ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ

キュナードの客船ポスター CUNARD LINE:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note  キュナードの客船アド CUNARD LINE:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, CUNARD LINE : ATELIER A.B. (Alexey Brodovitch) 1929

ポスター 四方海話 巻参

時に、大きな時の流れの中に、まるでエアーポケットのように忘れられては埋もれてしまうお話もある。
僕がこのキュナードのポスターに出会ったのは2004年頃のこと、今では付き合いが殆どなくなってしまったが、カリフォルニアのサンタバーバラ(ロサンゼルスから1号線で北に100kmちょっとの港町)にヴィンテージポスターのジクレーレプリカプリントを作っている会社があり、オーシャンノートで輸入するポスターを物色している時だった。その頃は開業前で、せいぜい勉強はしていたけれど船やヨットのことはまだまだ全然だった。面白いことだが、そんなまっさらな頭で選んだポスターは、例えばデザインは気に入らなくても史料的な価値があるといったような余計な判断が入らないから、純粋にデザインとプリントの出来だけでモノを見ているわけだ。今から見れば甚だ恥ずかしい話だが、客船といったところでタイタニックやクィーンエリザベス2に氷川丸くらいしか知らないわけだから・・・(笑) ただし、僕は勤め人時代には、バウハウスやモダンデザインの勉強は相当に頑張って、武蔵野美大でモダンデザイン史の特別講義をやったくらいだから、ポスターのデザインの善し悪しの判断は普通の人よりは少しは長けていたとは思う。兎に角、その頃選んだ30枚ほどのポスターの中にこれがあった。

右上に、ATELIER A.B.のクレジットが入るこのポスターは、これほど洗練された船や波のデフォルメも稀だし、雲の部分のエアーブラシのテクニックもかなりこなれている。何より上下のタイポグラフィーがバウハウスを彷彿させるもので気に入った。厳密にバウハウスのタイポグラフィーとは言えないのだが、以前に博物館で見たバウハウスタイポグラフィーの習作の中に似たようなものがあったように思ったのだ。その辺の思い入れが強いから、ATELIER A.B.が何者かはわからなかったけれど、きっとバウハウス人脈のデザイナーに違いないだろうと思いこんだのである。

次にATELIER A.B.に出会ったのは戦前の客船の雑誌広告を集めている時だ。1935年に就航したフレンチラインの客船ノルマンディー、この伝説の名船は処女航海で大西洋横断スピード記録を更新、世間ではこの話題で持ちきりになる。これにちゃっかり相乗りしたのがフレンチラインの米国での広告代理店のひとつだった米国最古の広告代理店N.W.Ayer and Son(N.W.エイヤー・アンド・サン社)で、ノルマンディーの処女航海で雑誌広告を打って自社をアピールした。この時、ページ半分に使用されたのがエアーブラシで描かれたノルマンディーのイラストで、クレジットは”A.B.”とのみ入れらていた。このイラストがまたいい出来なので小さなレプリカを製作した。

謎のATELIER A.B.との三度目の出会いは、あの1929年の美しいポスターの下絵とも言える線画で描かれたキュナードの雑誌広告だった。これはフランスの雑誌に掲載された非常に珍しいもので、雑誌広告は某オークションで探すことが多いのだが、二度しかお目にかかっていない。あのポスターの計算されつくした美しさに至るデザインのプロセスが見えるようで印象深い。それにしても、ここまで5年ほど掛かってもATELIER A.B.の正体はわからない。様々なオークショナーの記述やアートショップの解説文を散々読み散らしても、ATELIER A.B.はただATELIER A.B.としか記載されておらず、作者の生没年からバイオグラフィーなど一切情報が無い! つまり・・・誰もATELIER A.B.の正体を知らなかったわけである。

解決の瞬間は意外な場面でやってきた。未だに研究中の課題のひとつに戦前のヴォーグやハーパーズ・バザー(現BAZZER)、ニューヨーカーといった雑誌があるのだが、詳細の経緯は忘れたものの、確かハワイ航路のマトソンラインの広告のことで写真家のエドワード・スタイケンを調べていたらファッション誌のアートディレクションに繋がって、この方面にアールデコポスターの巨匠カッサンドルのハーパーズ・バザーへの参画の記述があったので読むと、カッサンドルをハーパーズ・バザーに引っ張り込んだアートディレクターのことが書いてある。ここにファッション誌アートディレクションの偉人、アレクセイ・ブロードヴィッチの名があった。で引き続き何の気なしにアレクセイ・ブロードヴィッチの記事を読んでいたら・・・たった一行、ATELIER A.B.の主宰者がブロードビッチである記述を見つけたのである。

アレクセイ・ブロードヴィッチの名は一般的に有名とはいえないだろうが、写真家、アートディレクターとして非凡な才能を発揮した人である。ロシアに生まれて、医師の父と画家の母という家庭環境の中でロシア芸術アカデミーへ進むことを望み望まれながら果たせなかった。恐らく多感な時期をロシア革命の中で過ごした影響と思われ、陸軍に入隊して第一次大戦に参加、やがてロシアは内戦状態になりブロードヴィッチは心に大きな傷を負ったと壊述したそうだ。1920年フランスに亡命するとパリ・モンパルナスに住まい、パリに集まるアーティスト達との交流を持つようになる。ダダ、キュビズム、アバンギャルド、バウハウス、デ・ステイル、シュールレアリズムといった当時の前衛的芸術運動の洗礼を受けてデザインを独学、1924年、Le Bal Banalポスターコンクールで優勝(何と2位がピカソだった!)、翌年にはパリ国際装飾工芸展覧会に出品してキオスクの内装設計、ジュエリーデザイン、服飾デザイン、展示会場デザインで5のメダルと最優秀賞を獲得、商業デザイナーとしての地歩を築く。

その才能は多面的だったが、主に宣伝広告のグラフィックデザインで活動、1928年、パリのデザイン事務所ATHLIA社にデザイナーとして入社、傍らで自由に仕事を請けるためにL'ATELIER A.B.を主宰する。L'ATELIER A.B.のA.B.はAlexey Brodovitchの頭文字だったわけで、キュナードの広告やポスターはこの時期の仕事である。このまま、その方向を進めば・・・きっと後世に残る名作ポスターを沢山描いて、あるいは今回取り上げたキュナードのポスターがブロードヴィッチのデザインであることが殆ど知られないという奇妙な事態は避けられたかもしれないが、ブロードヴィッチの多才ぶりと溢れる好奇心はこれを許さず、やがて写真とアートディレクション、デザイン教育へ活動をシフトする。1930年、米国ペンシルバニア大学の広告デザイン学部設立にあたり招聘され渡米、そしてブロードヴィッチのアイデンティティとして人々に記憶されることになるアートディレクターとしてのハーパーズ・バザー参加に至るのである。当時、低迷気味だったバザーはブロードヴィッチの新しい写真表現によって息を吹き返し、この方法論はヴォーグをはじめとするファッション誌にも取り入れられ今日まで続くファッション誌の基礎が確立された。その写真アートディレクションは大胆なページ使用と写真のトリミング、トリミングされた写真をそのまま活かすための誌面白紙部分が特徴だったとされている。

多くの写真家を自ら発掘し、自身も優れた写真作品集を出版、ハーパーズ誌面にはフランスの友人関係を活かしてカッサンドルやマン・レイ、シャガール、ジャンコクトーを起用するなど華やかな時代を経るものの、晩年は幾多の不幸がブロードヴィッチを襲い、傷心を抱きフランスに帰国、アビニオンでひっそりと生涯を終える。ブロードヴィッチの業績は死後に再評価され回顧展も開かれるものの・・・ATELIER A.B.のクレジットでの活動には何故かスポットが当てられることが無かった。

このような経緯でATELIER A.B.は昔も今も謎のアーティストだったという訳なのだが、ポスターの評価自体はホッとすることにそんなことをものともせず高い評価を得ていてヴィンテージポスターのオークションでは10000ドルを超える相場のようである。写真家として非常に高く評価されており、ATELIER A.B.=アレクセイ・ブロードヴィッチということが認識されると相場は高騰するかもしれない。それにしても、この一件は僕も含めて、物事を掘り下げるときにはひとつだけ空いた筋の良い穴を深く掘ると同時に、横にトンネルを掘って他の深い穴も覗いてみる必要があるものと思い知らされた次第。あまり専門バカになりすぎては宜しくないし、勉強のヒントは疲れて目線を上げたら意外とすぐそこにあったりするものである (了)

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