7. 氷川丸を見る~横浜はスゴイ

改装なってから初めて氷川丸を見てきた。今回の改装修繕には10億円もの予算がかかったとのこと、日本郵船が持ち出しでやったのだから頭の下がるお話だ。何せ乗船料は200円なのだ。レストランがあるわけでもなし、物販をやっているわけでもなし、今後の収益が望めるものでもないだろうし・・・要らぬ心配をしてしまう。改装の出来の是非は書かないが「アールデコ」についてはもっと当時の再現に尽くして欲しかった。僕が大好きだったビンテージポスターが無くなってしまったのも少し寂しかった。

いずれにせよ、改めて思うのは、需要の関係で大西洋航路ほどの大きさの船が無理だったのは重々承知しているが、(同年代の1930年頃だと、大西洋航路では、客船ブレーメン、いよいよ5万トン、全長280m、巡航27~28ノットの時代だ。氷川丸は1万トンちょっと、全長163m、巡航18ノットである)氷川丸で冬の北太平洋を行くのはしんどかったろうなあ・・・と思えてならない。僕は船酔いには弱いほうではないが、個人的には・・・乗りたくない。当時の乗船客の根性には脱帽するばかりだ。

氷川丸を見てから、久しぶりの横浜なので、山下公園から臨港線跡のプロムナードを歩いて赤レンガ、汽車道で日本丸までブラブラ歩いた。朝は元町に用事があったので、石川町駅で降りて海際を桜木町駅まで歩いたことになるが、道々感心したのは横浜市の景観整備への力の入れようだ。僕が横須賀市民として、一人で横浜に対抗意識を持ったところで仕方のないところだろうが、横浜のあそこまでの整備事業を見ると、横須賀だってもう少し何とかならないものかと思ってしまう。そもそも、古い話で「いまさら」ながら、横浜なんてどうにもならない寒村だったわけで、当時の三浦の中心は浦賀だった。もっと遡れば東海道が整備される以前の鎌倉街道は浦賀や走水あたりに通じていた。

幕府が雇ったフランス人技師ヴェルニーが現在の横須賀に造船所を作ったのが始まりで、三浦半島南部の中心は横須賀になってゆく。一方、横浜は外国人居留地として栄えてゆくわけだが、そんなことをつらつら考えていたら、日本の灯台の父「ブラントン」を思い出した。そもそも、日本が開国した時に江戸条約で8ヶ所、大阪条約で5ヶ所の灯台設置が決まった。これに基づいて建設されたのが条約灯台というもので、最初の洋式灯台はヴェルニーの設計で建設された観音崎灯台だ。続けてヴェルニーは品川、野島崎、城ヶ島と4つの灯台建設に携わる。やがて明治政府は親英の方針に基づき、英国人技師ブラントンの手に灯台建設を委ねることになる。数だけで言えば、ブラントンの灯台は28基に上るし、ヴィルニーの灯台は関東大震災で無くなってしまい、唯一、旧品川灯台が明治村に保存されるのみだけだから「父」の称号がブラントンのものでも致し方ないとは思うが・・・ふと思うのは、銚子で活動しているブラントン会の活発ぶりだ。犬吠崎灯台に魅せられた人たちがブラントンの業績の研究をしているのだが、銚子市、銚子市観光協会、海上保安庁など、行政も巻き込みひとつの町おこし活動たるまで業績を高めている。これまた、一市民が妙な対抗意識を持つものお門違いだが、ひとつ、せめて灯台ネタだけでも横須賀市あたりが一生懸命取り組んでもよさそうなものだ。灯台記念日の11月1日は観音崎灯台起工の日にちなんでいたりするわけなのだし・・・(2008,10,3初稿、2015年加筆)

戦没船員の碑 2008【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 ネルソン提督 帆船ビクトリーとラム酒【船と港のエッセイ】

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