ダラーライン

ダラーラインのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, DOLLAR STEASHIP LINES, Direct to New York 1920s

ポスター 四方海話 巻拾

日本でも馴染み深かったアメリカンプレジデントラインズの前身、ダラースチームシップカンパニー。前代未聞の世界一周定期航路で驚かせた、その隆盛を偲ぶ珍しいポスターである。

15世紀から17世紀、船や航海術の進歩が大航海時代をもたらした。紀元前5世紀に地球が丸いと書いたのはプラトン、実際に証明したのは2千年後、1522年に世界一周を成し遂げたマゼランの艦隊であった。東回りの東インド航路による香料貿易はポルトガルに莫大な利益をもたらしており、逆の西回り航路開拓には当時のスペインが国家的関心を寄せていた。スペイン国王の命令によって1519年8月にセビリアを出帆した270名・5隻のマゼラン艦隊は、大西洋を横断し南米大陸沿いに南下、1520年10月マゼラン海峡を発見し太平洋に達した。餓死寸前で太平洋を横断、1521年3月にフィリピンにたどり着くが住民の戦闘に加担してマゼランが戦死、フィリピンを出帆して11月に目的地の香料諸島(モルッカ諸島)に到着する。大量のクローブ(丁子)を積み込み出帆、ポルトガル勢力圏では寄港できず多数の死者を出しながらスペインに辿りつたのは出帆から3年後の1522年9月、生存者18名、たった1隻での帰還だった。大航海時代はスペイン、ポルトガルに代わるイギリス、フランス、オランダの台頭で幕を閉じた。

イギリス、フランスはスペインやポルトガルが手を付けなかった北米大陸を探検、初めこそアジア行き最短の大圏航路(北西航路)発見が目的だったが北米入植を開始、時が下りアメリカ合衆国の建国に至る。アメリカは欧州諸国に倣って領土拡大を図り、メキシコからカリフォルニアを割譲、ロシアからアラスカから購入、ハワイ併合・・・19世紀には現在の米国がほぼ形成された。米国の領土が大陸を横断し太平洋に届かんとする1832年、米国は特使を派遣し東南アジア諸国や清国と通商条約を締結、日本については慎重に情勢調査し、許すならば通商条約申し入れることを指示、シャムとマスカット(オマーン)との条約を締結した。1835年東インド艦隊を設置、1936年の艦隊派遣でアヘン戦争後の清国と望厦条約(米清通商条約)締結に成功、1846年にはやっと浦賀入港を果たすも浦賀奉行は親書受取拒否、そして1853年、東インド艦隊第10代司令官ペリーが久里浜に来航し親書を受け渡し、翌1854年に再来航して日米和親条約締結に成功したのである。砲艦外交と言われるが、実際にペリーは「友好よりも恐怖」という自説を持っていた。米国東インド艦隊が発したのは米東海岸、アジア・日本へは喜望峰経由東回り航路で来航した。

東インド艦隊が初めて浦賀に来航した年、米国はカリフォルニアを手に入れたが、翌1948年、パシフィックメール汽船会社が設立されパナマの西岸コロンからカリフォルニアへの郵便輸送契約を請け負った。未開のカリフォルニア行き航路事業に懐疑的な声が多い中、同年カリフォルニアで金が発見され、劇的にもパシフィックメールの第一船はゴールドラッシュの乗客で埋まることになる。1855年にパナマ地峡鉄道が開通、ニューヨーク・サンフランシスコ間の航程は大幅に短縮され、パシフィックメールは太平洋側・大西洋側にそれぞれ10隻の船を構える独占体制を整えた。しかし、1869年にはさらに早く東西を結ぶ大陸横断鉄道が完成、これを見越したパシフィックメールは大陸横断鉄道開通前の1867年、パナマ地峡鉄道経由航路に見切りをつけて米国政府よりサンフランシスコ・香港間の郵便輸送契約を取り付け定期航路を開設する。この定期航路開設を可能にしたのは補給経由地、開国間もない日本への寄港にあった。この太平洋定期航路は、後にグレースライン、さらにダラーラインに引き継がれることになる。

19世紀後半から20世紀初期の海運は大航海時代に匹敵する変貌を遂げた。帆船から蒸気船への移行と呼応するかのように開削された二大運河である。元フランス外交官のレセップスはエジプト総督からスエズ運河の開削と99年間の利権を得て1859年に起工、10年の難工事を経て1869年、北米大陸横断鉄道開通から半年後にスエズ運河が開通した。10年後、レセップスは資金を募りコロンビアからパナマ運河の開削権を購入して再び大運河建設工事を開始するも失敗に終わった。経済・軍事上、当時パナマ運河を最も必要としたのは他ならぬ米国で、運河開通後の支配を目指した計画は周到で、コロンビアからパナマを独立させてパナマ共和国を承認、代わりにパナマ共和国憲法にパナマ運河と両岸・幅16kmの永久租借権を米国に与える一文を明記させた。こうして1903年から11年間の工事期間を経てパナマ運河は1914年に開通した。スエズ・パナマ両運河が揃い今日も利用する世界一周航路が完成したのである。

“Robert Dollar has done more in his lifetime to spread the American flag on the high seas than any man in this country.” 「ロバート・ダラーほど生涯に星条旗を世界の海に掲げた者はいなかった」 ロバート・ダラーが88歳で亡くなった時に、カリフォルニア州知事はこう語った。スコットランドに生まれたダラーは父親とともにカナダに移民、やがて木製材工場に職を得て独立を果たす。山林で伐採した丸太の川下りで成功を収め、自身の製材工場の木材やベニア板をサンフランシスコへ運搬する最初の船を買った。1895年ダラー51歳の時である。堅実な経営でカナダ・サンフランシスコ間海運の王者となると、1901年サンフランシスコでダラー・スチームシップ・カンパニー(ダラーライン)を設立、1902年に最初の中国向け木材輸出を期に中国と日本を訪問、中国の巨大市場を目の当たりにしたダラーは第一次大戦が終わると自社の木材運搬を主とするサンフランシスコ・上海間、タコマ・横浜間の貨物船定期航路を開設した。

第一次大戦中、日に日に上がって行く船価を見た米国は、船価高騰が米国産業へ悪影響を与えることと、大戦で欧州の海運業が停滞し米国が躍り出る絶好の機会を得たと見て、1916年に海運法を成立させ米国船舶院を設立した。法によって商船の建造・購入を船舶院に一元化したのである。1917年頃から1922年までに船舶院によって竣工した船は 1360万トンに及び、米国造船業はこの時期と第二次大戦中、史上二度のみ造船世界一になっている。この時期に船舶院で建造された貨客船の中に7隻の502型貨客船、16隻の535 型貨客船があった。二船種合わせて23隻のうち、535型貨客船6隻を除いた17隻がダラーラインの手に渡ることになる。1923年、535型貨客船5隻の払い下げ入札にグレースライ ンとダラーラインが応札、ダラーラインがこれに勝利するとパシフィックメールから航路を引き継いでいたグレースラインは太平洋航路から撤退を表明しダラーラインがこれ を引き継ぎ、結局は535型貨客船5隻とパシフィックメール以来58年に続いた太平洋航路の営業権も手に入れた。残り5隻の535型貨客船は1921年からパシフィックスチームシッ プ傘下のアドミラルオリエントラインがシアトル・横浜・上海・マニラ航路で運航していたが、1926年には船舶院の指示によってアドミラルオリエントラインはダラーライン 傘下のアメリカンメールラインとなった。とうとう米国の北太平洋航路は米ドルマーク(ダラーラインのファンネルマーク)のファンネル一色となり、ロバート・ダラーによ って独占されたのである。ロバート・ダラーは、米国経済史に名を残す稀代の事業家であったかもしれないが、事業のイメージとはかけ離れた実直な人柄だったという。酒は 一滴も飲まず、毎朝6時に起床し汽車とフェリーで自らの会社へ通勤していた。敬虔なクリスチャンであり、神学校やYMCA、YWCA、孤児院、学校、図書館などの建物をサンフラ ンシスコや中国、スコットランドで寄付し、米国にあける中国人移民の差別に反対していた。さて、残る米国船舶院の502型7隻の行方は・・・

米国船舶院の502型、535型はどのような客船だったのだろう。両型を第一船で比較すると、名称はそれぞれ垂線間長502フィート、全長535フィートからきており、全長は502型が159m、535型は157mである。速度は502型が蒸気レシプロで14ノット、535型は蒸気タービンで16ノット、乗客定員は502型は一等のみで78名、535型は一等259名にスティアリッジ302名だった。535型は前述のとおり太平洋航路に就航したので中国人労働者を渡米させるためにスティアリッジが設定された。無論、スティアリッジは貨物倉兼用なので往路は貨物を積んだと思われる。北太平洋航路に16ノットの535型客船が10隻配船された影響は大きく、大きく水をあけられた日本郵船と東洋汽船は合併、日本郵船は太平洋航路サンフランシスコ線用に浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線用に氷川丸、日枝丸、平安丸、一挙6隻の新船建造へ向かうことになる。

ところで、フランスの作家ヴェルヌが“80日間世界一周”を書いたのは1872年だったが、ヴェルヌはこの年、英国の名門旅行会社トーマス・クックが催行した世界一周旅行の広告を見てヒントを得たと言われる。(全く無関係という説もある) 1872年のトーマス・クックの世界一周旅行は、リバプールから大西洋を渡り北米大陸を大陸横断鉄道で西海岸まで行き、サンフランシスコからパシフィックメールの客船で横浜、横浜でP&Oの客船に乗り継ぎ上海・シンガポールを経由してカルカッタ、ここで鉄道に乗り換えボンベイ、ボンベイから再び海路でスエズ、陸路エジプト観光を経てアレクサンドリアから海路で地中海を渡りトリノ、鉄道で欧州を縦断してドーバー海峡を渡る122日間の旅行であった。1914年に開通したパナマ運河を利用した真の世界一周クルーズは、1922年11月にアメリカンエキスプレスがキュナードラインの客船ラコニアをチャーターして催行したのが世界初となった。このクルーズではスエズ運河、パナマ運河を使い24港に寄港、またラコニアの僚船であったキュナードラインの客船サマリアも同時期にラコニアと逆の東回りで世界一周クルーズを行った。余談ながら、この世界一周クルーズで改めて東回りの体調管理の難しさが取り沙汰され、世界一周クルーズは西回りが定石となった。

パナマ運河開通で、世界一周を考えたのはクルーズ目的の旅行会社ばかりではなかった。ロバート・ダラーは1921年、すでに貨物船の西回り世界一周航路開設を発表し試験航海に成功していた。しかし、ニューヨークから中国、東南アジアから欧州への直行貨物に需要は見込めたものの、これ以外は未知の領域であり、実現は米国船舶院から良質の船をいかに安く入手するかにかかっていた。1923年から船舶院との交渉を重ねた結果、ダラーラインは7隻の502型貨客船を420万ドルで手に入れることに成功、第一船をプレジデント・ハリソンに改名して1924年1月にサンフランシスコを出港させた。出港するプレジデント・ハリソンには時の大統領クーリッジから激励の電文が入り、サンフランシスコの埠頭の見送り・見物客の多さは、1867年にパシフィックメールが太平洋航路を開設して送り出した第一船コロラドの出港の時以来のものだったという。ダラーラインがプレジデントの船名を使用したのはこれが最初で、以後、ダラーラインの客船は“プレジデント・○○○○○○”と命名され、後にダラーラインが海運事業から撤退し米国船舶院が新会社を設立した際の社名は船名を文字って、アメリカンプレジデントラインズとなった。アメリカンプレジデントラインズとなってからも船名の伝統は客船事業から撤退するまで踏襲されることになる。

ダラーラインの西回り世界一周航路には、米国船舶院から購入した7隻の502型プレジデント客船を全隻配船、一航海は約110日間で2週1回の出港で運航された。寄港地はホノルル、横浜、神戸、上海、香港、マニラ、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズ、ポートサイド、アレクサンドリア、ナポリ、ジェノア、マルセイユ、ボストン、ニューヨーク、ハバナ、バルボア、ロサンゼルスであった。ロバート・ダラーは大西洋横断部分についてロンドン・ニューヨーク間の開設を切望したが、ユナイテッドステーツラインズとの競合となるために米国船舶院は認可せず、大西洋航路はマルセイユ・ニューヨーク間の地中海直行である。502型の説明で前述のとおり、オール1等モノクラスだったがスイートルームなど客室による料金の違いがあり、世界一周乗船券の価格は最低で1000ドルであった。(後、600ドルを切るところまで値下げされる) 面白いことに、この乗船券は2年間有効、期限内であればどの区間にも乗船することができる周遊券的なもので、海外在留の軍属や外交官とその家族、商社員、留学生から一般旅行客まで幅広く利用され、航路停止の1939年までの15年間、貨物と船客合わせて毎年80万ドル以上の営業利益を計上した。

ロバート・ダラーは1932年88歳で永眠、存命中から各事業部門を任されていた息子たちによってダラーラインは順調に営業してるように見えたが、1937年に台湾沿岸でプレジデント・フーヴァーが座礁、1929年の恐慌から財務状態が悪化していたところに重なる全損で、1938年ダラーラインは運航停止に追い込まれた。米国の歴史にくっきりと足跡を残すロバート・ダラーとダラーラインながら、同時代のユナイテッドステーツラインや英国のキュナード、仏国のフレンチラインのようには様々な史料が残らない。理由はわからないが、当時の雑誌史料などを丹念に調べると同時代の他社から比べると広告もやや少ないように見受けられ、宣伝・広告には積極的ではなかったようである。このポスターは1920年代、ニューヨークの摩天楼を背景に502型プレジデント客船が描かれている。下部テキストを見ればナポリ、ジェノア、マルセイユからニューヨーク行き世界一周航路の一部を取り上げており、欧州で使用されたものである。ダラーラインの隆盛を伝える貴重なポスターである。 (了)

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