船と港のエッセイ 1 CONTENT

「船と港のエッセイ 1」 日々、つらつらと綴ってきた店長日記も10年目に差し掛かる。船と港を書いた散文をピックアップ、一部加筆手直したエッセイ仕立てのコンテンツ。店長日記 Best of the best ・・・ 小野寺俊英

20. クイーンメリー2の図面

クイーンメリー2の一般配置図を入手。長さ2480mm、2A0半(ニ・エーゼロ・ハン)の超特大図面である

19. Cunard Queensの船内消印ラストカバー

クイーンメリーとクイーンエリザベスの最終航海・船内消印のカバーが揃った。額装を施し、飾って楽しむ

18. クイーンエリザベス2のパター

クイーンエリザベス2のブロンズスクリューを鋳直して作られたパター。製造はセントアンドリュースのSwilken社

17. BOAC CUNARD

客船史に埋もれるBOAC CUNARD。1/400ダイキャスト模型、BOAC CUNARDカラーのビッカーズVC-10に記憶を留める

16. ハワイ・カラカウア王の来日

明治14年カラカウア王訪日、ハワイ王女と皇室に縁談。まとまればハワイは日本と併合、布哇県になったかもしれない

15. 大さん橋と横浜ベイブリッジの高さの記事

横浜開港150周年の新聞特集記事。横浜さん橋物語りを読む

14. 船舶という分野、職人腕を競う

かつて船舶の艤装や内装には最高の職人が集まった。高島屋工作所や三越装飾部も船舶の内装装飾で腕を競った

13. クイーンメリー2とは

クイーンメリー2は、現在世界でただ一隻の大洋横断定期客船=オーシャンライナー、堅牢性と航海性能はけた外れである

12. 客船史

「栄光のオーシャンライナー」「豪華客船の文化史」「大西洋ブルーリボン史話」・・・客船史勉強の手始めに最適の参考書である

11. APLの客船プレジデントウィルソン

APLの客船、プレジデントウィルソンのパーサーを務めたK氏から皇太子殿下(今上天皇)の訪英、乗船時の話を聞く

10. 今更タイタニック、尚更タイタニック

我が家は映画タイタニックのブーム。船主ブルース・イズメイの名誉回復はなるか。TITANIC 3 の構想

9. 氷川丸の積荷

昭和5年5月28日、日本郵船の氷川丸が初めてのシアトル入港。積荷には「種牡蠣58トン」この牡蠣こそ「クマモト」である

8. ネルソン提督 帆船ビクトリーとラム酒

戦艦ビクトリーは、トーマス・スレイド卿設計の革新的帆船だった。戦死のネルソン提督はレモンハートに漬けられポーツマスへ帰還

7. 氷川丸を見る~横浜はスゴイ

横須賀市民としては、日本最初の洋式灯台にちなみ、観音崎灯台のヴェルニーが灯台の父であっても良いと思う

6. 戦没船員の碑 2008

先の大戦、陸軍20%海軍16%の将兵が未帰還。が、軍人でもない商船船員の未帰還率は驚くなかれ43%だった

5. 海軍記念日 東郷元帥の大将旗

日本海海戦時の東郷長官大将旗の掲揚。旗は東郷元帥が留学先だった船員学校に寄贈、2006年英国より東郷神社に返還

4. 客船クイーンエリザベス2 退役へ

客船クイーンエリザベス2の退役が発表された。初来日、横浜寄港の時は小学校6年生、父に連れられ大さん橋へ見に行った

3. 氷川丸物語(かまくら春秋社)

かまくら春秋社倉庫から氷川丸物語を発掘。日本客船史に足跡を残す名著は、日本郵船や氷川丸に関する被引用が多い

2. 船の科学館にて海王丸を見送る

船の科学館を訪ねる。丁度、帆船海王丸が出港、知人の計らいで長女が海王丸見送りの汽笛を鳴らす

1. 船の科学館の二式大艇

南洋航路の二式大艇は根岸湾から飛び立っていた。船の科学館保存の二式大艇、現在は鹿児島の鹿屋にある

20. クイーンメリー2の図面

クイーンメリー2の一般配置図

来る2月19日、クイーンメリー2、二度目の来航である。丁度ドンピシャのタイミングで世にも珍しいクイーンメリー2の一般配置図を入手した。キュナードのパンフレットを見れば、デッキプランは普通に見ることができるが、どういう事情で入手されたのかは知らないが、客船の紙モノのコレクションでは世界的にも知られる神奈川県在住のFさんが、クイーンメリー2の一般配置図(外国ではジェネラル・アレンジメント=G.A.という)を数枚入手された。昨年、県下平塚郵便局で展示されて新聞でも話題になったのだが、この日本に数枚輸入された「青焼き」の一般配置図を譲っていただいたのである。大変貴重な資料であることは確かだし、例えば模型作りのまたとない資料など有意義な活用の一助にもなりえるので複製できないかという話が出て、さすがこのあたりが横須賀なのだが、自動車の原寸図面の出力などもやっている専門家にあたって複製を製作してもらった。何せ幅840mm、長さ2480mm、サイズにすれば2A0半(ニエーゼロハン)、専門家でもちょっとした大仕事だったようだ。結果的には職人技で複製に成功はしたが、「原本の青焼き」が本物ではないため、極薄い「トレーシングペーパーの第二原図」を起こさざるを得ず、その第二原図を元に作る「複製の青焼き」は30枚しか製作できなかった。

今は昔と違って、設計製図はCADでやる。そして出力はプロッターによって通常の白色紙になされる。昔は大判PPCコピーの品質が悪く、建築図面では起端と終端で誤差が大きくて使えないことも多く、そもそもPPCが普及する以前は図面出力の手段が無いわけで、図面はトレーシングペーパーに描かれてから青写真やジアゾ青焼きで出力されるのが普通だった。ということは数枚だけ輸入された青焼きのクイーンメリー2一般配置図は何物なんだろう?と、今回の第二原図製作と複製をやってくださった専門家とも検討してみた。図面の精度から見て、どうやら造船所でプロッター出力された白図を何者かが持ち出して、その本物の白図から第二原図を製作、その第二原図を焼いたものが日本に数枚輸入された青焼きだとの結論を得た。そこで、整理とチェックがてら手持ちのクイーンメリー2映像を見ていたら・・・あった、ありました! フランスで製作されたビデオ「THE NEW QUEEN OF THE SEA」は、設計者のステファン・ペインがフューチャーされた珠玉のドキュメンタリーフィルムだが、その中に本物の一般配置図が出てくる。上の写真だが、一枚目の折り目があるものはペイン自身が机に広げているところ、二枚目はプロッターで出力されるところだ。そして、その一般配置図は下の三枚の写真のように設計室の壁に貼られたり、打ち合わせに使用されている。

普通の人には用のないものだが、複製とはいっても2A0半にも及ぶ名船の図面だ、見ているだけで何とも言えないロマンチックな気分になる。もちろん、スクラッチの模型作り資料には欠かせない。一般配置図だから船体の断面形状などはわからないが、船全体の配置がわかっていないと模型は作れない。現に、現在、千葉県某所で1/200のクイーンメリー2を制作されている方がおられ、人を介して本図をお渡ししたところ大変に喜ばれた。今回の図面については、長いことインテリア業界で建築に関わり、なおかつトレペに鉛筆、ジアゾ青焼き時代を経験していることが大いに役に立った(2010,1,31初稿、2015年加筆)

Cunard Queensの船内消印ラストカバー【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 【船と港のエッセイ】

19. Cunard Queensの船内消印ラストカバー

Cunard Queensの船内消印ラストカバー

相変わらず日本では余り興味を持つ人が少ない大西洋航路のスーパーライナーに執心である。以前からクイーンエリザベスのラスト航海のカバーを持っていたが、クイーンメリーのカバーも入手したので、Queens Last Voyageと銘打って額装してみる。カバーを傷めない様にコンマ5mm単位で採寸してマットをカット、無酸性のコーナーやテープを使用して結構な神経を使う作業で、老眼の進行著しい身には厳しい作業である。引き出しの奥からカバーを取り出し夜中に一人で開帳してニヤニヤしていても始まらないから、こうして飾って楽しめるようにしたら良いのではないかというのは僕の提案である。

スコットランドのジョンブラウン造船所も閉鎖されて久しく、今や米国資本になったキュナード社ながらその運航客船は英国船籍であるものの、クイーンメリー2はフランスのアトランティック造船所、クイーンヴィクトリアと建造中のクイーンエリザベス(3代目)はイタリアのフィンカンティエーリ造船所で建造、思えば英国の黄金時代の最後を飾ったモニュメントとしてもクイーンメリーとクイーンエリザベスは無二な存在である。直立したブリッジに水線部が長いスターン形状は伝統的なクラシカルなデザインで重厚感を持つ。1936年に就航したクイーンメリーに続き1939年には姉妹船のクイーンエリザベスも就航して2隻でウィークリーサービスの予定だったが、クイーンエリザベスはクライド河からサウサンプトンでの命名式には向かわずニューヨークへ急航する。かくして第二次大戦中、クイーンズ姉妹は兵員輸送に大活躍、大戦後に大西洋航路に復帰すると戦時中の酷使がたたり往年の船足は望むべくもなかったが20年越しで悲願の2隻ウィークリーサービスを実現する。航空機時代が到来、2隻はクイーンエリザベス2の就航を待たずに退役、1967年にクイーンメリー、1968年にクイーンエリザベスが退役する。写真のカバーはそれぞれのラスト航海の時、船内局で消印されたものである(2009,11,19初稿、2015年加筆)

クイーンエリザベス2のパター【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 クイーンメリー2の図面【船と港のエッセイ】

18. クイーンエリザベス2 QE2のパター

クイーンエリザベス2、スクリューブロンズのパター

オーシャンライナーに熱を上げていたら、魚心に水心だろうか、新しいコレクションが仲間入りした。クイーンエリザベス2のゴルフパターである。自らの戒めとしてゴルフとカメラには手を出さないことを信条としているが、このパターはクイーンエリザベス2のスクリューを鋳直して作られたものである。1987年、蒸気タービン発電+モ-ター推進からディーゼルエレクトリック+モーターに機関換装するとき、QE2の6枚羽の固定ピッチ6枚羽のスクリューも可変ピッチ5枚羽のものに交換された。その外されたスクリューのブロンズを鋳直してゴルフクラブを作ったのである。クラブ製造はあのマスターズのセントアンドリュースにあるSwilken社で、フルセットのものは1000セット製造され日本では当時150万円だったそうである。これはそのセットものとは違うパーシモンヘッドのパターで、飾り台付のものだ。

人それぞれの嗜好があって・・・ポスター類、パンフレットやブローシャーの紙モノ、写真、葉書、船具・・・一言にコレクションといってもいろいろな方向があるものだが・・・僕にとっては、そんなジャンルを越えて、かつて恋焦がれたQE2のスクリューがそこにあることは何だかとても不思議で幸せな感じなのである(2009,11,12)

BOAC CUNARD【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 Cunard Queensの船内消印ラストカバー【船と港のエッセイ】

17. BOAC CUNARD

Aero Classics 1/400 VC-10 BOAC CUNARD

海ではなく空の話になるが・・・ニュースは日本航空がアメリカのデルタ航空かアメリカン航空に出資されることになりそうだと伝えている。日本の航空法で外資の出資は1/3以下となっているそうなので身売りする事とはならないようだが、世界第3位の売上高(ちなみに航空会社のランキングは輸送キロの単位で決まるので、それだと15位、3位は売上高である)を誇る日本のフラッグキャリアが外資の出資を扇ぐというのは気分的に寂しい。おとといお客様のSさんとも話したが、何でANAと一緒になれないんだろうと不思議である。尤も、その理由も分かっていて、競合分野が多く、複雑な労働組合を持つJALとはメリットを見出せないのだろうと落ち着いた。イタリア国営だったアリタリアもエールフランス・KLM連合に買収されたし、そもそもかつて国営だったエールフランス、国営色の強かったKLM両社が経営統合したのだから、フラッグキャリアなどという一種古風な考えも経済競争の中では成り立たないのかもしれない。パンナムも破産したし・・・

しかし、JALといえば、あの懐かしき憧れの鶴丸マークが忘れられず、今朝の通勤途上でふと口ずさんでいたのがアテンションプリーズ! もう少し後で見たものかと思ったら、1970年のテレビドラマというから僕は小学校2年である。当時、飛行機に乗ったことも無い割りに羽田で飛行機を見るのは大好きで、展望デッキにあったレストランで、美味しかった記憶はないけれど機内食を食べるもの楽しみだった。

さて、フラッグキャリアが生き残りを賭けたお話の遺産がここにもある。Aero Classicsの1/400ダイキャスト模型、ビッカーズ・スーパー・VC-10、BOAC CUNARDである。528個限定の478番のものとなる。たまたま60年代の客船ヴィンテージ広告資料を探していて見つけたものだ。この飛行機がきっかけで調べてみると1962年から1966年まで、BOACとCUNARDが事業統合をしていたらしき事実を突き止めた。英文ではオペレーションと強調されているのでBOACとCUNARDの両社が資本統合した様子はないようだ。1958年に、大西洋横断における航空機と客船の旅客数が逆転、キュナードを潰したくない英国政府が動いて、簡単に言えば旅客機の簡素なサービスにキュナード流の最上のサービスを導入しBOACを一頭地抜けたものとし、大西洋横断の料金を飛行機と客船で統一し、片道は飛行機、片道は客船という旅の提案をするという主旨だったようだ。つまり、この時点で移動目的の大西洋横断の旅客が100%航空機に乗ってしまうとは考えられず、客船の市場は残ると考えたわけであり、BOAC CUNARDによってフラッグキャリアたるキュナードを生き残らせる一手にしようとした意図があったのだ。しかし、残念ながらそうはならず、客船の時代は完全に終わって、クルーズ目的でしか人は外航船に乗らなくなるのである。大勢の見えた1960年代後半にはBOAC CUNARDのオペレーションは解消される。日本で言えば、日本航空・日本郵船ってなもんであったであろう。それでも、キュナードは存続したわけだから会社の勘定がどうなっているかは知らないが大したものである。特にオイルショック以降は客船の運航は完全に赤字のはずだったのだ。ご存知の通り、かつてのフラッグキャリア、今はアメリカ資本の軍門に下っているが、それでもキュナードはキュナード、この春にクイーンメリー2を見たらそれは立派に伝統を背負った客船の歴史は終わっちゃあいないと思ったものである。

先般、偶然にも、かつてBOACの日本支社に勤務された経験がおありだというお客様が見えて、このBOAC CUNARDの飛行機を見て感心されていた。まさに時代に埋もれたお話で、この顛末を知る人は少ないようだ。しかし、こうしてフラッグキャリアを国で維持しなくても良くなったと考えれば、世界は少しは平和になってきているということだろう。そうフラッグキャリアの使命は有事の際は・・・という訳だからだ(2009,9,16)

ハワイ・カラカウア王の来日【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 クイーンエリザベス2のパター【船と港のエッセイ】

16. ハワイ・カラカウア王の来日

オセアニック号・カラカウア王来日

通算来店回数では恐らく2位であろうえいねんさん。彼の薦めで店では湘南ビーチFMをかけていることが多い。ちなみにインターネットラジオでは同じサイマルラジオの中の熱海コミュニティFM、Ciao!も贔屓だ。子供のころに週末を過ごした網代やら熱海周辺の話が懐かしく楽しいし、ローカル番組の良さで70年代のディープな歌謡曲が飛び出したりで楽しい。難点はPCの不具合かどうか、たまにつながらない事で、結局葉山の湘南ビーチFMと半々くらいで掛けている。さてピースボートが使っているオセアニック号(どう考えてもoceanicはオーシャニックと読めるのだがやっぱりオセアニックの表記が多い)と同名の船名が湘南ビーチFMから聴こえてきた。ハワイのカラカウア王が1881年(明治14年)にオセアニック号に乗って来日したという話だ。

以前からハワイの王様が来日して、明治大帝に皇室との縁組を提案したという話は知っていた。船の名前が出たついでに調べてみると、この来日は興味深いもので、日本国にとっては史上初めて来日した国家元首だったそうで、カラカウア王の乗ったオセアニックが横浜に入港する際は、港にいた英国やロシアの軍艦は礼砲をならし、王の上陸にあたっては日本の軍楽隊が当時のハワイ国歌を演奏したのだとか。そして、明治大帝との会談でカラカウア王が提案したのがカラカウア王養女にして次のハワイ王になるのが有力とされていたカイウラニ王女と山階宮定麿王の結婚であった。山階宮定麿王は後の東伏見宮依仁親王、海軍大将元帥である。当時、ハワイは経済的にはアメリカに依存しつつ19世紀中ごろには英国やフランスが領有権を宣言するなど列強の抗争に巻き込まれており、特に米国系移民による米国との併合の気運には抗えない深刻な状況にあった。巷で言われるように米国よりも日本との併合を望んだという事実は大げさな作り話の感があるものの、日本との縁組でカメハメハ大王以来のハワイ王朝とハワイの独立を維持しようとしたことは事実のようだ。明治大帝は米国との摩擦を杞憂してこの縁談を断るが、もし縁組がなっていたらとなると、歴史学者にいわせれば少なくともハワイ王朝は延命されたとされているし、奇想転外な話ならいずれハワイを日本が併合して布哇県(はわいけん)が出来てなどという説もある。当のカラカウア王は太平洋地域の島の合衆国を建国することを望み、その支持基盤に日本との縁組を考えたとされている。ハワイ王朝崩壊のクーデターはアメリカ人農場主と海兵隊によるもので、いわばハワイ領有のための自作自演クーデターだったような側面もあり、結果を見ればカラカウア王の危惧は現実となったわけである。

この時にカラカウア王の乗ってきた船、オセアニック号、これが20世紀初頭から半ばあたりが得意な僕にとってはすぐにピンと来ないものの、なかなか歴史的に意義深い客船で、オーナーはあのタイタニックのホワイトスターラインである。1840年にキュナードが英国の郵便輸送業務を請け負うと、誰もが儲け話には敏感なもので次々とライバルが現れることになる。有力なのは北ドイツロイドライン、インマンラインなどだったが、そこに彗星のごとく現れるのがあのタイタニックのブルース・イズメイの父親、トーマス・イズメイだった。彼は有力な出資者を得て、アイルランドのハーランド&ウォルフ社で全ての船を建造することを条件にホワイトスターラインを興した。既に船会社での勤務経験を持つイズメイには、その現場経験をもとにした理想的な客船の構想がきっちりと描かれており、その構想が1871年、3707トンの第一船オセアニックとして姿を顕した。この船は、船体の長幅比が10:1とスマートで一等船室が中央にあり、当時としては画期的な構造を持っていた。外輪船の時代は巨大な外輪が船体中央にあるため一等客室は船尾にあった。外輪船からスクリュー船に変わってもこの伝統を破るものはいなかったところ、イズメイは一番乗り心地の良い中央部に躊躇無く一等船室を移したのである。さらに船体幅一杯のメインダイニング、主機関の効率は高く同クラスの船と比べて石炭消費量はほぼ4割減、さらに第二船第三船のブリタニック、ジャーマニックがブルーリボン(大西洋最速横断記録更新に与えられる)ホルダーとなったことでもわかる安定した高速性能を持ち、当時、現代客船の母ともてはやされたのである。

このオセアニック、リバプール―ニューヨーク間の定期航路で運用されたが、就航から10年後、別の船会社にチャーターされ世界一週航海に出る。サンフランシスコを出港した次の寄港が横浜、カラカウア王はこの時にオセアニックで来日して、明治天皇を会談、その後もオセアニックで世界を回り各国首脳と会談する中でハワイの状況改善の機会を伺っていたのだそうだ。布哇県・・・ハワイ王朝には申し訳なくも、もしハワイが日本だったらご機嫌である(2009,7,21初稿、2015年加筆)

大さん橋と横浜ベイブリッジの高さの記事【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 BOAC CUNARD【船と港のエッセイ】

15. 大さん橋と横浜ベイブリッジの高さの記事

横浜開港150周年とのことで、今年の横浜はお祭りムードが盛り上がっているようだが、先々週から今日までの読売新聞日曜の神奈川版地域欄に掲載された大さん橋物語り、全三回の記事はなかなかお勉強になった。僕は昭和37年の生まれだから外国への玄関として全盛だった頃の大さん橋は余り知りようもなく、最初の記憶はクイーンエリザベス2が初入港したのを見物に行ったことだったが、現在のアレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ設計によるものになる以前の大さん橋には随分と馴染みがあったものだった。車を運転し始めた頃は車でどこかに行きたい盛りだったから、土曜の夜になると良く大さん橋まで車を飛ばしていたのを覚えている。日によるが、当時の大さん橋は昼間ならいつも、土曜の夜もたまにさん橋の先端まで車で入れた。土曜の夜は東海汽船の伊豆七島航路の船が寄っていて、それを見送るのも大好きだった。その後は大抵、元町の裏のカフェバーあたりで遊んで帰るわけだが、時は流れ横須賀に移った後は随分長いこと車の無い生活が続き、大さん橋といえば、関内あたりで一杯やると電車が無くなって帰れないことが多く、行くあてもないから大さん橋で朝を待つ事が良くあった。これまた今と違ってターミナルの中には入れなかったがデッキへの出入りは自由だった。

昔話はともかく、読売新聞の記事はざっとこんな内容である。開港当時の横浜港は現在復元をやっている象の鼻がメイン、今のホテルニューグランドあたりにフランス波止場ができたものの、外国航路の船は直接接岸できずもっぱらはしけを使って人貨の積み下ろしをしていた。大きな埠頭を造る必要があったわけだが当時の明治政府にはお金が無くて造れない。1864年下関事件で日本は300万ドルの賠償金を支払う事になるが、1883年、この賠償金が高すぎたとの理由でアメリカは日本に77万5000ドルを返還する。芝増上寺にグラント松という松の木があるが、この松を植えた南北戦争で有名なグラント将軍は親日派で、グラント将軍が日本の早々の発展を願って賠償金の返還に尽力したらしい。大さん橋はこの返還された資金を元に建設されたのである。完成したのは1894年、長さ457メートル、幅19メートルの大さん橋は直径32センチ、長さ16-20メートルのスクリューパイル(補足:先端がスクリュー状=螺旋状で回転させながら打ち込む杭)を約500本海底に打ち込んで建造された。そのため大さん橋は別名「鉄桟橋」と呼ばれたそうだが、このスクリューパイル、結局、現在の2002年に完成した大さん橋になるまで100年以上大さん橋を支えたのである。1899年には幅を41.8メートルに広げ、海底を水深7.9メートルから10.6メートルに浚渫し1万トン級の船も停泊できるようになるが、1923年に関東大震災でさん橋は海に沈んでしまう。政府は、これをわずか2年で復旧、太平洋定期航路も戦前の最盛期を向かえ、送迎デッキや帝国ホテル運営のレストランも新設される。記事にはチャップリンの挿話もある。チャップリンが帰国に際して選んだのは日本郵船の氷川丸、この決め手となったのは天ぷらだそうで、氷川丸の乗船中、チャップリンは毎日天ぷらを食していたそうだ。戦争をはさみ、接収されていた大さん橋が返還されるのは1952年、以後大さん橋を利用していたアメリカンプレジデントラインズはその頃を知る方々には懐かしいものだろう。今年は、横浜市の外国客船誘致でクルーズ船の寄港は過去最高の20隻になるという。ちなみに、記事最後の方には直接大さん橋の話ではないが、今年の3月6日に日本へ初寄港したクィーンメリー2が大さん橋に着く事が出来なかったことも書かれている。

この記事では定説になっているベイブリッジの高さがどうして決まったかも明記されている。退役したクイーンエリザベス2の高さ53メートルをかわせるように56メートルで設計されたので高さ62メートルのクイーンメリー2はくぐれずに大黒埠頭に接岸せざるを得なかったのだ。補足すれば、お客様から聞いた話では、そのことを決めたのは当時の海上保安庁の方だそうで、これは当時としては無理の無いところで、1980年代と言えばキュナードにしたところでクイーンエリザベス2を最後の定期船としてあきらめていたし、世間の流れも船の時代の終焉を惜しむ風潮に浸かっていて、客船の名作映像として知られるナショナルジオグラフィックビデオ「THE SUPER LINERS - TWILIGHT OF ERA」(邦題「夢を乗せた豪華客船クイーンエリザベス2世号」)などで見られるように、80年代にはもうこれ以上大きな船は出来ないと思われていた。クルーズ客船がこんなに大きくなるとは想像できなかったろうし、クイーンメリー2だってカーニバル社のミッキーアリソンがクイーンメリー2を作るためにキュナードを買収しなければ当然存在しない。もうひとつ余談ながら、クイーンメリー2のステファン・ペイン氏の当初の設計は高さが70メートルくらいだったそうだが、そうなるとニューヨーク港入り口に掛かっている海面からの高さ65メートルほどのヴェラザノ・ナローズ・ブリッジをくぐれないので62メートルにした。ちなみにこれでサンフランシスコのゴルデンゲートも無事くぐれるのである。(参考:読売新聞大桟橋の記事 執筆:横浜みなと博物館 山口祐輝氏、同 志沢政勝氏、市川憲司氏)

京都駅ビルの意匠には賛否両論がある。これに対して設計者の原広司さんが寄せた談話を薄っすら記憶しているが、京都の社寺だって1200年前はモダンな賛否の飛び交うものだったろう・・・といった趣旨だったような。現在の大さん橋にはやや風情が欠けているようにも思うが、まあこれが100年後には結構な風情になっているかもしれない。何せ22世紀はドラえもんを見る分にはとんでもない未来都市になっているのだから・・・(2009,5,31初稿、2015年加筆)

船舶という分野、職人腕を競う【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 ハワイ・カラカウア王の来日【船と港のエッセイ】

14. 船舶という分野、職人腕を競う

昭和37年の生まれである。昭和も40年代半ばだっただろうか、インテリアブームというのがあって、父も相当に家具というやつを買ったように憶えている。デパートである。子供心に何で家具はデパートで買うのか不思議だった。デパートは、やはり洋服を買うところのように思っていたからだ。三越も、高島屋も大丸も元は呉服屋だし、両親が買い物をしてた伊勢丹だってそっちの出である。

時は下って、僕は学校を終わるとプラスという文具メーカーに就職した。てっきり文具を生涯の生業にするのかと思いきや、配属されたのは建装部という部署。建装なんていう言葉、それまで聞いたこともない。平たく言えば、置き家具・造作家具から内装・調度品を含めた室内装飾全般を行うことを建装と言う。僕が配属された時、この部署は間仕切りを売り出し中で、建装業務全般の中でも間仕切り販売に特化しようとした営業部隊だった。今も4月で新入社員たちが苦戦しているだろうが、最初は電話が聞き取れなくて大変だったのを憶えている。「Ru Ru Ru Ru Ru ・・・」、電話が鳴る、「ハイ、プラス建装部でございます!」。「カミサですがぁ」「エッ?」「カミサです」・・・聞き取れない。隣席の上司に尋ねる「カミッサとか何とか言ってます」。「ああ、カミさんね」と電話を代わる。この電話の主、苗字は上入佐(カミイリサ)という珍しい方で、この部署の外部スタッフとして間仕切りの現場実測とか割付、積算などを手伝って下さっていた。新人の営業マンに難しい間仕切りの営業が勤まる筈も無く、暫く経ったある日、先輩の現場立会いの代理で夜遅くまで掛かったら、このカミさんが「小野寺、飲みに行くぞ」と歌舞伎町に連れて行ってくれた。僕にとってはカミさんは、どんな困難も屁ともせず間仕切りを納めてしまう神様みたいな人だったから、この夜、「カミさんって、どんな風に間仕切り覚えたんですか?」と訊ねた。今は、随分と街中の建物が良くなったからそんな苦労も減ったろうが、当時の建物の床と天井のレベル(水平ということ)はお話にならない。「俺はねえ、長く船舶やっていたんだよ・・・」船舶って何だ?

聞けばこういうことだ。昔は船舶の艤装や内装は最高の技術を持つ職人が腕を競っていた。船は一国の技術や文化レベルを世界に示すものだったから予算もたっぷりあったし、何よりも職人達も最高の現場であるという誇りを持ってやっており、また、船の艤装は造作や間仕切りを納めるにもかなりの経験と実力が無いとできいものなのだそうだ。そもそも、ブロック工法の今は違うようだが、船の床は水平に作られていないし、その水平じゃなく、おまけに動けばたわみが出る船内に間仕切りを建てたり造作家具を作るのは並大抵の技術じゃないそうなのだ。で、その時に聞いたもうひとつの話は、「百貨店の装飾部とか建装部・装工部なんていうのも、元々は船舶の艤装をやるとこだったんだよ」という話だ。

僕もインテリア業界で走り回ると、建築家やデザイナーが施主の了解をとって商品を指定しても、販売は最終的にデパート=百貨店を経由して・・・というケースが多かった。では、なぜ百貨店が室内装飾の請け元となっているのか?現在ではそれが一種の商習慣でもあり、資金力や価格交渉力など合理的理由もあるものの、かつては室内装飾が百貨店の主力事業のひとつとなっており、それだけの技術力を持っていたからに他ならない。日本に西洋建築が入ってきたものの、当時、西洋流の室内装飾をできるものはいなかった。百貨店は、元々の生業の衣服で得た納入実績を役所や企業に持っており、この実績を活かして室内装飾までドメインを広げていったのだ。誰も出来ないから業種を開発したと言っても良い。土木上がりのゼネコンよりは服飾から来た百貨店に分があったのも事実らしい。こうして高島屋工作所、三越装飾部、大丸装工部などがホテルや銀行、宮内庁などの室内装飾で腕を競うが、その競争が一段と華やかだったのが船舶艤装・装飾で、前述のとおり納めるのが難しいからとりわけ腕の良い職人だけが選りすぐられた。このような室内装飾の伝統が、昭和40年代のインテリアブームの時のデパートの大きな家具売り場となっていったのである。

何で、こんな事を思い出したかと言えば、古い雑誌広告を集めて額装していると、とにかく様々な広告を見ていて、いかに船会社に文化的な資源が集中していたかを感じて改めて感心するからだ。タイタニックを沈めたせいで、評価が低いホワイトスターラインが英国らしい野暮ったさを持たず、フランスやドイツのバウハウス様式、アールデコ様式の雑誌広告を連発している事、フレンチラインは水彩画家マリー・ローランサンにも雑誌広告の絵を描かせているし、戦後もヴィユモが何枚も描いている。ドイツはナチスの影があるゆえに偏見を持ってしまいがちだけど、生粋のバウハウス流は現在見ても旧さを感じないほど洗練されたデザインセンスが光る・・・では、同時代の、他業種はどうかと見ると、当時の文化的資源が、香水、ファッション、客船に集中していたことは戦前の雑誌を見ればすぐに判る。戦前、美しいイラストの入った広告はこれらの絞られた業種しかやっていない。僕は、貴重な風俗文化遺産だと感じている。

ポスターというメディアは、19世紀末にロートレックなどが成功したことによって1920年代には広く市民権を得ていた。雑誌広告より早い。ここでもやはり、今に伝わる名作は旅行、客船、ファッションが圧倒的に多い。つまり、件の腕を競う場はそういったところにあったわけである。とりわけすごいのは、1935年就航のノルマンディーだ。この一隻に船のため、フレンチラインはカッサンドル、ポール・コラン他、当代話題のアーティストに毎年ポスターを描かせた。一隻の船にこれだけ寄って集ってアーティストたちが腕を競ったのは前代未門だろうし、カッサンドルは遡ること4年、1931年には、これまた歴史的アールデコの名作L'ATLATIQUEのポスターで衝撃を与えたばかりで、再び傑作のNORMANDIEのポスターを描いたのである。船舶という分野こそは、芸術家や職人が腕を競った芸術・文化と技術の交差点だったのだろう(2009,4,6)

クイーンメリー2とは【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 大さん橋と横浜ベイブリッジの高さの記事【船と港のエッセイ】

13. クイーンメリー2とは

クイーンメリー2・・・マニアックな方はそれぞれ見識をお持ちであろうから、この稿をご覧になっても僕の一意見としてご批判はご勘弁いただきたく思う。今回は、この船が何故特別な船であるか私見を認める。「建造当時世界最大だった」「豪華客船」「洋上の宮殿」・・・大抵そんな接頭文言がクイーンメリー2に付けられているものの、それでは、今は最大ではないし、豪華客船ならゴロゴロしているわけで、あえて大騒ぎするほどのもんじゃあない。結論から言えば、この船のキモは大洋横断定期航路客船=オーシャンライナーである点に尽きる。

どれだけ大きくて豪華な船が他にあろうとも、大洋横断定期航海をやっているのは今やクイーンメリー2だけ、今のところ最後のオーシャンライナーなのである。タイタニックの映画に詳しい人ならジャックが晩餐の場面で「僕の今の住所はタイタニック・・・」というセリフを憶えておられるだろうが、英語では「RMS Titanic」と喋っている。このRMSというのはRoyal Mail Shipの略で、英国の郵便定期運搬船のことを言う。定期航路船は安全基準と一定の性能を満たし、年間の安定した定期運行計画を策定した上、政府と契約し「RMS」の接頭辞を名乗ることができる。そもそも帆船から汽船に時代が移るとき、石炭炊きの蒸気機関船が半月もかけて大西洋を横断すると、客船としてはとても採算がとれるものではなかった。キュナードの創業者サミュエル・キュナードは英国政府・海軍省と掛け合って、郵便輸送業務の契約をとりつけ莫大な補助金を出させることに成功した。国家としても風任せの帆船と違い、その当時、速度は帆船より遅くとも、未だ電話も無線も無い中で決まった日に郵便が届くことに大きな国益を認めたのである。やがて移民が爆発的に増加し、19世紀末頃になると客船は乗客だけで採算がとれるようになるが、RMSの響きは絶大な信用力と補助金の金看板であった。日本郵船だって外国では括弧書きで(Japan Mail)を書いて信用力を誇示したし、逆に外国の客船を日本で宣伝する際は「英郵船」とか「仏郵船」と記すことになる。郵便船の信頼度は抜群だったからである。クイーンメリー2は接頭辞を付けてRMS Queen Mary 2を名乗る。

オーシャンライナーに求められる性能は、豪華さでもサービスでもなく、船の安全性と速度である。すなわち、遊覧船であるクルーズ船とは違い、嵐の中でも港に逃げることなく洋上を行き、かつその速度は概ね大西洋を一週間以内に渡らねばならない。今は飛行機の時代だから、嵐の中の定期横断を経験した方も少なくなってきたが、横浜に係留されている氷川丸が太平洋横断をやっていたころ、台風に巻き込まれた時には船が最大27度傾いたそうだ。船が27度傾けば床と天井は殆ど壁に感じる筈だ。一見、見た目は、ゴロゴロしている豪華クルーズ船と変わらないものの、クイーンメリー2は現代の船の水準で行けば分厚い鋼板を使い嵐の中を突き進めるし、速度は公試運転で29.5ノットを記録、巡航で28ノット強、これは桁外れの性能なのである。船の理論上の速度は水線長=喫水線の長さで決まるが、無限に大きくしたところで採算上も技術上も馬力が追いつかない。かつて大西洋航路に乗客が溢れた時代、つまり船を定員近くまで乗せて採算性と速度を満たすには、全長300m、15~16万馬力、巡航29ノットという数字がはじき出された。この成功例がキュナードのクイーンメリー(初代、1936年-1967年)、クイーンエリザベス(初代、1939年-1968年)、フレンチラインのノルマンディー(1935年-1939年)だ。船の速度は重要なファクターで、乗せる日数が長ければそれだけコストも掛かり料金も上げざるを得ない。船が速ければ燃料費が掛かりやはり経済的に成り立たない。史上最速の客船はUnited Statesという客船だが、軍艦の機関を積んで巡航35ノットを越えたものの、採算が取れたことは殆ど無く、全速で運転したのは最初の大西洋横断往復の時だけだったという。先ごろ引退したクイーンエリザベス2、これがまた桁外れの性能を持っていて、1987年の機関換装後の公試運転では34ノットまで試してまだ余裕があり、その気になれば35ノットを超えることも出来たと言われる。そのあたりの事情を含みクイーンメリー2の性能を見るとお分かりのとおり、この船は、もはや移動目的で乗船する人は皆無なのにも関わらず、巡航28ノット=約5日で大西洋を渡り、映画のタイタニックでも御馴染み、旧き伝統に則り客室の等級があり(戦前ほど極端に待遇が違うわけではないが)、なおかつ、キュナードの伝統である郵便運搬定期船の任を、これまた唯一無二の存在であったクイーンエリザベス2から引継ぎ、そのキュナードの旗艦として君臨しているのである。

キュナードラインはステートメントで「わが社がRoyal Mail Shipの運行を止めることはない」と声明しているがそれは後の事、実は1990年代、クイーンエリザベス2の船齢が寿命を迎えつつあったとき、誰もがクイーンエリザベス2が最後のオーシャンライナーだと思っていた。ところがアメリカのカーニバルコーポレーションはキュナードを買収してクイーンメリー2を作ってしまう。経営者のミッキーアリソンは、タイタニックの映画を観てクイーンメリー2の建造を思い立ったといわれる。そしてあろうことか、クイーンメリー2を建造するためにキュナードを買収してしまったのである。ミッキーアリソン曰く「クイーンメリ-2を作るためにキュナードを買った。その逆じゃあない」(2009,3,5初稿、2015年加筆)

客船史【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 船舶という分野、職人腕を競う【船と港のエッセイ】

12. 客船史

客船史の書籍・参考書

僕は地道でアナクロな人間だから、このウェブサイトでもあまりシャレたプレゼンをすることが出来ない。ウェブ自体をお褒めいただくことも多く、今風のウェブマスターを颯爽とこなしているように勘違いされるが、実は一杯一杯でやっているだけだ。諸事、簡潔に要領良く書けば良いのだろうが、知らないことがあるのは許せないタチだし、僕は分裂症気味にひとつの事を掘り下げてしまうから、結果的にどうしても文章量も多くなる。元々、一枚の客船ポスターの画題や作者を調べるのに不合理なほど時間をかけているが、最近はいつもの要領に輪をかけて時間をかけている。時間のかけがいがあると言い換えてもいいだろう。

死ぬまで勉強とは良く言うが、じっくり取り組めば、小さな発見はいくらでもある。先日もニューヨークのモノクロ写真のコレクションで高名なベットマンアーカイヴの間違いを発見してしまった。写真を撮影した年代が間違って記録されているのだ。別に間違い探しやアラ探しをやってるわけではないのだが、こうして再度史実を掘り下げると、改めて良い手引き書だと感心するのが上掲の本だ。書籍の中身が、装丁や希少性ではなく内容だとすれば、特に定期航路時代の客船を知るなら入手の機会があれば手にとってみて損はない。5年程前、オーシャンノート開業の準備をしていた頃、特に大西洋定期航路客船に強く惹かれたものの、今も昔も日本にはその手の情報が乏しく、いきなり洋書を買い集めてみた。大した英語力もなしにマニアックな内容を読解するのは無謀であった。困ったところに「栄光のオーシャンライナー」が現れた。ムックという体裁を俗っぽいと敬遠する人もいるが、もしこれがハードカバーで英語併記だったら、海外ではベストセラーである。今では、調べごとのために様々な本を手にした結果からも、分かりやすさ、考察、史実の解釈、どれをとっても優れていると承知している。エディターの西村慶明さんは本職はイラストレーターだそうだが、交通史に造詣が深く、これまたソフトカバー、マニアの王道シリーズ(苦笑)から上梓されている「客船読本」も、カバーに「誰も教えてくれなかった客船のツボ」のコピー通り、なるほどと思わせる盲点が山盛りでウレシイ。このあたり、俗っぽいといえば俗っぽく、インテリ層には手にしづらいのも事実だろう。僕は定本なんていうものは、人それぞれ微妙に違って結構だと思うし、手の内をばらすようだがこの二冊、僕にとっての定本である。もう少し、書籍寄りに振れば、「豪華客船の文化史」が今のところ、和書で定期航路時代の客船を読むには最良の書籍となるだろう。著者の野間恒氏は、格を付けるのものではないが、2007年の暮に無くなったアメリカのフランク・O・ブレイナード氏、ハンブルグのアーノルド・クルダス氏、アメリカのビル・ミラー氏と並ぶ世界的な客船史研究家といって差し支えないだろう。野間氏は特に客船の写真のコレクションに秀でておられ、ビル・ミラー氏の著作のために写真を提供されているし、上記の研究家諸氏との親交もお持ちである。豪華客船の文化史の執筆にあたっては故ブイナード氏の助言も得たそうだから、内容はお墨付きといっても良い。

このあたりの3冊に加え、どちらも古い翻訳書だが「大西洋ブルーリボン史話」(トム・ヒューズ著)や「豪華客船スピード競争の物語」(デニス・グリフィス著)あたりを読めば・・・洋書を手にとってもチンプンカンプンになることはない。洋書は、文章が多いものは苦戦するものだが、上掲、ビル・ミラー氏の3部作「The First Great Ocean Liners 1897-1927」「The Great Luxury Liners 1927-1954」「Great Cruise Ships and Ocean Liners from 1954 to 1986」はペーパーバッグながら一通り時代を網羅しており海外の趣味人には必携の定本である。こうして、ある種考古学的な考察に取り組んでいたりするのだが、「世界の新鋭クルーズ客船」の著者でもある府川義辰さん、紙モノのコレクションでは日本ナンバーワンではないかと拝察するが、現在のコレクション整理にあたり僅かながらコレクションをお譲りいただいた。老眼に鞭打って穴の開くほど府川さんから譲っていただいた史料を眺めると・・・何とまあ、「栄光のオーシャンライナー」の中で実際に資料として掲載された1930年代当時の雑誌広告そのものだったりして・・・世間は狭いというけれど・・・(2009,1,29初稿、2015年加筆)

APLの客船プレジデントウィルソン【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 クイーンメリー2とは【船と港のエッセイ】

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