33. 80日間世界一周 1922年の世界一周クルーズ

80日間世界一周・トーマスクック世界一周1872

ジュール・ヴェルヌ著、80日間世界一周を読んだ。恥ずかしいことながら読んだことがなかったのである。思い立って読むきっかけは、客船の世界一周航路について調べごとをしていると、世界一周旅行は英国の旅行会社トーマス・クックが1872年に世界で初めて催行、ヴェルヌはこのトーマス・クックの世界一周旅行の広告を見て80日間世界一周の執筆を思いついたという記述からだった。実は、これはトーマス・クックの世界一周とヴェルヌの80日間発表が同年だったための俗説で、ヴェルヌはトーマス・クックが広く世界一周旅行の募集を始めた1872年5月より前から執筆を始めていたし、西回りと東回りの違いもあれば、経路も若干違う。特に西回りと東回りの違いは重要で、ヴェルヌが読者をはめるどんでん返しのトリックが東回りの部分に隠されているので、トーマス・クックの旅行とヴェルヌの小説は無関係なのだろうと結論づける方が賢明だ。

好い歳して気恥ずかしいが、80日間世界一周は大変面白く、文庫本上下巻を延べ6時間ほどで一気に読んでしまった。ちなみに、光文社、仏語翻訳家の高野優さんによる2009年の新訳である。さて、そうは言うものの、やっぱりこれは子供の頃に読んでもしんどかったかな・・・と感じた。そもそも、世界一周のことを調べてる途中のことだったわけだし、僕だけかもしれないが、戦後の日本人は明治・大正の先達よりはるかに世界観が小さいから地名や港が出てきても距離感や船の速度はピンと来なくて面白くないかもしれない。現に長女は、呆れるほど本を読む子で、先日もアルセーヌ・ルパンを夢中に読んでいたが、80日間世界一周は10ページほど、まだフォッグ氏が世界一周に出立する前、ロンドンに留まったままでギブアップである。いずれにせよ、いつかは読んでみるかと思っている方には読むことをお薦めしたい。さて、フォッグ氏が80日間で世界一周に挑戦することになる事の起こりは、インド横断鉄道が開通したという記事から80日間で世界一周が出来るか否かの論争からだった。本当は、東インド航路があるのだから、インドを鉄道で横断する必要はないのだが、パナマ運河の開通は1914年のことなのでアメリカは大陸横断鉄道で行かねばならない。もちろん、こちらもホーン岬を回る航路があるが時間がかかりすぎる。ヴェルヌのインド横断鉄道は物語の展開上必要になる挿話であり、物語の思いつきは1869年にスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通したことから得たと推察される。では物語はさておき、当時、現実に催行されたトーマス・クックの世界一周とはどんなものだったのだろう。

トーマス・クックは、熱心なプロテスタントの伝道師にして禁酒論者だったが、1841年の禁酒大会に信徒を大量に送り込みたいがために、列車のチケットを一括購入して旅費を安価にすることを思いついた。この試みは見事に成功を収め、一般旅行者に代わってチケットを手配する世界で初めての近代的な旅行代理店業を創出した。事業は順調に伸張し、10年後のロンドン万博で飛躍、ロンドン万博入場者のうち5%近くはトーマス・クックの顧客で占められることになる。1871年には息子たちが事業に参加して法人化、その翌年1872年に件の世界一周旅行が企画されたのである。このツアーの料金は200ギニー、旅程は222日(資料により122日となっているものもあるが、これは間違い)、1872年7月にリバプールを客船で出発してニューヨークへ渡りナイアガラ瀑布、デトロイト、シカゴ、ソルトレイクシティー、シェラネバタを経由してサンフランシスコからパシフィックメールの客船コロラドに乗船した。アメリカでは伝説の豪華列車プルマンにも乗車し、スー族の襲撃も見られたようである。太平洋を渡り横浜へ到着。日本では横浜、東京、神戸、長崎に寄っているようだが、この年(明治5年)に新橋・横浜間の鉄道が開通したばかりなので、横浜・東京は往復したかもしれないが、神戸、長崎は船で寄った筈だ。P&Oの客船ミザポールで上海、香港、シンガポール、ペナン、セイロンを経由してカルカッタに到着。ここから、ヴェルヌの80日間世界一周よろしくインド横断鉄道でベナレス、アグラ、デリーを経由してボンベイ(現ムンバイ)へ到着、スエズまでP&Oの船で行き、カイロ、エルサレム、ダマスカス、バールベック、ベイルート、コンスタティノープルを経て(この辺りが鉄道か船かはっきりしない。いずれ機会があったら勉強するつもり)、欧州を鉄道で横断、英仏海峡を渡って英国に戻るというものだった。トーマス・クックのツアーは、ヴェルヌの80日間世界一周が物語としての早回りへの挑戦だから、本質的にちがっていた。ちなみに、この旅行にはトーマス・クック本人も同道したようである。

鉄道と船を乗り継ぎ、いかにも大変そうで、僕ならばひとつの船室に落ち着いて世界一周したいものだ。スエズ運河の開削に成功したレセップスは、続いてパナマ運河の開削にも挑戦した。これは失敗するものの、パナマ運河は米国によって1914年開通した。いよいよ、船に乗ったままで世界一周することができるようになった。時は・・・第一次大戦開戦の頃である。世界一周どころか、あちこちにUボートがいる訳で通常の航海もままならず、第一次大戦が終わり欧州が戦禍から立ち直り始めた頃からやっとパナマ運河の本格的利用が始まる。1921年には米国移民法が改正され、米国への大量人口移動が止まった。客船は・・・余った。船主が三等客ではなく観光客へ目を向ける時代がやってきたのである。アメリカン・エキスプレスと聞けば、僕も含めて多くの人がクレジットカードの会社だと思うことだろう。アメリカン・エキスプレスのルーツは運送業で、この輸送網を活かした旅行代理業とトラベラーズチェック(TC)の発行で世界的な企業に成長してゆく。TCのために世界中に構えた出先は旅行者サポートセンター的な役割を担うことになる。TC発行は1841年のトーマス・クックが世界初だったが、50年遅れで世界2番目に発行したアメリカン・エキスプレスは、ドル紙幣程度の大きさの使い勝手の良さで、小切手然としたトーマス・クックのTCを追い抜き世界トップになり、TCと旅行代理業を複合した世界的総合旅行業として発展する。やがて、プラスチックのクレジットカードの時代が到来すると、TCで培った「信用」のノウハウを活かしご存知のとおり世界有数のクレジットカード会社となってゆくのである。客船による初めての世界一周航海は、このアメリカン・エキスプレスによって募集された。1922年のことである。

1922アメリカンエキスプレス世界一周

このアメリカン・エキスプレスによる世界初のスエズ・パナマ両運河を利用する客船による世界一周には、416名の米国人観光客が参加、使用された客船は1922年リバプール・ボストン線に就航したキュナードのラコニアだった。1922年11月21日、ラコニアはニューヨークを出帆、以後主な寄港地はハバナ、コロン(パナマ運河)、サンフランシスコ、ホノルル、横浜、神戸、大連、上海、基隆、香港、マニラ、ジャカルタ、シンガポール、ラングーン、カルカッタ、コロンボ、ボンベイ、スエズ(スエズ運河)、アレクサンドリア、ナポリ、モナコ、ジブラルタル、1923年3月30日ニューヨークに戻った。約130日間の世界一周である。さて、エルナー・フェルプスさんによって書かれた、この世界初の世界一周クルーズの貴重な乗船記が米国某大学のライブラリーに残されている。全部読むのは時間を掛けてやってみたいと思っているが、なかなか結構なボリュームなので、たまたまタイピングされている1922年12月28日から1923年1月2日の日本滞在記を引用する。以下引用

Dec. 28; Landed at 8.p.m. and went by rikisha thru Theater Street before going to the geisha dance at the Grand Hotel at 9.30 p.m.
Dec. 29; Left by auto at 8.15 for Kamakura via Nigishi, Hommoku and Mississippi Bay. At Kamakura visited first the Dai Butsu and then Kwannon Temple;then the beach back of the Kaihin Hotel. Then lunch at the Hotel-some flirting with the waitresses, then the retrn trip to Yokohama leaving via Hachiman Shrine where a former emperor is worshipped under the title of the god of war. Near he Bund in Yokohama met a very long Chinese funeral proeessiin;passed along the Bund to railway station; left for Tokyo at 1.44 and arrived at 2.45 ; took autos for drive by the Imperial Palace, thru Hibiya Park, to Imperial Hotel, to Shiba Park, whos a visit was made to the Tomb of the Second Tokugawa Shogun;from here past the Parlament buildings, thru Ueno to Asakusa Park ; saw the street of little shops leading up to the Asakusa Temple;returned to Imperial Hotel for dinner; left at 7.30 and 830 for Kyoto.
Dec. 30: Arrived Kyoto 7.30 and 8.30 a.m.:went to Kyoto Hotel for breakfast then by rikisha to Imperal Palace,Nijo Castle,and Nishimura Silk Store before lunch. After lunch to Ishaida San's( Mr.Stonefield) garden;then to Yamanaka( Center Mountain) Art Store; then to Yokoyama(Cross Mountain) Bead and Silk store,then to a damascene shop and a pottery under the name of Kinkozan.
De. 31: By auto to Nara passing thru the Uji tea distriet and stopping at Momoyama(Peach Mountain) the tomb of Mutsuhito, the great Mikado who overthrew the last of the Tokugawa Shoguns in 1868 and reigend until 1912.His reign is known as the era of enlightened government(Meiji), while the present reign is known as Taisho(the era of great rightsousness),and the Daibutsuden,the temple of the Great Budda;took lunch at Nara Railway Hotel,and then returmed by auto to Kyoto. Nigt:By rikisha to the Gion Temple to see the ceremony of lighting the New Year's home fire at the temple and carrying it back to the home.
Jan. 1. By auto to Kitano Shrine;Kinkakuji(golden pavilion) Higashi Hongwanji,the great Buddhist temple,Sanjusangendo,the temple with 33,333 gods in it,and Kiyomizudera, from Whish point we had the great view of Kyoto.Lunch at 11.30 and left at 1p.m. for Kobe.Dinner at the Oriental Hotel in Kobe and off by night express for Shimonoseki.
Jan. 2 Woke at Miyajima in a snow storm.Snow all the way to Shimonoseki.Arrived at Shimonoseki at 9.30 and went on bord ferry at once. Rougher'n Halifax.引用ここまで

少しミスタイプもあるが、難しい英文ではないので翻訳は割愛して、注釈も交えて解説するとこうなると思う。
1922年(大正11年)12月28日、ラコニアは前港ホノルルから横浜に入港。夜8:00に上陸し力車(人力車のこと。人力とか力車と呼ばれていた)で劇場通り、現在の伊勢佐木町を通ってグランドホテルにチェックイン、文脈からすればグランドホテルで芸者ダンスを見たということになる。グランドホテルは、翌1923年、関東大震災で倒壊、再建は果たせずにニューグランドが出来るのは1927年のこと、旧グランドホテルは現在の横浜人形の家がある場所にあった。
12月29日、自動車で、Nigish(根岸)や本牧、ミシシッピー湾(ペリー大佐が来航時に名付けた根岸湾のこと)を経由して鎌倉へ。根岸まで行っているので鎌倉へは金沢から朝比奈を越えて入ったのではないだろうか。大仏(高徳院)とKwannon Temple(観音寺?多分、長谷寺)を見物した後、鎌倉海浜ホテルで昼食。鎌倉海浜ホテルは現在の由比ヶ浜海浜公園の場所にあったジョサイア・コンドル設計のホテルで外国人宿泊客や文化人、華族が集う別荘文化の中心地だった。ウェイトレスをからかったというような記述があるが意味不明。鶴岡八幡宮を経由して横浜に戻る途中で中国人の葬儀の行列を見かけつつ、鉄道駅に向かったようである。1915年、東海道線が開通して現在の横浜駅が開業している。この後、東京に向かうので現在の横浜駅に向かったものと思われる。再びグランドホテルに寄ったようにも思えず、何故、鎌倉から直接鉄道を利用しなかったのかは不明である。13:44発の列車で東京駅着は14:45、車で(1912年にタクシー誕生、takeなのでタクシーではないか)皇居、日比谷公園の横を通り帝国ホテルに入り、再度車で出掛け、芝公園で徳川秀忠廟、上野を通り浅草では仲見世から浅草寺に寄り、帝国ホテルに戻り夕食、19:30にホテルを出て20:30には列車に乗ったものと読み取れる。当時、東京・下関間は下関・釜山の定期船と連絡しており、遠大な話ながら東海道線は、釜山から先をたどればシベリア鉄道を経由してパリ、ロンドンまでを結ぶ東西交通路の一部であった。そのため、欧州豪華列車に劣らぬ特急夜行列車が特別に編成されており、これが俗に名士列車、あるいは編成番号から1・2列車と呼ばれた。後の特急富士である。結局、帝国ホテルでは夕食を採っただけ(あるいはステイでシャワーでも浴びたか・・・)となる。
12月30日、7:30に京都着、8:30には力車で京都ホテルに入り朝食を摂る。再び力車で京都御所、二条城、そして昼食前に西村絹織物店へ寄っている。西村絹織物店は、当時英文でS Nishimura & Coを名乗っていた京都三条通り、京友禅の老舗(創業元治元年、1555年)現在の千總と思われる。S Nishimuraは西村總左衛門を意味する。昼食後、石田さんの庭園に寄り(残念ながら石田さんの庭園は意味不明。記載はないが知恩院に立ち寄っているようなので、ここに石田さんがいたのかもしれない)、山中美術、横山ビーズシルクストアーに寄ったと記されている。山中は、伝説の美術商・山中商会(The Yamanaka Art Galleryまたは、高名なHouse of Yamanaka)のことのようで、粟田口にショールームを構えていた記録がある。横山は明治期に創業、主に外国人向けに古美術を扱っている弁財天町の店だったようだ。京都の最後は京焼の陶家、粟田の錦光山に寄っている。特に記載されていないが京都ホテルに宿泊したようだ。
12月31日、車で宇治を通り、明治天皇伏見桃山稜を見て奈良に向かう。徳川将軍家に大政奉還をさせて明治政府を作り現在は大正に至っていることも書かれている。奈良では東大寺の大仏を見物し、奈良鉄道ホテル(奈良ホテルのことであろう)で昼食、京都へ戻る。夜は力車で祇園に行き八坂神社のおけら参りに行き火を持って帰ったようである。
1月1日、車で北野神社(現、北野天満宮)、金閣寺、東本願寺、三十三間堂(33333体の仏像と記しているが勘違いである。正確には1001体)に立ち寄り、清水寺で京都を一望する。(Whish pointは清水の舞台の意だろうが・・・) 11:30から昼食、13:00に京都を立ち神戸に向かう。神戸のオリエンタルホテルで夕食後、下関に向けて出立。
1月2日、吹雪のなか宮島で目が覚めるとあるが、当時は山陽本線から宮島が見えたのであろうか?下関へは9:30着、釜山行きの連絡船に乗る・・・最後のワンセンテンスは意味不明。この日、記載はないものの列車の食堂車で食事、食堂車の運営は精養軒であった。

いやいや面白い。このラコニアの世界一周ではショア・エスカレーション(上陸地から次の出港地までを陸路でゆくこと)やオプショナルツアーも豊富に設定されていて、日本では横浜から日光に行くオプショナルツアーもあったようだ。フェルプスさんはショア・エスカレーションとオプションを組み合わせ、日本では横浜、東京、京都、奈良、神戸、下関、釜山に渡って京城から北京、1月11日に上海でラコニアに戻ったようである。1922年に始まった世界一周クルーズは、第二次世界大戦がはじまる1939年(シーズンとしては1938年末〜1939年初春)まで、毎年4〜6隻が行い、料金は米ドルで2000〜4000ドルほどだった。世界一周の客船は戦前戦後、ダラーラインの西回り定期航路客船が寄港していたし、日本郵船も米国大陸横断と大西洋横断こそ提携に任せたものの世界一周の乗船券を売っていた・・・さても大正11年のお話であったが、今やベイブリッジをくぐれず横浜に入港できない客船は片手で数えられないほどになった。こりゃあ・・・一種の鎖国状態ともいえるわけで、国家100年の計のためにも、一刻も早くベイブリッジを高くするよう願って止まない (2013,4,7初稿、2015年加筆)

4月8日追記、さいたま市の鉄道博物館で、昭和5年製の特急富士の客車が展示されているとテレヴィのニュース。一世代後のものとなるが、上記、名士列車の実物を見ることができる。展示車両は展望車と呼ばれるサロン車、桃山様式、漆塗りに金箔の内装は外国人観光客を意識したものと解説されていた。公開は6月10日までとのこと

横浜新港9号岸壁【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 パナマの死角 Across the pacific 1942【船と港のエッセイ】