03/01 三菱倉庫江戸橋ビル

三菱倉庫江戸橋ビル:店長日記 Ocean-Note

2月中旬、次女付き添いで三越のサザエさん展を見るために日本橋に行って来た。都営線の日本橋で降りて昭和通りを北に歩くと右手に日本橋郵便局、その北側には日本橋河に沿って日本橋ダイヤビルディングがある。この日本橋ダイヤビルディング、旧三菱倉庫江戸橋ビルにはまるで船のブリッジのような不思議な塔屋が立っているが、ここに三井、住友とともに日本三大財閥にある三菱のルーツを見ることができる。

ここで三菱財閥の委細を認めるより、その類のお話はスノッブな経済小説の方が詳しいので大筋だけ。三井財閥が三井越後屋の量販事業で、住友財閥が銅の精錬事業で大財閥への足場と成したことはすぐにピンと来るが、三菱財閥のそもそもの仕事は何? と問われても一瞬見当がつかないかもしれない。海運業なのである。海援隊の坂本龍馬が暗殺されると、土佐藩御用の海運は岩崎弥太郎が責任者に任じられた九十九商会が請け負った。明治政府は藩営事業を禁じ、やがて廃藩置県、1873年には土佐藩営の九十九商会は岩崎弥太郎の三菱商会へ改組する。これが三菱の始まりである。翌1874年には郵便汽船三菱へ改名、当時の郵便汽船三菱は物流・海運と商亊・代金決済を併せ持つコングロマリット商社のような会社で、西南戦争で物流・輸送、軍需品調達まで一手に手掛けて巨利を得る。1882年、この利益独占に対して反三菱勢力が郵便汽船三菱社に対抗する共同運輸会社を設立、運賃が1/10まで下落する激しい競争の最中に岩崎弥太郎は死去、共倒れ寸前に政府の仲介で両社は合併、日本郵船株式会社が発足したのである。当時の海事事業は明治政府重鎮を巻き込むほど重要だったわけだが、日本で主要都市間に鉄道が開通するのは国鉄発足の1907年以降であり、海運こそが唯一の長距離運送・移動の手段であり、それ故に江戸時代から続く豪商に交じって岩崎弥太郎の三菱が短期間で大財閥の一角を占めるに至ったのである。

少々ややこしいが、九十九商会は三川商会、三菱商会、三菱蒸気船会社、郵船汽船三菱と1874年までに改組改称を重ね、三菱商会の炭鉱部門が炭鉱部・鉱山部となり1918年に三菱鉱業、三菱蒸気船会社の為替局が1880年に三菱為換店(為換は「かわし」と読む。後の三菱銀行)、さらに三菱為換店の倉庫部門が1887年東京倉庫(現・三菱倉庫)として分社設立される。一方、1885年に郵船汽船三菱が海上運輸部門を持ち船もろとも日本郵船に譲渡すると、二代目社長の岩崎弥之助は翌1886年に郵船汽船三菱を三菱社へ改組改称(後に三菱合資、三菱本社 戦後の財閥解体で解散)、一旦海運業を手放したことをきっかけに海からやや陸向きへと事業拡大の方向を変える。1917年に三菱合資の造船部が三菱造船(現・三菱重工業)、翌1918年には営業部が三菱商事、1939年には三菱造船から三菱電機、1937年に地所部が三菱地所として分社設立された。現在の三菱グループでは、三菱商事、三菱重工業、三菱東京UFJ銀行をして御三家と称するそうだが、三菱本体の源流から分社設立された順でいえば以上の通り、日本郵船は旧共同運輸側の人と金はほどなくして細り、実質的に三菱グループの一員に復帰している。尚、東京海上、明治生命、旭硝子、日本光学、麒麟麦酒などは現在の三菱グループの重鎮ではあっても三菱本社から直接独立したものではない。600社余りの三菱グループの頂点に立つ三菱金曜会の会員は28社、三菱広報委員会には金曜会会員の28社を含む39社が名を連ねる。

岩崎弥太郎が大阪から東京に本社を移したのは1874年、東京市日本橋区南茅場町18(現在の日本橋茅場町1丁目14−10の東側、渋澤ビルの駐車場付近)、日本橋川沿い霊岸橋の北側である。1879年頃には安田善次郎から深川小松町と冨吉町のまとまった地所を買入れて、倉庫業を兼業する三菱為換店を設立した。日本橋川沿いから霊岸島、箱崎、深川一帯は、江戸の物流の一大拠点で回漕店・回漕問屋が集積していた。また、同じく幕府御用蔵や各藩御用蔵も多数あったが、明治維新と廃藩置県によって消滅したことで流通物資の保管場所が無くなり商業金融を含む経済システムに齟齬が生じた。必要に迫られて新たに倉庫業が興ってゆくのである。

倉庫業というと一般消費とは距離があって分かりにくいが、内航にせよ外航貿易にせよ海貨業に欠かせないのは倉庫業、回漕業、船主業・船舶運航業である。岩崎弥太郎の言行録で引用される「そもそも、わが社の本務は主に回漕業にあって」という一節があるが、ここで言った回漕業は海貨業全体を指していたと思われる。創業者の意思「本務は主に回漕業にあって」が三菱の事業拡大に反映された一例として、銀行業と倉庫業の創始について書かれたわかりやすい一文があったので引用する。以下引用 − (前略)住友銀行は銅精錬事業のかたわら始めた両替商が出発点。三井銀行は呉服店越後屋の西隣に開店した三井両替店が始まり。富士銀行は両替兼食品小売の安田屋が原点である。(中略)旧三菱銀行は、海運会社が顧客サービスの一環として始めた荷為替金融に源流がある。明治13年に郵便汽船三菱会社から分離独立し「三菱為換店」として営業を開始した。が、同18年、日本郵船が設立され海運が三菱から切り離されたのを機に廃業、従業員の多くは三菱が経営を引き受けていた第百十九国立銀行に移った。明治28年に三菱合資会社に銀行部が設置され、第百十九国立銀行の業務はこれに吸収された。(中略)金融業務とともに分離独立したのが倉庫業務。七ツ倉と呼ばれた三菱の江戸橋倉庫は、東京名所として当時の錦絵にも描かれた。18年に三菱為換店が廃業した際に倉庫業務はいったん郵便汽船三菱に戻されたが廃業、20年にあらためて東京倉庫として設立された。32年には三菱合資の銀行部が全株式を取得。 1918(大正7)年、社名を三菱倉庫に変更し、業績を伸張させていった。 − 引用ここまで(三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年10月号から)

岩崎弥太郎の江戸橋倉庫は三代目広重が錦絵に描いている。三菱倉庫江戸橋ビル大改築の日本橋ダイヤビルディング工事現場には岩崎弥太郎の江戸橋倉庫についての説明が書かれていた。それによれば、岩崎弥太郎の江戸橋倉庫は1876年に蔵所を開設したもので、1880年には仏人レスカス設計監理による煉瓦造2階建7棟が完成(これが上記七ツ倉)、1923年の関東大震災で消失、そして1930年、あの船のブリッジのような塔屋を備えた鉄筋コンクリート地下1階地上6階の三菱倉庫江戸橋ビルが建てられたとあった。この一文には、日本橋川岸をロンドン港のテームズ川に見立てていたらしいとの記述もあった。面白い!昔は1万トンほどの船はテームズ川をロンドンのロンドン港まで上っていた。明治期の日本橋川はどのような港だったか・・・これは別の機会に勉強することとする。いずれにせよ、この昭和5年に作られた船のブリッジのような塔屋は、想像するに初代岩崎弥太郎と海運の三菱に対するリスペクトが直接的に表現されたものである。三菱のルーツが海運業にあることの遺産とも言えるだろう。

三菱に特段の関わりを持ったことはない。せいぜい、三菱銀行に口座があったことと、実家の車がギャランシグマだったくらいしか思いつかない。しかし、三菱コンツェルンの強大さを肌身で感じたことはある。僕が学校を終えて就職した会社は文具・事務機のプラスという会社だった。入社日の出社場所は日本青年館、5日間泊まり込みの研修である。日本青年館の宿泊収容人員は400名ほどだと思うが、プラスは50名ほど、それ以外は全館、三菱重工が新入社員研修を行っていた・・・毎朝6時、全館に大音響が響き渡る。「三菱 三菱 われらの力 三菱 三菱 われらの若さ鋼鉄の強脚は大地を駆けめぐり 理想の翼は空を行く三菱 三菱 われらの三菱」三菱賛歌という歌である。三菱重工の新入社員たちは三菱賛歌を合図にグレーの作業着に着替えて隣の明治公園で勇ましい体操をやる。目覚めの社歌から体操まで、横目に壮観は壮観なのだが、こちらも社会人のスタートでいきなり他社の三菱賛歌では気分は良くない。僕は黙ってられないタチだから人事部に「折角、就職して意気が揚がっているのにモチベーションが下がる!」とクレームを入れた。青年館からの回答は、「何せ9割方は重工さんが使っているので我慢してください」とのこと。ああ偉大なり三菱コンツェルン、社会人になって早々、僕は娑婆の厚き壁に撃沈されたものだった(2015,3,1)

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