APL・アメリカンプレジデントラインズ

APL・アメリカンプレジデントラインズのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, AMERICAN PRESIDENT LINES : Louis Macouillard 1950s

ポスター 四方海話 巻九

1953年(昭和28年)3月30日、前年に立太子礼を終えた時の皇太子殿下(上皇陛下、当時20歳)が、昭和天皇名代として英国女王エリザベス2世戴冠式出席のために横浜を出 発した。この時に皇太子殿下が乗船されたのはアメリカンプレジデントラインズの客船プレジデント・ウィルソンであった。1948年から太平洋航路を行き来するアメリカンプ レジデントラインズの客船、プレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンの赤地に白い鷲のファンネルは、豊かなるアメリカのシンボルとして当時の日本人の あこがれの的であり、“憧れのハワイ航路”“アメリカ通いの白い船”といった歌謡曲をアメリカンプレジデントラインズの客船に重ねては大海原に思いを馳せた。

このAPL・アメリカンプレジデントラインズのポスターに描かれた客船は、プレジデント・クリーブランドもしくはプレジデント・ウィルソン、背景はアメリカンプレジデ ントラインズの極東太平洋航路を描いたものである。プレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンは、アメリカ海事委員会が第二次世界大戦中に建造したP2型 輸送船を客船に転用したものである。P2型は貨客船型の輸送船で、ジェネラル級輸送船は蒸気タービン直結推進でベスレヘム・フォアリバー造船所で建造、アドミラル級輸送 船は蒸気タービンエレクトリック推進でベスレヘム・アラメダ造船所で建造された。1942年1月にアメリカ海事委員会が各10隻を発注、ミッドウェー海戦前のこの時期にアメリ カは戦勝を確信しており、すでに戦後の兵員の引き上げや客船への転用が考慮された船だった。ジェネラル級輸送船は終戦までに予定を1隻上回る11隻が竣工、アドミラル級は 8隻が竣工し、残り2隻は機関搭載と艤装を残す状態で終戦、船台に乗ったまま建造中止となった。第二次世界大戦で客船を多数失ったアメリカンプレジデントラインズは、終 戦翌年の1946年6月にはアメリカ海事委員会より2隻のジェネラル級輸送船、ジェネラル・MC・メイグスとジェネラル・WH・ゴードンをチャターし、ヘインズグレーの軍艦色に ファンネルだけをAPLカラーに塗装して極東太平洋航路を再開した。航路再開を急いだのは、軍属の家族や官僚の移動に必要だったからである。しかし、米海軍AP-116メイグス とAP-117ゴードン、鋼板むき出しの内装にリノリュームの床はアメリカンプレジデントラインズにしてみれば客船には程遠い船である。そこで、アラメダ造船所で建造中止に なっていた2隻のアドミラル級貨客輸送船をアメリカ海事委員会より購入、海軍輸送船としての強力な空調設備や造水設備、蒸気タービンエレクトリック機関はそのままに、ハ ウス部分に改造を加えて内装を完全な客船仕様に改めて仕上げた。この二船がプレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンである。元、貨客船仕様の輸送船と はいえ、第一次大戦期より始まった米国船舶院~改め米国海事委員会の標準船の設計はこなれたもので(例えば、実戦に使えない客船の空母転用などはすでに米国では慮外に なっていた。また、建造中の日本郵船橿原丸を念頭に設計された輸送船もあったほど周到であった)、合理的かつ高性能、蒸気タービンエレクトリックは燃費に優れており、 全長185m・23500トン、20000馬力の機関に巡航速度20ノットの諸元は戦前最盛期の日本郵船の主力客船に勝るものであった。

プレジデント・クリーブランドは1947年12月、プレジデント・ウィルソンは翌1948年1月に極東太平洋航路に就航、しかし上海には中国の国共内戦のため寄港することができず 、極東太平洋航路は往航でサンフランシスコ~ロサンゼルス~ホノルル~横浜~マニラ~香港、復航は香港~神戸~ホノルル~サンフランシスコというものになった。旧ジェ ネラル級二船は1949年に退役、以後1950年代を通じ一航海40日弱、プレジデント・クリーブランドもしくはプレジデント・ウィルソン二船による定期航路が維持され、神戸・ 横浜へは概ね20日に一度のペースで赤地に白い鷲のファンネルのAPL・アメリカンプレジデントラインズの客船が入港した。20日に一度、早朝に大桟橋にプレジデントが入港し 夕方マニラに向けて出港する光景は横浜の風物詩だったという。サンフランシスコ講和条約以後は徐々に日本人の渡米も増え、日本交通公社の時刻表にセーリング・スケジュ ールが載るほどAPL・アメリカンプレジデントラインズの客船は日本になじみ深いものであった。

さて、アメリカンプレジデントラインズ、1950年頃のポスターである。戦前のノルマンディーのポスターを彷彿させる大胆な船首の構図が、いかにも「アールデコです」と 言いたげだが、このポスターの作者であるルイ・マックロードは1913年サンフランシスコ生まれ、カリフォルニア美術大学に学び、戦時中には南太平洋方面に従軍、後に妻と なるグレース・ハリソンとの間に交わした絵手紙はライフ誌1943年10月18日号に掲載(二人の写真はこのライフ誌の表紙にもなっている)されそのロマンスは全米で有名にな った。アールデコとは無縁な伝統的水彩画家で、戦後、カリフォルニアのヨットセーリングシーンや、アメリカ本土とハワイのネイティブライフを描いて画家・商業イラスト レーターとして成功、ハワイのネイティブライフを描いた水彩画はマトソンラインの6種シリーズのメニューカードに使用され、マトソンライン向けにはフルサイズのポスターも描 いている。このマックロードが何故、このようなアールデコ風のポスター作品を描いたのか全く理由は伝わっていない。マックロードはアメリカの記念切手を2種類程デザイン しており、これはいくらか図案的なものとなっているが、他にもそのようなポスターがあるかと言えば、エッジが明瞭で大胆なデフォルメはこのポスター以外に描いていない のである。オリジナルのポスターはフルサイズで、オフセットながら珍しいことが手伝ってアートオークションで出れば1000ドル前後の値がつく。年代とオフセットというこ とを考慮すれば価値が高く評価されているということだ。

このポスターの面白さ、あるいは史料的な価値は、見ればお判りの通り“YOKOHAMA”“ KOBE”が記された太平洋の航路図にある。世界的に見れば、我々が普段目にする欧 州が左で米国が右の世界地図は特殊なもので、“極東”の日本は一番右・東端に位置する小国として世界地図に描かれる。我々が子供の頃から見ている広大な太平洋は、欧米 人にとっては世界地図の左右端で切れている海であり、実感に乏しい大洋かもしれない。人類が築いてきた航路は、地中海に始まり、東行きでは、アフリカ、インド、東南ア ジア、中国、またはオーストラリアと伸びてゆき、西行きでは、中南米、南米、北米と往来が盛んになっていった。はるか昔の十字軍遠征以来、中国は欧州の世界観に取り込 まれていたが、日本は黄金の国ジパングとして紹介されながらも、中世には内乱続き、近世では鎖国、小国で資源の無い日本との往来が必要とされることはなかった。欧州人 が船で目指した世界の東端は東回りインド経由で行く莫大な人口を持つ中国の港・上海であり、すでにコロンブスは西回り世界一周航路を発見していたが、地球が丸いことを 実証したのみで、上海まで時間がかかるこの西回り航路が活用される機会は少なかった。欧州人の北米大陸への進出は、実は幻の大圏航路の開発が発端のひとつだったという から面白い。欧州から南米ホーン岬を回って太平洋に出るより、もし北米大陸を北側で迂回できれば上海行きは大幅に短縮されるのである。結局、北米北回りは氷に阻まれ、 太平洋航路が注目されるのは、北米に移民が大量上陸しアメリカ合衆国が建国されてからである。米国はメキシコからカリフォルニア州を得ると目前に太平洋を構えることに なり、いよいよ欧州各国が触手を伸ばしていた中国(清)市場進出は米国の存亡を賭けた急務となる。カリフォルニアを出帆し大圏航路をとると、上海までの海路補給の必要 から日本に寄港地が欲しい・・・これがペリー来航の目的であった。学校の授業では太平洋で操業する捕鯨船の補給のために開国を要求・・・と習うが、間違ってはいないも のの第一義ではない。現に1835年に設立された米国東インド艦隊の任務は清国との条約締結であり、1844年に清国と望厦条約(米清通商条約)を結ぶことで成功している。こ の時の米国東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルは、日本への開国要求の任務を帯びて清国を出帆し1846年、日本にも来航したものの浦賀で上陸を果たせず帰国している。 そして、1852年にマシュ・ペリーが東インド艦隊司令官に就き、1853年に久里浜に来航、親書を渡すことに成功、返書の猶予を求められ翌年再度横浜に投錨、日本は開国する ことに至るのである。丁度時を同じくして、1855年にはパナマ地峡鉄道を利用し東西が結ばれ、1869年には大陸横断鉄道が開通、大量の石炭を必要とする太平洋航路にAPL・ア メリカンプレジデントラインズの前々身にあたるパシフィックメールがサンフランシスコ~香港間の定期航路を開設したのは1867年のことで、給炭補給港の長崎と外国人居留 地が設けられた神戸、横浜にも寄港した。サンフランシスコを出港して22日間で横浜、香港までは〆て28日間、パシフィックメールがニューヨークから運んだ郵便は、東回り 地中海~スエズ地峡~ボンベイ経由よりも2週間早く届き、太平洋航路の重要性が増してゆくことになる。

1971年、皇太子殿下乗船にちなんでスイートルームを“ロイヤル”と改称して23年間に渡り太平洋航路で活躍したプレジデント・ウィルソンが世界一周航路に転籍、翌1972 年、プレジデント・クリーブランドが退役、APL・アメリカンプレジデントラインズは極東太平洋定期客船航路を閉鎖した。明治新政府の重鎮・岩倉具視卿が岩倉使節団104名 を率いてパシフィックメールの“アメリカ”でサンフランシスコ乗陸を果たしてから100年後のことであった。APL・アメリカンプレジデントラインズは1937年の発足当初には 米国海事委員会が深く関わる国策会社の色彩が強かった。そのためかお役所体質的なところがあり、最後まで宣伝活動には余り積極的な会社ではなかった。広告やポスターも 手数が多い方ではなかったが、このたった一枚のポスターは、アメリカ合衆国が欧州列強に遅れてならじと太平洋に乗り出し、日本を開国させて発展に導き、争い、そして平 和と繁栄を取り戻す激動の一世紀の縮図であり、国の存亡を賭けて開設した太平洋航路に最後の新船二隻を就航させる勢いが感じられる貴重なものである (了)

日本郵船 ゲオルギー・ヘミング:ポスタ

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