05/11 俺たちの勲章

横浜・俺たちの勲章

1875年から1880年くらいの客船にまつわる調べごとに端を発し、世界史概説書をひもといたらブルジョアやらプロレタリアートの類の論述にあふれ、結局マルクスから帝国主義経済と辿らざるを得ず、気づけばまたまたケインズ・・・生来の頭の悪さも手伝って手を焼いている。わかったつもりのケインズ・・・乗数効果を理解していたつもりでも、実際にその「1/(1-β)」の根拠となると甚だ怪しい。100億円の投資が貯蓄性向10%としたら1000億円の有効需要を生む(だからアベノミクスの公共投資の効果が薄いとすれば、貯蓄性向が予想より高いことも推察されるのだろう)ものと「知って」はいても、その本質までは理解していない訳だ。これで情けなくも経済学部卒とは・・・要は頭が悪いのである。「無知の知」ともいうからそれはそれで得るものがあった(泣)と半ば納得しつつ、気分転換を兼ねて久しぶりの横浜。船の断面図で高名な谷井健三氏の原画を展示しているとのことで、オークションで買っている株主優待入館券の有効期限も迫っているので郵船博物館と氷川丸に立ち寄った次第。原画は「船の科学館蔵」となってるものが多く、忘れかけていた船の科学館の行く末も改めて気になるところだ。(特に進展はなく、無期限休館のままだそうだ。東京オリンピック開催に引っ掛けてカジノになるとかならないとかのニュースも聞いたが進展はないらしい。個人的に賭け事には爪の先ほどの興味もないので、やっぱり船の科学館の再開を望む)

ケーブルテレビで見るとはなしにチャンネルと行ったり来たりしてると(昔なら「チャンネルを回していると」となるが、今時のテレビには回すべきチャンネルなんかありゃしない。「チャンネルを回す」は死語である。娘たちとのジェネレーションギャップ大きく、幸い女房の実家には電電公社4型黒電話があって「シックス・セヴン・オー・オー」よろしくダイヤル電話は娘たちも知ってるが、回すチャンネルやらレコードは未体験だし、先日は内蔵マイクで録音できるラジカセの話が出たが、現役でラジオとして活躍してるラジカセはあるものの、内蔵マイクで録音して見せようと思ったらカセットテープが身の回りに一本もありゃしない。物にもよるが、あの内臓マイクの録音というのは良くできていて、マイクを立てて録るよりも上手に録れるものが多かった。ビートルズ以降、譜面なんか読み書きできなくっても音楽家になれるようになったのはテープレコーダーのお蔭で、ラジカセがなけりゃポピュラー音楽もつまらんものだったろう)、例によって太陽にほえろに見入ってしまい、何で昔の刑事ドラマはこんなに面白いんだろうと感心するばかり。ここから、頭の中は連想ゲームで、「昔の刑事ドラマは面白いなあ」→「そう言えば俺たちの勲章って良かったけど再放送しないなあ」→「テーマ曲のトランザムの演奏する拓郎の曲は良かったなあ」と思ったら、トランザムの演奏した「ああ青春」と、あのタイトルバックが頭から離れなくなって、「そういえばあのタイトルバックの映像は横浜だったなあ」→「海岸通りにあったプラス横浜支店の屋上もロケに使ったと聞いたなあ」・・・と雑多なる懐かしい記憶が湧いて来た。

今は、「ルネ・ブランシュ横浜海岸通り」という立派な分譲マンションとなっているが、前に神奈川県警、後ろに神奈川県庁という件の一等地には、かつて僕が勤務した文具メーカーのプラス、その横浜支店があって、この2階フロは 家具関係のショールームになっていた。上司や先輩から聞いた話の繋ぎ合わせなので間違いもあるかもしれないが・・・プラスという会社は文具事務機の問屋だった鈴木商店と今泉商店が合併、千代田文具として神田岩本町で創業した。ただの問屋じゃ面白くないと、スチールロッカーやら書庫を自社ブランドで売ろうってなわけで「プラス」というブランド商号を考案、このブランドマークのシールやらバッジを張り付けてスチール製品を売りまくったらしい。神田界隈 じゃ、リヤカーにスチール家具を積んで朝も夜もなく納めまくったという。いっぱしのメーカーに成長したプラスは文京区音羽に倉庫兼社屋を構えたが、やがて手狭な岩本町を東京支店として残し、本社を音羽に移した。キャッシュフロ ー経営が重要とされて、立派な自社社屋は遊休資産としてマイナス評価される昨今だが、昔は違う。当時のプラスは非上場同族無借金、含み資産経営の典型で、儲かった分はせっせと固定資産購入に回したようだ。現在の主力工場である 群馬県のプラスランド(14万坪=東京ドーム10ケ分)の土地もこの頃にせっせと購入していたようだが、横浜支店の自社ビル入手は銀行筋を通じ政界の力添えも得たことで叶ったと聞く。横浜海岸通りといえば、開国以来の日本の中心地 だったわけで、例えば霞ヶ関やら虎の門あたりの土地がお金があるだけでは買えないのと同じで、あの一等地を得るのは大変なことだったらしく、プラス横浜支店は二人の創業者社長のステータス自慢だったそうである。

僕にとっても思い出深い場所だ。1985年当時の就職協定では、10月1日会社説明会解禁、11月1日選考試験解禁となっていたが、これは有名無実で11月1日には内定通知書を貰った。この内定通知書授与式が横浜海岸通りの横浜支店会議室だった。配属は、横浜ではなく、本社勤務の本社直属営業部門(指揮系統上で、ラインに属さない特殊部隊みたいな営業部門だった)、この先、ひょんなことで人生は大きく変わるのである。そもそも入社前は、せいぜいホッチキスやペーパーパンチでも売って歩くのかと思っていたら、配属は内装工事関係の特殊部隊みたいな部署、この部署がプラスが提携を結んだイタリア・オリベッティの家具を販売する部門に指名されたのだ。で、あろうことか、その担当者に抜擢???されてしまったのである。と言っても、所帯は小さく担当二名、先輩と二人で「あーでもないこーでもない」とやってるうちに仲間が一人増え、営業三名と統括部門、都合6名半で仕事をすすめる。時には原価計算が間に合わず、四人で会社に泊って徹夜で原価計算したりしながら、初回ロットが到着。横浜ショールームの一角にオリベッティのコーナーを構えることが決まり、お披露目の日程が決まったものの、今度は通関が間に合わず、本牧の保税倉庫にトラックで乗り付けて無理やり商品の一部を緊急通関したり、ハイライトはその商品の組み立て。都合一週間、毎朝始発に乗って音羽本社に集合、そのまま車で横浜に行って毎晩12時過ぎまで突貫で組立、連日18時間労働である。あの横浜支店にはそんな思い出があるのだ。

これも確かな話ではないが、聞いたままに書けば、「ルネ・ブランシュ横浜海岸通り」は東海興業が建設を請け負い、プラス横浜支店の4階建て社屋のRCはそのまま、5階以上を継ぎ足してマンションに改築したという。真偽のほどはわからない。ただ、言われてみればどことなく、あのプラス横浜支店の面影があるような気がする。1980年代、神奈川県警はなかったし、郵船博物館も日本郵船横浜支店だった。万国橋より向うは確か入れなかったような気がするし、赤レンガ倉庫は放置されていた。みなとみらいだって1965年に整備計画ができたものの遠大な事業実現の可否は不透明だったように記憶している。今日の赤レンガなんか・・・「俺たちの勲章」のタイトルバックの建物が今に残って賑わうことを誰が想像しただろう。そういえば、大桟橋袂の横浜大桟橋診療所はクローズしていた。風情のある建物だと思っていたが、国土交通省所管の公益法人だったそうだから土地もその筋の持ち物だろう。古臭い建物は風情があるから、耐震さえ大丈夫ならば良い再利用がされるといいんだがなあ。今の大桟橋ターミナルは、やや風情に欠けるし・・・(2015,5,11)

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