日本郵船 ゲオルギー・ヘミング

日本郵船のポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, NYK around the world, NYK around the world 1932

ポスター四方海話 巻八

1932年、日本郵船が製作した欧米市場向けのポスターである。もし、ピアニストとしてフジ子・ヘミング女史が注目されることがなければ、このポスターの作者のことは右 下のサインから“Georgii Hemming”という名前だけわかりながら一体全体どういう人かさえわからないままだったかもしれない。もっといえば、Georgii Hemmingはフジ子・ ヘミング女史の父親であるということ以外、殆ど今日に伝わる経歴が不明なのである。

今でこそ、このポスターはフジ子・ヘミング女史の実父であるゲオルギー・ヘミング(ギオルギー・ヘミング)が作者であるということが判っているが、今から10年程前ま では、ポスターのサインは明確に“Georgii Hemming”と描かれているにも関わらず、このポスターの80年余り前の発注元である日本郵船でさえ、正確にゲオルギー・ヘミング のことを認識・表記していなかったように見受けられ、アメリカ流の読み方でジョージ・ヘミングと記載していたと記憶している。フジ子・ヘミング女史が正式の本名を Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemmingと名乗り、これをイングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミングとしたことで、日本の大部分の資料ではジョージはゲオルギーに 改められた。西洋でのこういった名前の違いは良くあることで、英語のジョージは、ドイツのゲオルク、フランス語・イタリア語のジョルジュにあたり、スペルも微妙に違う 。先日もRobertが、アメリカならロバート、イタリアならロベルト、フランスならロベールになることで混乱したことがあったが、“George Hemming”の表記も意図的な理由 があったわけではなく、単純に英語表記の英語読みが生んだ違いなのであろう。ただし、この違いのせいで、“Georgii Hemming”たるフジ子・ヘミング女史の実父がこのポス ターの作者であることが広く知られることはなく、2005年頃に海外の文献でこのことを発見した時には日本で最初の大発見だと思って小躍りしたものだ。

ここで、ピアニストのフジ子・ヘミング女史のことを書いても門外漢の浅知恵になるだけなので避けるが、少ない情報を簡略に紡ぐと、ゲオルギー・ヘミングはロシア系の スウェーデン人、上流階級の出で父親はスウェーデン王族の弁護士を務めていたようだ。ゲオルギーはドイツのバウハウスに留学、卒業後はベルリンの映画スタジオのグラフ ィック部門で働いていた。一方、フジ子・ヘミング女史の実母、ピアニストの大月投網子(とあこ)は大阪の裕福な家に生まれてピアノを学び、ベルリン音楽大学でレオニー ド・クロイツァーに師事していた。ゲオルギーと投網子が出会った時、ゲオルギーは20歳、投網子は27歳だったという。二人が結婚してフジ子が生まれた。1933年、ヒトラー 政権が誕生すると、レオニード・クロイツァーはベルリン音楽大学教授を解任され、投網子がクロイツァーを説得する形でヘミング一家とクロイツァーは日本へ住まいを移し た。東京へ居を移したもののヘミング一家は上手くやってゆけなかったようで、間もなくゲオルギーは一人でスウェーデンに帰国、日本へ帰ってくることはなかった。簡単に その後のことを書けば、クロイツァーは東京音楽大学の教授となり1953年に亡くなるまで日本で暮らした。フジ子・ヘミング女史は、投網子からピアノの手ほどきを受けクロ イツァーに師事、青山学院初等部在学中にNHKのラジオに出演すると天才少女と騒がれ、高等部在学中にコンサートデビュー、東京音楽大学在学中にNHK毎日コンクール入賞、 留学の機会をうかがいつつ音楽家として活動を始めた。ところが、留学の機会を得てパスポート申請をすると父系血統主義によりスウェーデン国籍だったはずのフジ子は、18 歳までのスウェーデン居住実績がないために国籍が抹消されていることが発覚、数年後、無国籍のまま難民認定を受けてベルリン音楽大学へ留学、卒業後欧州での音楽活動を 始めた矢先に聴力を失いプロ音楽家としての活動を断念する。耳の治療を兼ねてスウェーデンに移住、建築家として建築事務所を構えていた父、ゲオルギー・ヘミングを訪ね るが再会が出来たか否かは明らかにされておらず、ただ、ゲオルギーの後妻の助力でスウェーデン国籍を回復、これが40歳のことだった。1995年に投網子の死を機に日本へ帰 国、1999年にNHKが放送したドキュメンタリー「フジコ あるピアニストの軌跡」をきっかけにプロの音楽家としての活動を再開・・・以後の活躍は良く知られたとおりである 。

ゲオルギー・ヘミングと大月投網子:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

ゲオルギー・ヘミングの建築家としての業績は伝わっておらず、少なくともバウハウス卒業生としての国際的で後世に残るようなエポックな業績は伝わっていない。もっと 言えば、バウハウス在校中の講座も特定できず、建築家という肩書はあるものの、それは日本からスウェーデンに帰って以降のことではないかと推測される。ベルリン時代に グラフィックの仕事に就いていたこと、それとこの日本郵船のポスターのデザイン、加えて1933年には国際汽船のポスターもデザインしており、当時の仕事が多数伝わること はないものの、恐らくグラフィックこそがゲオルギー・ヘミングの元々の生業だったのではないかと思われる。(1933年から1934年頃の日本の船会社の作者不詳とされるポス ターで、個人的ながら作者がゲオルギー・ヘミングではないかと考えているものが何点かある。特徴はバウハウススタイルのタイポグラフィーと、まだ欧州でも一般的ではな かった一見エアーブラシにみえるボカシである)

このポスターの右下、“Georgii Hemming”のサインの横には、見間違いようがないほど“'32”と明確に描かれている。1932年の作画であることを示している筈だが、この ポスターを取り上げている海外の資料をあれこれひっくり返すと、「1932年のデザインだが、ポスターとして製作されたのは1934年」との記述を見かける。ポスター外枠には 、リトグラフの印刷所名とTOKYO、つまり日本で製作されたのは確かだが謎は多い。まず、1932年にはゲオルギー・ヘミングがベルリンにいたことで、これが1933年ならば日本 に居住していた年代と合致するが、ゲオルギーの年譜とポスターに入れられた1932年の年代からすれば、ベルリン時代に作画したとしか考えられないのである。無論、ベルリ ンでグラフィックの仕事をしていたゲオルギー・ヘミングが日本郵船の仕事を請け負ってもおかしくはないが、接点と経緯が不明のままになる。それと1934年まで印刷されな かった理由がわからない。この辺りは残念ながら謎だらけのままだ。

さて、このポスターが製作・使用された1932年あるいは1934年頃はどういう時期だったのだろうか? 目を大西洋に移せば米国移民法が改正、移民の数は最盛期1910年代前 半の15%ほどまで激減しながら、一方では第一次大戦中に途絶えていた船腹更新の時期にあたったため、まるで熱病に侵されたように奇妙な乗客獲得競争が激化、客船の大型 化・高速化を推し進め、ブレーメン(1929年就航)、レックス(1931年就航)、ノルマンディー(1931年起工)、クイーンメリー(1930年起工)・・・とスーパーライナーの 就航・起工が相次ぎ客船黄金時代を迎えることになる。こういった世界的な大きな流れの中で日本郵船も新船建造に迫られるが、その直接的なきっかけは東洋汽船のサンフラ ンシスコ線を継承したことだったといわれる。京浜工業地帯の生みの親である稀代の実業家、東洋汽船の浅野総一郎は日本郵船や大阪商船の遠洋航路開設を横目にパシフィッ クメール(PM)の牙城だったサンフランシスコ航路を1898年、当のPMとの共同運航という形で開設することに成功した。しかし、物心両面で浅野総一郎の後ろ盾であった安田 財閥の安田善次郎が暗殺されると、世界的な流れに乗って米国政府の肩入れで新船を投入してくるPM改めダラーラインや英国資本のカナディアンパシフィック(CPL)の猛攻勢 に会い、新船投入が叶わない東洋汽船のサンフランシスコ線は苦境に陥り、東洋汽船は財界・政界の仲介でサンフランシスコ線事業を切り離し日本郵船へ合併・営業譲渡する に至った。結果として、日本郵船はシアトル線や欧州線における東洋汽船同様の新船建造問題に加えて花形・ドル箱のサンフランシスコ線という重荷を抱えることになった。 こうして日本郵船が打った手が、サンフランシスコ線に浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線に氷川丸、日枝丸、平安丸、欧州線に照国丸、靖国丸・・・日本郵船の年間売上 に匹敵する一挙七隻の壮大な新船建造計画だった。浅間丸は1929年に就航、それ以外の6隻は1930年に全て就航、絶対的な需要の大きさの違いから大西洋のスーパーライナーと 船容と速度は比ぶべくもなかったものの、その設備とサービスは太平洋線のダラー、CPLや欧州線の北ドイツロイドを凌駕するものだった。一例を挙げれば、かの有名なチャッ プリンの氷川丸乗船だが、チャップリンは日本を離れて米国に戻る際、ダラーやCPLのチャップリン争奪戦に耳も貸さず氷川丸を選んだという。すでに欧州から日本へ渡る際に 日本郵船の船を乗り継いでいたチャップリンは、日本船の落ち着いた雰囲気と整った設備、心のこもったサービスを最大限に評価していたのである。残念ながら、この1929年 から1930年に就航した新船は氷川丸一隻を残して全て太平洋戦争で失われることになるが、まさに1930年から、厳密にいえば1934年までは日本郵船の客船黄金時代だったとい える。(戦前の日本郵船の客船のうち純客船はサンフランシスコ線の浅間丸級のみで、それ以外は主客従貨の貨客船ということになるが、1934年には日本郵船伝統のシアトル 航路でシアトル港の絹取扱が停止されたので、それ以降は収益面での配船事情は苦しかったと推測される)

ポスターのコピーに描かれている“around the world” “eastward or westward with NYK line”の意味にも一言言及しておきたい。ジュール・ヴェルヌの「80日間世界 一周」が書かれたのは1872年のことだが、ヴェルヌがこの小説を書いたのは英国の名門旅行代理店トーマス・クックが企画した122日間の世界一周旅行の広告を見たことがきっ かけだったといわれる。この1872年の旅行での海路はリバプール・ニューヨーク間、サンフランシスコ・横浜・カルカッタ間、ボンベイ・スエズ間、アレクサンドリア・ブリ ンディジ間、最後の英仏海峡横断でこれ以外は汽車を使った陸路だった。スエズ運河の開通は1869年だったが、このトーマス・クックのツアーではエジプト観光のためか利用 されなかった。パナマ運河の開通は1914年、アメリカンエキスプレス社がキュナードラインの客船ラコニアをチャーターして、1922年から翌1923年春にかけてニューヨーク発 、一船のみでパナマ・スエズ両運河を通過してニューヨークへ戻る世界初の真の世界一周クルーズを催行した。以後、世界一周航海は旅行商品化されていったが定期航路とし ては、1924年に米国のダラーラインが米政府払い下げの貨客船7隻を擁してサンフランシスコを起点とした西回り世界一周航路を開設した。この定期航路は15年間継続されて乗 船券の有効期限は2年間、この間は乗り降り自由で商社員や外交官に好評だったという。“around the world”・・・1930年頃の日本郵船の航路は、横浜を起点として東には太 平洋を横断してサンフランシスコ、シアトルまで、西には上海、シンガポール、コロンボ、スエズ、ナポリ、マルセイユ、ジブラルタルを経てロンドンまで、これで は“around the world”にはならない。実は、日本郵船は1929年にダラーラインに似た2年間有効の世界一周乗船券を発売している。まず北米では、グレートノーザン鉄道、ユ ニオンパシフィック鉄道、カナディアンパシフィック鉄道と提携して北米大陸を横断、大西洋横断ではキュナードライン、北ドイツロイド、フレンチラインなど16社と提携し て乗船券を相互利用できるようにした。これで西からも東からも自由自在に“around the world”“eastward or westward with NYK line”できたという訳である。ダラーと の違いはもちろん、西回りの一方通行ではなく一区間だけでも戻れるところにあった。

キュナードと日本郵船:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

特に1929年に結んだキュナードラインとの提携は強いものだったようである。キュナードは大西洋横断専業のようなところがあり、日本郵船と航路が全く重ならなかったこ とが幸いして良好な関係にあり、1930年頃には余り知られていないものの、CunaradとNYK Lineがダブルネームのように銘記されたキュナード独自製作の世界一周ポスターなど も残されている。また、双方のチケットは北米西海岸であれば日本郵船の支店で、東海岸であればキュナードの支店で相互に販売されていたし、日本でも日本郵船に行けばキ ュナードのチケットを購入することができた。たった一枚のポスターではあるが、世界を股にかけた事情がうかがえるものである (了)

キュナードホワイトスター:ポスター四

方海話 巻七:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note APL・アメリカンプレジデントラインズ:ポスター四方海話 :ポスター販売・Ocean-Note