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巷のニュースでも散々話題(ニュースステーションでもトップだったなあ・・・)になったのでご存知のとおり、昨日は横須賀市長選挙の投票日、現職で2期目を目指された蒲谷亮一さんが、元横須賀市議の吉田雄人さんに敗れた。僕は、一介の町場の商店主だから政治的な発言は控えるし、我が一票を誰に投じたかを明らかにはしないが、オーシャンノート開業3年、蒲谷市長(任期は7月9日までだから、今はまだ市長さんだ)とは頻繁ではないものの、2回ほどこの横須賀上町の店までお運びいただいたし、負けは負けとしても一言「4年間ご苦労様でした」と申し上げたい。 蒲谷市長に初めてお目に掛かったのは3年前の3月、横須賀市ベンチャー支援事業認定の認定書授与の時だ。(このリンク先ページも削除されるのだろうなぁ・・・)大変、紳士で真面目なお人柄とお見受けしたのが今でも印象に残っている。その年の夏、無事オーシャンノートを開店してしばらくした頃、商店街視察とのことで上町に見えた際には市役所の某氏が気を利かせてくれて、ベンチャー支援事業にかこつけて蒲谷市長の立ち寄る店にオーシャンノートを入れてくれたので、店を市長に披露させていただいた。この時にはわざわざ、お運びいただいたのに手ぶらでお帰ししては申し訳ないことと、ちょっとしたお土産をお渡しした(市長室に飾ってあるはずだが、これもなくなるんだろう)ところ、後日、大変に丁重なお礼状を下さった。気配りにもなかなか長けた方と感じ入ったもの。そして昨年末は、優良商店表彰のためにお見えになった。これは、お得意さんやら友人やらが集まってくれてちょっとしたお祭り騒ぎになってしまったが・・・まさか、その時に蒲谷さんに2期目が無いなんて夢にも思わなんだ・・・ 自民党に民主党、公明党の総相乗り状態、市議40数名のうち30人が支持表明、小泉元総理も全面支援、足元見れば商店会だって基本的には支持・・・これで負ける・・・吉田さんがよほど凄いのか、新聞やテレビじゃあ、さもわかったように解説するが、当の有権者にしてみれば、結果はこうなったものの、何が何だかわからないってえのが本音だろう。先週半ばも、お得意さんのお一方が見えて「今回はわからないんだよ。どうしたら良いかと思って、店をやってる小野寺さんならいろんな情報もあるかと思って来たんだが・・・」なんてこともあった。実は僕自身は、特に迷いも何もなかったが、投票所に行ってから、まさにその間際で迷いに迷った。そんな声は、店のご近所の某商店主さんも同じだったらしく、投票を済ませて店を開けていたら目の前のバス亭に居たその某さんと「難しいねぇ・・・」で盛り上がってしまった。この迷いと難しさの結果が・・・ご存知のこの結果なのだと思う。吉田さんは新市長になられるが、諸手を挙げての支持だとはくれぐれも思われないことだ。吉田さんのマニフェストは横須賀市全戸に配ったと大声で言っているが我が家にも店にも届いていないし、具体的にそのマニフェストのデティールも知らないし、平均的な市民の僕が分かってないくらいだからそこに票が集まったと思うのはいささか僭越というものだ。ちなみに呉東さんのマニフェストは頂いたし、店にもいらしたのでお話もした。蒲谷さんも見えて5歳の次女も親しくお話したし、意外に選挙期間中一番縁が薄く、僕自身、見たことはあっても会ったことのないのは3人のうち吉田さんだけだった。有権者は、僕自身もそうだし、みんな僕の知るところでは迷って迷って・・・たまたまギリギリの微風が吉田さんに吹いただけ、そう思ってどうかこの横須賀市の発展に尽くされるよう願うばかりだし期待している。逆に、市長の椅子から去る蒲谷市長におかれても、明確な不支持(実際、争点に乏しい選挙だった)で負けたわけではないと思っていただいて宜しいのではないかとも思っているし、4年間の功績に率直に敬意を表する。チェンジ・・・か。(2009,6,29) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

居酒屋オーシャンノート開店?・・・冗談である(笑) 来月でオーシャンノートもお陰様で開業3年を迎える。石の上にも3年とは言うものの、まだまだ仕事自体は道半ば、いやいや考えてみれば仕事というものは永遠に道半ばかもしれない。僕は享楽主義者ではないが、折角3年、陰に日向にいろいろな形で応援してくれている皆さんを招いて ささやかながらパーティを開いたというわけである。ご他聞に洩れず、ここ横須賀上町もややシャター通りになりつつあるし、なんだか賑やかにやっているゾ、ってな街のムードを作ることの一助にでもなれば尚宜しかろうという考えもあったし、何より会社勤めを辞めてすっかり一杯飲みに行く機会も減ったので僕もお客さんも楽しむにはもってこいだ。 オリジナルカクテル?の”オーシャンノート”が大好評だったのでデザートワインを飲むために思いついたワインと焼酎のチューハイをご紹介させていただく。簡単で夏にはピッタリである。白ワインと焼酎を1:1で混ぜる。ここに750mlのボトルに対して10%程度のブルーキュラソーを混ぜる。氷を入れたグラスに注いだら、好みでソーダを入れレモンスライスを浮かべて出来上がり。昨日は20度の焼酎を使ったのでワインと混ぜてブルーキュラソーを加えてればほぼ16度くらいだから、多少ソーダで割った方が宜しいかもしれない。このお酒の良いところは、パーティ用に便利なこと、あらかじめ、ワインボトルで混ぜちゃって冷やしておけば、あとはいちいち作る必要がない。 つまみは3軒隣のお惣菜屋さん、高城食品さんに願いしたが、今回はとても少ない予算に合わせて出血サービスをしてくださった。ここん家の漬物は・・・絶品である。50年モノのぬか床、30年研究したキムチ・・・これは真似ができない。一応、毎月第三金曜日に恒例とする予定だが、来月は丁度17日(金)、横須賀上町の灯ろう夜市と重なるので今から楽しみである・・・(2009,6,20) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
商品ページの大改造中である。順次、額装ポスターの大きさや飾った雰囲気が想像できるディスプレーイメージの写真(一例はこちら、またはこちら)を追加している。出来てしまえば、ご覧になっている方にはそれほど大きな変化に見えないかもしれないが2年前の春以来の大改造なのである。ウェブ構築をやっている方ならお分かりになることと思うが、今や1000点を超える商品があるので、その1000ページ分の写真を作って商品ページのコンテンツの並びを変えながらアップするのはなかなか骨だ。きっかけは、創業以来の良きパートナーとして当社を支えてくれている税理士の鈴木さんのさりげない一言だ。彼は釣具屋さんから税理士に転身した変り種(自分で商売をやっていたから商人の目線を持っている貴重な人材と思う。腕も一流だ)なのだが、最近はディンギーにはまってる海大好き人間で、うらやましい海の目の前の事務所に居ながら、それでも当社の額装ポスターを買って事務所に所狭しと海を飾ってくれている。今回は事務所の改装をやったのでまた何枚か飾りたいとのことでケンケンガクガクやっていたら、「いやあ、ウェブにちゃんと寸法が明記されてるんで定規とか持ち出して壁にあててみたりはするんだけど、イマイチ大きさのイメージがわかないんだよ」と言う・・・
僕は変に頑固なところがあって、商品写真はなるべく商品だけをピュアーに表現することのみを考えてきた。これは、インテリア業界に長く居たことと、その業界の日本独特の不合理をヨシとしていなかった思い入れが影響している。僕はインテリアデザインやコーディネートはプロやユーザー自身がやるべきで、日本ではこいつが横行しいるのだが、間違ってもメーカー系のサプライヤーがするべきことではないと考えている。例えばあるサプライヤーにひとつの空間のしつらえを任せてしまえば、どうしても自社の取り扱い商品を売ろうとするからその空間は必ずしもベストチョイスにはならないと考えている。僕は営業をしていた時、デザイナーや設計士が自分の会社の製品を選んでくれていても明らかに他社の商品が良いと思うものは設計士やデザイナーのその旨を進言していた。つまり、サプライヤーは商品そのものをピュアーに供給することに徹するべきで、使い方や組み合わせはプロやユーザーが決めることがひとつの最良な方法だと思うのである。少なくともプロがプロたる所以は豊富な経験と知識で無限ともいえる商品や素材をユーザーの好みや要望に応えて組み合わせることができるところにある筈で、サプライヤー任せの限られた商品から空間を作りあげるのには少々無理があると思っているのだ。結局、オーシャンノートの商品もそんな考えに基づいて、変に脚色してイメージを固めてしまうことに抵抗があって、わざと素っ気無く、しかしながらインテリアの構成要素としての性質がピュアーに伝わる商品写真のみにしていたのだ。お陰さまで?プロ御用達であることも確かで、設計士さんやデザイナーにとっては格好のインテリア素材売り場らしく(苦笑)、モデルハウスやモデルルーム、レストランなどに当社の商品を採用してくれることも多くて何よりではあるが、そうしたプロにとっては600x400なんて表記されていれば感覚的に大きさが分かっても、上記の鈴木さんのように普通の方には余り分かりやすいものではないことは無視できないことと考え、いわゆるイメージ写真を作ることにしたのだ。 この写真を作るにあたっては、少し迷ったがオーシャンノートの店内を使っている。それこそ現実離れしたモデルルームのようなブランド物の家具や小物をあえて使わず(もっともそんなものもっていませんが)、ごく普通の日常を演出しつつ大きさが想像しやすいことに心がけた。言い換えれば、オーシャンノートの店内でもあり、僭越ながら僕の生活感と思っていただいても良いだろう。過剰な演出を全くしなかったつもりだが・・・常連さんやご来店された方は・・・「どこだよコレ?」って思うか知らん?紛れもありません、写真やらカメラに明るい方ではないが、きちんと撮れば心地よい空間はそこにあるもの、種明かしは上の写真をご覧あれ(笑 2009,6,11) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
昨日の読売新聞日曜版、「不屈のひみつ」コーナーにヨットレーサーの白石康次郎さんの記事が載っていた。この記事、その人の人生が折れ線グラフで描かれていて、そのカラッとしたところが重たくなくて良いコラムだと思ってる。白石さんの場合、やはり世界一周ヨットレースに二度失敗した時が折れ線グラフの最下点とされていて、このことは白石さんにお目にかかった時もお聞きして言葉では頭に入っているつもりだったが、改めて折れ線グラフで見ると人の人生の山あり谷ありを感じる。僕の人生をグラフにすれば、端から見れば営業職としてそこそこの栄達を得て独立開業、順風満帆に見えて折れ線グラフは最高点に達しているように見えるかもしれないが(苦笑)、これはやってる方ならお分かりのとおり店を構えて自分で商売をやるってえのは本当に楽なことではないし、その商売が心底好きじゃあなきゃとてもできないと思う。おまけに身内の不具合も重なったりすれば・・・「こりゃあ、俺の折れ線グラフは最下点かもしれんゾ」・・・などと(また苦笑) そんなときにこの記事の白石さんが初めて単独世界一周レースを完走して人生観が変わったというお言葉が胸にしみる。曰く「泣いたからわめいたからって風は吹かないし、逆に収まらない嵐もない。人生も同じ。暑くても冬は来るし、寒くても夏は来る。時々に応じていけばいい。」(読売新聞6月7日付け日曜版から引用)
若干気分が塞いでいたところに、ビートルズのLet it Beよろしく、白石さんの記事で明日は明日の風が吹くさ・・・などとノーテンキになっていたところに、その白石さんが呼んだものか、わざわざ小田原からロープノット額をご購入のためお客様が見えた。昨日は天気が良かったから湘南ビーチFMを聴いている限り、湘南道路は断続的に渋滞が多くていらっしゃるにも大変だったと思う。事前にお電話を頂戴してからのご来店だったが、事情をお聞きすると、偶然にも白石康次郎さんが卒業された三崎水産高校の校長先生をされていたお父様に父の日の贈り物としてご購入されたいとのことで、ロープノット額73センチ31ピースをご購入いただいた。 少し手が空いたこともあって、懸案だった実店舗のみの販売商品のウェブ販売の先鞭をつけるべく、以前からお問い合わせが多いロープノット額の46ピース特大サイズとスタンダード大サイズをリリースした。このロープノットボードの額、店では圧倒的に海上自衛官の方のご購入が多い。不思議なことだが、彼らはいわばプロなのだから自分で作ってしまえば良いのに・・・と思うのだが、これまで扱ったロープノットボードの額をほとんど購入(6種類くらい)されたMさん曰く「結ぶのは全部できるけど、こうやって見られるものには出来ない」とおっしゃる。他の自衛官の方も異口同音、いわば結び方を見せるために、結びきってきまう直前の状態を美しく作るのは難しいと言うのだ。かく言う僕も、実はトライした事があるのだが確かにゆるめに結んで完成直前の形を美しく作るのは困難だった。 このロープノットボードの額、今は大変お買い得だと思っている。以前は3万4万することも珍しくなかったし、いまだに定価のない珍しいものであるのを良い事に高い価格をつけている店も目に付く。実は商品はピンキリでそこもご購入の際には注意が必要だ。オーシャンノートで扱っているものは、毎年の見本市で商品を確認した上で、一番出来の良いものを選んでいる。ウェブでリリースした商品は品質が良く、供給が安定しているもので、もう3年近く売り続けているものだ。だいたいこうした雑貨類にありがちだが、ほとんどのロープノットボード額は1シーズンで無くなってしまうし、1シーズン限りという事情からかどうかわからないが粗悪なものが目立つ。そういったものは価格は安いが並べてみれば差が歴然としているので扱わないようにしている。(以前にちょっと品質の落ちるものを買ってしまい、仕方がないので店で特価販売してしまった。その商品だけを見ても分からないもので、出来の良いものと並べるとガッカリするのだ)種類は多くはないが当店でリリースしている商品は長く続いているだけあって、作り手の手も慣れているので美しい。裏面もチープなベニヤや紙のチップボードなどではなくMDFだからきちんとしている。このロープノット額で面白かったのは船の科学館のSさんの贈り物の話で、結婚祝いにロープノット額を贈るとおっしゃるので、「どうしてですか?」と訊ねたら「”結ぶ”で縁起が良いだろう」とのこと。なるほど、それは良いセールストーク、Sさん、お陰さまで結婚祝いとして今まで10枚くらい販売させていただいておりますョ・・・ しかし、泣いたからわめいたからって風は吹かない・・・そうだよなぁ(2009,6,8) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
横浜開港150周年とのことで、今年の横浜はお祭りムードが盛り上がっているようだが、先々週から今日までの読売新聞日曜の神奈川版地域欄に掲載された大さん橋全三回の記事はなかなかお勉強になった。僕は昭和37年の生まれだから外国への玄関として全盛だった頃の大さん橋は余り知りようもなく、最初の記憶はクィーンエリザベス2が初入港したのを見物に行ったことだったが、現在のアレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ設計によるものになる以前の大さん橋には随分と馴染みがあったものだった。20代の早い時期は車を運転してどこかに行きたい盛りだったから、土曜の夜になると良く大さん橋まで車を飛ばしていたのを覚えている。日によるが、当時の大さん橋は昼間ならいつも、土曜の夜もたまにさん橋の先端まで車で入れた。土曜の夜は東海汽船の伊豆七島航路の船が寄っていて、それを見送るのも大好きだった。時にはさん橋の先っぽでカーステのボリューム上げて音楽を聴くことなどもあった。まあ、その後は大抵、元町の裏のカフェバー(懐かしい!)あたりで遊んで帰るわけだが、時は流れ横須賀に移った後は随分長いこと車の無い生活が続いていて、大さん橋といえば、関内あたりで一杯やると電車が間に合わなくて帰れないことが多くて、行くあてもないから大さん橋で朝を待つ事が良くあった。これまた今と違ってターミナルの中には入れなかったがデッキへの出入りは自由だった。 昔話はともかく、読売新聞の記事はざっとこんなことである。ご参考まで・・・開港当時の横浜港は現在復元をやっている(終わったかな?)象の鼻がメイン、現在のニューグランドあたりにフランス波止場ができたものの、いずれにせよ外国航路の船は直接接岸できずもっぱらはしけを使って人貨の積み下ろしをしていた。で、大きな埠頭を造る必要があったわけだが当時の明治政府にはお金が無くて造れない。1864年下関事件で日本は300万ドルの賠償金を支払う事になるが、1883年、この賠償金が高すぎたとの理由でアメリカは日本に77万5000ドルを返還する。(補足:増上寺にグラント松という松の木があるが、この松を植えた南北戦争で有名なグラント将軍は親日派で、グラント将軍が日本の早々の発展を願って賠償金の返還に尽力したらしい)大さん橋はこの返還された資金を元に建設されたのである。完成したのは1894年、長さ457メートル、幅19メートルの大さん橋は直径32センチ、長さ16-20メートルのスクリューパイル(補足:先端がスクリュー状=螺旋状で回転させながら打ち込む杭)を約500本海底に打ち込んで建造された。そのため大さん橋は別名鉄桟橋と呼ばれたそうだが、このスクリューパイル、結局、現在の2002年に完成した大さん橋になるまで100年以上大さん橋を支えたのである。1899年には幅を41.8メートルに広げ、海底を7.9メートルから10.6メートルに浚渫し1万トン級の船も停泊できるようになるが、1923年に関東大震災でさん橋は海に沈んでしまう。政府は、これをわずか2年で復旧、太平洋定期航路も戦前の最盛期を向かえ、送迎デッキ(僕が朝を待ったデッキである)や、帝国ホテルが運営するレストランも新設される。記事にはチャップリンの挿話もある。チャップリンが帰国に際して選んだのは日本郵船の氷川丸、この決め手となったのは天ぷらだそうで、氷川丸の乗船中、チャップリンは毎日天ぷらを食していたそうだ。戦争をはさみ、接収されたいた大さん橋が返還されるのは1952年、以後大さん橋を利用していたアメリカンプレジデントラインはその頃を知る方々には懐かしいものだろう。今年は、横浜市の外国客船誘致でクルーズ船の寄港は過去最高の20隻になるという。ちなみに、記事最後の方には直接大さん橋の話ではないが、今年の3月6日に日本へ初寄港したクィーンメリー2が大さん橋に着く事が出来なかったことも書かれている。 この記事では定説になっているベイブリッジの高さがどうして決まったかも明記されている。退役したクィーンエリザベス2の高さ53メートルをかわせるように56メートルで設計されたので高さ62メートルのクィーンメリー2はくぐれずに大黒埠頭に接岸せざるを得なかったのだ。補足すれば、当店のお客様から聞いた話では、そのことを決めたのは当時の海上保安庁の方(お名前は失念)だそうで、これは当時としては無理の無い話しで、1980年代と言えばキュナードにしたところでクィーンエリザベス2を最後の定期船としてあきらめていたし、世間の流れも船の時代の終焉を惜しむ風潮に浸かっていて、現に当店で扱っているGREAT LINERSなるDVDや絶版ではあるものの素晴らしい内容のナショナルジオグラフィックビデオ"THE SUPER LINERS - TWILIGHT OF ERA"(日本での題名では夢を乗せた豪華客船クィーンエリザベス2世号・・・変な題名になっている)などで見られるように80年代にはもうこれ以上大きな船は出来ないと思われていた。クルーズ客船がこんなに大きくなるとは想像できなかったろうし、クィーンメリー2だってカーニバル社のミッキーアリソンがクィーンメリー2を作るためにキュナードを買収しなければ当然存在しない。もうひとつ余談ながら、クィーンメリー2のスファンペイン氏の当初の設計は高さが70メートルくらいだったそうだが、そうなるとニューヨーク港入り口に掛かっている65メートルほどのヴェラザノ・ナローズ・ブリッジをくぐれないので62メートルにした。ちなみにこれでサンフランシスコのゴルデンゲートも無事くぐれるのである。(執筆:横浜みなと博物館 山口祐輝氏、同 志沢政勝氏、市川憲司氏) 京都駅ビルの意匠には賛否両論がある。これに対して設計者の原広司さんが寄せた談話か何かを薄っすら記憶しているが、京都の社寺だって1200年前はモダンな賛否の飛び交うものだったろう・・・といった趣旨だったような。現在の大さん橋にはやや風情が欠けているようにも思うが、まあこれが100年後には結構な風情になっているかもしれない。なにせ22世紀はドラえもんを見る分にはとんでもない未来都市になっているのだから・・・(2009,5,31) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
先般、上町教会の日曜学校を紹介して差し上げた三浦のGさんがその縁で店にいらして「懐かしい・・・」とおっしゃる。Gさんはご主人の仕事の関係で世界のアチコチの海辺の街で暮らした経験をお持ちで、そんな街にならウチのような店が必ずあるから戻ったような感覚をお持ちになったようだ。Gさんが住まれたことのある場所をお聞きした中に「・・・イギリスのニューキー・・・」が出てきて、これはなかなか日本で知っている人の少ない場所ながら「ああ、コーンウォールの・・・」と、商売柄僕にはすぐにわかるのでGさんも逆に驚かれたようだ。ニューキーなんていえば普通は場所や土地柄を説明しなきゃならないものの、僕は旅行好きでも豊富な海外経験があるわけでもないが、とにかく海の絵やら写真をみるのが商売だから、自然と画題になりやすい素敵な土地の名前は覚えてしまう。このところ急速にマイブームになっいるのはマサチューセツ州のケープコッドだ。アメリカ東海岸には行ってみたいところが沢山ある。ノースカロライナのアウターバンクス、ニューヨークのロングアイランドやニューヨーク湾入り口のサンディーフック、メイン州のベナブスコット湾やポートアイランド、フロリダのベロビーチ・インディアンリバー、無論思いっきり下ってキーウェスト・・・そんな中で外せないのがマサチューセツのケープコッドだ。 メイフラワー号が大西洋を渡って着いたところはプリマス、これは教科書の載っているけれど、本当に最初に投錨して上陸したのはマサチューセツ州のケープコッド、その先端内側、現在のプロヴィンスタウン、1920年11月19日のことだ。それ以前から、ケープコッドは船乗りたちにとってアメリカの格好の目印だったそうだが、移民ももちろんこの半島を目指してきて徐々に街が出来ると、当時は燃料を薪に頼っていたためケープコッドの樹木は18世紀にはあらかた消えてしまったそうだ。漁業基地として一時栄えたものの、この半島が注目されたのは19世紀中ごろからのリゾート地としての人気からだ。夏涼しい海洋性の気候は快適でニューヨーカーやボストニアンの夏の避暑地として一躍脚光を浴びるようになったのである。現在でも産業らしい産業に乏しく、専ら観光が主体の半島だが、その景観の素晴らしさは折り紙つきで、ここを中心に活動する芸術家は多く特に先端のプロヴィンスタウンは芸術家の街として有名になっている。僕がケープコッドを知ったのはアメリカの灯台をあれこれ勉強していた時だった。アメリカの灯台といえば何と言ってもマサチューセツ州北側のメイン州が主役ではあるが、その次は問われればノースカロライナのアウターバンクスかケープコッドだ。ロングポイント灯台、ウッドエンド灯台、レースポイント灯台、ハイランド灯台、ナウセット灯台、チャタム灯台、それこそ灯台を訪ねるのが好きな人にとってはヨダレが出そうなフォトジェニックな灯台がズラリなのだ。ケープコッドは地質学的にはニューヨークのロングアイランドアイランドと連なるアウターランド(海岸線の外側の列島)だそうだが、ケープコッドの肘から上の部分は堆積の洲で、一説によれば侵食で無くなるとも言われる。 ケープコッドの写真・・・写真家ジョエル・マイヤウィッツが素晴らしい作品を残している。1993年に上梓されたBAY/SKYという写真集である。ジョエル・マイヤウィッツといえば911の後、(誰も立ち入れなかった筈の)グランドゼロを撮り続けた唯一の写真家として再び高名となりストリートフォトグラファーとしての真骨頂を見せ付けたが、そもそも1978年にケープコッドで撮った写真を集めたCape Lightという個展をボストン美術館で開いたのが出世となり、再びケープコッドで撮ったBAY/SKYは現代写真の不朽の名作として評価される。海を撮った写真と言えば僕は杉本博司の海景が一番に頭に浮かぶが、このケープコッドもまた名作、そしてそのジョエル・マイヤウィッツの影響を受けたという野寺治孝によるTOKYO BAYも素晴らしい。海を撮るというテーマ、冷静に考えれば、それは波であったり、ヤシの木であったり、ヨットであったり、様々な視点があって風景を撮るのか海を撮るのかというエッセンスの部分は広範になりがちだ。ジョエル・マイヤウィッツのBAY/SKY、杉本博司の海景、野寺治孝のTOKYO BAY、この三者に共通点を見出すのはジョエル・マイヤウィッツの写真集の題名が如実に語る。BAY/SKY、つまり海を撮るというところにテーマを絞ると、それは海面を撮る事ではなくて空を一緒に撮るという事になるのであり、空の表情や光があって無限ともいえる海の表情が生まれているということだ。僕は芸術方面の出ではないからアーティスティックな価値判断は出来ないけれど、見ようによっては退屈かもしれない海の表情である。そりゃあ、例えばこう言っては何だが杉本博司の海景、太平洋、大西洋、地中海・・・と水平線を撮ったモノクロ写真を見てたってどれも似たようなものである。太平洋なら海が赤いわけではないしましてモノクロ写真である。しかし、それが今日世界的に恐るべき高い評価になっていることを考えつつ(杉本博司の写真は世界中の美術館が血眼になって収集している)、頭の中を真っ白にして見直すと言葉にならない良さがある。このあたり、個人的には野寺治孝のTOKYO BAYを見てみると、やがて難解ともいえるジョエル・マイヤウィッツや杉本博司あたりまで入ってゆけるのではないかと思っている。今や絶版で入手が難しくなりつつあるジョエル・マイヤウィッツのBAY/SKYの額装を試みたものを20点ほど、それと、写真集というものはそれはそれで写真家が意図するところの表現のフォーマットだが本と言う体裁である以上、普通は1ページづつしか見れないところに着目し、野寺治孝のTOKYO BAYは複数枚を組み合わせて額装する試みをやってみた。(これはすごく大変な作業、できるものならやってみな・・・ってなもんである)当店の”海の風景”というカテゴリーにリリースしてあるので御一見いただければ幸いだ。 しかしまあ、変わったところ?では大御所の鈴木英人さんもケープコッドを訪れており、やはり素敵な作品をいくつか残しているし、すっかり憧れのケープコッドになってしまったものである・・・(2009,5,26) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

昨日は定休日、昼食にやっと念願のペペロンチーノにありつけた。このパスタを嫌いだという人はあんまりいないと思うが、僕はとりわけ大好きで20代後半の夕食は3日に一回は(もっとかもしれない)麻布台のニコラスで食べていたものだ。このところ定休日でも行事やら何やらで子供達のどちらかが家で昼食だったので辛いパスタはダメ、昨日は子供達が居らずペペエロンチーノを作って食べた。舌とか脳には宜しからぬようだが、僕のペペロンチーノはかなり辛い。ニコラスでも僕のためには特別に唐辛子を多くして作ってくれていたものだった。 麻布台のニコラスはホントかウソかは知らないが、日本で最初のピザハウスといわれている。(もっとも、これまた良く行っていた六本木のシシリアも同時期には開店している。いずれも僕が生まれるずっと前、1950年代中ごろからの老舗だ)ここには実はサラリーマン1年生の時から行っていて、ニコラスで昼食がとれるように六本木界隈のお客さんへのアポをとったりしたものだったが、そんな立ち回り先のひとつにハラー・ジャパン(現インター・オフィス)があって、やがてこの会社に転職して勤めることになるのである。そして当時、このハラー・ジャパン・・・ニコラスの隣の雑居ビルにあったので当然のように入りびたりになってしまった訳だ。今時のイタリア料理屋さんは、ヌーベルキュイジーヌのムーブメント以降、フランス料理との垣根があいまいながら、それはとても良く出来たものでニコラスやらシシリアをイタ飯屋さんと思う人も少なくなっただろうが、個人的にはそんなにエエカッコせんでも美味しいものは美味しいだけで○(マル)なんじゃあないかと思っている。当時のニコラス、ピロティ建築のガランとした店は風情があって大好きだったが、10年ほどしてウィルクハーン・ジャパンに2度目の転職をして六本木に戻ると、建て替えられており、現在は森ビルのオフィスビルに再度建て替えられてしまったようだが店は健在のようだ。 しかしまあ、このペペロンチーノ、何でこんな何も入っていないパスタがこんなに美味しいんだろう?イタリア料理は総じてシンプルな作り方が美味しい。トマトソースを作るのにちょっとフランス料理的にニンジンやらセロリやらをブーケガルニっぽく入れたら全然おいしくない経験をしたが、やはりこのところ我が家でブームのチャーハンは、親心から栄養を慮って色んな野菜を入れたら長女が一言「いつもの方が美味しいね・・・」クールに言われてしまった。料理は作りすぎちゃあイケナイ・・・と日頃思っているが、これは絵や写真も同じようである。このところアメリカの写真家ジョエル・マイヤウィッツさんの写真集BAY/SKY(写真集と侮るなかれ、93年初版のこの写真集は絶版で、コンディションの良いものは500ドルを下らない!)の額装の作業をしいるのだが、杉本博司さんの海景もそう、野寺治孝さんおTOKYO BAYもそう、写真も撮りすぎちゃあイケナイものなのだとつくづく思わされる。マイナスワンを心がける必要はなかろうが、ウィスキーの宣伝さながら足さない引かないはやはり大事なことなのだろう。と思いつつ、昨夜は大好きなカリフォルニアワイン、カルロロッシを焼酎で割って飲んだら・・・旨い、旨すぎる。思っていることとやってる事の違いには・・・誰しも悩ませられるものである。(2009,5,21) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

昨日は定休日、たまたま8回目の結婚記念日だった。結婚してしばらくは、今から見ればあきれるほど享楽的な日々を送っており、ケーキと言えば麻布のピラミッド(友人が勤めていたので贔屓だった。そんなに騒がれる店じゃあないが、友人からその材料の良さや、まさに昔ながらのキツイ手仕事を聞くとシンプルながらしっかりした味には惚れ込むばかりだった)のものばかりいただいていたものだったりしたが、自分で商売を始めるとやってる人ならおわかりの通り、そんな余裕のあるものではないから、物心ついた子供達にたまにはいい思いをさせたくて、久しぶりに8年前に結婚式を挙げた観音崎京急ホテルのティーラウンジでケーキをいただいた。 僕の結婚式はこれまたなかなか注文が多いもので、ここの海の前で結婚式をするんだ!と決めてからホテルに打ち合わせに行くものの、最初はイメージを分かってもらうのに苦労した。ホテル側にしてみりゃ、長年の経験でベストな方法論を持っているのだろうが、僕はそんな事はなっから聞いちゃあいない。オーシャンノートの店のイメージもそうだが、どうも僕の頭の中には外国の静かな海辺の街の某所・・・というものがついて回る。言えば、この時のイメージはイタリアの海辺の小さくてこぎれいなレストランの庭で、気の会う友人達が集まってあげる結婚式といったところで、諸事お世話してくださった観音崎京急ホテルのK女史(今は3代目のオーナーになってしまったが、僕が大好きな場所のひとつ、観音崎のマテリアというレストランをプロデュースしたのがK女史で、そんなことからも意気投合した)との話も最初はかみ合わなくて、2時間も3時間も話すうち「要は、大人の結婚式ね?わかったわ!」と・・・あとは、ホテルの出来合い部分をすぐにとっぱらってくれて、ほぼイメージ通りの一日を作ってくださった。この8年で観音崎も変わって横須賀美術館が出来たり、観音崎京急ホテルも大きなスパ施設を作り、チャペルを新設、天候や季節任せのガーデン結婚式はやらせてくれないようだが、今もプールサイドのヤシの木は健在だ。結構な享楽的生活を送っていたとはいえ、結婚した時の気持ちはそれなりに改まったもので、ローマカトリック式の儀式を終え、みんなで食事を終えた後、その足で市役所に行って婚姻届を提出、初めての夕食は・・・イワシを焼いて食べた。そう、質素な暮らしを心掛けようとの思いからである。その通り、今日、誠に質素な生活を強いられている日々(苦笑)であり、昨日の夕食は普段と変わらず、それでも夜は数年前にウィルクハーン・ジャパン創業10周年で貰ったドイツのリースリングワインで乾杯、さあ・・・寝ようと思って歯を磨いていると・・・歯の詰め物がとれてしまった。結婚記念日なのに厄・・・(後日加筆、家の近くの西村歯科医院の西村先生に直してもらった。お医者さんは、ある種職人さんだから、他ん家で直した歯なんかいじりたくもないだろうに、以前も一回あったのだが、西村先生は「問題ないようだからそのまま付けますね」と快く再接着してくれる。訳もなくやたら削られることを思えば感謝である。西村先生は学生時代はヨット部、医院もどことなくそれを感じさせてくれる。ちなみに内科系は、今は仲良しになってしまった上町のうつみこどもクリニックの内海先生に診て貰っている。小児科で見てもらう・・・これは穴場です!) しかし、思えば人生はパッチワークのようなものである。悪い歯があるからとて、それを抜いちゃうわけにはいかない。直さなきゃいけないのだ。親元を離れて気ままで100%完璧な自分好みの生活を作り上げていたとしても、そこに妻と言うでかいパッチが張られて、次次と娘達が生まれて、僕の人生のキャンバスにはこれまた巨大なパッチが張られる。このパッチ、消しゴムで消えるものとは違うのだ。そうやって日々、パッチを当て当て生きているんだなあ・・・PCの上書き保存とは訳がちがうし、リセットなんて・・・やってるつもりでも出来やしない。それがどんなパッチであろうとも、全く同じ大きさと形のパッチなんてありえないわけで、その人の人生には必ず昔貼ったほんの爪の先ほどパッチが覗いていたりするものだ。あわてず、あせらず、真面目にコツコツ、パッチパッチ・・・(2009,5,14) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
まだ少し先の話ではあるが、横須賀学の会と横須賀市生涯学習センターの企画になる”横須賀の海を楽しむ”、全4回の生涯学習講座最終回、7月30日の大トリで講師を務めさせていただくことになった。横須賀学の会(2007年12月タウンニュース紹介記事)は、昨年8月の店長日記にもあらましを記したが、この第一回研究の船の観察というテーマは活動として継続されており、観音崎での船の観察会も恒例行事となっているし、この延長で生涯学習センターでの講座開催となったものだ。生涯学習センターのホームページで掲載されている題名は”横須賀の海を楽しむ”となっているが、これは企画時点でまだ講師もテーマも完全には固まっていなかったためにそうなっており、今週から市内で配布される案内チラシでは内容が具体的になっている。(チラシ原稿)35名のみの募集だが早々にいくらかの申し込みが入っているそうなので6月7日締め切りではあるものの受講ご希望の方は申し込みを急がれたい。 さて、最終回の講座では、当店のお客様でもある斎藤さんが前半、そして僕が大トリの大役をいただいた訳だが、まだ前半の斎藤さんとの講義の連携など細部の内容は決めていないが・・・本来生涯学習というのは乳児からお年寄りまで、人の一生に渡るものなのだが、その良し悪しは別として、どうしてもリタイアされた方々の参加が多い。今回の講座も平日開催とあって、結果的には大先輩方々をお相手に話すことになるのではないかと思う。そうなると・・・僕が海外に出かけるようになった頃には、すでに航空機時代だったから、実は太平洋を船で渡る機会なんかハナッからなかった。しかし大先輩諸氏は夢を背負って船に乗った世代かもしれないのである。当然「太平洋航路の客船は・・・」なんて偉そうに知った振りしてやろうものなら、「何言っとるか若輩者が!」と一喝されやしまいかと・・・。現に、世間は広いもので、たまに店にお立ち寄りくださるKさんのように、APLの客船でパーサーを勤められ、1953年、皇太子殿下(今上天皇)のエリザベス女王戴冠式出席のためのプレジデントクリーブランド御乗船の際にお世話を勤めたお話をお聞かせいただく方などもおられるのだ。 ただ、そこまで本職の方ならば、わざわざ講座をお受けになることもなかろう。いずれにせよ、横須賀がテーマなのであんまりアチラの話で看板に偽りがあっても困るから、先般、横須賀沖を行ったクィーンメリー2の話を鍵にしたいと考えてはいる。クィーンメリー2は来年も来日することが決まっているし、あの船が他のどんな”豪華客船”とも違う存在であることを理解すると、必然、客船史を全部遡ることになるからだ。聴衆相手に喋るのはかれこれ7〜8年振りのこと。どんな方々が受講されるかもわからないし、「先生と呼ばれるほどの馬鹿はなし」と詠った川柳もあること・・・中身の話は気張ったとしても、ひとつ万事控えめに、あんまり頑張って、せいぜい声帯ポリープが元気にならないようにするとしよう。(2009,5,11) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

このところ、すっかり北斎や広重が描いた海が画題の浮世絵に執着している。お馴染みの方は「オーシャンノートは浮世絵浮世絵・・・どうしたんだろう?」なんて思われていることかもしれないが、実はちょっとしたきっかけがきちんとあって、これまた御馴染みのKさん、知人の歯医者さんが医院を改装されたとかでお祝いに ”鈴木英人さんの湘南に生きる” をお買い上げいただいたときの一言にあった。「これ、何だっけ?あの波の浮世絵みたいでイイよね・・・」 「ああ、北斎の神奈川沖浪裏?」「そうそう、感じが似てるね・・・」 並べてみると構図が似ているわけでも何でもないが、確かに絵を見ないで頭の中で両方の絵を想像すると、富士山と海という記号的なキーワードで脳のハードディスクにインデックスされていることに気づかされる。北斎は押送船(江戸時代の高速鮮魚運搬船だ。八本の艪があり八艪船とも)を浮かべ、英人さんはクルーザーヨット、三浦半島の東海岸西海岸の違いはあるが、なるほどなるほどと頷く印象的共通点を持っている。 別段、モヤモヤしていたわけでもないが、以前からフランスで印刷されたポストカード版の商品、北斎の神奈川沖浪裏と広重の七里ガ浜はやっていたものの(今でもフランスの印刷はやっぱり綺麗で、一説によればCMYKのところのK、つまり墨版が違うとか・・・このポストカードは小ぶりだが良い出来だ)商品の整理などするときはいつも商品カテゴリーの分類に苦慮していた。それでも、単に個人的に好きだという理由だけでやるわけでもなく、その何となく外せない理由は、例えば鈴木英人さんの作品との共通点のようなものを見出していたからもしれないと今更ながらKさんの一言で気づいた。長くデザインがモノを言う世界(輸入家具ギョーカイ)にいたせいで僕にはそこそこデザインへの強いこだわりがあるから、北斎にしても英人さんにしてもその全ての作品を商品として取り上げる必要を得る事はないが、いずれにせよ、写真とは違う、緻密に空間を整理した画面構成に魅かれていたのである。(写真というのは実に難しいもので、どうしても余計なものまで写ってしまう。今額装に取り組んでいる野寺治孝さんの写真集でも良くわかる。写真として大変よく出来ていても、オブジェクトがひとつ多かったりする。”見る”のと”飾る”のは微妙に視点がちがうものである) さて、浮世絵といっても取り組み方は様々。江戸時代当時の消耗品(雑誌のようなもの)であった木版画浮世絵、本物現存品は実に驚くほど粗末で、紙は薄いし絵の具の結構コストにシビアだったそうで退色著しいものが多い。名作といわれるものは明治時代からこっち、国内でも海外でも版木が彫り直され再販されてきたが(江戸時代当時でも結構再販品・・・贋作?・・・はあふれていたらしい)、芸術的価値の評価が高いところに確立した現代では、それこそ当時とは比べようもないほどの手間と技術で再販している。版木のズレなんかもちろんほぼ皆無、当たり前だが、今は亡き絵師の考えこそ細かく反映できるわけもないが、木版画としての完成度といった点では現代の再版木版浮世絵は最高のものだ。そこでオーシャンノートでは視点を変え、現存する江戸時代当時のものを往時に復元することを目指したものに絞りやっている。これは意外に取り組まれていなくて、古今のオフセット複製品も、痛んだそのままを写真製版して印刷しているものが殆どだ。例えば神奈川沖浪裏ならメトロポリタン美術館のものが状態が良いので有名で結構な複製品もあるが(メトロポリタンは神奈川沖浪裏だけでも4枚持っている!)、それとていかにも170年の風雪で鑑賞には最適とは言いがたい。幸運にも良き協力者を得たお陰で素敵なコレクションが揃いつつあるが、”房州銚子”では世界に6枚しか現存していないし、”海上の不二”の色刷り版はもっと少ない貴重なものである。いずれにせよこの貴重なもの、民間レベルでマルチバンド撮影(RGBの倍、6バンド撮影)なども進められてはいるが、文化庁あたりも乗り出していただいて今のうちに往時の再現を試みる必要もあるのではないかと思う。ピクセルのデータは所詮、人間の目の解像度を利用したものという意見もあろうが、版木を彫りなおすばかりが復元ではないのだと思っている。 それにしても、言われれば言われるほど・・・同じ版画という大きなくくりになろうが、英人さんと北斎・・・頭の中で混沌としている。英人さんが北斎をトリビュートしたら・・・面白いだろうなあ・・・(2009,5,8) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

いよいよゴールデンウィーク、珍しく水曜日と休日が重なって、朝は遅めに起きてのんびり新聞を読んで、広告にも目を通そうと手に取ったら英人さんのイラストが目に飛び込んできた。四つ折りにして広告の束となり、さらに二つ折りになって置いてあっても一目で英人さんとわかるからやはり大したものである。誰も真似をしないのか真似をできないのか・・・あのアンディ・ウォホールだって良く似た作風のアーティストも出てきているし・・・でもキーズ・ヘリングなんかはやっぱり独特か・・・ さすがに、この新聞折込までは僕も商品化してみようとは思わないが(でも左上のコピーが無かったら?・・・苦笑) -後日加筆:英人さんの商品購入ご希望のお客様からお電話をいただいたのだが、何とそのお客様は英人さんのイラストの販売広告が決め手になってこのマンションをご購入されたとか・・すごいぞ費用対効果- 、英人さんの数年前の某飲料会社のカレンダーなんかは数十万円の値段がついたりするし(オフセットですよ、オフセット)、逗子市の観光ポスターも数万円の値段がついていたりする。まあ、なんでも鑑定団を見りゃ、大正、昭和初期の広告なんか結構な値段がつくから、こんなマンション分譲の広告もいずれお宝になるのかもしれない。冗談はさておき、仕事をやっていて、なかなか悩ましいのは、例えば英人さんの作品などでもお手ごろな良い作品、つまりポスターがリリースされてこないことだ。それこそ人気のあり、もう亡くなっているアーティスト、例えばサヴィニャック作品なんかは次から次へとジクレーや再版の版画、オフセットなど様々出て来るが、しれゆえに、どこでも手に入る同じものばかりが溢れている状況は加速しているように思える。 以前にも書いたことがあるが、この仕事を始める少し前に、モダンリビング誌のアートデコレーションの特集があり、モノクロの写真集(確かアンセル・アダムスだったような気もする)を切って額装する空間提案があった。なかなか思うようにオーシャンノートの商材として提案できるに足るものが劇的に増えることに至らない中、常に頭の中に置いてあったこの企画は最近やっと緒に就いた。御馴染みのお客様にはもうずでに随分ご購入いただいているが、鈴木英人さんの画集や吉村和敏さんの写真集を切り抜いて額装して販売している。これは言うは易し、成すは難しで、まず普通の神経の持ち主ならば本という形になっている作品を切る事に抵抗を覚えるはずだ。先日辻堂から見えたお客様は実は英人さんの画集を持っていて同じ事をされようとしたとのこと。結局、僕も同じ経験をしているが、画集や写真集、まず毎日眺めることはなく、結局本棚の飾りになってしまうからである。絵とか写真は、冷静に考えれば眺めてなんぼだから・・・これはやっぱり飾って眺められるものに仕立てるのは、かなり合理性があるはず・・・と思いつつ、モダンリビングが簡単に提案するほど容易なものではない。テレビCMの選択回避の法則ではないが、これでもかこれでもかと作品が並ぶと選びにくいし、結果的に捨てはしないものの画集の三分の二ほどは無駄になるから、例えば気に入った画集や写真集を買ってきてこれを飾れるように額装するのは・・・相当なパワーが要る仕事になる。まして本を切り刻む痛みにも耐える?のだ。 しかしながら、やってみて良かったとつくづく思うのは、きちんとオーバマット額装すれば素晴らしいもになるのである。ちなみにオーバーマットは絵と額縁のサイズ調整の役割が大きいが・・・実は表のガラスと作品に隙間があることで見栄えが良くなる。紙はどうしても湿度の影響を受けるので・・・余程厚手の紙でなければ、マットを使わずに直接ガラスと触れる額装では、1〜2年経つと紙がたわんで見れたものじゃやあなくなる。一方、昨年の今頃、お客様に頼まれてアメリカのミステイックシーポートミュージアムの写真コレクションから帆船の写真を取り寄せて額装して差し上げたことがある。精一杯やったつもりだが、この時、ミステイックからもノーティスが来ていて、本来、昔ながらの銀塩写真は飾ることには著しく不向きな物質だということを忘れてはならないということである。どんなに酸性化を防いでも、紫外線をカットしても写真は飾れば必ず色あせてしまう。写真家の写真そのものに値段がついたのはアンセル・アダムスの業績と言われ、近年も、杉本博司さんの写真など世界中の美術館や博物館にコレクションされているが、これとて飾って見るにはやはり限界がる。これからは恐らく、写真の額装は顔料インクを使用したデジタルジクレーの時代になると思う。もっと言えば・・・そう普通の住環境で写真を楽しむならオフセットの印刷には、きちんとオーバマット額装するならばかなりの合理性が生じる。写真家の方は写真を撮ることに懸命だから、この流れを認めれば自己否定になるのかもしれないが、一理を認めざるを得ない時代なのだと思っている。これは・・・シルクやリトの版画も同様だ。オフセットで200年、デジタルジクレーで40〜80年、この耐久性は素晴らしく・・・と思いつつ、アートは所詮朽ちてゆくから良いのかもしれないと思ったり、やや複雑な心境ながらこの誰でも上質なアートを楽しめるコンセプトにはますます励むつもりである。(2009,4,30) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

世間様の状況に疎いのも考え物。元日から大晦日まで営業、決めてる営業時間はあるものの、実際は朝8時ころから夜の8時過ぎまで、良くまあ、飽きもせず店に居る物で、この横須賀上町ではセブンイレブンの次に営業時間が長いなどと笑い話にしてはいても、二月には発売されてた森永さんのサヴィニャックラベルのチョコレートを昨日まで知らなかったとあっては・・・もう少し街をブラブラする時間を持たねばいけないと反省せずにおられない。今でも、少し商品に名残があるが、オーシャンノート開店当初はサヴィニャックの額装ポストカードについては、多分、日本で一番(世界で一番かもしれない)多種類集めて売っていた。例によって凝り性の僕のことだから、売っていそうなところは都内くまなく歩いて、まさに足で集めたラインナップだった。何に惹かれたのかは分からないが、僕もやっぱりサヴィニャックには惹かれる。(ふと思い出すと、高校生の頃に良く行っていた原宿ペニーレーンのイラストが大好きで、思えば、あれがヴィジュアルスキャンダルとの出会いだったかも?このイラスト、かなりサヴィニャック的と思っている) サヴィニャックの人生は、新しい扉を開いたアーティストの人生らしいそのもので、成功を手にするまでは相当の冷遇時代を過ごしていた。(サビニャック略歴は商品ページにも少し記載しているのでご参考まで)もう、3〜4年前のことで、サヴィニャックに関わることは殆ど無くなっているものの、不思議な因縁を感じるのは、結局、サヴィニャックの師匠であるアドルフ・ムーロン・カッサンドルに傾注し、客船やアール・デコへ急速に興味を深めたことだ。このあたりになってくると、10年も15年も勉強したモダンデザインの起源のあたりと結びついてきて方々に面白い話が転がっている。ウィキペディアで誰がカッサンドルの項を執筆したのかは知らないが、現在の記事ではカッサンドルが”ごく早い段階でバウハウスに興味をもち、徐々にその影響を受けてゆくこととなる”と記述されている。カッサンドルは1967年に自殺しているから、今更確かめようもないが、このウィキの記述の根拠がどこにあるのか、本当かどうか確かめてみたものだ。ちなみに英文のウィキではキュビズムやシュールレアリズムの影響とは書いてあっても、バウハウスの記述はない。いずれにせよ、解釈などというものは後世の人々が勝手に書き連ねるものだからアーティストの業績とは関係あるはずもなく、カッサンドルが成したショッキングなビジュアル表現のみが僕の心には響くわけで、船に乗って大西洋を渡りたい気にさせる、大いなる希望を心に訴える表現には感銘を受けるのみだ。ただし、カッサンドルは1940年でポスターを描くのを止め舞台美術等に活動を移すものの、戦後に知られる業績はイブ・サン・ローランのロゴマーク程度で、その後鬱病を患い自殺に至る。本来印象派の勉強をしたカッサンドルが、ほんの食い扶持稼ぎで手がけたポスターのみが高い評価を受け続けたことがストレスだったのではないかと僕は推測している。サビニャックはカッサンドルが最高傑作と謳われるノルマンディーを描いた1935年にカッサンドルの事務所に入っている。この師弟のつながりは、僕の英語力では深入りして調べるところまでいたらず残念な限りだが(絵本のレオ・レオニとエリック・カールの関係なども調べがつかず手付かず、これも僕にとって英語の壁である。どうしてもディープな資料までたどりつけない)、サヴィニャックはカッサンドルの絵だけで見る人の心をつかむエッセンスを得る事が出来ていた事だけは確かだと考えている。 しかしまあ・・・僕が生まれる前のこと、1958年のミルクチョコレート、森永製菓という会社も、フランスでナンバーワンのポスターアーティストに自社のグラフィックを依頼するなんて・・・当時の進歩的な日本企業の心意気に触れることができて楽しい。ちなみに1951年の有名なChocolat Tobler=ショコラ・トブレー、実はこれは森永に採用されたものではない。森永でも今回の限定パッケージについての説明をしていないが、ショコラ・トブレーは1951年にフランスの製菓会社のためにデザインされたもので、この時には採用されなかったそうで、その後、森永から仕事の依頼があった時に、サヴィニャックは以前デザインしたショコラ・トブレーを森永に提出したのだそうである。で、これが金髪の男の子がダメという理由で不採用、で描き直されたのが1958年のミルクチョコレート・・・らしい。森永はボツにしたという理由で、今回の限定パッケージに使ったのかしん?ご担当者に伺ってみたいものだ。(2009,4,23) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

昨日の新聞の日曜版に三浦の春キャベツのことが載っていた。三崎口と三浦海岸を結んだあたりから南側に広がる平たい隆起台地の上、昔は大根ばかり作っていた畑だが今はキャベツ→スイカ・メロン→大根の三毛作が主流だ。確か、キャベツは三浦市が大根以外の主力産物を立ち上げようと30年ほど前に取り組みを開始して、今では関東有数の産地になったのだと聞いた記憶があるが、記事によれば現在の三浦の春キャベツは春だから春キャベツなのではなく、春キャベツという三浦向けに品種改良されたキャベツ(早口言葉みたいになってしまった、笑)なのだそうで、まん丸で中も真っ白ならぬ黄緑、柔らかくサクサクで極めて生食に向くものなのだそうだ。潮風が当たる三浦の畑は火山灰質、水はけ良く、生産者が海藻などを与えた土は農薬や肥料も少なく済み、良質な作物が出来るのだそうだ。さて、誌面をめくると、旅の紹介。この日曜版は一面で”食べものがたり”と題して産物を紹介するとその産地の旅を三面で取り上げている。三浦の旅は京浜急行の終点三崎口が旅の出発になっているが、昨年秋から京急の駅では電車の到着を知らせる駅メロが流されていて(オーナー住まう堀ノ内駅は渡辺真知子さんの出身地とのことでカモメが翔んだ日)、三崎口駅は山本コータローの岬めぐりなのだそうだ。作詞家の山上路夫さんは城ヶ島に行ったことはあるが三崎、城ヶ島あたりだけを書いたというわけではない・・・とコメントしているが、地元では岬めぐりの歌詞は三浦海岸、三崎口の駅からバスに乗り、剣崎やら城ヶ島に向かうところを歌っているものと信じられているそうだ。僕も、横須賀に移って自家用車を持っていなかったころ、休みの日にバスで小旅行を楽しんだものだったが、言われりゃなるほど、岬めぐりの歌詞がピッタリくる道程であることは確かである。 岬めぐりと言えば・・・ああ、この”岬めぐり”と”22才のわかれ”・・・この2つの曲が弾けるとギターの名手になれたものだったことを懐かしく思い出した。アコギをいじったことがある人ならわかるだろう。そのメソッドが正解かどうかは疑問だが、フォークギターの教則は大抵、”小さな日記”とか”時代”かなにかでアルペジオをやって、”岬めぐり”と”22才のわかれ”でスリーフィンガーを憶えるプロセスが常套だった。その間に、左手は難関の”F”コードが出てきて・・・この”F”とスリーフィーンガーの成否が”上手い!弾ける!”の分岐点だった。僕は高校入学早々、もう今頃の季節にはスリーフィンガーも”F”もすぐに出来たから、一応、「あいつは上手い」と指折ってもらえる人だった。ある日誰かが、「隣のクラスのTは上手いぞ」と言う。で、ライバル心むき出しでTと会うと意気投合、にわかグループを作って文化祭に出演することになる。学校中見ても、その日の演目のひとつ、アリスの”ジョニーの子守唄”のイントロを弾けるヤツはいなかったから、ルックスとにわかグループの練習不足を除けば一年生にしては良くやったと思っているが、そのライブの一曲目がTがボーカルをとった岬めぐりだった。岬めぐりという唄自体は、小学校の終わりころだったか、中野サンプラザのジュークボックスで友達と聞いて「こんないい歌が世の中にあるんだ・・・」と思ったものの、当時、ギターの腕の良し悪しはそれで決まってしまうような妙な存在感を持った曲だったから、文化祭で演目にとりあげたのも「俺たちは弾けるんだゾ」というアピールのためだったような気もする。”岬めぐり”というのはあくまで唄のタイトルだが、この唄以降、いちいち失恋しなくとも”岬めぐり”という旅の形ができてしまったのも確かなような気がする。 先週から営業時間を変更して、土曜日の午前中を家族で過ごす時間とさせていただいているが、先日は秋谷の立石に出掛けた。実は、このところ商品でリリースしている浮世絵にはまっていて、特に気に入った広重の”相州三浦秋谷の里”の風景を見たくなったのだ。思えば、北斎も広重も海っぱたを歩いて江戸時代の岬めぐりをやったに違いない。浮世絵コレクションは、良く知られる北斎の富嶽三十六景から”神奈川沖浪裏””上総の海路””相州七里浜””相州江の島”は取り上げたものの、横浜〜横須賀〜鎌倉など地元の海を描いた浮世絵に収集を絞ったので、余り知られていないレアモノが多くなった。北斎の”相州浦賀”は世界中で数枚しか現存しないし、広重の”鎌倉諸之内 由比ガ浜””江之嶋路 七里ケ浜””相州江之嶋”といった「東海道之内・・・」で始まるシリーズも日本には殆ど現存しない。(藤沢市がいくらか所蔵してるようだ。当社のものはロンドンのコレクターからソース提供を受けたもの)何故、こんなことにハマッてしまったのかというと・・・そもそも僕には変に研究熱心なところがあって、もう20数年前の話、タッチというマンガに夢中になった僕はマンガの中に出て来る電柱の住所番地を見つけては、練馬の中村橋あたりに出掛けて「ここを南ちゃんが歩いていたんだ」と一人感激したことなどもあったりして(お恥ずかしい・・・しかし喫茶店の南風はとうとう見つからなんだ)・・・そう、浮世絵を眺めていたら、特に三浦半島西海岸を描いたものは往時と現在、湘南道路と建物を除けば、ほぼ風景が変わっておらず200年近くも前の風景が現実にあることが面白くて仕方ないのだ。おまけに人後に落ちずデザインに興味が強い僕は、当然その風景のデフォルメや構成化にもそそられるのだ。地誌的に見れば、江の島が関東大震災で隆起したことも良く分かったり・・・これまた面白い。まあ、齢を重ねれば、”タッチ”が”浮世絵”に化けたりもするものである。(苦笑)(2009,4,20) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
テレビのチャンネルを回していたら、聞き覚えのある名前・・・写真家の広田行正さんが出ている。もう4年も前になるが、まだ開業前でオーシャンノートの商品をいろいろと物色する中に、現在のウェブ上、メインの商品となっている海のアートポスターがあって、無論、その方面の知識もなく、ただカタログを眺めては極めて感覚的に、言い換えれば好みに叶った海のアートポスターを買いあさっていた。タイトルも作者や写真家の名前も全部横文字で、そんなのいちいち読んではいられないから図柄で買ったものである。で、額装して商品の説明を書くときに初めて写真家や作者、その写真や絵の画題や取り上げられたオブジェクト(つまり、ヨットや船、灯台)のことを丹念に調べて勉強するわけだが、その中に広田行正さんの作品が何点か含まれていた。Iconという大手の版元のものはセンスが良くてお気に入りなのだが、そこに広田さんの写真が採用されているのだ。気になって逆に日本人の作品で、そのような世界的な大手の版元で・・・となると、全部調べつくしたわけではないが広田さんくらいしか採用されていない。無論、これは広田さんの作品が大きなストックフォトに登録されていることも関係しているように思えるし、それぞれの写真家の考え方や生き方でストックフォトに作品を出す人出さない人はそれぞれだから、それだけが優劣とはいえないだろうが、五万といる世界中の写真家と肩を並べて作品が商品として採用されているのも事実で、広田さんは近年ご活躍で知名度も相当なものであるようだが、それ以前から実力は世界レベルであったという事実は素晴らしいことだと思っている。テレビで広田さんを初めて拝見したが、大変に淡々と飄々としたお人柄のようで、まさに作風に表れているようで思わず手を打ってしまった。広田さんの奥様もエッセイなどでご活躍で、ご夫妻で様々な活動を試みておられるが、来月、葉山芸術祭参加の一環でご自宅アトリエで展覧会を開かれるそうである。 さて、写真家といえば・・・商売柄、検索エンジンでの検索結果や順位でオーシャンノートのサイトがどんな状況になるのかもたまにチェックしなければならないが、自分でも間違ってクリックしてしまうような、良く似た名前のウェブサイトがオープンしている。”オーシャンノート”ならぬ”アートオーシャン”というサイトである。サイトを拝見すると鎌倉腰越在住の大山俊一さんという写真家さんの販売サイトであることがわかる。残念ながら大山さんを存じ上げず、詳しい人となりも記載無く知りようもないが、クラシックヨットをご自分で撮影されたり・・・ある意味では日本人離れした、むしろフランスのプリソンや、イタリアのボレンギのような行き方を感じる。面白いことに、当社と大山さんのサイト、サイト名もひっくり返して一文字違いでそっくりなら、偶然にも同じサーバーとシステムを使用しているようで、その所為かサイトの作りも良く似ている。勝手にここに書かせていただいたが、これまたこの場で勝手にエールを送らせていただきたい。 最後に、お知らせ。この4月より営業時間を変更した。一応、水曜定休、毎日11:30から19:30の営業となっていたものだが、水曜定休は変わらず、営業時間は10:30から20:00、土曜のみ13:00から20:00となっている。勤め人の良い習慣?が身についていて、大抵朝9時前には店の前の掃除やら開店準備やらは終えている。ただ、銀行に行ったり、額装の資材を買いに行ったりと10時には行かねばならない用事も多々ある。一方、商品写真が明るいうちに撮り難いくこともあり、19:30に仕事が終わる事は少なく、そこで、実情に合わせ開店時間を公式に10:30に繰上げ、夜は30分繰り下げ20:00とした。代わりに、子供達を海に連れてゆく時間も欲しいので土曜日(日曜は子供達は教会に行くので)は開店時間を繰り下げた。一年ごとに細かく生活のリズムも変わってゆくものである。(2009,4,17) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
昭和37年の生まれである。昭和も40年代半ばだろうか、インテリアブームのようなものがあって、父も相当に家具というやつを買ったように憶えている。どこで? デパートである。でも、子供心に何で、家具はデパートで買うのか不思議だった。デパートは、やはり洋服を買うところのように思っていたからだ。三越だって、高島屋だって大丸だって元は呉服屋だし、両親が買い物をしてた伊勢丹だってそっちの出である。 時は下って、僕は学校を終わるとプラスという文具メーカーに就職した。てっきり、文具を生涯の生業にするのかと思いきや、配属されたのは建装部という部署。建装なんていう言葉、それまで聞いたこともない。平たく言えば、置き家具、造作家具から内装、調度品を含めた室内装飾全般を行うことを建装と言う。僕が配属された時のこの部署は間仕切りを売り出し中で、建装業務全般の中でも間仕切り販売に特化しようとした営業部隊だった。今も4月で新入社員たちが苦戦しているだろうが、電話が聞き取れなくて大変だったのを憶えている。「Ru Ru Ru Ru Ru ・・・」、電話が鳴る、「ハイ、プラス建装部でございます!」。「カミサですがぁ」「エッ?」「カミサです」・・・聞き取れない。隣席の上司に尋ねる「カミッサとか何とか言ってます」。「ああ、カミさんね」と電話を代わる。この電話の主、苗字は上入佐(カミイリサ)という珍しい方で、この部署の外部スタッフとして間仕切りの現場実測とか割付、積算などを手伝って下さっていた。新人の営業マンに難しい間仕切りの営業が勤まる筈も無く、暫く経ったある日、先輩の現場立会いの代理で夜遅くまで掛かったら、このカミさんが「小野寺、飲みに行くぞ」と歌舞伎町に連れて行ってくれた。僕にとってはカミさんは、とにかくどんな困難も屁ともせず間仕切りを納めてしまう神様みたいな人だったから、この夜、「カミさんって、どんな風に間仕切り覚えたんですか?」と訊ねた。今は、随分と街中の建物が良くなったからそんな苦労も減ったろうが、当時の建物の床と天井のレベル(水平ということ)はお話にならない。「俺はねえ、長く船舶やっていたんだよ・・・」船舶って何だ? 聞けば、こういうことだ。昔は、船舶の艤装や内装は最高の技術を持つ職人が腕を競っていた。船は一国の技術や文化レベルを世界に示すものだったから、予算もたっぷりあったし、何よりも職人達も最高の現場であるという誇りを持ってやっていたし、船の艤装は造作や間仕切りを納めるにもかなりの経験と実力が無いとできいものなのだそうだ。そもそも、船の床は水平に作られていないし、(今は違うようだが)その水平じゃなく、おまけに動けば”たわみ”が出る船内に間仕切りを建てて、造作家具を作るのは並大抵の技術じゃないそうなのだ。で、その時に聞いたもうひとつの話は、「百貨店の装飾部とか建装部、装工部なんていうのも、元々は船舶の艤装をやるとこだったんだよ」という話だ。 僕もインテリア業界で走り回ると、建築家やデザイナーが商品を指定してくれても、販売は最終的にデパート=百貨店を経由して・・・というケースが多かった。では、なぜ百貨店が室内装飾の請け元となっているのか?現在ではそれが一種の商習慣でもあり、資金力や価格交渉力など合理的理由もあるものの、時間を遡れば呉服屋さんであった百貨店の主力事業のひとつに室内装飾がなっており、それだけの技術力を持っていたからに他ならない。日本に西洋建築が入ってきたものの、当時、西洋流の室内装飾をできるものはいなかった。百貨店は、元々の生業の着衣で得た納入実績を役所や企業に持っており、このコネクションを活かして室内装飾までドメインを広げていったのだ。誰も出来ないから業種を開発したと言っても良い。土木上がりのゼネコンよりは、服飾から来た百貨店に分があったのも事実らしい。こうして、高島屋工作所、三越装飾部、大丸装工部などがホテルや銀行、宮内庁などで腕を競うが、その競争が一段と華やかだったのが船舶艤装・装飾で前述のとおり、納めるのが難しいからとりわけ腕の良い職人だけが選りすぐられた。このような室内装飾の伝統が、昭和40年代のインテリアブームの時のデパートの大きな家具売り場となっていったのである。 何で、こんな事を思い出したかと言えば、古い雑誌広告を集めて額装していることは以前にも書いたが、とにかく様々な広告を見ていて、いかに船会社に文化的な資源が集中していたかを感じざるを得なく、改めて感心するからだ。準備が追いつかず、額装品をリリースしそこなっているが、それをトリビュートしたポストカードシリーズは随分とリリースできた。タイタニックを沈めたせいで、評価がイマイチのホワイトスターラインが英国らしい野暮ったさを持たず、フランスやドイツのバウハウス様式、アールデコ様式の雑誌広告を出している事、フレンチラインは水彩画家マリー・ローランサンにも雑誌広告の絵を描かせているし、戦後もヴィルモットが何枚も描いている。ドイツはナチスの影があるゆえに偏見を持ってしまいがちだけど、生粋のバウハウス流で、現在見ても旧さを感じないほど洗練されたデザインセンスが光る・・・では、同時代の、他業種はどうかと見ると、当時の文化的資源が、香水、ファッション、客船に集中していたことは戦前の雑誌を見ればすぐに判る。戦前、美しいイラストの入った広告はこれらの絞られた業種しかやっていない。僕は、貴重な人類の遺産だと感じている。 ポスターというメディアは、19世紀末にロートレックなどが成功したことが奏して、1920年代には広く利用されていた。雑誌広告より早い。ここでもやはり、今に伝わる名作は旅行、客船、ファッションが圧倒的に多い。つまり、件の腕を競う場はそういったところにあったわけである。とりわけすごいのは、1935年就航のノルマンディーだ。この一隻に船のため、フレンチラインはカッサンドル、ポール・コラン、ヘルコマー、ジャン・オーヴィーヌの4人にポスターを描かせている。さらにブローシャー(作者不詳)が良く知られるものだけで2種類、一隻の船にこれだけ寄って集って画家たちが腕を競ったのは前代未門だろうし、カッサンドルは遡ること4年、1931年には、これまた歴史的アールデコの名作L'ATLATIQUEにイル・ド・フランスで衝撃を与えたばかりで、再び傑作のNORMANDIEを描いたのである。その気迫はいかばかりのものだったろうと興奮を禁じえない。ウチの店は海と船専門だからちょっとマニアックなものだと敬遠される方も多かろうが、僕は普遍的な名作が集結した貴重なデザインの歴史をダイジェストでご覧いただける場にもなっていると強く感じている。(2009,4,6) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

昨日は定休日、子供達は春休みで女房の実家に遊びに行っておりヒマ、夜は牧師さん2人を相手に会食の約束があって(3人会という名前がついているようだ、しかし・・・信仰心乏しい僕が何の縁で牧師さんたちと親しくさせていただいているものか・・・ありがたいやら恐れ多いやら)、どの道、横須賀中央に出なければならなかったので、結局、店を閉めていなければちょっとやりづらい細かい作業を済ませるも良かろうと思い、お昼スギに自転車で漕ぎ出すこととなる。朝のうちはそこそこ冷えたが、11時頃を過ぎた頃から暖かくなり、物見遊山よろしくノンビリと店に向かい県立大学の駅を越えて聖徳寺坂脇のガードを上ると・・・そうそう、暖かさに誘われ、毎年行き損なっている旧海軍横須賀鎮守府長官官舎の公開中であることを思い出した。早速、聖徳寺の角を曲がり、検察庁を超えて高台突き当たりの官舎に入ってみる。 上掲のパンフレットを配布しているので、それによれば、1881年(大正2年)の竣工とのことで、設計は国の重要文化財に指定されている呉の鎮守府官舎も設計している桜井小太郎という人、この人はロンドン大学に学び、日本人としては初めて英国の公認建築士の資格を持った人だそうである。思うよりはだだっ広い訳ではなく、普通の感覚の豪邸よりは執務空間などもあるために広いものの、瀟洒な洋館といったところだ。そうそう。乃木坂の乃木邸とどっこいかもしれない。ダイニングルームやリビングルームは立派で、ダイニングルームの椅子こそ当時のものでないのが残念だが(元家具屋ですから・・・多分、コスガの椅子だ。もう少し良いものを買っても良いように思う)、東郷平八郎のものと思われる書は見もの、また立ち入りは出来ず眺めるだけだが。マントルピースのあるリビングは立派で、当時そのままのスタンウェイのピアノがある。庭は良く手入れされており、残念なのは横須賀の田戸・公郷・三春町あたりからだとどこからもそうだが、残念ながらこの田戸の高台からも海辺のマンション群が折角の眺望を台無しにしている。まあ、もう建てちゃったマンションの上10%を切り落とせともいえないだろうが(国立では大真面目にそんな裁判結果が出たなあ、確か明和地所は建て替えちゃったように記憶しているが・・・) 朝はまだ、2分くらいだった桜、僅か2〜3時間で一気に7分くらいまで咲いたそうで、僅かの時間ながら花見を楽しんだ。官舎を出て、ふと気になった。今はこうして手入れされているが、何に使っているのだろう?門の外にいた自衛官氏に尋ねると、主に外国からの賓客の接待に使用しているそうな。この一般公開、年に一度だけ、今年は4月5日まで公開されている。公開時間は10時から4時まで。最寄駅は京浜急行県立大学(横須賀中央の次)県立大学からは徒歩7〜8分、横須賀中央からでも20分も歩けば行ける。問合せは海上自衛隊横須賀地方総監部 046-822-3500 (2009,4,2) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

クィーンメリー2を拝んだ。大層な早起きである。横浜港入港予定時間は0700。専門家じゃあないので、それが着岸時間か横浜港入港を指すのかはわからない。観音崎の海上交通センターによれば、浦賀水道入航予定時間は0415だが・・・今回はクィーンメリー2が横浜ベイブリッジをくぐることができず、大黒埠頭への着岸となるが、ベイブリッジ到達時刻から概ね2時間前くらいが浦賀水道入航時間にあたるらしい。すると、浦賀水道入航予定時間は0430あたりかも? 駐車場が開いていれば、浦賀の燈明堂に行きたいが締まっている時間なので、観音崎のたたら浜あたりと決めて出かけることと計画。虫の知らせか、はやまた魚釣りで身につけた早起きのせいか、それとも年をとっただけか(笑)、0400起床予定のところ、0320に目が覚める。0415あたりで出掛けるつもりだったが、早いに越した事は無いだろうと思い0400に家を出る・・・それが良かった。家を出て鼻歌まじりで海沿い、馬堀でやたら信号につかまりつつノンビリノンビリ、走水水源地を超え山を登り、走水港へ下って観音崎京急ホテルを超えると・・・あら、もう観音崎をかわしてクィーンメリーは来てる!でかい!この時時刻は0415。観音崎を越えるどころか、ロータリーまで行く間もなく、横須賀美術館前のなかね(貸しボート屋さん)の前に車を停める。 カメラの知識に乏しく、雨の中、真っ暗の中で撮れたのは上掲の写真だけ。結論から言えば、観音崎をかわしたのが0415あたりとすれば、浦賀水道入航は0400前後、予定より30分ほど早かったようである。前日の予定で出掛けたら見逃すところである。こちらも慌てた。京急ホテルを超えると、見紛うこともない、とにかくでかい!すぐに判る。(8日加筆、昨日は一夜明けて、QM2関係のご来客が多く、横浜市の乗船見学に当たったOさんは、100通も応募葉書を出して当たったそうだが、すでに5日には入港時間が6時に繰り上がった情報を得ていたそうだ。Oさんはとにかく詳しい方で、多々情報をお聞かせいただいたが、QM2・・・来年2月19日の2度目の寄港が決まったそうである。また、中の瀬航路併走クルーズのトライアングルも少し早まるとの情報を得て出航時刻を前夜のうちに繰り上げ、当日は海上交通センターの船舶無線を傍受し、QM2のコールサインを4時10分過ぎに傍受して4時15分過ぎに出航したそうだ。当然、こちらも併走に間に合ったそう) 大きいから・・・だけではない。個人的な思い入れが過ぎるかもしれないが、人類の歴史のバトンを携える、一種の神々しさがある。クィーンの名に恥じない凛とした美しさは唯一無二のものであった。何だが芭蕉の松島の気分、言葉にならない・・・(2009,3,6) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
クィーンメリー2・・・マニアックな方は、それぞれ見識をお持ちであろうから、この記事をご覧になっても、僕の一意見としてご批判はご勘弁いただきたく思う。今回は、この船が何故特別な船であるか私見を認める。やたらとクィーンメリー2検索からの本ウェブサイトへのアクセスが多いのでご参考までに・・・「建造当時世界最大だった」「豪華客船」「洋上の宮殿」・・・大抵そんな接頭文言がクィーンメリー2に付けられているものの、それじゃあ、今は最大ではないし、豪華客船ならゴロゴロしているわけで、あえて大騒ぎするほどのもんじゃあない。結論から言えば、この船のキモは、大西洋横断定期航路客船=オーシャンライナーである点に尽きる。 どれだけ大きくて豪華な船が他にあろうとも、これをやっている客船は今やクィーンメリー2だけ、今のところ最後のオーシャンライナーなのである。タイタニックの映画に詳しい人なら、ジャックが晩餐の場面で「僕の今の住所はタイタニック・・・」というセリフを憶えておられるだろうが、英語では”RMS Titanic”と喋っている。このRMSというのはRoyal Mail Shipの略で、英国の郵便定期運搬船のことを言う。定期航路船は安全基準と一定の性能を満たし、年間の安定した定期運行計画を策定した上、政府と契約しRMSを名乗ることができる。そもそも、帆船から汽船に時代が移るとき、石炭炊きの蒸気機関船が半月もかけて大西洋を横断すると、客船としてはとても採算がとれるものではなかった。キュナードの創業者サミュエル・キュナードは英国政府(当時の担当は海軍省だった)と掛け合って、郵便輸送業務の契約をとりつけ、この業務に莫大な補助金を出させることに成功した。国家としても、風任せの帆船と違い、その当時、速度は帆船より遅くとも、未だ電話も無線も無い中で決まった日に郵便が届くことに大きな国益を認めたのである。やがて移民が爆発的に増加し、19世紀末頃になると客船は乗客だけで採算がとれるようになるが、RMSの響きは絶大な信用力と補助金の金看板であった。日本郵船だって外国では括弧書きで(Japan Mail)を書いて信用力を誇示したし、逆に外国の客船を日本で宣伝する際は「英郵船」とか「仏郵船」と記すことになる。クィーンメリー2は正式にはRMS Queen Mary 2を名乗る。 オーシャンライナーに求められる性能は、豪華さでもサービスでもなく、船の安全性と速度である。すなわち、遊覧船のようなクルーズ船とは違い、嵐の中でも港に逃げることなく洋上を行き、かつその速度は概ね大西洋を一週間以内に渡らねばならない。今は飛行機の時代だから、嵐の中の定期横断を経験した方も少なくなってきたが、横浜に係留されている氷川丸が太平洋横断をやっていたころ、台風に巻き込まれたときは、船が最大27度傾いたそうだ。船が27度傾けば、殆ど床と天井は壁に感じる筈だ。一見、見た目は、ゴロゴロしている豪華クルーズ船と変わらないものの(細部は違いますよ)、クィーンメリー2は現代の船の水準で行けば分厚い鋼板を使い嵐の中を突き進めるし、速度は公試運転で29.5ノットを記録、巡航で28ノット、これは桁外れの性能なのである。船の理論上の速度は水線長(喫水線の長さ)で決まるが、無限に大きくしたところで採算上も、技術上も馬力が追いつかない。かつて大西洋航路に乗客が溢れた時代、つまり船を定員近くまで乗せて採算性と速度を満たすには、全長300m、15〜16万馬力、巡航29ノットという数字がはじき出された。この成功例がキュナードのクィンメリー(初代、1936年-1967年)、クィーンエリザベス(初代、1939年-1968年)、フレンチラインのノルマンディー(1935年-1939年)だ。船の速度は重要なファクターで、乗せる日数が長ければそれだけコストも掛かり料金も上げざるを得ない。船が速ければ燃料費が掛かりやはり経済上成り立たない。史上最速の客船はUnited Statesという客船だが、軍艦の機関を積んで、巡航35ノットを越えたものの、採算が取れたことは殆ど無く、全速で運転したのは最初の大西洋横断往復の時だけだったという。先ごろ引退したクィーンエリザベス2、これがまた桁外れの性能を持っていて、1987年の機関換装後、34ノットまで試したが、その気になれば35ノットを超えることも出来たと言われる。そのあたりの事情を含みクィーンメリー2の性能を見るとお分かりのとおり、もはや移動目的で乗船する人は皆無なのにも関わらず、巡航28ノット=約5日で大西洋を渡り、映画のタイタニックでも御馴染み、旧き伝統に則り客室の等級があり(戦前ほど極端に待遇が違うわけではないが)、なおかつ、キュナードの伝統、郵便運搬定期船の任を、これまた唯一無二の存在であったクィーンエリザベス2から引継ぎ、そのキュナードの旗艦として君臨するのが・・・・クィーンメリー2なのだ。 キュナードラインはステートメントで「わが社がRoyal Mail Shipの運行を止めることはない」と声明しているがそれは後の事、実は1990年代、クィーンエリザベス2の船齢が寿命を迎えつつあったとき、誰もがクィーンエリザベス2が最後のオーシャンライナーだと思っていた。ところがアメリカのカーニバルコーポレーションはキュナードを買収してクィーンメリー2を作ってしまう。経営者のミッキーアリソンは、タイタニックの映画を観てクィーンメリー2の建造を思い立ったといわれる。そしてあろうことか!クィーンメリー2を建造するために・・・キュナードを買収してしまったのである。ミッキーアリソン曰く「クィーンメリ-2を作るためにキュナードを買った。その逆じゃあない」。 心してご覧あれ、最後のオーシャンライナー、クィーンメリー2!(2009,3,5) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
3月6日、いよいよクィーンメリー2がやってくる。 因果なものである。輸入家具業界に20年、そのまま平穏無事に勤めていれば、会社を休んで(苦笑)クィーンメリー2を見に行くことも出来ただろう。幸か不幸か、極めてコアな商売を始めたばかりに、お仕事優先、クィーンメリー2を見に行くことが叶わなくなってしまった。もっとも・・・こんなコアな商売を始めなければ、会社を休んでまで彼女を見に行こうなんて思わなかったかもしれないが・・・当日は、お客様のSさんと横浜のどこに行こうか?などと相談もしていたのに。Sさんは横浜港でタグボートに乗っていた方だから港の隅々までご存知(だろう)だから、僕はSさんに言われるまま運転でもしたら良いと思っていたのだ。 さて、お知らせである。横須賀の三笠桟橋発、猿島航路及び観音崎航路、及び軍港めぐりで良く知られるトライアングルより、決定版!クィーンメリー2見物クルーズの企画が催される。横浜あたりじゃあボートをチャーターしたり、クルーズ船が出たりと、今ひとつ乗り気になれない(ゴメン)企画も目白押しだが・・・ちょいと違う、この企画はスゴイ。何と、浦賀水道の出口あたりでクィーンメリー2を待ち受けて、そのまま中の瀬航路を併走してしまうというとんでもなく面白い企画なのである。トライアングル社の泉谷さんに聞いた話じゃあ、入港時刻は決まっているものの、横浜港と海保の海上交通センターの情報には食い違いがあるそうで、そのあたりを長年のノウハウで情報収集して企画が固まったのだそうだ。僕が心配するのはクィーンメリー2が極めて高速な客船であることで、浦賀水道と中の瀬航路に速度制限があったとしても、追いつけるかどうか甚だ心配だ。その辺も聞くと、浦賀水道と中の瀬航路は規則上12ノットが最大速となっているが、実際は速い船は15ノットくらい出すという。勿論、15ノットで行かれるとトライアングルの船は追いつけないが、それはこの企画の面白いところ。クィーンメリー2を先に待って、彼女が見えると中の瀬航路の外側を横浜に向って走る、つまりクィーンメリー2を横で先導する形になって、その後彼女に追い越されるという計画だそうだ。で、中の瀬航路の出口付近でストップ、入港をお見送りするという寸法だ。これは・・・ユニークなり。昔から、名のある船が入港する時はタグボートやらクルーザーやらが併走するというのは外国の港の華やかな情景のひとつだった。これを当事者としてやってしまおうという訳なのだ。別に宣伝するわけではないが・・・これで朝食付き(サンドウィッチだそうだ)5000円はお得である。(放水はないのでヨロシク。トライアングル社の御馴染み客さまへの企画書はこちら) さて、話がこれだけなら、僕がクィーンメリー2を見に行くことには何の障害もなかったのだが・・・泉谷さんに相談されたのは、当日のトライアングル社クィーンメリー2歓迎クルーズの乗船客の皆様に抽選でプレゼントを差し上げたいとの話である。もう・・・時間もない。当社お得意のキュナードの販促品やポスター、船内販売品を作っている英国の取引先から品物を取り寄せる時間も無い。ケンケンガクガク相談しながら、当社在庫で間に合うものと以前から目を付けていたドイツのステーショナリーメーカーのクィーンメリー2グッズを新規に調達することで話がまとまった。トライアングル社とは、当然、狭い横須賀で互いに”船”という共通項で、いろいろなところで接点もあったが、船キチ諸氏への贈り物の気持ちも兼ねて、プレゼントの商品の調達納入に関して協力をさせていただいた。(個人的に企画があまりに面白いと感じた事もあった。名のある船の入港ごとにこんな企画があっても良いと思うのだ) で、結局、トライアングル社のクルーズの下船予定時間は午前8時、トライアングルでは当社の案内もして下さるそうなので、そうなると店は早めの時間から開けてなきゃあいけない。場合によっては、相当遠方からのお客様も居られるかもしれないのだ。(当社の場合、それはいつものこと。横須賀のお客様は、逆に少ないくらいであるが・・・)といった訳で因果因果。結局、クィーンメリー2をゆっくりと眺めることは叶わず(苦)しかしながら、日頃標榜する海の文化の啓蒙といった点においては、こうした出来事がもっと頻繁にあれば、日本人のあり方も、もっとグローバルなものに変わって行くと信じているし、僕が将来、外国にオーシャンノートの店を出したいと思うのと同時に、子供達は国境を越えた物の考え方、生き方をしてもらいたいと思っている。そう、船ってえのは、そんな気概のシンボル足りえる素晴らしいものだと思うのである。お迎え、見物、お見送りできないのは無念だが・・・(2009,2,21) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

凝り性の僕である。どこまでがビジネスか趣味か自分でもわからなくなる事もままある。このところ、古い雑誌広告を集めている。オーシャンノートをどんな風に育ててゆきたいかについては折りあるごとにここでも書いてはいるが、ひとつの理想は海事博物館があって、そこにミュージアムショップがくっついているイメージだ。博物館構想ではやはり同じ考えをお持ちの方もいて、ネルソンズバーのオーナー斎藤さんが実現に手をお掛けになっている。しかしながら、”集める”という作業は、育ちが良くないと出来るものじゃあなく(笑)、皆が欲しがるモノは市場原理で高価だから僕には手が出ないし、皆が欲しがるものを買って後生大事に押入れの奥に仕舞っておいて自慢しようとも思わない。飾ってなんぼ、見て何ぼ、見せてなんぼである。ここに、ピタッとはまったのが雑誌広告である。 何せ60年から80年も前の雑誌広告そのものである。初めて手にしたときは、少々手が震えたものだ。もちろん、オーシャンノートのテーマは海だから、何でもありというわけではなく、現在は客船の広告を中心に集めている。雑誌広告の切り抜きと一言で言うが、今はまだその価値は知れている。1950年代以降のモノは雑誌発行部数が多いので結構出回る。しかし、大戦前のものはグッと数が減る。20年代になると本当に少ない。雑誌というメディア自体がまだ育っていないし、例えばポスターというメディアは19世紀後半にはフランスのロートレックらの活躍で育っていたのに比べれば、その有用性が認められ広まるのは印刷技術も発展してきた1930年代以降なのだ。これに客船というテーマを重ね合わせると、言えばタイタニック(1912年)の雑誌広告ははなっから存在していないし、1950年代以降はモータリゼーションと航空機の時代だから、自動車や航空会社の雑誌広告はやたらと数が多いけれど、30年代から60年代まで通期で、客船の雑誌広告は総量にして概ね自動車の20分の1、航空会社の10分の1くらいなものと思う。”貴重”と大げさに言うほどではないにせいよ、ゴロゴロしているものではなく、まして総量が限られているから、その一枚を二度と手に出来るかどうかは難しい。アメリカ、英国、フランスあたりでの相場は、名のある船のもので、5ドルから高いのは40ドルを超える。雑誌の切り抜きが高価ではないながら”商品”のように扱われ始めたのは、アメリカでもこの10年くらいのものだ。先行きはわかるものでもないが、今なら比較的手に入りやすいのも事実だ。それでもヴィトンだとかティファニーのものは既に結構な値がつき始めているから、それがどの分野であれ、興味にある方は要マークと思う。ティファニーなんかの正調アールデコは見ものである。 そうやって、せっせと集めると、一枚一枚に伺い偲ばれる当時の情勢やら状況がぎっしり詰まっていて、もっと知りたい・・・という願望に駆られるから不思議だ。1937年のキュナードホワイトスターの雑誌広告に大きく写る航海士・・・名前はボックスホール、そう1912年にタイタニックから生還したボックスホール四等航海士だったりするのだ。さて、これをどうやって飾るか?裏打ちを検討するものの、保存性の問題から手軽な3Mのスプレーやペーパーセメントの使用は見送り、表具屋さんでの裏打ちは湿式なので断念、基本的に両面印刷だから裏が透ける事もありえるので、構想3ヶ月、ビンテージアドポスターシリーズのリリースに至ったのである。材料は無酸性に徹し、やはり、資料として大切にしなければならない点と、保存性、可逆性、鑑賞を極めて納得できる妥協点で商品化したつもりだ。 さて、お知らせでも案内しているが、こうした紙モノの収集家としては日本でも3本の指に入る、府川義辰さんの展覧会が恒例によって平塚の郵便局で開催中だ。(27日まで)府川さんは上述の雑誌の広告も誰も気にしていなかった50年代からしっかりと集めておられたし、その資料としての重要性は”栄光のオーシャンライナー”誌上でも資料として提供されたことからも理解できるところだ。府川さんとは数年来、不躾ながら年賀状も交わさせていただいているが、このところ、府川さんはコレクションの整理・処分をされており、僕も幾らかお譲りいただいたのだが、もしかすると・・・お話をお聞きしてはいないが、今回が最後になるかもしれない。今回の目玉はフランス、サンナザールのアトランティック造船所のクィーンメリー2のデッキプランの展示だそうである。いろいろお伺いして察するに、今後、今までと同様にコレクションに励むことはないようなので・・・幾らかお譲りいただいたこともあり、これをひとつの文化研究のあり方として、”勝手に”意志を継がせていただくつもりである。(2009,2,9) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

某ネットモールからの勧誘が3日おきくらいに来るが、先般はガイアの夜明けにそこの成功店さんが出る案内をもらい番組を見た。とても手が回るわけも無く、オーシャンノートがモール出店する可能性はゼロに近いが、第三者的にテレビで見れば、モールであろうと自前であろうと、ウェブで何かを伝える、それはいずれにせよ大変なことだと思う次第だ。わが身に振り返れば、新商品ラインデビューに途方も無い時間をかけている。僕は地道でアナクロな人間だから、このウェブショップでもあまりシャレたプレゼンをすることが出来ない。ウェブ自体をお褒めいただくことも多く、今風の”ウェブマスター”を颯爽とこなしているように勘違いされるが、何のこたぁない、一杯一杯でやっているのだ。時間がかかるのは、ズバリ、商品の説明文だ。簡潔に要領良く書けば良いのだろうが、自分で販売するのに知らないことがあるのは許せないタチだし、僕は分裂症気味にひとつの事を掘り下げてしまうから、結果的にどうしても文章量も多くなる。新商品ラインは、先々横の広がりが出るとは思うが、今のところ客船がテーマになっている。元々、一枚の額装ポスター・アートの画題や作者を調べるのに不合理なほど時間をかけているが(普通の会社なら採算性で問題になる・・・苦笑)、今回はいつもの要領に輪をかけて時間をかけている。時間のかけがいがあると言い換えてもいいだろう。 死ぬまで勉強とは良く言うが、じっくり取り組めば、プチ発見はいくらでもある。先日もニューヨークのモノクロ写真のコレクションで高名なベットマンアーカイヴの間違いを発見してしまった。写真を撮影した年代が間違って記録されていたのだ。まあ、別に間違い探しやアラ探しをやってるわけではないのだが、こうして再度史実を掘り下げると、改めて良い手引き書だと感心するのが上掲の本だ。書籍の中身が、装丁や希少性ではなく内容だとすれば、特に定期航路時代の客船を知るなら入手の機会があれば手にとってみて損はない。5年程前、オーシャンノート開業の準備をしていた頃・・・特に大西洋定期航路客船に強く惹かれて、今も昔も日本にはその手の情報が乏しく、いきなり洋書を買い集めてみた・・・が、大した英語力もなしにマニアックな内容を読解するのは無謀であった。困ったところに栄光のオーシャンライナーが現れた。ムックという体裁を俗っぽいと敬遠する人もいるが、もしこれがハードカバーで英語併記だったら、海外ではベストセラーである。今では、調べごとのために様々な本を手にした結果からも、分かりやすさ、考察、史実の解釈、どれをとっても優れていると承知している。エディターの西村慶明さんは本職はイラストレーターだそうだが、交通史に造詣が深く、これまたソフトカバー、マニアの王道(苦笑)シリーズから上梓されている”客船読本”も、カバーに「誰も教えてくれなかった客船のツボ」のコピー通り、なるほどと思わせる盲点が山盛りでウレシイ。このあたり、俗っぽいといえば俗っぽく、インテリ層には手にしづらい(爆笑)のも事実だろう。僕は定本なんていうものは、人それぞれ微妙に違って結構だと思うし、いまだにピアノを習うのにバイエルばかりじゃあイカンと思うのと同様、手の内をばらすようだがこの二冊、僕にとっての定本である。もう少し、”書籍”寄りに振れば、”豪華客船の文化史”が今のところ、和書で定期航路時代の客船を読むには最良の書籍となるだろう。著者の野間恒氏は、格を付けるのものではないが、2007年の暮に無くなったアメリカのフランク・O・ブレイナード氏、ハンブルグのアーノルド・クルダス氏、アメリカのビル・ミラー氏と並ぶ世界的な客船研究家といって差し支えないだろう。野間氏は特に客船の写真のコレクションに秀でておられ、ビル・ミラー氏の著作のために写真を提供されているし、上記の研究家諸氏との親交もお持ちである。豪華客船の文化史の執筆にあたっては亡ブイナード氏の助言も得たそうだから、内容はお墨付きといっても良い。 長くなったが、このあたりの3冊に加え、どちらも古い翻訳書だが”大西洋ブルーリボン史話”(トム・ヒューズ著)や僕も高価で手に出来ていない”豪華客船スピード競争の物語”(デニス・グリフィス著)あたりを読めば・・・洋書を手にとってもチンプンカンプンになることはない。洋書は、文章が多いものはどの道苦戦するものだが、例えば、オーシャンノートで販売しているものは、図版の多いものを選んで(単にオーナーの能力の問題?・・・苦笑)いる。上掲、ビル・ミラー氏の3部作( The First Great Ocean Liners 1897-1927、The Great Luxury Liners 1927-1954、Great Cruise Ships and Ocean Liners from 1954 to 1986 ) はペーパーバッグながら一通り時代を網羅しており海外の趣味人には必携の定本である。(1927-1954編は現在絶版、近々必ず再販されるので高価な稀少本は買わない方が良い)こうして、このところ進行が著しい老眼と闘いながら、日々、ある種考古学的な考察に取り組んでいたりするのだが、先般も日記に書いた”世界の新鋭クルーズ客船”の著者でもある府川義辰さん、紙モノのコレクションではナンバーワンではないかと拝察するが、現在のコレクション整理にあたり、僅かながらコレクションをお譲りいただいた。老眼に鞭打って穴の開くほど府川さん譲っていただいたモノを眺めると・・・何とまあ、”栄光のオーシャンライナー”の中で実際に資料として掲載された1930年代当時の雑誌広告そのものだったりして・・・世間は狭いというけれど・・・(2009,1,29) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

やはりメディアの力は凄いもの、年末の優良商店表彰の時に、はまかぜ新聞社の取材を受けたのだが、その記事が掲載されて(記事はこちら)日に5本ばかりのお電話をいただいている。もちろんご来店のお客様も多い。 記事をご覧になって見えた方の中に意外な方もおられる。飯塚羚児画伯のご子息にあたる方である。恥ずかしながら、飯塚羚児画伯の名を言われても、すぐに手を打てるほど教養が無く(基本的に美術商や骨董商を志していなので暗いのだ。この身が二つあれば・・・)、いろいろと業績を教えていただいた。無論、ご存知の方は多いことと思うので簡単に書けば、戦前は少年倶楽部などの雑誌に軍艦や帆船の挿絵を描き少年達のあこがれの存在として著名になられ、戦後は海洋画家、版画家としてご活躍された。良くあるタイトルだが、やはり徹底したメディア嫌いで”孤高の画家”とも言われる。沖縄海洋博の為に製作された日本丸は香川琴平の海洋博物館に所蔵、咸臨丸の絵は防衛大学に飾られている・・・などなど。ご子息からのお話は多々あったが・・・ひょっとしたら余り大きくない作品をお持ちいただける・・・かもしれない。来るものは拒まず、去るものは追わずなのでどうなるかはわからないが・・・ とか何とか、やっていると”来るもの”で楽しいK様が立ち寄られた。いつも病院の帰りにお立ち寄りになられるのだが、Kさん、お年をお尋ねしたことは無いものの、恐らくは昭和初めのお生まれと拝察する。今日はおみやげに画像の絵葉書を頂戴した。APL=アメリカン・プレジデント・ラインのプレジデント・ウィルソン15359tの客船だ。何とKさんはこの船のパーサーを勤めておられたのだ。以前からお話はお聞きして、1953年、エリザベス女王の載冠式に皇太子殿下(現天皇陛下)が乗船された時のお話とか、当時の丸の内のAPLの東京支店のお話とか・・・本でもDVDでもない、本当のリアルなお話をお聞かせいただけるので僕もKさんが立ち寄られるのを楽しみにしている。今日は、当時のAPLの身分証(乗船パス)をお見せいただき、唸ってしまった。APLは昭和37年生まれの僕には縁が薄い話になるが、戦前生まれの方にとっては、まさに”あこがれ”の客船会社だった。あの”あこがれのハワイ航路”もAPLの事を歌っているのだそうだ。僕の客船研究は、現段階では大西洋航路オンリーで太平洋航路には手が付いていないのだが、APLはアメリカ政府出資の船会社で現実的には東アジアの駐留軍将官御用達の客船を運航という色合いも強かったらしい。アメリカは戦時中に大量の客船型の兵員輸送船を建造したが、その設計をそのまま流用したのがプレジデント・クリーヴランドとプレジデント・ウィルソンだ。速度は19ノット、西航はサンフランシスコ〜ロサンゼルス〜ホノルル〜マニラ〜香港〜横浜(この頃、大桟橋は米軍に接収されサウスピアーと呼ばれていたそうな)、東航は大圏航路をとってベーリング海まで北上して西海岸へ戻る航程だった。1952年には奇しくも大桟橋返還と時を同じくして民間会社に転換、Kさんが乗船されたのはこれ以降のことと思われる。Kさんは、その後70年代までAPLにお勤めだったそうで、1976年にはセール1976(未だに伝説のアメリカ建国200年の帆船パレード)の世話役などもこなされたそうで、今度はその時の資料も見せて下さるそうだ。今から楽しみである。(2009,1,17) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

今年最初の店長日記は門松代わりの”小松”のデミタスカップで始めたが、松の明けぬうちに殆ど常連さんの手許へ旅立ってしまった。で、昨日の定休日は松の明けぬうちにお正月をせっせとこなす。 朝は七草粥である。僕は、一人暮らしのお正月でご馳走にあやかってもおらず不要といえば不要だが、店の休日だったこともあり、夜の明けぬ前から5年前の出来事・・・長女が生の七草をかじっていたことをたまたま思い出した。これは、なかなかかわいい写真が残っているのだが、思いついたが好事と思い24時間営業の西友へ車を走らせ七草を求めてきた。その頃の長女は、にんじんでもピーマンでもそのままかじる子で、我が家の野菜にはみんなかわいらしい歯型がついていたものだった。僕以外の3人は僕の実家と女房の実家でご馳走をたらふくいただいただろうし、暦のお陰で水曜日が7日で学校と幼稚園も冬休み最後の日、にぎやかな七草粥をたんといただいた。 次は初詣。結婚してからは横須賀の走水神社に行っている。僕は無神論者ではないが、神も仏もアテにはしない方だ。どこに行こうが構わないが結構な古刹というところと社から海が一望できる走水神社が気に入っている。結婚前までは、鎌倉の鶴岡八幡宮に行っていた。鎌倉という土地がミーハーに好きだったし、密かにわが身を源氏の末裔と信じていたから(これは半ば冗談、小野寺という姓は、由緒正しく行けば平家だ。平家の末裔が会津あたりに土着したものが、秀吉や家康との折り合い悪く取り潰され、実力に勝る、伊達、最上、上杉に追われるように庄内から津軽あたりに散っていったという。もちろん当家がその正統にあるわけもなく・・・)随分長く習慣としていた。結婚して、妻のお腹に長女がいたり、次女が年末に生まれたりと、とても正月に鎌倉まで行く余裕がなかったが、鎌倉離れが決定的になったのはオーシャンノート開業秘話第三の巻(大げさ!)、鎌倉商工会議所と神奈川県中小企業センターのチャレンジショップ応募だった。何の根拠も無く憧れの鎌倉にオーシャンノートを開店したかった僕は、以前にも少し書いたが、ある日、プラス勤務時代の先輩Iさんのヨットの上で「お前、何にも手がかりがなけりゃあ、商工会議所に行ってみな」と言われた。で、門を叩いたのが鎌倉商工会議所。とりたてて意地悪をされたわけでもないが、やはり排他的な土地柄らしく親身になってくれることもなかった。ただ、そこで貰ったパンフレットの中に横須賀商工会議所の創業セミナーの案内があって参加することにした。約3ヶ月、あれこれ勉強する中、腕試しではないのだが、事業計画を客観的にコンペティションする場を紹介された。そのひとつが神奈川県のチャレンジショップというコンペだ。これに合格するとかなり結構な支援が受けられるのだが、約2ヶ月間、現地鎌倉の人口、来街者や消費単価など様々な、いわゆるマーケティング的な研究も含め壮大な事業計画を作ったものの結果は不合格。最後のプレゼンテーションの事は一生忘れない。ネット上の個人攻撃は卑怯なので当然のこと姓名は伏せるが、商品を持ち込んで汗だくになってプレゼンする僕に、まるでゴミを見るように商品を指差し「こんなもん、誰が買うんですか?鎌倉の人はこんなもん買いませんよ!」とご批評下さった中小企業診断士の某のことを僕は一生忘れない。診断士として鎌倉とは縁深いご様子だったが、彼女も行政から業務委託をされてりゃあ、こちらも一応納税者なのだし、度を逸した失礼な物言いは何人にも許されるものではない。誰が買わずとも、お陰さまで沢山のお客様に喜んでいただいているし、鎌倉からわざわざいらっしゃるお客様も数知れない・・・実はこの時、やはり審査員でおられた数名の中のお一人、中小企業診断士のO先生とは別の場で再会することになる。やや傷心で風向きの悪い鎌倉をあきらめ一転、不思議な因縁を感じ、娘の通う幼稚園近く、横須賀上町に開業の場を絞り、やはり横須賀商工会議所の勧めで、横須賀市のベンチャー事業支援に応募、これまた厳しいコンペを勝ち抜き(この選考は本当に厳しかった!)認定に漕ぎ着けるが、さあ開業となった時、たまたま用事で訪れた横須賀市経済部で今度は商店街活性化の為の空き店舗入居への助成制度があることを知らされ、その第一回のコンペに応募することになる。そこでビックリ、その最終プレゼンの審査にO先生が居られるではないか。さすがにお互い苦笑いである。O先生にすれば「こりないなあ・・・コイツ・・・」と思われたことだろう。結果的に、これも合格、O先生が寄せて下さったと思われる講評には「信念がある」と記されていた。そりゃあそうだろう。あれだけ味噌糞にやられた事業計画を諦めないで磨いているのだから。先般、横須賀市優良商店の表彰をいただいたが、実はこの”空き店舗入居への助成制度”には商店会への加入が義務付けられており、横須賀市経済部の橋渡しで上町銀座商店会の役員会に初見参させていただいたことがきっかけとなり足掛け3年、商店会長からの推薦となってゆくことになるのである・・・と、まあ古事記や日本書記にも記される走水神社から随分脱線した話題になって恐縮である。 冬休みも終わりなので、初詣を終えて久しぶりに城ヶ島まで足を伸ばす。島の裏側(どっちが裏になるのか知らん?)の馬の背洞門、なんだが橋になってる部分がひとまわり細くなったような。娘たちが、そのまた子供に、いつか「ここは洞門というアーチになっていて・・・」なんて語る日もあるだろうと思って写真を一枚。10年も経てば、この洞門、崩れてしまいそうである。ちなみに、禁じられているから絶対にやらないでほしいが、女房は結婚してすぐのころ、この洞門の上を歩いて渡った。高いところが苦手な僕は、未だに渡ったことがないし、怖くて渡る気もない。もっとも、女房も洞門のアーチの痩せ方を見て「今なら渡れない・・・」というが、僕には洞門の痩せ振りよりも、彼女の体重が増しただけのようにも聞こえる。やはり七草粥は正解だったと思うのである。(2009,1,8) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ

あけましておめでとうございます。昨年同様、オーシャンノートは元旦から営業中です! 暮に、海軍料亭”小松”のデミタスカップを入手、松の柄が縁起模様なので、門松代わりに正月用のディスプレーに使っている。このカップの縁起の詳しいことはわからないが、カップの底にはMINOCHIYAとあり、合羽橋のミノチヤキッチンセンターが調製したものとわかる。おそらく多治見あたりの産だろう。戦後、進駐軍の指定飲食店だった頃、1940年代から1950年代に使われたものと思われる。ひょんなことから、全くの未使用品を数客手にいれた。やっぱり横須賀ならではと思わざるを得ない。残念ながら”小松”で食事をしたことはないのだが、よい折と思い勉強のため絶版の海軍料亭”小松物語”を買ったら、これまた無くなられた小松の女将、山本直枝さんの毛筆サイン入り!!何だが因縁めいた小松である。この小松のカップ、オーシャンノートは古物商ではないので、骨董まがいにとんでもない値段で売る事はしないが、御馴染みさんには”個人的”にお譲りしている。 まあ・・・元旦から店長日記を書いたりしてはいるが、さすがにヒマ・・・ではある。午後からは、お馴染みさんがお酒持参で来店の予定、昨年のように前後不覚の居眠りにならんように、自戒自戒(2009,1.1) ポスター・アート販売 海専門店 ”オーシャンノート” トップへ
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