリザベス就航後にセーリングスケジュールが入れられて使用される『予定』だったものと考えられるのである。しかし、このポスターにセーリングスケジュールが入れられて使用されたものは存在せず、実際に使用された形跡もないのである。つまり、非常に優れた図案の名作ポスターでありながら“幻のポスター”なのである。

ジョンブラウン造船所522番船は、1936年10月の起工から丸二年、1938年9月27日に進水式を迎えた。当初は国王ジョージ6世の行幸を仰ぐ予定だったものの、欧州の戦雲は急を告げており(この2日後には第二次大戦開戦に影響を及ぼすミュンヘン会談開催)皇后エリザベスと王女エリザベス(後のエリザベス女王)が出席してエリザベス皇后によってクイーンエリザベスと命名されて進水した。(エリザベスが二代続くため皇后という表現を使用したが、英国では国王George VIの妻はQueen Elizabethでやはりエリザベス女王である) 皇后エリザベスと若き日のエリザベス女王出席の進水式の様子は有名なニュース映像として残されいる。命名されたクイーンエリザベスは、艤装工事に入り1940年4月24日にサウサンプトンを出港する処女航海の予定が発表される。しかし、歴史の歯車はクイーンエリザベスの無事な就航を待ってはくれず、1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻し9月4日に英仏が対独宣戦布告、第二次世界大戦が開戦する。すでに仏客船ノルマンディーは8月28日、クイーンメリーは9月3日にニューヨークに入港して運航を停止していた。諜報戦は熾烈でドイツ軍はクイーンエリザベスを狙っていることが判明、ジョンブラウン造船所の戦艦建造の現場都合とも重なり、ジョンブラウン造船所=クライドバンクを一刻も早く離れなければならない状況に置かれる。すでに1939年末までにエンジンには火が入れられ係留のままながら機関の試験を終え、1940年2月26日の大潮を狙って出港することが決定された。2月26日、無事にクライドバンクを離岸、クライド河河口グリーノックでクイーンエリザベスはキュナードラインに引き渡され出港準備、3月3日にサウサンプトンのキングジョージ5世ドックに入渠する段取りで、サウサンプトンの乗組み員用ホテルの予約や船内見学チケットの配布もなされるが・・・3月2日の早朝、抜錨を前に国王キングジョージ6世の特使が来船、国王からの「海上まで開封禁止」と書かれたメッセージ封書を船長に手渡した。船長は、グリーノックを出港したクイーンエリザベスがアイルランド・イングランド間の海峡ノースチャンネルに出ると国王のメッセージを開封、そこには「行き先はニューヨーク」と記されており、イーンエリザベスが行く筈のサウサンプトンにはドイツ空軍の爆撃機が向かっていた。

後にクイーンエリザベス2の機関長となったウィリー・ファーマーは、後にインタビューで「一度も試運転をしなかったにも関わらず、クイーンエリザベスは全く問題がなかった。グリーノックを出るときに左右に三隻ずつ付いた護衛の駆逐艦は一日目に見失った。駆逐艦がついてこられなかったのだ。6日後にニューヨークに入港、駆逐艦はボロボロになって2日後に入港してしたきた。大西洋は相当キツかったようだ」と、語っている。3月7日、脱出行に成功したクイーンエリザベスを迎えたニューヨーク・チェルシー埠頭には、ノルマンディー、クイーンメリー、クイーンエリザベスの8万トン級客船が3隻並ぶ異様な光景が現出することになる。クイーンメリーは3月21日にニューヨークを出港してシドニーへ向かい、クイーンエリザベスは残工事をニューヨークで終えて一人の乗客も乗せないまま11月13日に出港、シンガポールへ向かった。両クイーンズは英国政府に徴用されて兵員輸送の軍役に就いた。ロクインが描いたポスターのようにクイーンメリーとクイーンエリザベスが揃って大西洋航路で活躍する姿は、第二次世界大戦のために幻となり、ポスターに両クイーンのセーリングスケジュールが印刷されて使用されることは無かったのである。(もし、1940年に使用されたなら、恐らく下の画像のようになったことであろう。合成画像である)

キュナードホワイトスターのポスター・ロクイン仮説バーチャル:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

クイーンメリーとクイーンエリザベスは、第二次大戦を生き延びた。英国の首相チャーチルをして「第二次大戦中のクイーンズの活躍は終戦を1年早めた」と言わしめ、戦時中にクイーンズが運んだ兵員は150万人以上に及んだ。大西洋に平和が戻り、クイーンエリザベスは1946年、クイーンメリーは1947年に大西洋定期航路に復帰した。しかし、ロクインの幻のポスターが使われることはなかった。1938年のポスターAやポスターBは、現在でもアートオークションに出品されることがあるものの、幻の1939年製作版の方は本物が出品されることはない。そもそも使用されなかった可能性が高いと考えられる。現在リプリントが製作されているのは、激動の歴史に埋もれていた未使用のポスターから写真製版された複製品が元になっている (了)

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