14. 船舶という分野、職人腕を競う

昭和37年の生まれである。昭和も40年代半ばだっただろうか、インテリアブームというのがあって、父も相当に家具というやつを買ったように憶えている。デパートである。子供心に何で家具はデパートで買うのか不思議だった。デパートは、やはり洋服を買うところのように思っていたからだ。三越も、高島屋も大丸も元は呉服屋だし、両親が買い物をしてた伊勢丹だってそっちの出である。

時は下って、僕は学校を終わるとプラスという文具メーカーに就職した。てっきり文具を生涯の生業にするのかと思いきや、配属されたのは建装部という部署。建装なんていう言葉、それまで聞いたこともない。平たく言えば、置き家具・造作家具から内装・調度品を含めた室内装飾全般を行うことを建装と言う。僕が配属された時、この部署は間仕切りを売り出し中で、建装業務全般の中でも間仕切り販売に特化しようとした営業部隊だった。今も4月で新入社員たちが苦戦しているだろうが、最初は電話が聞き取れなくて大変だったのを憶えている。「Ru Ru Ru Ru Ru ・・・」、電話が鳴る、「ハイ、プラス建装部でございます!」。「カミサですがぁ」「エッ?」「カミサです」・・・聞き取れない。隣席の上司に尋ねる「カミッサとか何とか言ってます」。「ああ、カミさんね」と電話を代わる。この電話の主、苗字は上入佐(カミイリサ)という珍しい方で、この部署の外部スタッフとして間仕切りの現場実測とか割付、積算などを手伝って下さっていた。新人の営業マンに難しい間仕切りの営業が勤まる筈も無く、暫く経ったある日、先輩の現場立会いの代理で夜遅くまで掛かったら、このカミさんが「小野寺、飲みに行くぞ」と歌舞伎町に連れて行ってくれた。僕にとってはカミさんは、どんな困難も屁ともせず間仕切りを納めてしまう神様みたいな人だったから、この夜、「カミさんって、どんな風に間仕切り覚えたんですか?」と訊ねた。今は、随分と街中の建物が良くなったからそんな苦労も減ったろうが、当時の建物の床と天井のレベル(水平ということ)はお話にならない。「俺はねえ、長く船舶やっていたんだよ・・・」船舶って何だ?

聞けばこういうことだ。昔は船舶の艤装や内装は最高の技術を持つ職人が腕を競っていた。船は一国の技術や文化レベルを世界に示すものだったから予算もたっぷりあったし、何よりも職人達も最高の現場であるという誇りを持ってやっており、また、船の艤装は造作や間仕切りを納めるにもかなりの経験と実力が無いとできいものなのだそうだ。そもそも、ブロック工法の今は違うようだが、船の床は水平に作られていないし、その水平じゃなく、おまけに動けばたわみが出る船内に間仕切りを建てたり造作家具を作るのは並大抵の技術じゃないそうなのだ。で、その時に聞いたもうひとつの話は、「百貨店の装飾部とか建装部・装工部なんていうのも、元々は船舶の艤装をやるとこだったんだよ」という話だ。

僕もインテリア業界で走り回ると、建築家やデザイナーが施主の了解をとって商品を指定しても、販売は最終的にデパート=百貨店を経由して・・・というケースが多かった。では、なぜ百貨店が室内装飾の請け元となっているのか?現在ではそれが一種の商習慣でもあり、資金力や価格交渉力など合理的理由もあるものの、かつては室内装飾が百貨店の主力事業のひとつとなっており、それだけの技術力を持っていたからに他ならない。日本に西洋建築が入ってきたものの、当時、西洋流の室内装飾をできるものはいなかった。百貨店は、元々の生業の衣服で得た納入実績を役所や企業に持っており、この実績を活かして室内装飾までドメインを広げていったのだ。誰も出来ないから業種を開発したと言っても良い。土木上がりのゼネコンよりは服飾から来た百貨店に分があったのも事実らしい。こうして高島屋工作所、三越装飾部、大丸装工部などがホテルや銀行、宮内庁などの室内装飾で腕を競うが、その競争が一段と華やかだったのが船舶艤装・装飾で、前述のとおり納めるのが難しいからとりわけ腕の良い職人だけが選りすぐられた。このような室内装飾の伝統が、昭和40年代のインテリアブームの時のデパートの大きな家具売り場となっていったのである。

何で、こんな事を思い出したかと言えば、古い雑誌広告を集めて額装していると、とにかく様々な広告を見ていて、いかに船会社に文化的な資源が集中していたかを感じて改めて感心するからだ。タイタニックを沈めたせいで、評価が低いホワイトスターラインが英国らしい野暮ったさを持たず、フランスやドイツのバウハウス様式、アールデコ様式の雑誌広告を連発している事、フレンチラインは水彩画家マリー・ローランサンにも雑誌広告の絵を描かせているし、戦後もヴィユモが何枚も描いている。ドイツはナチスの影があるゆえに偏見を持ってしまいがちだけど、生粋のバウハウス流は現在見ても旧さを感じないほど洗練されたデザインセンスが光る・・・では、同時代の、他業種はどうかと見ると、当時の文化的資源が、香水、ファッション、客船に集中していたことは戦前の雑誌を見ればすぐに判る。戦前、美しいイラストの入った広告はこれらの絞られた業種しかやっていない。僕は、貴重な風俗文化遺産だと感じている。

ポスターというメディアは、19世紀末にロートレックなどが成功したことによって1920年代には広く市民権を得ていた。雑誌広告より早い。ここでもやはり、今に伝わる名作は旅行、客船、ファッションが圧倒的に多い。つまり、件の腕を競う場はそういったところにあったわけである。とりわけすごいのは、1935年就航のノルマンディーだ。この一隻に船のため、フレンチラインはカッサンドル、ポール・コラン他、当代話題のアーティストに毎年ポスターを描かせた。一隻の船にこれだけ寄って集ってアーティストたちが腕を競ったのは前代未門だろうし、カッサンドルは遡ること4年、1931年には、これまた歴史的アールデコの名作L'ATLATIQUEのポスターで衝撃を与えたばかりで、再び傑作のNORMANDIEのポスターを描いたのである。船舶という分野こそは、芸術家や職人が腕を競った芸術・文化と技術の交差点だったのだろう(2009,4,6)

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