29. 戦艦三笠 東郷長官の風呂桶

次女の夏休みの宿題、氷川丸の模型が飾られているので「第49回 船の模型コンクール」を軍艦三笠に見に行く。出展児童には学校から入館パスを貰える。艦内で三笠新聞というのがフリーだったので頂いて読んでみると、この模型コンクール・・・第49回・・・と聞けば「ああ、そうなんだ」となるだけだが、第一回は昭和37年とのこと。 驚いた・・・僕の生まれた年である。作った模型は残念ながら入賞ならなかったが、とても良いものなので三笠から戻ってきたら紹介したい。一般配置図さえあれば、とても簡単に、そこそこ精密な船が作れるのである。

三笠は大賑わいだった。何の団体さんかわからないが、20-30人の団体さんが次から次、おまけに後部デッキでは模型教室なんかもやってるし、お酒に酔ったグループさんがブリッジ上の戦闘指揮所でワイワイやってるのは危なそうだったけれど結構な盛況ぶりだ。三笠は何度も行ってるけれど、艦内を歩いていたら東郷長官の風呂桶の話を思い出した。この話は・・・当事者たる60年余り前の悪童たちしか知らない秘話である。

ワシントン軍縮条約により廃艦が決まった三笠だったが保存運動の声が大きく、武装を解いて船底にコンクリを打って同条約締結各国了解の上、保存艦となったものの戦後は連合国に接収されて荒れ放題、やがて進駐軍の遊び場となってキャバレー・トーゴーとか呼ばれてデッキには水族館まで作ってしまう始末。これを憂いたチェスター・ニミッツ元帥が先頭に立って、返還と保存に尽力した結果、現在の保存艦三笠がある・・・ここまでは誰でも知ってる大まかなお話。

多分、進駐軍に接収される前のつかの間(昭和20年8月末から9月前半と推測される)のことなのだろうが・・・それこそ戦後の無政府状態の時、三笠は出入り御免の略奪場だったそうだ。真鍮やら鉄、デッキのチークまで外して持って行けるものは、皆勝手にかっぱらわれたらしい。そんな状態だから・・・悪童たちが黙っているはずがない。彼らにとってはせいぜい良い遊び場だったそうだが、ある日長官浴室のバスタブを見て誰が思いついたか、「これに乗って猿島に行こう!」となったのだそうだ。で、皆でバスタブを外してえっちらおっちら海に浮かべて進水、威勢よく猿島目指して漕ぎだした。ところが・・・その元悪童の方の話によれば、三笠のある白浜と猿島の真ん中あたりで浸水、そのままバスタブは沈没してしまった。で、悪童たちは泳いで帰ってきた。まあ、真ん中あたりだと結構泳ぎが達者でないと大変だし、いずれ沈んだバスタブだから真ん中よりはずっと近いと僕は思うのだが・・・その話を思い出してバスタブをじっくり見ると、確かに明治33年当時のものには見えない。いずれにせよ「東郷元帥の風呂桶は三笠と猿島の真ん中あたりに沈んでいる」のだそうだ・・・ (2012,10,1初稿、2015年加筆)

氷川丸の模型

氷川丸 2012夏【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 横浜みなと博物館【船と港のエッセイ】

ページトップへ