タイタニック

タイタニックのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, WHITE STAR LINE, OLYMPIC&TITANIC, Big Red, 1912

ポスター 四方海話 巻四

やはり、これを書かねばならなだろう。タイタニックのことである。世界で一番有名な客船になってしまったので、さぞや素晴らしいポスターが沢山あると思ったら大間違いである。タイタニックの就航に際して、タイタニックのためだけに製作されたポスターは一枚もない。俗にイエローバナーとかレッドバナーとか呼ばれ、ティンの看板なども販売されいるものは、近年描かれた新しいものである。では、本当に一枚も無いのかといえば「タイタニックのために製作されたポスターは一枚もない」のであって、ホワイトスターラインの宣伝のためにオリンピッククラスとして製作されたポスターがある。

まずは、これを持っていたら鑑定団に出られるというポスターは、通称”Big Red”と呼ばれるオリンピックとタイタニック、両船の船名が連ねられているホワイトスターラインのものである。大きさは当時のフルサイズで100cmX65cmほど、作者は不明である。このポスターの素晴らしさを知るためには、ホワイトスターラインやタイタニックに対する多くの人が思っているイメージを一旦白紙にする必要がある。多分、特に日本ではホワイトスターラインをいい加減な会社、派手好きで金儲け主義、タイタニックについては極論すれば欠陥船といった印象を少なからず持たれているからだ。1912年当時の話である、どこまで理解しているかは僕にも自信はないのだが、少なくともその前後のことも含めてホワイトスターラインを理解すればヒントにはなる。

ホワイトスターラインは1845年創業、南米航路の帆船を運航するも倒産、1868年にトーマス・ヘンリー・イズメイに買収されて北大西洋の客船事業に乗り出した。ホワイトスターラインが北大西洋に乗り出すことが出来たのは一重にハーランド・アンド・ウォルフ造船所の協力によるものである。トーマス・イズメイはナショナルラインの役員として海運業に通暁、客船事業の卓越したビジョンを持ち、リバプール財界実力者の仲介により、全ての客船を発注することを条件にハーランド・アンド・ウォルフの協力を得る。ホワイトスターラインとハーランド・アンド・ウォルフは互いに株式を持ち合い、造船原価の開示と、これに双方で取り決めた手数料を乗せて船価とする協定を結び二人三脚で順調に業績を伸ばす。客船事業はある意味で単純な装置産業であり、その事業観はそのまま主装置にして唯一の商材である客船に反映される。トーマス・イズメイのコンセプトは”快適で安全”という判り易いものであり、結果的に”儲かる”船の出来栄えは素晴らしかった。帆船時代から続く船尾の一等船室を船の中央部に移し乗船客の接遇を改善しつつ、当時としては異様に前後に細長く美しい船容のオセアニックを皮切りに同型船5隻を建造し一気に北大西洋航路の主役の一翼に喰い込むと、1876年と1877年には一回り大きなブリタニックとジャーマニックを就航させブルーリボン(北大西洋横断最速記録客船の称号)を獲得、1889年には初めての仮想巡洋艦に転用可能な客船、チュートニックを建造・・・チュートニックが観艦式に参加、これを見たドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世が感激して、「我がドイツの未来は海にあり!」と海軍と海運の増強に走り、やがて第一次大戦の遠因となってゆく。 ヴィルヘルム2世の叱咤によるドイツ客船の充実は急進的で、速度・乗客船数ともにたちまち英国勢に追いつき追いこすことになる。船の更新期に当たったこの頃、トーマス・イズメイはドイツ客船との速度競争を避け、船の大きさと船内設備の充実をはかる。1899年、トーマス・イズメイの人生の集大成ともいえるオセアニック(2世)が就航、まるで貨物扱いのようだった3等船室の待遇を改善、ドーム天井付きの一等食堂を備え、その大きさと豪華さは経済性を維持できる幾分抑えた速度を補って余りある最大限の賛辞を浴び「大西洋の貴婦人」の称号を得る。客船が高速、それもその船の持つ最高速に近い速度で航海するということは、乗船客にとっては快適なことではなく、1930年代のクイーンメリーやノルマンディーも、その華やかなスピード競争の陰で振動と揺れには悩まされ続けた。

トーマス・イズメイはオセアニックの就航に看取られるように死去、後継者は息子のブルース・イズメイだった。その頃、まさにオセアニックに度々乗船して上得意客だったアメリカの銀行家、J・P・モルガンは競争が激化する海運事業に目を付ける。19世紀末のアメリカの鉄道事業にも同様の過当競争があり、鉄道トラストの成功を主導したモルガンは名声を得ていた。モルガンは、北大西洋海運の運賃安定と事業独占を狙って、持株会社インターナショナル・マーチャンタイル・マリーン=IMMを設立し船会社を買収し始めた。故トーマス・イズメイはIMMの動きに否定的だったが、ハーランド・アンド・ウォルフ会長ピリー卿の進言によってブルース・イズメイはIMMの資本参加を受け入れる。結果として1905年頃までに欧州でIMMの影響下にない船会社は英国のキュナードラインのみという有様だった。IMM傘下に入ることは、客船の大型化が進んだ当時、競争力を維持するためには止むを得ない決断であり、米国資本を潤沢に得ることはホワイトスターラインとハーランド・アンド・ウォルフ造船所、双方にメリットがあった。唯一IMMに参加しなかったキュナードには、純自国船が消えることに危機感を抱いた英国政府が肩入れする。キュナード・英国政府勢は仮装巡洋艦転用を前提とした高速大型客船の建造を計画、海軍の最新技術であった蒸気タービンを取り入れ建造資金も英国政府が融資、1907年、モーレタニアとルシタニアが誕生、これに対する言わばアンサー計画がオリンピック級の三姉妹客船である。

オリンピック級客船の建造には英国政府の援助も干渉も無く、技術の安定性と経済性を考慮すれば、速度でキュナード二船に対抗するのは無意味だった。ハーランド・アンド・ウォルフ造船所のピリー卿はブルース・イズメイを自宅に呼んだ会食の席で、モーレタニア・ルシタニアより総トン数で5割増し、全長で30mも長い客船を三隻建造する計画を披露した。三隻計画は、三隻あれば欧州側、米国側を一週一便ずつ出帆できるからである。三姉妹船は巨大で、ハーランド・アンド・ウォルフ造船所では船台を特設したものの、同時に建造できるのは二隻であった。1911年、ネームシップのオリンピック就役、翌1912年にはタイタニックが就役する。オリンピック級は、経済性を考慮して蒸気レシプロ2基と、そのレシプロ機関の低圧蒸気で回すタービン1基の三軸推進で速度21ノット、全面二重船底で15の防水区画があり2区画浸水で沈まないという安全対策がなされ、英国のシップビルダー誌では事実上の不沈船であると書かれた。(いつの間にか”事実上”が抜けて不沈船と喧伝される) 船内は豪華で、ボートデッキに巨大な通風筒はなく、チュートニックの頃からホワイトスターライン客船を設計してきたカーライル博士が計画した救命ボートも法規上の最少数に減らしたため(この件でカーライル博士はピリー卿と袂を分かったと伝わる)広々としたボートデッキは好評で外観も一層優美なものになった。51000馬力を発生させるためのボイラーは29基、ファンネルは当初3本で設計したが速く見えるという理由で追加された4本目のファンネルはダミーだった。船内は広々としており、一等食堂エントランスはドーム型ガラス屋根で覆われた四層ぶち抜きホールに大階段が備え付けられ、ディナーに向かう乗船客が華を競う場になった。三等船客の待遇は画期的なもので、一人一席の食堂にはテーブルウェアが用意され暖かい食事が給仕によって供された。節約主義のキュナード、速度と収益優先でスティアリッジ客(ドイツ客船の特徴、言葉通り船底の部屋の客)を貨物室で運んだドイツ客船に比べ、ブルース・イズメイのサービスの方針は偽りなき誠実なものであり、オリンピック級の評判はかなり良く、あの有名な映画の科白を借りるなら、まさに”Ship of Dream”であった。

タイタニックの事故については、真実も推論も言いつくされているのでここでは言及しない。ただ、20ノット(約時速36km)で氷山にぶつかれば現代の船だって沈没するであろうし、当時の技術水準からすれば、タイタニックは設計上、間違いなく最も安全な客船のひとつだった。また、氷山が北大西洋を漂うのは珍しいことではなく、これにぶつかるのは、言わば東京ドームで米粒一つ同士がぶつかるようなもので、警戒を要することはあっても流氷原でない限りは速度を緩めることはなく、警戒していれば目視で発見した後の回避行動が十分間に合う筈だった。当夜は新月で波も無く、それが氷山の発見を遅らせたことは悔やまれる。スミス船長のみぞ知るところだが、巷間言われる速度記録を狙ったという話は嘘で、どう逆立ちしてもモーレタニアを勝ることは無く、ブルース・イズメイがスミス船長をけしかけたという理由は本人否定のとおり信憑性がない。推測ながら、不測の事態で予定日にニョーヨーク遅着となれば、それこそ処女航海は台無しになるため、早めに距離を稼いでおきたい心理が働いていたのではないだろうか。

1912年頃は、あいにくまだ雑誌広告が盛んではなく史料に乏しいが、1920年代後半から1931年頃までホワイトスターラインは結構な数の雑誌広告を打っており、ホワイトスターラインの企業姿勢を窺うことができる。その広告類を見ると、当時の最先端、それも公平な目線で見て非常にクォリティの高いアールデコデザインの広告をリリースしている。あのラッキーストライクやピースたばこのパッケージをデザインしたレイモンド・ローウィやアメリカ人初の女性アスリートにして画家だったヘレン・ウィルズを起用するなど、マリー・ローランサンなどを起用していたフレンチラインに比肩するデザインオリエンテンテッドな社風だったことがわかる。

タイタニックの沈没には保険金も支払われ、直接的に経営にダメージを与えたことは無いはずであり、その後の新船投入も滞ることはなかったが、やはり当時史上最大の海難事故を起こした誹りは免れなかったようである。また、自身が乗船する予定だったタイタニックの事故を機にJ・P・モルガンは海運業に興味を失い1913年にはJ・P・モルガン死去、IMMもホワイトスターラインもその後の経営は順調とは言えず、1929年の大恐慌で一気に経営は傾き英国政府の要請でホワイトスターラインはキュナードラインと合併する。戦後はキュナード・ホワイトスター・ラインからホワイトスターの名称も消えることになる。現在、キュナードの客船に乗船するとサービススタッフの胸に、白い星の入った赤い旗の下に”WHITE STAR SERVICE”の文字が入った小さなバッジを見ることができる。そしてスタッフはポケットの中に”WHITE STAR SERVICE”のブックレットを携行することが義務付けられている。これは、キュナードラインとホワイトスターラインが合併した時に、ホワイトスターラインの乗船客への手厚いサービスに感動したキュナードラインが、ホワイトスターラインの社名が消えた後もその乗船客へのサービスの精神を忘れずにいるための証である。さて、ポスターに戻ろう

ここでは決して真贋の見分け方に言及している訳ではない。なぜなら、オリジナルが出ることは数年に1度あるかないか、むしろ大量に流通するリプリントは、ごく限られた1912年のオリジナルをリプリントしたものであり、そのオリジナルについてのメモランダムである。

タイタニックのポスター一覧:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, WHITE STAR LINE, OLYMPIC&TITANIC, Big Red, 1912

Ocean Note, WHITE STAR LINE, OLYMPIC&TITANIC, MBB, 1912

Ocean Note, TITANIC, Flyer for Maiden Eastbound Voyage, 1912

1、本稿冒頭に書いた”Big Red”。1911年末ないし1912年に入ったころから使用されたと思われる。まだ、アールデコ期に入るには10年程待たねばならないが、ショッキングな赤にシンプルで判り易い絵柄の構成は、当時としては超モダンで人目を惹いたことと容易に想像できる。1912年当時の欧州客船ポスターは、まだ伝統的な水彩または油彩原画に社名や船名を入れただけのものが大部分だった。作者不明、描かれている客船はオリンピック、オリジナルのサイズは約100cmX65cm。現存するのは数枚ではないかと推測される。価値は図り知れず、もしオークションに出れば15万ドルを下ることは無い。ホワイトスターラインのデザインセンスが10年先を行っていた証左となるポスターである。2000年頃までは質の良いリプリントがあったが再版されず、現在少量出回っているものは以前ほど質は良くない。オリジナルがコレクターや博物館で厳重に保管され、表に出ることがないことを示している。我々は、ついついタイタニックのポスターということから、このポスターを色眼鏡で見てしまうが、このポスターはタイタニックが沈まなかったとしても、1910年代にアールデコの萌芽を感じることの出来る重要なデザインと認識を改めるベきであると考える。純粋にポスターデザイン史に残る素晴らしい作品である。

2、旅行代理店向けに製作された、下部に白紙スペース枠があるポスター。オリジナルのサイズは約100cmX65cm、”MBB”のサインが見られ、作者は客船や帆船の水彩ポスター原画画家のMontague Birrell Black、モンタギュー・ブラック(1889-1964)。数年前にニューヨークのオークショナーから、下部が白紙のままの未使用ポスターが出品され36000ドル(約350万円)で落札された。(2-0) この出品によってオリジナル原画の色が初めて広く確認されることになった。これも「タイタニックのポスター」というわけではなく、「ホワイトスターラインのオリンピックとタイタニック」という描かれ方である。Aデッキの部分がオープンになっており描かれているのはオリンピックであることが判る。現在、広くリプリントに使われている原画は、下部のエージェント社名がアイルランドの旅行代理店JOHN DENNYのもの(2-1)、レスターの旅行代理店THOS. COOK & SON,のもの(2-2)が有名。ロンドンの旅行代理店JAMES R WALKER & SON.というものも見かけるもののこれは後世描かれた可能性が高い。JOHN DENNYのものは黄ばみが多く、THOS. COOK & SON,のものは赤系統の色落ちが多かったことが未使用オリジナルの発見で判った。1910年代当時の典型的な客船ポスターであり、風俗史的な意味では大変出来の良い佳作である。

3、純粋にポスターとは言えないが、サードクラスの乗船料金が表記されたチケット購入案内のチラシポスター(フライヤー)。幻となったニューヨーク発4月20日の日付が入れられたもの。オリジナルは約55cmX23.5cm。数年前にこれもニューヨークのオークショナーから出品され72000ドル!(約700万円)で落札された。久しぶりに発見されたほぼ未使用のオリジナルから、やはり初めてその色が広く確認されることになった。無数といっていいほど製作されたリプリントは、全て何十年も前に撮影されたと思われる写真がもとになっており、背景の紙色が真っ白で表現されている。オリジナルとの整合性は要研究である。縦に長いためそれぞれのリプリント製作時に様々なアレンジが施されている。デザインの面から見れば見い出すべき部分はないが、三等客室の料金の記載など、史料的価値は高い。ましてタイタニックなので尚更である。

4、3とは逆に、欧州側、サウサンプトン・クイーンズタウンからニューヨーク行き、サードクラスの乗船料金が表記されたチケット購入案内のチラシポスター。サウサンプトン出帆は4月10日。数十年前に撮影された写真をもとにリプリントが製作されている。オリジナルが出ることがなく、このチラシポスターが使用されたことは検証されているものの詳細は不明。概ね30cmX23cmくらいだっと推測される。タイタニック最後の生存者であったミルビナ・ディーンさんがこのチラシを見たときに「これを見て、父はタイタニックに乗ったんです」という印象的な言葉を残した。やはり史料的な価値大と考える。

補足、タイタニックの船内で使用されたとされる石鹸、VIONIA SOAPのポスターがリプリントとして出回っているが、これは元が雑誌広告。横位置のものと縦位置のものがる。縦位置はオリジナルは白黒で、カラーのものは後に色が付けられたもの。横位置のオリジナル雑誌広告はカラーと白黒、両方製作されている。

タイタニックのポスターといわれるものは、以上の4点が1912年当時にオリジナルが存在したものの全てである。(その他唯一、1910年頃にIMMが制作したポスターにオリンピッククラス就役の予告がフューチャーされたものがある。見かけることがあれば・・・背景がライトグリーン)それ以外のリプリントは、後年になって販売用に製作されたものである。それがタイタニックであるが故に、ポスターを見る際も特別な視点を持ってしまいがちである。いずれ、特別な視点を持つのであれば、史実を掘り起こし正当な評価を与えるべきと思い、本稿の如きアプローチを試みた。僕は、ブルース・イズメイやホワイトスターラインを擁護する立場には無いが、特に近年、タイタニックのことがやや真実から遠ざかった取り上げ方が方々でなされているように感じられて仕方がない。タイタニックを理解する一助になれば幸いである (了)

ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ:ポスター四方海話 巻参:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note クイーンエリザベス2:ポスター四方海話 巻伍:ポスター販売・Ocean-Note

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