15. 大さん橋と横浜ベイブリッジの高さの記事

横浜開港150周年とのことで、今年の横浜はお祭りムードが盛り上がっているようだが、先々週から今日までの読売新聞日曜の神奈川版地域欄に掲載された大さん橋物語り、全三回の記事はなかなかお勉強になった。僕は昭和37年の生まれだから外国への玄関として全盛だった頃の大さん橋は余り知りようもなく、最初の記憶はクイーンエリザベス2が初入港したのを見物に行ったことだったが、現在のアレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ設計によるものになる以前の大さん橋には随分と馴染みがあったものだった。車を運転し始めた頃は車でどこかに行きたい盛りだったから、土曜の夜になると良く大さん橋まで車を飛ばしていたのを覚えている。日によるが、当時の大さん橋は昼間ならいつも、土曜の夜もたまにさん橋の先端まで車で入れた。土曜の夜は東海汽船の伊豆七島航路の船が寄っていて、それを見送るのも大好きだった。その後は大抵、元町の裏のカフェバーあたりで遊んで帰るわけだが、時は流れ横須賀に移った後は随分長いこと車の無い生活が続き、大さん橋といえば、関内あたりで一杯やると電車が無くなって帰れないことが多く、行くあてもないから大さん橋で朝を待つ事が良くあった。これまた今と違ってターミナルの中には入れなかったがデッキへの出入りは自由だった。

昔話はともかく、読売新聞の記事はざっとこんな内容である。開港当時の横浜港は現在復元をやっている象の鼻がメイン、今のホテルニューグランドあたりにフランス波止場ができたものの、外国航路の船は直接接岸できずもっぱらはしけを使って人貨の積み下ろしをしていた。大きな埠頭を造る必要があったわけだが当時の明治政府にはお金が無くて造れない。1864年下関事件で日本は300万ドルの賠償金を支払う事になるが、1883年、この賠償金が高すぎたとの理由でアメリカは日本に77万5000ドルを返還する。芝増上寺にグラント松という松の木があるが、この松を植えた南北戦争で有名なグラント将軍は親日派で、グラント将軍が日本の早々の発展を願って賠償金の返還に尽力したらしい。大さん橋はこの返還された資金を元に建設されたのである。完成したのは1894年、長さ457メートル、幅19メートルの大さん橋は直径32センチ、長さ16-20メートルのスクリューパイル(補足:先端がスクリュー状=螺旋状で回転させながら打ち込む杭)を約500本海底に打ち込んで建造された。そのため大さん橋は別名「鉄桟橋」と呼ばれたそうだが、このスクリューパイル、結局、現在の2002年に完成した大さん橋になるまで100年以上大さん橋を支えたのである。1899年には幅を41.8メートルに広げ、海底を水深7.9メートルから10.6メートルに浚渫し1万トン級の船も停泊できるようになるが、1923年に関東大震災でさん橋は海に沈んでしまう。政府は、これをわずか2年で復旧、太平洋定期航路も戦前の最盛期を向かえ、送迎デッキや帝国ホテル運営のレストランも新設される。記事にはチャップリンの挿話もある。チャップリンが帰国に際して選んだのは日本郵船の氷川丸、この決め手となったのは天ぷらだそうで、氷川丸の乗船中、チャップリンは毎日天ぷらを食していたそうだ。戦争をはさみ、接収されていた大さん橋が返還されるのは1952年、以後大さん橋を利用していたアメリカンプレジデントラインズはその頃を知る方々には懐かしいものだろう。今年は、横浜市の外国客船誘致でクルーズ船の寄港は過去最高の20隻になるという。ちなみに、記事最後の方には直接大さん橋の話ではないが、今年の3月6日に日本へ初寄港したクィーンメリー2が大さん橋に着く事が出来なかったことも書かれている。

この記事では定説になっているベイブリッジの高さがどうして決まったかも明記されている。退役したクイーンエリザベス2の高さ53メートルをかわせるように56メートルで設計されたので高さ62メートルのクイーンメリー2はくぐれずに大黒埠頭に接岸せざるを得なかったのだ。補足すれば、お客様から聞いた話では、そのことを決めたのは当時の海上保安庁の方だそうで、これは当時としては無理の無いところで、1980年代と言えばキュナードにしたところでクイーンエリザベス2を最後の定期船としてあきらめていたし、世間の流れも船の時代の終焉を惜しむ風潮に浸かっていて、客船の名作映像として知られるナショナルジオグラフィックビデオ「THE SUPER LINERS - TWILIGHT OF ERA」(邦題「夢を乗せた豪華客船クイーンエリザベス2世号」)などで見られるように、80年代にはもうこれ以上大きな船は出来ないと思われていた。クルーズ客船がこんなに大きくなるとは想像できなかったろうし、クイーンメリー2だってカーニバル社のミッキーアリソンがクイーンメリー2を作るためにキュナードを買収しなければ当然存在しない。もうひとつ余談ながら、クイーンメリー2のステファン・ペイン氏の当初の設計は高さが70メートルくらいだったそうだが、そうなるとニューヨーク港入り口に掛かっている海面からの高さ65メートルほどのヴェラザノ・ナローズ・ブリッジをくぐれないので62メートルにした。ちなみにこれでサンフランシスコのゴルデンゲートも無事くぐれるのである。(参考:読売新聞大桟橋の記事 執筆:横浜みなと博物館 山口祐輝氏、同 志沢政勝氏、市川憲司氏)

京都駅ビルの意匠には賛否両論がある。これに対して設計者の原広司さんが寄せた談話を薄っすら記憶しているが、京都の社寺だって1200年前はモダンな賛否の飛び交うものだったろう・・・といった趣旨だったような。現在の大さん橋にはやや風情が欠けているようにも思うが、まあこれが100年後には結構な風情になっているかもしれない。何せ22世紀はドラえもんを見る分にはとんでもない未来都市になっているのだから・・・(2009,5,31初稿、2015年加筆)

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