船と港のエッセイ 2 CONTENT

「船と港のエッセイ 2」 日々、つらつらと綴ってきた店長日記も10年目に差し掛かる。船と港を書いた散文をピックアップ、一部加筆手直したエッセイ仕立てのコンテンツ。店長日 記 Best of the best ・・・ 小野寺俊英

40. ジャイロスタビライザー

客船コンテ・ディ・サヴォアの一般配置図にはジャイロスタビライザーが反映されていた。しかし、揺れない船は夢のまま

39. スコットランドの独立−サミュエル・キュナードの手紙

スコットランド独立運動。永年、スコットランドを下風に見てきた英国、古の征服行動が地球規模の大問題かもしれない

38. 日本郵船博物館 氷川丸の模型

日本郵船博物館。ウィスコンシン海事博物館より日本に戻って来た氷川丸の模型を見る

37. タイタニックの床

リフォームの床材を選んでいると、タイタニックに米国アームストロング社のリノリウムが使われていたらしい記述を発見

36. 書籍 ノルマンディーに夢のせて

横浜大さん橋、1/100客船ノルマンディー模型の持ち主、漆島隆志郎さん著「ノルマンディーに夢のせて」

35. クルーズ人口

HALの客船フォーレンダムが横浜初入港。思い立って世界のクルーズ人口を手計算で推計してみた

34. パナマの死角 Across the pacific 1942

ハンフリー・ボガードのパナマの死角、真珠湾攻撃前後の日米情勢が垣間見える

33. 80日間世界一周 1922年の世界一周クルーズ

ヴェルヌの80日間世界一周を読む。1922年、大正11年の世界一周クルーズ、当時の英文日本滞在記を読む

32. 横浜新港9号岸壁

本当は、かつて氷川丸が発着していた埠頭が良くわかっていなかった。横浜新港の昔と今を調べてみる

31. 横浜散歩「日本郵船!」は黄門様の印籠

昔の横浜で「日本郵船!」と言えば、タクシーの運転手さんも敬意を表するほどステータスが高かった

30. 横浜みなと博物館

横浜みなと博物館の企画展「魅惑の日本の客船ポスター」を見学

29. 戦艦三笠 東郷長官の風呂桶

戦艦三笠で「船の模型コンクール」を見る。三笠の沖合に密かに沈む東郷元帥の風呂桶秘話を思い出す

28. 氷川丸 2012夏

日本郵船・氷川丸ガイドブック巻末の1/750一般配置図から北原コレクションにヒントを得て氷川丸の模型を制作

27. 横浜散歩 汽車道・臨港線・山下臨港線

横浜散歩、汽車道、臨港船と横浜港駅、謎の高架・山下臨港線のことを知る。40年に渡る個人的な謎がついに解ける

26. 天皇陛下訪英 昔はAPLで

1953年(昭和28年)、英女王戴冠式に昭和天皇名代として皇太子殿下訪英。APLの客船プレジデントウィルソンに御乗船

25. 日本郵船・幻の太平洋航路客船

高橋光彦さん著「クリスタルクルーズの20年」にて氷川丸退役、幻の日本郵船大型高速客船の顛末を読む

24. 氷川丸固定説

日本郵船の客船氷川丸は1961年より横浜山下公園に係留。俗説では海底に固定とも。改めて係留されていることを確認

23. 浅間丸 内藤初穂著「狂気の海」

内藤初穂さん著の「狂気の海−太平洋の女王 浅間丸の生涯−」を読む

22. クレイタウンのタイタニック

クレイタウンのタイタニック模型は価格の割に良品。英国では二等航海士チャールズ・ライトラーの新事実が発表される

21. 大和のバルバスバウ

大和の球状船首は平賀譲卿の大発明とされるが、ロシア海軍のユルケビッチ型船体ラインズが元祖とも

40. ジャイロスタビライザー

客船コンテ・ディ・サヴォアのジャイロスタビライザー

イタリアンラインの客船、コンテ・ディ・サヴォアの一般配置図を眺めていると、かのジャイロスタビライザーの設置スペースがきちんと描かれていた。冬の北大西洋も乗客にとっては結構しんどい航海だったようである。ありえないこととわかりつつ、揺れない船というのはこれまたひとつの人類の夢だったりする。

現在の客船にはスタビライザーという羽がついている。大型客船ではまずビルジキールが採用された。両舷最下部に船の長手に沿って付けた長い突起物で、この抵抗で揺れを抑えようというものだ。続くフィンスタビライザーは水面下両舷に飛行機の翼のごとき長方形の羽を出し、この角度を変えて航空機の翼のごとく揚力浮力を得て左右の釣り合いをとろうというものだ。実は、この仕組みは1923年に日本の三菱造船が発明したものだったのだが、制御が上手くゆかず効果を確かめられなかったので、興味を持った英国の企業に特許を売ってしまった。現在ではコンピュータ制御によってコントロールできるので最も有効な揺れ止めとなっている。戦後になって船の揺れ止めとして普及することになるので、件の英国企業はたっぷりと特許料を得たことと思われる。ちなみに、第二次大戦中、米英の軍艦にはフィンスタビライザーが取り付けられて効果もあったそうだが、日本軍では上手に使えなかったらしい。

フィンスタビライザーのような立派な機械でなくとも、両舷船尾近くに三角形の羽(突起)をつけることもよくある。昔、竹芝−大島の東海汽船の船に乗って魚釣りに行っていた頃、ある時、カトレア丸(だったと思う。サルビア丸かも)がドック入りしてスタビライザーを付けて出てきた。揺れの軽減は実感できなかったが、妙に船内がうるさくなって辟易したことがある。まあ、うるさくなるほど水を切っていたわけだからやはり効果はあったのだろう。

米国のスペリーという会社は、元々、航空爆撃用の照準器を作って成長した会社だそうだが、1910年代には欧州に現地法人を構え、この現法も成功していた。イタリア国とスペリー社とにどれほど深い関係があったかは生憎資料が見当たらないが、何せスペリーが開発したジャイロスタビライザーがイタリアンラインの客船、コンテ・ディ・サヴォアに搭載されたことだけは事実だ。このジャイロスタビライザーというのは相当な大仕掛けな装置で、コンテ・ディ・サヴォアでは175トンもの鉄の独楽を3つも積み、これを波に応じて(揺れに応じて?)最大毎分910回転で回し、この慣性モーメントで船の揺れを止めるというものである。コンテ・ディ・サヴォアの就役前後の映像を見るとジャイロが回っている場面も少しだけ登場する。残念ながら効果のほどは疑問で揺れない船はやはり幻想に終わったようである。もっとも・・・ジャイロスタビライザーは研究が進んだわけではなく、フィンスタビライザーに一定の効果が認められ、運用コストが格段に安価ですむために廃れてしまったとも言われる。何せ、巨大な鉄の球を回すわけなので電気代もまた膨大なものだったらしい。

客船の古い一般配置図はなかなか宜しい。模型作りをしている方にとっては欠くべからずネタだろう。僕も一昨年に氷川丸の模型作りでは大いに活用させてもらった。しかし、例えば、ベルサイユ宮殿の建築図面(高名なのは立面図だが)や、フランクロイドライトの帝国ホテルなどは平面図を見ているだけでウットリするのと同様、船の一般配置図もまた使うのみではなく、眺めてもまた大いに風情のあるものである。(2014,11,5初稿、2015年加筆)

スコットランドの独立−サミュエル・キュナードの手紙【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 【船と港のエッセイ】

39. スコットランドの独立−サミュエル・キュナードの手紙

客船に関して手元に置いて重宝しているのは野間恒氏の「豪華客船の文化史」という本だ。このところ、19世紀のまだ汽帆船の頃(とは言っても、実際に帆を張ったのは1860年あたりまでである)の船を調べる機会があって本をめくると、19世紀から20世紀の変わり目の充実した記述に比すると少々資料が足りなく、久しぶりに「大西洋ブルーリボン史話」を通読する。直訳気味だし用語も古いので読みやすくはないのだが、モザイク状に欠けている情報を埋めるには大いに役に立った。

1839年に英国海軍本部と蒸気船による大西洋横断郵便輸送を落札・契約したカナダ人のサミュエル・キュナード、蒸気船の建造はウッド・アンド・ネピア(ネイピア)のロバート・ネピアに依頼した。グラスゴウでネピアとの契約を1939年3月18日に終えたキュナードはロンドンに戻りこのことを海軍本部に報告、同3月22日にはネピアあてに次のような手紙を書き送った。以下「大西洋ブルーリボン史話」から引用 − 「海軍本部と大蔵省は。船の大きさについては大いに気に入っています。私は、貴殿とウッド氏(引用者注:ネピアは蒸気機関のエンジニア、ウッド氏は船体造船の専門)にかかわるものはすべて信頼しています。私は、これらの船はこの国で建造された船の中では、最も美しくもっとも良い船になると断言しました。貴殿はこちらイングランドの一部の業者に損害を与えたとはまるでお考えになっていませんが、私はリバプールとこの地(ロンドン)から、多くの申し出を受けているのです。私がスコットランドで契約を済ませたと答えますと、彼らは一様に『堅固なものはできまいし、間にもあわんだろう』と言います。海軍本部は私と同意見で、これらの船は、この国(イングランド)で造ったのと同様に、良いものができるだろうと考えています。それで私は彼らに、貴殿は納期を守ってくれると保証しました」 − 引用ここまで

このところニュースでも頻繁に取り上げられているが、スコットランドの独立運動が注目されている。言葉は微妙だが、一般的には「スコットランドは1707年にイングランドに併合された」ことになっている。法律的には対等合併だったのだが、上記引用のキュナードの手紙のように、イングランドはスコットランドを見下しているようなところがあるようだ。タイタニックの映画などでも見られるように、アイルランドもしくは北アイルランドはあからさまに差別的な扱いを受けている。スコットランド出身の俳優のショーン・コネリーは「我々は300年待ってきたのだ」と発言、イングランドのやんごとなき方々は大いにわが心と向き合うべき時なのかもしれない。

世界的に紛争は絶えず、人間の本来の煩悩の成せる結果としか言えないのだが、様々なことに異を唱えたり行動を起こす集団の言い分にも耳を傾ける必要はあるかもしれない。大きくはキリスト教社会やこれに連なる民族国家が争って征服行動に出たことに問題は発っしているように思える。つまり、過去の(先祖様の)自分たちの行動によって形成された勢力図や国境を、「ここで争いは止めましょう」と言われても、我が地所をあらかた分捕られた北アメリカのインディアンの人たちは心から納得できることはないだろうし、ウラジミールが自分の夢見るかつての理想国家を取り戻そうとしても、寄ってたかって「それはもう済んだことだから」で済まそうとしたって一方的すぎるかもしれないのである。隣国は、我が国を目の敵にするが、麻薬で侵略を仕掛けた某国の方をもっと恨ま無いことの方が不思議だよなあ・・・あれこそアジア侵略の最たるものだと・・・これは私見だが。かのワインの国などにも少数の原住民族の子孫は居て、彼らが不満を行動に表わすとフーリガンとか称して力で封じ込めようとする。紛争紛争といって悪者を仕立てあげるが、原因は実は自分たちのご先祖の行状にあるものと立ち返ってみる必要もあると思えてならない。かと言って、不満の刃を度を越えた暴力で示すことが許されることがないのは言うまでもないことだが(2014,9,15初稿、2015年加筆)

日本郵船博物館 氷川丸の模型【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 ジャイロスタビライザー【船と港のエッセイ】

38. 日本郵船博物館 氷川丸の模型

日本郵船博物館・氷川丸の模型

随分、日記が滞ってしまった。書くべき事と思っていたのは郵船博物館の氷川丸の模型のことだったが、もう6月の末になるが次女を連れて観てきた。模型の横にコピーの紙ぺらがおいてあったのでキープさせてもらった。以下、備忘録として引用

引用ここから 2014年2月18日(火)より「氷川丸」模型を一般公開しております。
本模型は戦前カナダ・バンクーバーの日本郵船の代理店で保管されていましたが、第二次世界大戦下の対日資産凍結によりカナダ政府に没収されました。
戦後、競売で本模型を落札したアメリカ人の遺族がウィスコンシン海洋博物館に寄贈し、同館で展示されていることが判明。その後何度かの返還交渉を経てこの度日本郵船へ返還が実現し、当館にて一般公開の運びとなりました。
本模型は「氷川丸」竣工時の設計図面に基づいて精巧に作られた籾山艦船模型製作所の作品であり、当社のみならず日本近代海運史にとっても貴重な文化遺産といえます。模型縮尺は実物の1/48、全長約340cm、幅約42cmです。
当館に展示されている同籾山製の「浅間丸」・「鎌倉丸」模型と、また山下公園に係留されている実物の「氷川丸」と見比べてみてはいかがでしょうか。
実物の「氷川丸」同様、数奇な運命を辿り返還された「氷川丸」の模型を、どうぞごゆっくりご鑑賞ください。 引用ここまで

ウィスコンシン海事博物館のお知らせでは

 

引用ここから Bon Voyage Hikawa Maru
Hikawa Maru, an 11-foot, highly intricate model of a Japanese passenger liner, is returning to its home country after gracing the Wisconsin Maritime Museum for the past 34 years. On Thursday, December 12, the 1,680-lb. Hikawa Maru will be carefully packed for its 6,000 mile journey to the NYK Maritime Museum in Yokohama, Japan, where it will join its full-size namesake, which is now a floating museum.
“It’s been our privilege to be caretakers of this iconic model for more than three decades,” says Rolf Johnson, CEO of the Wisconsin Maritime Museum. “We want to let the public know that Hikawa Maru will be leaving the community shortly but there’s still time to bid the model bon voyage. We’ve created a special goodbye card and encourage everyone to write a message or add their signature. Copies of these ‘goodbye wishes’ will be shared with our Japanese colleagues at their museum.” 引用ここまで

ウィスコンシンの新聞社のニュースでは

引用ここから The Hikawa Maru was sold in 1951 to a model collector in Vancouver and four years later to a car dealer in Iowa who donated it to the maritime museum in Manitowoc in 1979. NYK Lines paid the Wisconsin Maritime Museum for the model, though Johnson declined to say how much, and is handling the shipping expenses to Japan. 引用ここまで

いかにも、只で戻ったと勘違いしている人も多いようだが、新聞社のニュースの最後の段にあるように、日本郵船はお金を払って買い戻したのである。もちろん幾らだったかは知らない。もう4〜5年前だったと思うが、船のお好きな方に聞いた話では、実は随分前からウィスコンシン海事博物館とは交渉をしていて、その時点ではウィスコンシン海事博物館側も同館の展示品として重要な物なので返せないという返事だったという。同館の模型入手の経緯は上記英文のニュースにあるように、1951年に競売で手に入れたのはバンクーバーのコレクター、4年後にアイオワの自動車ディラーの手に渡り、1979年にウィスコンシン海事博物館に寄贈されたという。僕が聞いた話の続きでは・・・本当かどうかはわからないが、氷川丸自体、あるいは模型自体よりも、第二次大戦時の資産凍結、戦勝によって没収競売・・・という経緯に大きな価値がある! という判断で買戻しの交渉が難航したのだということだった。繰り返すが、真偽のほどは定かではないし、お話をお聞かせいただいた方もどなただったか失念した。

残念ながら休館中の船の科学館、学芸員の清水さんから聞いたことがある。「小野寺さん、あの飾ってある模型は幾らくらいか知ってる?大きいのは三千万とかだよ」・・・模型って・・・大きなクルーザーが買える値段である(2014,8,24初稿、2015年加筆)

タイタニックの床【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 スコットランドの独立−サミュエル・キュナードの手紙【船と港のエッセイ】

37. タイタニックの床

客船タイタニックの床のリノリウム

お門違いの調べごとで客船タイタニックの船名を見かけた。少々傷んできた中野の実家の改装工事をあれこれとやっているのだが、共用部の床の材料選びが難航している。いくらか外部の人が出入りする場所なのだが、怪しからん人も居るのでタバコの焼け焦げに強いものが必要なのだ。喫煙率は年々下がって、昭和40年頃は50%弱くらいが今や20%ほどなので、以前ほど気に掛けることはないのだろうが、普通のCFシートでは一旦タバコで焦げると醜いのは永遠にそのままだからだ。僕は学生時代、現場の床仕上げのアルバイトをやっていたことがあり、実は床材には少々うるさい。組下仕事で、床貼り下請けの下で現場引き渡し用の仕上げのワックス掛けの仕事だった。就職してサラリーマン時代は輸入家具のセールスが長かったし、色々な打ち合わせでは家具のコーディネートの関係で内装仕上げには関わらざるを得ないし、内装工事の仕事自体を請け負うこともたまにあった。この辺を割と苦も無くこなすことができたのは、現場仕事でいろいろな職人さんと関わってその仕事をこの目で見てきた経験が大きい。本を読むより現場に一週間もいれば自然といろんなことが覚えられる。

それはそれとして、この手でクリーニング・ワックス掛けをしたからどんな材料が一番宜しいかは自ずと叩き込まれている。今時Pタイルなんかは使わないが、塩ビ系のCFシートで柔らかいのはだめだ。ロンリウムとかかっこよく呼んでみたところでヤワな安物は良くない。もっともカチンカチンに樹脂ワックスをかければかなりタバコにも対抗できる。(先日、これも調べごとをしていたら、米国のジョンソン社のワックスも日本では流通がか細くなっていて、床に掛けるのは大変な力仕事になるが最強だ! と舌を巻いた樹脂ワックスの「赤缶」やら「黒缶」は手に入らないようだ) 本家リノリウムも汚れには弱い。床を貼ってすぐに良いワックスを掛ければ良いが、その前に汚れると染み込んでしまう。いろんな現場のいろんな床材の思い出があるが、これはいいなあ・・・と思ったのは米国のアームストロング社の床材である。商品名はいろいろあるようだが、僕らの間では「アームストロング」である。今でもベストセラーの「ニューテッセラコーロン」という石目モザイクのものが特に宜しかったし、実家の床と階段もこれにしようと思っている。現場にも怪しからん輩はいるもので、CFシートにタバコを落とされたら、どんなに頑張っても手におえない。リノリュームだってシミは落とせない。ところがアームストロングは固くて密度が高く、左官屋さんが少々モルタルを落としたって結構簡単にとれる。金太郎飴のように裏まで柄が貫通しているから、どうしても取れない汚れでも、いくらか表面を削ることだってできる。つまり・・・現場の引き渡し仕上げも楽だし、綺麗なのである。しかしながら・・・値段もピカイチ、硬いから貼るのも手間である。高価であるがゆえに特殊な材料であることは確かで(とは言っても、いわゆる本物のリノリウムの一種で98%天然素材である!)、今回一緒に仕事をやっている工務店さんでは扱ったことがないという。で、調べれば高名な米国デュポンの人造大理石「コーリアン」のABC商会さんの扱いである。早速、親方にこのこと伝えた次第だが・・・

ABC商会のアームストロングの紹介に面白い記述を見つけた。天然素材由来のリノリウムという新素材は19世紀中ごろに英国で開発されたのだそうだが、米国アームストロング社がリノリウムの長物(いわゆる長尺シート材料)を商品化したのは1909年のことだそうで、あのタイタニックにはアームストロングのリノリウムが数百本積まれていたそうだ。そこにタイタニックの床材に使用されたと明記されてはいないが、英国から出航するタイタニックがわざわざ米国のアームストロングを積んでいるのは変だし、これは恐らく床に使用されていたということなのだろう。デッキはチーク、高級な公室や船室はカーペットだろうから、それ以外のところに使用されていたのだろう。リノリウムは一般に防火性も高く燃えないため有害な煙も出ないから正解である。時間がやや下るが、キュナードの客船、初代クイーンメリーには、思いのほかプラスチック素材が多用されているという。現代の価値観からすればプラスチックはチープな素材となるが、当時は高価な新素材だったのだそうだ。タイタニックにも使用されたと推測されるアームストロングは今でも高級だが、当時も豪華で贅沢な材料だったのだろう。

床のロンリウムといえば・・・今日はまた大雪で、これまた湿った雪で始末に負えず、使い古してほったらかしになっていた磯釣り用のスパイクブーツを引っ張り出した。うっかり仕事場のたたきに上がったらすっかりロンリウムを傷めてしまった。そう言えば東海汽船では当然のように磯釣りの乗船客が多いのだが、床が傷むので船内ではスパイクシューズご法度だったなあ・・・(2014,02,15初稿、2015年加筆)

書籍 ノルマンディーに夢のせて【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 日本郵船博物館 氷川丸の模型【船と港のエッセイ】

36. 書籍 ノルマンディーに夢のせて

横浜大桟橋・ノルマンディーの模型

殊更、客船の薀蓄を人様に押し付けるつもりはなく、知識や収集を披露して自慢する気もないし、逆にその類の話を聞かされるのは得意ではない。でも何事も淡々と努力されて道を究めておられる方々の生きざまのようなものは大いに参考になるし「かくありたい」と思わされることはしばしばである。

何が、船というものが心を魅入るものか見当もつかぬが、僕はそこにある種の人間臭さがあるからではなかろうかと思う。1966年にビートルズが日本へ来たけれど、羽田に日本航空のハッピを着てビートルズの4人がタラップを降りた記憶はあっても、肝心の飛行機のことは印象がない。チャップリンが氷川丸に乗って日本を後にしたことや大いに天ぷらを食したことは、我々の想像力を刺激して止まないけれど、ジョンレノンが仮にJALの機内食の和牛に舌鼓を打ったとしても、そんなことは話題にもならない。この辺の違いが船にはあるんだろう。

フランスの客船ノルマンディーには、僕も通り一遍ながら強い思い入れがある。西村慶明さんのノルマンディーに関する一文を「栄光のオーシャンライナー」で読むことがなかったら、船のお勉強に時間を費やすことにはならなかったかもしれない。エアーポケットのように、たまたま手に取る機会を得なかった書籍を入手して読んだ。漆島隆志郎氏が執筆された「ノルマンディーに夢のせて」という書籍である。昭和60年上梓の本なので、かれこれ30年前の書籍ということになる。まだ当時は、今みたいに安っぽい本だらけではなく立派な本も多かったとは思うが、濃紺の凹凸の強い平織りのクロスに金押し文字の装丁は素晴らしい。当時の販売価格は3800円だから豪華本! である。内容は漆島さんの客船ノルマンディーへの強い思い入れに気圧されるもので、船舶としてのノルマンディーに関する知識の一助には殆どならなかったが、存在しない客船をまるで船内を歩いたように描写されるのを読むと、きっとデッキプランや一般配置図を暗記するほど諳んじておられるのだろうと想像がつく。

漆島隆志郎さんと言われてもピンと来ることはないだろうが、実は氏は大桟橋に飾られている1/100のノルマンディーの模型の持ち主である。このノルマンディーの模型は丸の内の洋服店に飾られて話題になったそのものであり、大桟橋での展示に関しては、2010年10月の神奈川新聞の記事によれば以下の通り。
以下引用  横浜港大さん橋国際客船ターミナルの2階ロビーに1930年代に活躍したフランスの豪華客船「ノルマンディー号」(約8万3千トン、全長約313メートル、全幅約36メートル)の100分の1大の模型が展示され話題になっている。ノルマンディー号の研究を続け、著書もある漆島隆志郎さん(71)=東京都世田谷区=が17年の歳月をかけて製作した。個々の寝室の調度品を忠実に再現、約700体の乗客はデッキなどでさまざまな表情を見せている。横浜市港湾局も芸術性を評価、客船ファンに鑑賞してもらおうと、豪華客船の“メッカ”に9月下旬からお目見えしている。 引用ここまで

あえて暴露が目的ではないが、僕が知る限りこのノルマンディーの模型は持ち主は漆島さんに違いないが、実は制作者は先の震災で亡くなられた模型職人の宮内晴美さんである。そして詳しい経緯は不明ながら(噂話のようなものは色々と聞こえるが真相は確証なく、記述を控える) 製作者であられる宮内さんの強い希望で製作者を伏せたのだという・・・大桟橋に行けばいつでも見ることができるのはアリガタイことだが、何だか隅っこに置いてあるようでしっくりこないし、地球規模で見ても相当の価値を持つ立派な模型である、大桟橋のロビーはそこそこ面積もあるのだから常設の温度湿度管理された一部屋を作ったらもっと宜しいと思うのは僕だけだろうか・・・(2014,1,31初稿、2015年加筆)

クルーズ人口【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 タイタニックの床【船と港のエッセイ】

35. クルーズ人口

客船フォーレンダム、ホーランド・アメリカ・ライン

ホーランド・アメリカ・ラインのクルーズ客船ヴォーレンダム(フォーレンダム)。例によって、ネットでカレントポジションをチェックして浦賀水道入航を待つ。今日は横浜入港予定が16:00なのに、浦賀水道の入航予定は13:45、通常は横浜から1時間程前に浦賀水道入航なので事情がわからない。春霞と陽炎でやや写りが悪い。しかし・・・カレントポジションを憶えたのは良かった。観音崎、当社からだと真東を見て観音崎手前の旗山崎・走水小学校をかわして入ってくる船をひたすら待つのは骨が折れるし時間がかかりすぎる。カレントポジションを見ていれば、今日であれば、まだ伊豆半島の南だとか、大島の北側を通過したとかが10分遅れほどで判るから有難い。シープリンセスが見えなかった時も、カレントポジションで猿島を越えたから「ああ、霧で見えなかったんだな」と判断がつくので延々と待ちぼうけになることもない。

フォーレンダムは横浜初入港、由緒正しき1873年創業のホーランド・アメリカ・ライン(HAL)のクルーズ客船である。HALも今はオランダに会社があるわけではなく、1971年に北大西洋定期航路を閉鎖してクルーズ客船に転業した時、アメリカに会社を移している。1989年には、ミッキー・アリソン率いるカーニバルの傘下に入った。ミッキー・アリソンはカーニバルCEOを父親から引き継ぐと株式を上場して資金を調達、この資金でロイヤルカリビアンクルーズのTOB(敵対的買収)を仕掛けるも失敗、取って返してHALを買収した。これが、後にキュナードやP&Oを買収して世界一のクルーズ船会社に巨大化してゆく第一歩になった。フォーレンダムは新船建造第二シリーズ、ロッテルダム級の二番船である。今回は中国から日本、ベーリング海を経由してバンクーバーまでの北太平洋クルーズ、その前は南太平洋を回っているようだから、全体で右回りの太平洋一周ということになる。

地球規模で見た場合にクルーズ旅行はものすごく需要が伸びている分野で、10万トンを越える客船はすでに30隻以上を数えている。船は殆ど海に出ているわけで、10万トン超客船だけで定員を平均4000名X消席率85%として一隻3400名、30隻ならばこれだけで約10万人! 10万トンに満たないクルーズ客船が一体どれだけあるかわからないが、随分大雑把な計算ながら、ざっと総乗客数をその倍くらいとすれば20万人で〆て30万人! である。 毎日30万人もの人が船に乗ってクルーズを楽しんでいる。30万人を、ざっと一乗船あたり1週間として、船の稼働率95%X52週=49.4週、30万人X49.4週で14,820,000名、年間1500万人の人がクルーズ客船に乗っていることになる。1915年頃に最も乗船客が多かった北大西洋航路の乗客数が100万人ちょっと、交通手段が船だけだった当時でこれだから1500万人というのはとてつもない数である。(注:ここまで書いて、あまりいい加減な数字ではいけないと思って、一応それらしい資料をひもといてみると2007年あたりで、世界クルーズの需要は1550万人くらい・・・当たらずも遠からじである)

日本のGDPは、2010年で全世界GDPの8.68%にのぼる。日本のクルーズ需要は概ね20万人弱だそうだから、世界のクルーズ人口のわずか1.2%ほどしかない。何もかもGDPと比例するわけではなかろうが、相対的に低い。原因のひとつはクイーンエリザベス2にあったらしい。クイーンエリザベス2が日本に来た時に「豪華客船」とやってしまったものだから、日本ではクルーズ客船の旅が「豪華客船の高級レジャー」と認識されてしまったらしい。欧米でクルーズ需要が爆発的に伸びたのは、エコノミーツアー(これをマスマーケットと呼ぶ)が普及したことが要因だ。

GDPが出たついでに、先日、素朴な疑問が解けたので一筆。アメリカは世界一の経済大国だが、人口では世界3位で世界比4.5%、この4.5%の人口で世界GDPの22%以上を稼いでいる。一体何をそんなに作っているんだろう? と思ったことはないだろうか。実は、アメリカという国は消費大国で、アメリカのGDPは生産ではなく消費によって稼ぎ出されているのだそうだ。僕らが受けた教育も今や相当古典的なものになっていて、何と言ってもGDPではなくてGNP(国民総生産)だった。そのころ学校で習ったのは、せっせと電気製品やカメラや自動車や船を作った生産高がそのままGNPのように習った筈で、だから僕は今でも産業の空洞化を真剣に心配するのだけど、それは雇用という側面では大問題ながらGDPには影響が少なくて、むしろ買って食って買って食って・・・こいつを皆で裏付けのないカードで支払って・・・とやればGDPは増えるようなのである。もう、額に汗して作りだした純粋な付加価値なんて考え方は古い。クルーズ人口もGDPのこともわかったけれど、不思議なことが多すぎる、この人類は・・・(2013,4,16初稿、2015年加筆)

パナマの死角 Across the pacific 1942【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 書籍 ノルマンディーに夢のせて【船と港のエッセイ】

34. パナマの死角 Across the pacific 1942

ハンフリーボガード・パナマの死角

1942年に米国で公開されたハンフリー・ボガード主演の「Across the pacifc」という映画を見た。ジョン・ヒューストン監督の傑作選シリーズのDVDというのが日本でもリリースされていて、これを買えば日本語字幕でスイスイなのだが、如何せん高価で手を出しにくい。そもそも、映画を見たかったわけでもなくて、この映画の撮影に使われている船を見たかったのだ。というのは、佐藤早苗氏著「輝きの航海」(1993年、時事通信社)という本にこの映画のことが書いてあったので興味を持ったのである。その内容は

以下引用 ごく最近、アメリカから日本郵船本社に実に興味深いビデオテープが送られて来た。戦前の映画をビデオテープにとったもので、日本人にも懐かしいハンフリー・ボガード主演のものである。それが日本郵船に送られてきたのは、その映画がNYK(日本郵船)の船が舞台になっているからである。 〜中略〜 私もちょっとだけビデオを見たが、NYKのマークや二引の煙突があったり、日本郵船の船なのに、日本人を演じている役者が中国人らしく、日本人が見るとちょっと妙なところが目立つ。戦前はまだ日本を理解していない国がほとんどで、なぜか日本と朝鮮ではなく、日本と中国が交錯しているらしい。このビデオは、いま準備されているNYKミュージアムに納められることになっている。 引用ここまで

物語は、アメリカ陸軍を除隊させられるリック(ハンフリー・ボガード)が、職を求めてハリファックスに行きカナダ陸軍の面接を受けるも不採用、以前駐留していたパナマを目ざし、ハリファックスからニューヨーク、パナマ、ホノルル経由、横浜行きの日本郵船ジェノア丸に乗るというもの。リックは、スパイ戦に巻き込まれ日本軍が計画していたパナマ運河爆破作戦を阻止するというものだ。アメリカでの劇場公開は1942年の9月だが、この映画の撮影が始まったのは1941年の12月に入ってからだったという。以前、どこかで浅間丸がこの映画の撮影に使われたといったことを読んだので、大いに期待したのだけれど船は浅間丸でも何でもなかった。浅間丸に限らず、日本郵船黄金時代の客船の映像というのは本当に少なくて、郵船博物館で見られるプライベートフィルムや氷川丸の退役記念のフィルムくらいしか見たことがないから、どこかで読んだ通りならお宝発見だったのだが・・・

映像をみて、浅間丸でないことはすぐに判る。では日本郵船の二引ファンネルマークのこの貨客船は一体何だろうと思って、日本郵船の客船古写真や写真集、資料、社史など片っ端から付き合わせてみたがそれらしい船がない。船名はシャレが効いていて「下野亜丸」となっている。ジェノア丸が何で下野亜丸かと思えば、下野亜丸は音読みで「げのあまる」、これをローマ字に置き換えると「GENOA MARU」、すなわちジェノア丸となるわけだ。この艦首部船名とファンッションプレート後端の位置関係、また船名と船首アンカーの位置関係、門型デリックポスト、ブリッジと中央ハウス部分形状、後部ハウス・・・これらを判断材料にしたのだが、少し似た船であれば、N型貨物船、A型貨物船、S型貨物船などがあるにはあったが、門型デリックポストはヨシとしても、アンカーの位置も違えば船尾ハウスも違うし、根本的に映画では蒸気レシプロなのに両船はデーゼル船だからありえない。そう思いつつ映画を見ると、サロンの入口に「娯楽室」と書いてあり、読めるには読めるがどうも日本の漢字ではないし、撮影のために後から書いたものに見える。またサロンには、何と昭和天皇の肖像画らしき大きな絵(大体A1サイズほど)が飾ってあるが、日本の船に天皇陛下の肖像画はありえない。当時は神聖なものだから御真影が祠の中にあることはあっても絵画のようには飾らない。その他にも、細かくは船内の案内は紙が貼ってあり「→甲板」みたいなことが書いてあるが・・・紙で貼らないだろう。ハリファックスを出てニューヨークに寄った際には、立派な「N.Y.K. LINE」のギャングウェイが乗船口に掛けられるけれど、内側を良く見れば真新しい材木で組んだ造り物である。ファンネルの形状もきちんとした楕円注や円柱ではなくおかしい・・・と挙げればキリがないのだが、何のことはない、ファンネルを二引きには塗ってるものの日本郵船の船ではない! という結論である。

さて、この映画の製作はハリウッドのMGM映画だが、MGMは1940年代に「ミニヴァー夫人」のようなプロパガンダ映画を多数製作していた。(ちなみにハンフリー・ボガートといえば「カサブランカ」だが、こちらはワーナーのプロパガンダ映画) この「Across the pacifc」という映画がプロパガンダ映画であるということと当時の日米情勢、加えて題名の違和感と脚本が途中で書き換えられたという裏話・・・これらのことから興味深いことが見えてくる。未だに論争の種となる真珠湾攻撃を米国が事前に知っていたか否か・・・真珠湾攻撃はやはり米国の想定内の出来事だったとしか思えないのだ。

1940年頃には日米開戦が不可避になりつつあり、1941年にはルーズベルト大統領が世論と議会を大戦参戦賛同に導き対独開戦に踏み切るため、石油の禁輸によって日本に仕掛けさせようとしていた。三国同盟の日本への宣戦布告は対独開戦と同義である。すでに多品目の対日禁輸措置で日本船が米国で貨物をとれる状況にはなく、在米日本資産凍結に至り、7月には北米定期航路が閉鎖、8月にはパナマ運河の閉鎖が宣言され、北米にあった日本船籍の船には日本への引き上げ命令が下り、以後は政府チャーターの引き揚げ船のみの運航となる。「Across the pacifc」は、反日的プロパガンダ映画であり、舞台に日本郵船の客船を選んで、なおかつチケットエージェントの描写や張りぼてのギャングウェイなど、かなり日本郵船=日本の船であることをリアルに描写しようとしており、当時の米国における日本郵船の知名度と敵国日本のフラッグキャリアとしての認知度が強いものだったことがわかる。しかし、この映画の撮影が開始された1941年12月の時点で、すでに日本郵船の船は一隻たりとも米国にはなかったし、すでに開戦前夜に撮影に使える日本の船などありようもない。ついでに言えば、日本人を演じているアクターはみな中国人で、「かしこまりました」とか「よろしく」とかの日本語は明らかに日本人の日本語ではない。船だけでなく、日本人のアクターも使える状況にはなかったということがわかる。

それにも増して興味深いのは、この映画の製作裏話で、実はこの映画の脚本で主人公リックが阻止する日本軍の作戦はもともとは真珠湾攻撃だったということである。パナマのコロンで終幕を迎えるこの映画の題名が「Across the pacifc」であるのは、日本軍のパナマ運河爆破を阻止して太平洋への航路を守るという意味で的外れとは言えぬまでも、映画の中では一度も太平洋は登場しないから不自然だ。本当は、パナマではなくハワイで物語のクライマックスを迎え、日本軍の真珠湾攻撃を阻止するという脚本だったという。ところが、ここが大事なところで、米国ではすでに真珠湾が攻撃される予感があったため、その場合には脚本をパナマに差し替え、題名はどちらにも使える「Across the pacifc」にしたのだそうだ。実際に、1940年9月には日本の外務省(と海軍)の暗号は解読されており12月までには複製の暗号機が8台配備され、日米交渉や海軍の作戦は米側に筒抜けだった。1941年に「Across the pacifc」の撮影が始まると、案の定、日本は真珠湾奇襲を敢行した。脚本は真珠湾からパナマへ書き換えられ、リックが1941年12月6日(真珠湾攻撃は米国時間1941年12月7日だったから、現実の真珠湾攻撃の一日前)に日本のパナマ運河爆破作戦を阻止するものとなった。この辺も手が込んでいて、パナマで迎える決着の日は、ご丁寧にもパナマの新聞の見出しが大写しになるシーンがあって、日付は1941年12月6日、見出しは「HIROHITO REPLY TO ROOSEVERT WILL INSURE PEACE...SAY NOMURA AND KURUSU」となっており、映画公開時には、いかにも真珠湾がだまし討ちだったように強調しつつ、実はその一日前にパナマ運河爆破を阻止したのだというロジックである。戦前といえども、昭和天皇がそのように考えていると米国大使が言うことはないのだが、結局、「平和を保障する」と言っておきながら真珠湾をやった卑怯な日本のパナマ運河爆破を阻止したリックは偉い!というわけである。さて、ここで良く考えなきゃならないことは、日本では未だに米国が真珠湾攻撃を事前に察知していたか否かとケンケンガクカクやってるわけだが、現実としては街場の映画会社が真珠湾攻撃の脚本を真珠湾攻撃が起こる前に書いていた訳で、日本海軍機動部隊のハワイ接近に誰かが気づいていたかどうかは不明だが、少なくとも真珠湾攻撃、もっと言えばパナマ運河攻撃を日本が計画していることが広く一般に認識されていたことが良く分かる。この興味深い事実をスタートにして真珠湾攻撃陰謀説を考えないと結論は感情的に過ぎるあらぬ方向にいってしまうだろう。ちなみにパナマ運河爆破は、駐米武官として山本五十六提督が米国にいた時から山本提督が頭の中に描かれていたといわれる。山本提督暗殺後は、山本提督の遺志・弔い合戦として海軍がパナマ運河爆破計画を立てていたそうだ。

日本郵船・パナマの死角ボガード

冒頭の佐藤早苗氏の著書によれば、「Across the pacifc」は郵船博物館に納められたかもしれない。しかし、これが博物館の資料にもならなかったのは、郵船の船が無関係だったからであろう。もし、郵船OBの竹野弘之さんが存命であればお目に掛かった折にでも笑い話を伺えたかもしれない。しかし、話が変わるがハリファックスのチケットエージェントの映像は見ものであった。当時の郵船のポスター、「ゲオルギー・ヘミングのNYK around the world」や「戸田芳鉄の江戸城」がきちんと壁に貼られているではないか・・・これはわざわざ作ったりしないだろうから本物があったのだろう。僕にとってはこれこそ大変貴重な資料である(2013,4,10初稿、2015年加筆)

80日間世界一周 1922年の世界一周クルーズ【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 クルーズ人口【船と港のエッセイ】

33. 80日間世界一周 1922年の世界一周クルーズ

80日間世界一周・トーマスクック世界一周1872

ジュール・ヴェルヌ著、80日間世界一周を読んだ。恥ずかしいことながら読んだことがなかったのである。思い立って読むきっかけは、客船の世界一周航路について調べごとをしていると、世界一周旅行は英国の旅行会社トーマス・クックが1872年に世界で初めて催行、ヴェルヌはこのトーマス・クックの世界一周旅行の広告を見て80日間世界一周の執筆を思いついたという記述からだった。実は、これはトーマス・クックの世界一周とヴェルヌの80日間発表が同年だったための俗説で、ヴェルヌはトーマス・クックが広く世界一周旅行の募集を始めた1872年5月より前から執筆を始めていたし、西回りと東回りの違いもあれば、経路も若干違う。特に西回りと東回りの違いは重要で、ヴェルヌが読者をはめるどんでん返しのトリックが東回りの部分に隠されているので、トーマス・クックの旅行とヴェルヌの小説は無関係なのだろうと結論づける方が賢明だ。

好い歳して気恥ずかしいが、80日間世界一周は大変面白く、文庫本上下巻を延べ6時間ほどで一気に読んでしまった。ちなみに、光文社、仏語翻訳家の高野優さんによる2009年の新訳である。さて、そうは言うものの、やっぱりこれは子供の頃に読んでもしんどかったかな・・・と感じた。そもそも、世界一周のことを調べてる途中のことだったわけだし、僕だけかもしれないが、戦後の日本人は明治・大正の先達よりはるかに世界観が小さいから地名や港が出てきても距離感や船の速度はピンと来なくて面白くないかもしれない。現に長女は、呆れるほど本を読む子で、先日もアルセーヌ・ルパンを夢中に読んでいたが、80日間世界一周は10ページほど、まだフォッグ氏が世界一周に出立する前、ロンドンに留まったままでギブアップである。いずれにせよ、いつかは読んでみるかと思っている方には読むことをお薦めしたい。さて、フォッグ氏が80日間で世界一周に挑戦することになる事の起こりは、インド横断鉄道が開通したという記事から80日間で世界一周が出来るか否かの論争からだった。本当は、東インド航路があるのだから、インドを鉄道で横断する必要はないのだが、パナマ運河の開通は1914年のことなのでアメリカは大陸横断鉄道で行かねばならない。もちろん、こちらもホーン岬を回る航路があるが時間がかかりすぎる。ヴェルヌのインド横断鉄道は物語の展開上必要になる挿話であり、物語の思いつきは1869年にスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通したことから得たと推察される。では物語はさておき、当時、現実に催行されたトーマス・クックの世界一周とはどんなものだったのだろう。

トーマス・クックは、熱心なプロテスタントの伝道師にして禁酒論者だったが、1841年の禁酒大会に信徒を大量に送り込みたいがために、列車のチケットを一括購入して旅費を安価にすることを思いついた。この試みは見事に成功を収め、一般旅行者に代わってチケットを手配する世界で初めての近代的な旅行代理店業を創出した。事業は順調に伸張し、10年後のロンドン万博で飛躍、ロンドン万博入場者のうち5%近くはトーマス・クックの顧客で占められることになる。1871年には息子たちが事業に参加して法人化、その翌年1872年に件の世界一周旅行が企画されたのである。このツアーの料金は200ギニー、旅程は222日(資料により122日となっているものもあるが、これは間違い)、1872年7月にリバプールを客船で出発してニューヨークへ渡りナイアガラ瀑布、デトロイト、シカゴ、ソルトレイクシティー、シェラネバタを経由してサンフランシスコからパシフィックメールの客船コロラドに乗船した。アメリカでは伝説の豪華列車プルマンにも乗車し、スー族の襲撃も見られたようである。太平洋を渡り横浜へ到着。日本では横浜、東京、神戸、長崎に寄っているようだが、この年(明治5年)に新橋・横浜間の鉄道が開通したばかりなので、横浜・東京は往復したかもしれないが、神戸、長崎は船で寄った筈だ。P&Oの客船ミザポールで上海、香港、シンガポール、ペナン、セイロンを経由してカルカッタに到着。ここから、ヴェルヌの80日間世界一周よろしくインド横断鉄道でベナレス、アグラ、デリーを経由してボンベイ(現ムンバイ)へ到着、スエズまでP&Oの船で行き、カイロ、エルサレム、ダマスカス、バールベック、ベイルート、コンスタティノープルを経て(この辺りが鉄道か船かはっきりしない。いずれ機会があったら勉強するつもり)、欧州を鉄道で横断、英仏海峡を渡って英国に戻るというものだった。トーマス・クックのツアーは、ヴェルヌの80日間世界一周が物語としての早回りへの挑戦だから、本質的にちがっていた。ちなみに、この旅行にはトーマス・クック本人も同道したようである。

鉄道と船を乗り継ぎ、いかにも大変そうで、僕ならばひとつの船室に落ち着いて世界一周したいものだ。スエズ運河の開削に成功したレセップスは、続いてパナマ運河の開削にも挑戦した。これは失敗するものの、パナマ運河は米国によって1914年開通した。いよいよ、船に乗ったままで世界一周することができるようになった。時は・・・第一次大戦開戦の頃である。世界一周どころか、あちこちにUボートがいる訳で通常の航海もままならず、第一次大戦が終わり欧州が戦禍から立ち直り始めた頃からやっとパナマ運河の本格的利用が始まる。1921年には米国移民法が改正され、米国への大量人口移動が止まった。客船は・・・余った。船主が三等客ではなく観光客へ目を向ける時代がやってきたのである。アメリカン・エキスプレスと聞けば、僕も含めて多くの人がクレジットカードの会社だと思うことだろう。アメリカン・エキスプレスのルーツは運送業で、この輸送網を活かした旅行代理業とトラベラーズチェック(TC)の発行で世界的な企業に成長してゆく。TCのために世界中に構えた出先は旅行者サポートセンター的な役割を担うことになる。TC発行は1841年のトーマス・クックが世界初だったが、50年遅れで世界2番目に発行したアメリカン・エキスプレスは、ドル紙幣程度の大きさの使い勝手の良さで、小切手然としたトーマス・クックのTCを追い抜き世界トップになり、TCと旅行代理業を複合した世界的総合旅行業として発展する。やがて、プラスチックのクレジットカードの時代が到来すると、TCで培った「信用」のノウハウを活かしご存知のとおり世界有数のクレジットカード会社となってゆくのである。客船による初めての世界一周航海は、このアメリカン・エキスプレスによって募集された。1922年のことである。

1922アメリカンエキスプレス世界一周

このアメリカン・エキスプレスによる世界初のスエズ・パナマ両運河を利用する客船による世界一周には、416名の米国人観光客が参加、使用された客船は1922年リバプール・ボストン線に就航したキュナードのラコニアだった。1922年11月21日、ラコニアはニューヨークを出帆、以後主な寄港地はハバナ、コロン(パナマ運河)、サンフランシスコ、ホノルル、横浜、神戸、大連、上海、基隆、香港、マニラ、ジャカルタ、シンガポール、ラングーン、カルカッタ、コロンボ、ボンベイ、スエズ(スエズ運河)、アレクサンドリア、ナポリ、モナコ、ジブラルタル、1923年3月30日ニューヨークに戻った。約130日間の世界一周である。さて、エルナー・フェルプスさんによって書かれた、この世界初の世界一周クルーズの貴重な乗船記が米国某大学のライブラリーに残されている。全部読むのは時間を掛けてやってみたいと思っているが、なかなか結構なボリュームなので、たまたまタイピングされている1922年12月28日から1923年1月2日の日本滞在記を引用する。以下引用

Dec. 28; Landed at 8.p.m. and went by rikisha thru Theater Street before going to the geisha dance at the Grand Hotel at 9.30 p.m.
Dec. 29; Left by auto at 8.15 for Kamakura via Nigishi, Hommoku and Mississippi Bay. At Kamakura visited first the Dai Butsu and then Kwannon Temple;then the beach back of the Kaihin Hotel. Then lunch at the Hotel-some flirting with the waitresses, then the retrn trip to Yokohama leaving via Hachiman Shrine where a former emperor is worshipped under the title of the god of war. Near he Bund in Yokohama met a very long Chinese funeral proeessiin;passed along the Bund to railway station; left for Tokyo at 1.44 and arrived at 2.45 ; took autos for drive by the Imperial Palace, thru Hibiya Park, to Imperial Hotel, to Shiba Park, whos a visit was made to the Tomb of the Second Tokugawa Shogun;from here past the Parlament buildings, thru Ueno to Asakusa Park ; saw the street of little shops leading up to the Asakusa Temple;returned to Imperial Hotel for dinner; left at 7.30 and 830 for Kyoto.
Dec. 30: Arrived Kyoto 7.30 and 8.30 a.m.:went to Kyoto Hotel for breakfast then by rikisha to Imperal Palace,Nijo Castle,and Nishimura Silk Store before lunch. After lunch to Ishaida San's( Mr.Stonefield) garden;then to Yamanaka( Center Mountain) Art Store; then to Yokoyama(Cross Mountain) Bead and Silk store,then to a damascene shop and a pottery under the name of Kinkozan.
De. 31: By auto to Nara passing thru the Uji tea distriet and stopping at Momoyama(Peach Mountain) the tomb of Mutsuhito, the great Mikado who overthrew the last of the Tokugawa Shoguns in 1868 and reigend until 1912.His reign is known as the era of enlightened government(Meiji), while the present reign is known as Taisho(the era of great rightsousness),and the Daibutsuden,the temple of the Great Budda;took lunch at Nara Railway Hotel,and then returmed by auto to Kyoto. Nigt:By rikisha to the Gion Temple to see the ceremony of lighting the New Year's home fire at the temple and carrying it back to the home.
Jan. 1. By auto to Kitano Shrine;Kinkakuji(golden pavilion) Higashi Hongwanji,the great Buddhist temple,Sanjusangendo,the temple with 33,333 gods in it,and Kiyomizudera, from Whish point we had the great view of Kyoto.Lunch at 11.30 and left at 1p.m. for Kobe.Dinner at the Oriental Hotel in Kobe and off by night express for Shimonoseki.
Jan. 2 Woke at Miyajima in a snow storm.Snow all the way to Shimonoseki.Arrived at Shimonoseki at 9.30 and went on bord ferry at once. Rougher'n Halifax.引用ここまで

少しミスタイプもあるが、難しい英文ではないので翻訳は割愛して、注釈も交えて解説するとこうなると思う。
1922年(大正11年)12月28日、ラコニアは前港ホノルルから横浜に入港。夜8:00に上陸し力車(人力車のこと。人力とか力車と呼ばれていた)で劇場通り、現在の伊勢佐木町を通ってグランドホテルにチェックイン、文脈からすればグランドホテルで芸者ダンスを見たということになる。グランドホテルは、翌1923年、関東大震災で倒壊、再建は果たせずにニューグランドが出来るのは1927年のこと、旧グランドホテルは現在の横浜人形の家がある場所にあった。
12月29日、自動車で、Nigish(根岸)や本牧、ミシシッピー湾(ペリー大佐が来航時に名付けた根岸湾のこと)を経由して鎌倉へ。根岸まで行っているので鎌倉へは金沢から朝比奈を越えて入ったのではないだろうか。大仏(高徳院)とKwannon Temple(観音寺?多分、長谷寺)を見物した後、鎌倉海浜ホテルで昼食。鎌倉海浜ホテルは現在の由比ヶ浜海浜公園の場所にあったジョサイア・コンドル設計のホテルで外国人宿泊客や文化人、華族が集う別荘文化の中心地だった。ウェイトレスをからかったというような記述があるが意味不明。鶴岡八幡宮を経由して横浜に戻る途中で中国人の葬儀の行列を見かけつつ、鉄道駅に向かったようである。1915年、東海道線が開通して現在の横浜駅が開業している。この後、東京に向かうので現在の横浜駅に向かったものと思われる。再びグランドホテルに寄ったようにも思えず、何故、鎌倉から直接鉄道を利用しなかったのかは不明である。13:44発の列車で東京駅着は14:45、車で(1912年にタクシー誕生、takeなのでタクシーではないか)皇居、日比谷公園の横を通り帝国ホテルに入り、再度車で出掛け、芝公園で徳川秀忠廟、上野を通り浅草では仲見世から浅草寺に寄り、帝国ホテルに戻り夕食、19:30にホテルを出て20:30には列車に乗ったものと読み取れる。当時、東京・下関間は下関・釜山の定期船と連絡しており、遠大な話ながら東海道線は、釜山から先をたどればシベリア鉄道を経由してパリ、ロンドンまでを結ぶ東西交通路の一部であった。そのため、欧州豪華列車に劣らぬ特急夜行列車が特別に編成されており、これが俗に名士列車、あるいは編成番号から1・2列車と呼ばれた。後の特急富士である。結局、帝国ホテルでは夕食を採っただけ(あるいはステイでシャワーでも浴びたか・・・)となる。
12月30日、7:30に京都着、8:30には力車で京都ホテルに入り朝食を摂る。再び力車で京都御所、二条城、そして昼食前に西村絹織物店へ寄っている。西村絹織物店は、当時英文でS Nishimura & Coを名乗っていた京都三条通り、京友禅の老舗(創業元治元年、1555年)現在の千總と思われる。S Nishimuraは西村總左衛門を意味する。昼食後、石田さんの庭園に寄り(残念ながら石田さんの庭園は意味不明。記載はないが知恩院に立ち寄っているようなので、ここに石田さんがいたのかもしれない)、山中美術、横山ビーズシルクストアーに寄ったと記されている。山中は、伝説の美術商・山中商会(The Yamanaka Art Galleryまたは、高名なHouse of Yamanaka)のことのようで、粟田口にショールームを構えていた記録がある。横山は明治期に創業、主に外国人向けに古美術を扱っている弁財天町の店だったようだ。京都の最後は京焼の陶家、粟田の錦光山に寄っている。特に記載されていないが京都ホテルに宿泊したようだ。
12月31日、車で宇治を通り、明治天皇伏見桃山稜を見て奈良に向かう。徳川将軍家に大政奉還をさせて明治政府を作り現在は大正に至っていることも書かれている。奈良では東大寺の大仏を見物し、奈良鉄道ホテル(奈良ホテルのことであろう)で昼食、京都へ戻る。夜は力車で祇園に行き八坂神社のおけら参りに行き火を持って帰ったようである。
1月1日、車で北野神社(現、北野天満宮)、金閣寺、東本願寺、三十三間堂(33333体の仏像と記しているが勘違いである。正確には1001体)に立ち寄り、清水寺で京都を一望する。(Whish pointは清水の舞台の意だろうが・・・) 11:30から昼食、13:00に京都を立ち神戸に向かう。神戸のオリエンタルホテルで夕食後、下関に向けて出立。
1月2日、吹雪のなか宮島で目が覚めるとあるが、当時は山陽本線から宮島が見えたのであろうか?下関へは9:30着、釜山行きの連絡船に乗る・・・最後のワンセンテンスは意味不明。この日、記載はないものの列車の食堂車で食事、食堂車の運営は精養軒であった。

いやいや面白い。このラコニアの世界一周ではショア・エスカレーション(上陸地から次の出港地までを陸路でゆくこと)やオプショナルツアーも豊富に設定されていて、日本では横浜から日光に行くオプショナルツアーもあったようだ。フェルプスさんはショア・エスカレーションとオプションを組み合わせ、日本では横浜、東京、京都、奈良、神戸、下関、釜山に渡って京城から北京、1月11日に上海でラコニアに戻ったようである。1922年に始まった世界一周クルーズは、第二次世界大戦がはじまる1939年(シーズンとしては1938年末〜1939年初春)まで、毎年4〜6隻が行い、料金は米ドルで2000〜4000ドルほどだった。世界一周の客船は戦前戦後、ダラーラインの西回り定期航路客船が寄港していたし、日本郵船も米国大陸横断と大西洋横断こそ提携に任せたものの世界一周の乗船券を売っていた・・・さても大正11年のお話であったが、今やベイブリッジをくぐれず横浜に入港できない客船は片手で数えられないほどになった。こりゃあ・・・一種の鎖国状態ともいえるわけで、国家100年の計のためにも、一刻も早くベイブリッジを高くするよう願って止まない (2013,4,7初稿、2015年加筆)

4月8日追記、さいたま市の鉄道博物館で、昭和5年製の特急富士の客車が展示されているとテレヴィのニュース。一世代後のものとなるが、上記、名士列車の実物を見ることができる。展示車両は展望車と呼ばれるサロン車、桃山様式、漆塗りに金箔の内装は外国人観光客を意識したものと解説されていた。公開は6月10日までとのこと

横浜新港9号岸壁【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 パナマの死角 Across the pacific 1942【船と港のエッセイ】

32. 横浜新港9号岸壁

コスモワールド観覧車より横浜港

昨日は、当家に義姉を加え総勢5人、Aチーム(義姉+長女)とMチーム(僕+女房+次女)の二チームに分かれて横浜散歩。義姉は横浜に土地勘がある方ではないので、関内駅で簡単にブリーフィング。最初から預けることにしていたので、義姉は長女のために横浜のガイドブックまで買い込んで勉強してくれたらしい。最後は元町で落ち合うことにしていたので、一応オススメとして伊勢佐木町の有隣堂スタートで日本大通り、大桟橋、山下公園のルートを説明すると・・・「男の人って大変だったのねぇ・・・ホントに苦労がわかったヮ」 そうだろそうだろ、皆同じだろうが僕なんか寝ないでデートコースを考えたもんである。それでも今のようにネットがあるわけではないから、行ったところに不測の事態があったりするわけで、そのためにバックアップも考えて・・・涙ぐましい努力の割に・・・実りは少なかった。

人生は一度こっきりだから「何でもこの目で見てやろう」という気持ちは大切である。ネット時代になって「あ、それ知ってる」っていうのが益々頻繁だが、それだけでは寂しい。暫く前にニュースの見出しにハッとした。「知っている、が学ぶ心を妨げる 」というものである。何でも興味を持って、調べて、考えて、できることならこの目で見ることが肝要である。

「何でもこの目で見てやろう」が、思うような結果にならないこともある。いまから17〜8年前の丁度今頃、僕は二度目の転職にあたって1週間程の休みをとれたので、思い立って数日掛かりで「浦賀道」の研究をやった。浦賀道は神話にも登場するような古道で、鎌倉から金沢、横須賀、走水、東京湾を渡り房総に至る古東海道の三浦側南端にあたる。現東海道が主街道になったのは江戸時代からで、東海道が藤沢から東上して戸塚へ向かうようになってからも浦賀湊が栄えたので、江戸方面からは東海道を保土ヶ谷で分岐して古東海道南端が浦賀道として使用された。僕が住む周辺では、浦賀道の一部は国道16号よりも良く使う現役の生活道路でもあり、古道を庚申塔やお地蔵さんを頼りに観音崎まで辿って歩いてやろうという計画である。実は・・・江戸時代以降の浦賀道は、馬堀海岸から矢の津坂という現横浜横須賀道路浦賀インターのある方の道が正解(坂本竜馬が浦賀に行ったのもこっちである)だったのだがこれを知らず、お地蔵さんをたどりつつ推測混じりで進んだら馬堀海岸駅前の通りを進んでしまった。これがまた都合良く、突き当たりの右手防衛大学に登る交差点の向こうには淨林寺というお寺、そしてこのお寺を迂回するように急な細い山坂道が付けられており、これを進めば走水のトンネル向こう側のお地蔵さん(これは以前から良く見ていた)に辿りつけるに違いないと思って進む進む進む。実は、郷土史家も浦賀道は散々研究しているが、走水に至る古道の方は今もって調査が進んでない・・・それこそ、その時は神話で走水から東京湾を渡ったという日本武尊にでもなった気分だ。すると突然、視界が開けた! 目の前には立派な鉄筋コンクリートの建物が並ぶ並ぶ!?  暫くすると警備員のような人に呼び止められる。「何をしてるんですかっ!。あなたはどちら様ですか?」と問われ、「実はお寺の横からお地蔵さんをたどったらここに出ました。怪しいものではありません。ここはどこですか?」と逆に尋ねる。  「ここは防衛大学です。門まで送りますから、出て行って下さい」

昨日の横浜散歩は、長女のAチームに負けてはならじと大サービス。次女をハッピーにするために全力を尽くし、普段なら考えもしないコスモワールドへ連れて行ってしまった。僕は、高いところが滅法苦手なので乗らなかったが、次女と女房は大観覧車にご満悦である。お土産に撮ってきてくれた写真は大観覧車から見降ろした横浜港。その後、汽車道伝いに大桟橋に行くが、途中遠くに横浜新港岸壁を望むと、先般知人からもらったメールを思い出した。何でも、それはカナコロ(神奈川新聞)の記事で、横浜市が「新港ふ頭の9号岸壁を客船埠頭とする整備の計画。今年は9号岸壁の耐震診断と設計の予算を計上、あらゆる客船の受け入れ体制を強化する」という内容だ。実は9号岸壁と言われても「フムフム」とはならなかったのだが、それは僕だけではなく殆どの人が同じではないかと思う。わからないので調べたら、赤煉瓦の向こう海上保安庁が使っている岸壁から海に向かってもうひとつ左手にあたる岸壁の左っ面が9号岸壁だとわかった。さて、その9号岸壁、赤煉瓦をやり過ごし、Aチームは今いずこと思いつつ大桟橋でおやつ休憩、山下公園の大道芸やらストリートライブを横目に、次女お気に入りの氷川丸の売店を経て元町へ。娘たちのお気に入りの元町YOSHIDAで無事Aチームと再会を果たし喜久屋さんでケーキをいただく。16時解散・・・ で、気になって帰ってきた後に、再度、新港埠頭のことを調べる。幾ら汽車道や赤煉瓦上屋、旧横浜港駅が再整備されたとて、はっきり言って途切れ途切れで往時が偲ばれることはないし、そう思うのは僕だけではないだろう。大体、氷川丸が新港から出港したのは知ってるし、乗客が横浜港駅まで鉄道で行ったのもわかっていて、氷川丸最後の出港・入港の写真もあるが、それが現在の新港のどの部分にあたるのかは、多分現在65歳から上くらいの方じゃないと判らないと思う。

横浜新港・昔と今

カナコロで言うところの9号岸壁というのがややこしくて、じゃあ9号以外の岸壁はどこ? と気合い入れて調べると、8号は9号の反対側、その対面は5号4号で海上保安庁であること、みなとみらいの開発で埋め立てが進められたため突堤基部にあたる6号7号10号11岸壁は無くなってしまっていることがわかった。だから数字が飛び飛びで訳がわからなかったのだ。上の写真は現在の横浜新港と横浜新港の竣工当時(大正2年・1913年、現在の赤煉瓦・国営保税倉庫が出来た頃)の平面図、そして現在の写真に竣工図を重ねたもので、赤数字が岸壁(バース)のナンバーである。客船ターミナルがどの部分にどの大きさでできるかは承知しないが、恐らくは8号岸壁も含むこの突堤全体の耐震にしないと意味は成さないはずで、この8号9号岸壁の突堤全体の整備になる筈だ。

さて、調べたついでにざっと言えば、開国して横浜開港、象の鼻ができたものの、これは荷役専門で船自体は沖留めだったし、客船も確か山下側の桟橋からランチを使って乗り降りしていた筈である。この不便を解消するために出来たのが鉄桟橋(大桟橋)だったが、これもバースにすれば4隻分しかない。当時、神戸や大阪は港の整備が急だったそうで、このままでは横浜港の地盤沈下は避けられないとの危機感から横浜財界中心に築港の機運が高まり造られたのが現在の新港である。無くなったものも含めて、1〜11まで11のバースが設けられ、このうち4号を日本郵船太平洋航路サンフランシスコ線、9号を同じく日本郵船欧州線が使用したのだそうだ。ちなみに日本郵船大平洋航路シアトル線は大桟橋のまま、そして外国客船も大桟橋発着だったそうである。戦後、たった一隻になったシアトル線氷川丸は、戦前に浅間丸などサンフランシスコ線客船が使用した現在の海上保安庁大桟橋対面側の新港4号岸壁の発着に変更され、氷川丸の運行停止1960年まで汽車道の終点・横浜港駅から乗船客が乗り降りしたわけだ。今後の客船埠頭を目指して整備されるのは9号岸壁、日本郵船欧州線の照国丸や靖国丸(1930年就航)がここから発着していた。なかなかロマンチックなお話で横須賀市民としては羨ましいところである。古事記や日本書紀の頃からの道があたっりはするんだがなあ・・・(2013,3,4初稿、2015年追記)

横浜散歩「日本郵船!」は黄門様の印籠【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 80日間世界一周 1922年の世界一周クルーズ【船と港のエッセイ】

31. 横浜散歩「日本郵船!」は黄門様の印籠

日本郵船横浜ビル

久しぶりの横浜散歩。氷川丸は塗装工事中なのでパス、石川町から大桟橋、郵船博物館、赤レンガ、汽車道のコースでブラつく。素通りしていた象の鼻、わずか100mばかりの湾曲した突堤だが先端まで行ってみる。汽車道の上から見ても気づかなかったのだが、突堤中央部外側に10mばかり堤防が切ってあるところがあったので眺めると、海面ギリギリに水没した堤防が見える。そこの解説パネルの説明が判りにくい。以下引用 「工事中に、大正12年(1923)の関東大震災で沈下したと思われる象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材が発見されたため、一部をそのままの形で保存・展示するとともに復元した石積みにも利用しています」 引用ここまで こちらの頭が悪いのか、これじゃあわからない。何のことはない、「関東大震災で水没してしまった元の象の鼻」である。

日本郵船博物館では現在特別展はやってないのだが、氷川丸の最後の航海、19分のビデオはまだ上映していたので再び見入ってしまう。見終わってから無料サービスのティーラウンジでいつものバナナオーレを頂きながらふと展示スペースの天井を見上げるとこれまた見応えのあるクラシカルなしつらえ。○○様式と言い切るのは難しいが、外観がコリント列柱を備えた新古典主義=当時の保険会社や銀行がこぞって使った建築様式とするならば、内部は外観に釣り合ったアールデコといったところか・・・この天井高6mものオフィスで日本郵船の社員はどんな風に働いていたのだろう。銀行ならば、やっぱり長いテラーカウンターがあって云々と想像はつくけれど、昭和37年生まれの僕には往時の船会社の雰囲気は想像がつかない。

先日、ニュースをチェックしていたら生涯給与の話題が出ていた。その東洋経済新報社のデータである生涯給与の番付を見ると、上の方は放送局がズラリ。おお、そうなんだ! と感心して見ていると37位に日本郵船。それより上には商船三井も川崎汽船、飯野海運も入っている。船会社、うん凄い高給取りなんだ・・・ 

そういえば、昔の上司の御尊父が外航船の船乗りで、決して高級船員ではなかったそうだが、家には外国の珍しいものがゴロゴロしてたし、暮らしも豊かだったと聞いたことがある。かなり古い話だが、二口一雄著「豪華客船の航跡」(S63、成山堂書店)には新人の会計掛、日本郵船の船員としての著者の給与が昭和13年当時、本給55円! 概ね帝国大学卒の初任給と同じくらいで、今の価値に直せばざっと40万円くらいになるではないかと思うので高給である。曰く「当時の一人者、チョンガーでは、実に使いでがあり、親孝行も出来たものである」だったのだそうだ。船員の待遇が手厚いのはもっともな事で、毎日この仕事場から浦賀水道を行く船を見ていて、この国はもし船が止まったら一日たりとも生きて行けないのだと実感するばかりだ。船乗りの社会的地位が高いのは、やはり国力の源泉を船に頼った英国の伝統が由来で、日本でもこれを踏襲している。

長い時間で見ると、船員の待遇が飛びぬけて良かったのは昭和40年頃までだったそうだ。余りに給与水準が高く、国際競争力維持のために外国人船員を使用せざるを得なくなり、日本人船員の給与は他業種に比べ上がらなくなった。つまり、現在の船員の実入りは昔のように良くは無く、他の仕事とそれほど変わらない・・・らしいが、実際には生涯給与番付を見ればやっぱり悪くはない。まあ、この調査資料は陸上勤務の高級事務方も含めて全社員の数字だろうからイコール船員の待遇ともならないのだろうが。

そんな事が片隅に残っている頭で日本郵船横浜支店を見上げると、神々しく見える。大桟橋だって、象の鼻だって、いわば横浜は日本郵船の城下町みたいな風情だったのではないだろうか。横浜の会社といえば日揮が話題だが、日揮よりも日産よりも、今のみなとみらいで船を造っていた三菱重工やフラッグキャリアの日本郵船は、きっとピカピカの時代だったのだろうと、横浜をブラブラしているとそう思う。何でそう思ったかと言えば、もうひとつ面白い話を聞いていたからだ。その方は、日本郵船の関連会社で船に乗っていたのだが、丁度、船に乗り始めたのが待遇の悪くなかった昭和40年前後だろうと思う。何でも、職場はまさに横浜郵船ビルだったそうだが、とにかく給与が良くて、今から思えば若気の至りと頭を掻いておられるが、桜木町まで電車で行くと颯爽とタクシーに乗って、「郵船っ!」と言うのだそうだ。すると運転手さんは「あっ、郵船さんですかっ」とハッハァッーという感じで敬意を表して下さったのだそうだ。それだけ、横浜では日本郵船のステータスは高いものだった。ちなみに、郵船ビルの事務所に寄らず大桟橋に向かう時は「サウスピアーッ!」とやるのだそうで、これまた大桟橋をサウスピアーと言うのはごく限られた人々で、それも郵船の関係者が多かったので、やはりタクシーの運転手さんは「ハッハァッー郵船様」となったものだそうだ。

まるでギョーカイ用語だが、旅客埠頭の大桟橋はサウスピアー、貨物埠頭の瑞穂埠頭はノースピアーと呼び・・・何だかカッコいい・・・新しくも古い横浜散歩の雑感であった(2013,2,3初稿、2015年加筆)

横浜みなと博物館【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 横浜新港9号岸壁【船と港のエッセイ】

30. 横浜みなと博物館

横浜みなと博物館

一月半ぶりの横浜。横浜みなと博物館の客船ポスター展の会期がいよいよ終わりなので家族四人で出掛ける。弁当開きは例によって大桟橋。ロイヤルウィングのトップデッキにもサンタクロースが乗っかって、今日くらい北風が吹いてりゃ冬の風情一色である。

横浜マリタイムミュージアムが横浜みなと博物館に衣替えしてからは初めての訪館、常設展の方は見なかったけれど客船ポスター展は素晴らしかった。見たことがあるものもあったが、ほとんどは初めて見るものばかりで、日本は敗戦で何もかも燃えて無くなってしまってるとばかり思っていたが、あるところにはあるんだと認識を改めた次第。出展協力者の中にはお客様としてお付き合いのある方もおられて「ウンウン成程」とうなづきつつ、函館の図書館や神戸大学の所蔵品は未知だったし、どうしても1920年代から1940年あたりまではフランスや英国の客船ポスターが飛び抜けて優れているのでそっちの方に目が行ってばかりだったから、純粋にデザイン的の優劣では一歩劣ると感じるのは止むをえないものの、目を留める価値は十二分にあるものだった。職員の方とお話したら、今回は、わざわざ欧州から見に来た個人研究者なども居られたほどだそうだ。

客船ポスターに限らず、そういったものがもっと広く目に触れるためにも、博物館の底上げが必要だと感じる。どこの市区町村も、そこそこの人口=予算規模を持っていれば博物館・資料館的なものを持っているだろうが、運営は厳しいものと思う。横須賀の博物館には、当社でも良くお買い物していただいた天皇陛下のご友人の元館長さんがおられて、何でも陛下は元館長さんに会うために即位されてからも数度博物館を訪問されたとか・・・しかしながら、その元館長さんはと言えば、御身分は単に横須賀市の職員であり、役所の筋に聞けばその元館長さんのように定年まで博物館員を全うされるような方は稀で、普通は学芸員といえば聞こえはいいけれど公務員として人事的な側面からは不安定な立場な方が殆どで、とても研究に没頭できる環境ではないのだそうだ。大学で自然科学を研究するのと違い、特に人文科学の研究と言うのは難しいものらしい。その研究は主に過去のものでありマネーの種にはなりにくいからだ。

横浜みなと博物館も詳しい事情は関知しないが、マリタイムミュージアムの企画運営はかつて東京の某企画設計会社が請け負っていた筈で、それがいろいろな面で齟齬をきたしていたものと推察される。上手くいってりゃ衣替えする必要は無かった筈である。いずれにせよ、その辺がもっともっと上手く行ってくれないと、まだ未分類のまま埋もれている史料が山ほどあるのかもしれないということになるわけだ。

お城や建築物は自分では動かないから良いけれど、人が持って動かせるものはイケナイ。今回の展示協力に名を連ねてる当社のお客さんは、テレビの鑑定団なんかでも笑い話になるように、やっぱり家人の皆さんは収集品に無関心だそうだし、平塚の客船紙モノ収集家の府川さんは数年わたって収集品の処分をされていて、すでに史料の大半が散逸している真っ最中である。恐ろしい話である。

大桟橋で鎮座しているノルマンディーの模型・・・かつて丸の内の洋服屋さんに飾られ、大桟橋に寄贈されたそうだが、僕が知る限りあの模型の銘板に書かれた作者は模型の発注者さんらしく、本当の制作者は一昨年亡くなられた日本指折の模型制作者さんだそうで・・・それこそ博物館級の代物である。今日じっくり見ても、今のところ若干の塗装割れがあるのみだが・・・文化というものは刹那的なもので、残されて伝わってゆくものは、ほんのわずかばかりしかないのかもしれない (2012,11,24初稿、2015年加筆)

11/26追記 今回のポスター展の参考文献の中に懐かしいお名前を見つけた。田付茉莉子先生である。何が懐かしいかといえば、田付先生は大学時代の担任の先生なのである。無論、大学の担任は名ばかりで、先生との関わりは余り無く、新入年度のオリエンテーション程度しか記憶にないが、それでも卒業間近に悪友7人ばかりと教室で一緒に写真を撮ったのを憶えている。当時は先生の専門分野も存じあげなかったが、企業経営史、中でも海運史が専門の研究分野だそうだ。僕は関東の人だから、どちらかといえば郵船びいきなので残念だが商船三井の社史編纂にも携わっておられるそうだ。いつかお目にかかれるだろうか・・・

戦艦三笠 東郷長官の風呂桶【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 横浜散歩「日本郵船!」は黄門様の印籠【船と港のエッセイ】

29. 戦艦三笠 東郷長官の風呂桶

次女の夏休みの宿題、氷川丸の模型が飾られているので「第49回 船の模型コンクール」を軍艦三笠に見に行く。出展児童には学校から入館パスを貰える。艦内で三笠新聞というのがフリーだったので頂いて読んでみると、この模型コンクール・・・第49回・・・と聞けば「ああ、そうなんだ」となるだけだが、第一回は昭和37年とのこと。 驚いた・・・僕の生まれた年である。作った模型は残念ながら入賞ならなかったが、とても良いものなので三笠から戻ってきたら紹介したい。一般配置図さえあれば、とても簡単に、そこそこ精密な船が作れるのである。

三笠は大賑わいだった。何の団体さんかわからないが、20-30人の団体さんが次から次、おまけに後部デッキでは模型教室なんかもやってるし、お酒に酔ったグループさんがブリッジ上の戦闘指揮所でワイワイやってるのは危なそうだったけれど結構な盛況ぶりだ。三笠は何度も行ってるけれど、艦内を歩いていたら東郷長官の風呂桶の話を思い出した。この話は・・・当事者たる60年余り前の悪童たちしか知らない秘話である。

ワシントン軍縮条約により廃艦が決まった三笠だったが保存運動の声が大きく、武装を解いて船底にコンクリを打って同条約締結各国了解の上、保存艦となったものの戦後は連合国に接収されて荒れ放題、やがて進駐軍の遊び場となってキャバレー・トーゴーとか呼ばれてデッキには水族館まで作ってしまう始末。これを憂いたチェスター・ニミッツ元帥が先頭に立って、返還と保存に尽力した結果、現在の保存艦三笠がある・・・ここまでは誰でも知ってる大まかなお話。

多分、進駐軍に接収される前のつかの間(昭和20年8月末から9月前半と推測される)のことなのだろうが・・・それこそ戦後の無政府状態の時、三笠は出入り御免の略奪場だったそうだ。真鍮やら鉄、デッキのチークまで外して持って行けるものは、皆勝手にかっぱらわれたらしい。そんな状態だから・・・悪童たちが黙っているはずがない。彼らにとってはせいぜい良い遊び場だったそうだが、ある日長官浴室のバスタブを見て誰が思いついたか、「これに乗って猿島に行こう!」となったのだそうだ。で、皆でバスタブを外してえっちらおっちら海に浮かべて進水、威勢よく猿島目指して漕ぎだした。ところが・・・その元悪童の方の話によれば、三笠のある白浜と猿島の真ん中あたりで浸水、そのままバスタブは沈没してしまった。で、悪童たちは泳いで帰ってきた。まあ、真ん中あたりだと結構泳ぎが達者でないと大変だし、いずれ沈んだバスタブだから真ん中よりはずっと近いと僕は思うのだが・・・その話を思い出してバスタブをじっくり見ると、確かに明治33年当時のものには見えない。いずれにせよ「東郷元帥の風呂桶は三笠と猿島の真ん中あたりに沈んでいる」のだそうだ・・・ (2012,10,1初稿、2015年加筆)

氷川丸の模型

氷川丸 2012夏【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 横浜みなと博物館【船と港のエッセイ】

28. 氷川丸 2012夏

日本郵船客船氷川丸ガイドブック

今夏は次女が夏休みの宿題に、財団法人三笠保存会主催の「船の模型コンクール」への応募作品へ取り組んだ。横須賀の小学生対象に毎年行われているものだ。このところ我が家では横浜プチお出掛けが多く、行くたびに郵船博物館と氷川丸には必ず寄るのだが、折角氷川丸に何度も乗っているのだからこの模型を作ってしまおうということになった。アイデアは海人社のクルーズトラベラー創刊号に載っていた北原照久さんのコレクション、客船クイーンメリーの古いおもちゃである。デッキ一層ずつがデッキプランの描かれた厚紙で出来ていて、これを重ねるとクイーンメリーの形になるという面白いものだ。この氷川丸版を作っちゃおうということになった。

まさに渡りに船! 郵船博物館で求めた「氷川丸ガイドブック」の巻末には約1/750の一般配置図が掲載されており、全長20センチ余りは作るにしてもちょうど良い大きさである。デッキ一層分を平均しておおよそ2500mm前後と計算して、ホームセンターに駈けてゆくとちょうど3mm厚のバルサ板があるので購入。マストは串団子の串、スクリューはビールの空き缶、スクリューシャフトは廃品のプリンターの松葉バネ、舵板はボール紙、旗竿はギターの弦等々、ああでもないこうでもないとケンケンガクガクやりながら完成。なかなか・・・良い出来である。

一般配置図を老眼に鞭打って見る。これじゃあ情報が足りず、同じ「氷川丸ガイドブック」の中とじに掲載されている谷井健三さん作画のカッタウェイ図も見ながら氷川丸のプランをお勉強する良い機会になった。タイタニックの映画を見ててフツーの同年代の日本人にはピンと来ない点のひとつは船室の等級だと思う。氷川丸でも一等、二等、三等、それぞれのデッキエリアが明確に分かれているのは頭で理解していても配置図に落とし込むと、その境目は良くわからない。現在の氷川丸では二等部分は非公開だし、ギャレーの壁から三等アコモデーション(客室)への通路部分では二等と三等の境目があるはずだがやっぱり良く分からない。

ある史料で夏目漱石が明治33年にドイツ客船・プロイセンで欧州留学に向かった時の日記を読むと、公費留学の漱石は二等で、たまたま日本での知人が一等船客におり、知人の方から漱石を訪ねてきたというくだりがあった。そう、上等から下等へは出入り自由だがその逆はエスコートがないとダメなのだ。タイタニックでもローズがジャックに「あなたが出て行きなさい。ここは一等のプロムナードデッキなのだから・・・」といったような科白があるのだけど・・・とにかく、また近々氷川丸を訪ねるので、そのあたりじっくり見て見ようと思う。

こうして、氷川丸のお勉強ができるのも「氷川丸ガイドブック」のお陰だ。似たようなブックレットに日本財団(船の科学館)発行の「戦前日本の最優秀客船 新田丸」があるのだが、全7冊のブックレットのうち、この新田丸のものだけは持っていない。こういった安価な小冊子を馬鹿にしてしまいがちだけど、史料集めから作画、紙面デザインまで一冊の本を作るのと同じくらいの手間ヒマがかかっていると想像できる。図版があるから文字だけよりも大変な部分もあるかもしれない。パンフレット、プログラム、図録、小冊子・・・果ては雑誌・ムック、馬鹿にすることなかれ、文字だけ読めば散文の集まりかもしれないが凄い情報量である(2012,9,8初稿、2015年加筆)

横浜散歩 汽車道・臨港線・山下臨港線【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 戦艦三笠 東郷長官の風呂桶【船と港のエッセイ】

27. 横浜散歩汽車道 臨港線・山下臨港線

横浜汽車道

今でも、神奈川以北、磯子以南はそうだが、日本は海際の土地を工場や企業が占有していて、横浜も山下公園あたり以外は港を望む場所が少なかったように思う。現在のようにまるごと海辺のパブリックスペースがドーンと広がるのを見ると随分大掛かりな事業で、観光立地都市再開発の優等な事例になると拍手を贈りたい。

子供の頃から不思議に見えた光景は、かつてあった山下公園の高架だった。子供の頃、父に問うてみれば、父も山形庄内から上京して仕事を始めたのは昭和30年過ぎだったろうし、そんなに詳しくはなかったようで「汽車でも通っていたのかな?」といった程度の答えだったように記憶してて、「謎の高架」への僕の疑問は消えずにいた。

昨日は、少しお散歩の範囲を広げて、桜木町から汽車道で郵船博物館、大桟橋に寄ってから山下公園、元町、石川町から帰るコース。電車を降りてから乗るまでブラブラで休み休みではあるものの六時間のお散歩は結構ハードである。汽車道を歩きながら、はなっから貨物線の名残と思って疑いもしなかったし、それは正解は正解なのだけれど、前回郵船博物館で見た1961年の氷川丸最終航海のビデオを昨日は再度ゆっくり鑑賞してたら、氷川丸出港の場面に汽車が出てきて、汽車から乗船客が降りてきて埠頭に歩いている。この辺が知識の乏しさ、僕はてっきり氷川丸が大桟橋から出入港してるんだと思っていたから、大桟橋まで汽車道が続いていて汽車のホームもあったのかと感心した。ところが今の高架の名残を見るとどうしても大桟橋に軌道が引き込まれていたようには思えない。モヤモヤしたまま郵船博物館で一杯サービスされるドリンクのコインを使って、カフェテリアでバナナオーレを頂いていると、壁に飾ってある説明パネルの一枚に赤煉瓦倉庫の横に残る横浜港(よこはまみなと)駅のホームの説明が・・・・

結局、昨日歩いたことと、帰宅後調べたことを簡単にまとめると、横浜開港後、イギリス波止場=象の鼻、フランス波止場=山下公園を造ったものの大きな船は係留できず沖留めしかできなかったので鉄桟橋=大桟橋を造った。これでも足りずに造ったのが新港=赤煉瓦パークで、荷役と乗船客の便宜を図るために臨港線を敷いた。これが現在の汽車道で当時、横浜駅(現在の桜木町駅)から汽車道に入り新港四号埠頭に横浜港駅が設けられたのだそうだ。横浜港駅は・・・氷川丸が航海を終えた1960年10月で役割を終えて使われなくなった。郵船の定期船が終わり駅も終わったわけだ。

ほぼ同時期、港の拡張は進んでおり山下埠頭が建設された。この貨物を運ぶために延伸されたのが山下臨港線で現在の赤煉瓦から大桟橋まで高架のプロムナードがその一部名残で、2000年頃には撤去されたかつての山下公園の「謎の高架」へとつながっていた。この山下公園の高架は結構な反対運動で建設が遅れたそうで、そうしている間に本牧埠頭や大黒埠頭に貨物も移って行き、自動車輸送に変わっていったことも重なり「謎の高架」は余り活躍することはなく廃線に至ったそうだ。

とまあ、読んでいただいてもピンと来ないことと思う。そう、大事な事は考古学や僕の仕事の信条ではなけれど現場主義である。あの辺を歩いてからお勉強しなきゃあピンとは来ないのである。一生勉強とは良くいうけれど、足を棒にして歩けば得ることも多いのである。郵船博物館のタダ券を入手したお陰で、船のことから発展して、すっかり・・・にわか郷土史家のようにになってしまった(2012,6,3)

天皇陛下訪英 昔はAPLで【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 氷川丸 2012夏【船と港のエッセイ】

26. 天皇陛下訪英 昔はAPLで

プレジデントウィルソンと政府専用機

天皇陛下がエリザベス女王の即位60周年の祝賀に参加されるために訪英しておられる。1953年(昭和28年)の載冠式の時も御訪英された由、思い入れもおありとのこと。心臓の手術からそう時間も経ってないながら強いご希望がおありだったとか・・・御無理をなさらぬように慮るのは僕だけではなかろう。載冠式の時の御訪英、僕は昭和37年の生まれなので60年前のことを知る由もないが、4月に鹿島立ちして御帰朝は10月、帰朝の折にはまだ今ほど多種発行されることもなかった鳳凰と鶴、2種類の記念切手が発行されたほどだから、当時の日本にあっては大きなニュースだったのだろうと思う。

その約60年前の訪英の時、明仁皇太子殿下(今上天皇)が乗船されたのはアメリカンプレジデントラインズ(APL)の客船プレジデントウィルソンだった。一応、第二次大戦を生き延びた氷川丸も不定期ながらシアトル太平洋航路を再開していたようだったが(正確にはこの年の秋頃、氷川丸が太平洋航路復帰したものの占領下にあっては日の丸の船尾掲揚が許されず、米国港入港の際には入港を拒否されそうになったところ - 航海法で外国港入港の際には国旗を掲なければならない - たまたま乗船していた国連大使が国連旗を貸してくれて、こいつを掲げて入港して拍手喝采を浴びたのだとか・・・以後日の丸使用か許されるまで国連旗を使用したとか・・・「してやったり」の美談である)、経緯はちょっとその辺の書籍をひっくり返しただけでは調べがつかないものの、病院船、引き揚げ船で酷使された氷川丸よりは、APLの船の方が船足も速かったし、揺れの問題(まだ4月のことだから、APLのハワイ経由の航路の方がシアトル大圏航路よりは穏やかな筈)や、警備など安全のことも含めてウィルソンでの太平洋横断に落ち着いたのだと推測される。

それにしても、60年・・・APLの船で出かけたのも今は昔、そろそろ買い替えが検討されているそうだが、今は立派な政府専用機・・・陛下におかれても隔世の感をお感じなのではなかろうか・・・(2012,5,17初稿、2015年加筆)

日本郵船・幻の太平洋航路客船【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 横浜散歩 汽車道・臨港線・山下臨港線【船と港のエッセイ】

25. 日本郵船・幻の太平洋航路客船

用事で中野の実家に行った。父が昔のことを思い出して、QE2が横浜に来たこと、NHK特集で商船大学の練習航海を見たこと、そして父が小型船舶の免許をとったことなどが重なって・・・親子共々、僕が商船大学に進み船乗りになることにあこがれていたことを思い出して笑い転げてしまった。何せ、僕が外国航路の船長になって横浜あたりに入港するのを父がクルーザーでお迎えするという壮大な夢物語だったのだ。夢は夢で、その当時はすでに氷川丸も退役して、日本に太平洋航路の定期客船などないことなぞ承知してはいなかった。

そんなことを思っていたら、日本郵船の幻の太平洋航路客船のことを思い出した。残念ながら資料を手元に持ってはいないが、以下、高橋光彦さん著「クリスタルクルーズの20年」に「二引きの旗のもとに 日本郵船100年史」から引用されている一文を引用する。

以下引用 氷川丸引退か? の噂を伝え聞いた社内外から、「何とかもう一度、客船を造ってくれ」という声が、潮のように押し寄せてきたという。日本郵船も客船事業を存続すべきか、撤退の道を選ぶのか、非常に苦悩した。客船継続論を、単なるノスタルジアで片付けるわけにはいかない。客船は、「もの」と「人」でつくる芸術品であり、その国の文化遺産でもある。だからこそ欧州では、外洋を走る豪華客船を持たなければ、一流の海運会社と見なされない時代があった。金があれば、誰でもタンカーを持つことはできる。それは「もの」自体だからである。しかし客船は、金で買うことはできない。「人」自身だからである。客船を継続することは一つの文化(技術)の伝承であり、廃めることはその中絶を意味する。この日本に、伝承できるものは日本郵船しかいない。3万1000トン、航海速力26ノット(※1ノット=時速1・852キロ)、最高速力31ノット、客船定員1200人。これを2 隻そろえて、サンフランシスコ、ロサンゼルスの航路に配船する。船価は2隻で250?300億円という概算である。(中略)日本船主協会、海運造船振興協議会など業界団体から客船建造の要望書が出された。ホノルルやロサンゼルスの日系人商業会議所から総理大臣あての要望書も到着した。運輸省(当時)は田中委員長の強力なバックアップと、これらの要望により1959年度予算で一般会計10 億円、財政投融資13 億7500 万円の予算案を策定。計画通りに進めば第一船は63 年7 月、第2 船は64 年7 月に完成するはずであった。しかし天災が夢のプランを本当に夢のままにしてしまう。59年9月に猛烈な台風が紀伊半島や東海地方を襲い、5000人以上の死者・行方不明者を出した。伊勢湾台風である。当時の大蔵大臣・佐藤栄作は客船に当てていた予算を伊勢湾台風被害の救済復旧にまわすことを決定。こうして新造船プランは伊勢湾台風という風と共に去ってしまう。日本郵船首脳は、ジェット機時代を迎えて、もはや客船の時代は去ったと判断するしかなかった。氷川丸の引退、そして客船業務からの撤退を決断した。経済合理性という厳しい現実が、ついに海からロマンを奪った 引用ここまで

昨年は残念ながら船の科学館が休館になってしまった。海の向こうに目をやればどこの国でも官立の海事博物館的なものはあるのに日本ではなかなか難しい。引用の文にあるように、ひとつの文化が廃れてしまったのかもしれない。幻の太平洋航路客船があれば違ったかもしれない。少なくとも僕の船長は「たられば」にもならない話だったけれど、郵船の幻の客船は「たられば」に足る勿体ない話だったと思っている(2012,4,18初稿、2015年加筆)

氷川丸固定説【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 天皇陛下訪英 昔はAPLで【船と港のエッセイ】

24. 氷川丸固定説

日本郵船・氷川丸固定説

昨日は久しぶりに日本郵船歴史博物館と氷川丸を見てきた。日本郵船の戦前の現存史料はかつての企業活動規模からすればおおよそ少ないものである。何かを知ろうとしても、最初に当時存在した史料の全体像が判っているわけではないからなかなか一筋縄ではゆかぬもので、そういった大きさの判らない欠けたモザイクを埋めるにもこうした活きた博物館といった存在は嬉しい。乗るたびに小さな発見はあるものだが、氷川丸は揺れているか否かで意見が割れた。

僕は、古い俗説で氷川丸は船底にバラストを積み(コンクリ?)海底と柱でつながっていると思ってはいたものの、階段を上って船に乗るとやっぱり揺れている気がするし、女房と長女に聞いてもやっぱり揺れていると答える。ところが次女は身長が低いせいか最後まで「揺れていない」という。結局、頭の中は???のまま帰ってきたが、戦車研究室というウェブサイトを主宰される方が2011年5月19日、直接氷川丸に問い合わせたところ海底には固定されていないという正式回答を得たとのことである。さらに、関西造船協会会報「らん」に三菱重工の竹田大樹氏が寄せた一文によればドルフィン2本、陸上係船杭3本、アンカー5個で「係留」、暴風の際は海水バラストで着底できるように浚渫されていると記されている。従って氷川丸は揺れている。1930年就航の客船・・・もう船齢82年である。冷静に考えればこれは国家的遺産ではなかろうか? 一民間企業の日本郵船に保存をお任せするには荷が重いだろうし、国を挙げて保存に取り組むべきと思う。(2012,3,30初稿、2015年加筆)

浅間丸 内藤初穂著「狂気の海」【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 日本郵船・幻の太平洋航路客船【船と港のエッセイ】

23. 浅間丸 内藤初穂さん「狂気の海」

浅間丸・狂気の海

日本郵船の二引きのファンネルが窓の向こうを行かない日は無い。大正期の有名な美人画ポスターをきっかけに、戦前の郵船のデザインをあれこれ掘り下げているうちに内藤初穂さんの「狂気の海 −太平洋の女王 浅間丸の生涯−」という古書を見つけて購入した。内藤初穂さんは大正10年生まれ、御尊父は「星の王子様」の翻訳で知られる内藤濯さん、東大の造船を出て海軍の技術畑に進み、戦後はノンフィクション作家として活躍したが昨年10月に天寿を全うされた。古書で表紙見返しには内藤初穂の署名と面白い為書きがあった。ご覧の通りの為書宛名は日本郵船オランダ現地法人の代表を務められた方とお見受けした。献本されたのだろうか。

イランによるホルムズ海峡封鎖が危ぶまれているが、船がなければすぐに干上がってしまうのが日本である。その逆も真なりで、戦さで幾らか勝ったとして・・・造船の能力を考え、補給のことはよくよく考えるべきで、「幾らか勝っていた」時期でさえすでに軍艦の護衛なしの商船補給船団が潜水艦に攻撃されていたわけだから、一体誰がどのようにそこのところを練っていたのやら。本書に限らず、戦時の日本商船の悲劇には憤懣やるかたない思いを抱かざるを得ない。観音崎には、天皇陛下が皇太子時代から度々献花にお出ましになる戦没船員の碑がある。

戦日に逝きし船人を 悼む碑の彼方に見ゆる 海平らけし (天皇陛下御製)

1929年から1930年、日本郵船は太平洋航路に一挙に六隻の新造船を就航させる。サンフランシスコ線には浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線には氷川丸、日枝丸、平安丸である。このうち、奇跡的に戦禍をかいくぐったのが、御存知、横浜の氷川丸。同じ太平洋航路とてサンフランシスコ航路とシアトル航路の船は別物だったらしい。模型や写真でしか見ることができないのでピンと来ないが、太平洋の女王と呼ばれた浅間丸は美しかったそうである。シアトル航路の氷川丸は大圏航路で北緯53度あたりまで北上するのでブリッジを高くして頑丈に作らねばならなかったらしい。戦後、実は日本郵船の社員の間では「一番恰好悪い船が残った」と囁かれたのだとか・・・僕はそうは思わないけれど・・・。太平洋の女王・浅間丸は余程美しいものだったようである。「狂気の海 −太平洋の女王 浅間丸の生涯−」 著者の内藤初穂さんも昨年亡くなられたとのことだから、古書では手に入るので、ご興味の向きの御仁は一読をお薦めする (2012,1,21初稿、2015年加筆)

クレイタウンのタイタニック【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 氷川丸固定説【船と港のエッセイ】

22. クレイタウンのタイタニック

クレイタウン・タイタニック模型

クレイタウンという米・フロリダの会社のタイタニックの模型である。もう十年以上前に世界中で販売されたものだが、さすがに今は少なくて価格は大したことはないものの入手が難しい。価格は当時19.99ドル、スケールは何とも中途半端な1/1136というもの。船の模型で小さなものは1/1250がスタンダードだから何を根拠に1/1136だかわからない。この模型は簡単に言えばマッチボックスやトミカのようなミニカーのような作り方で、合金やポリレジン製のソリッドモデルではないのだがとにかく良くできている。はっきり言えば、単純な鑑賞目的なら数万円出して買う1/1250の模型なんかよりずっと出来が良いと思う。

タイタニックは再来年で就航・沈没100年を迎える。話題も次第に多くなってきた。個人的には有史上の十大事件に入る事柄と思っているし、日本ではあの映画による一過性の慰みだったのだろうが欧米ではもっと深い部分で関心を持たれているから未だに話題も多い。タイタニックが未だに人を惹きつける力は、チープな模型でもほれぼれする美しいアーキテクチャーデザインだろう。

9月24日にはとんでもないニュースが飛び込んできた。タイタニックの二等航海士チャールズ・ライトラーの孫にあたるルイーズ・パッテン女史が氷山発見後の操船ミスがタイタニック沈没の原因だったと英デイリー・テレグラフのインタビューで語ったのである。見張り員だったフレデリック・フリートがタイタニックの前方正面やや右寄りに氷山を発見、一等航海士のウィリアム・マードックは「Hard a starboard!」と操舵を指示する。操舵員のロバート・ヒッチェンスは操舵輪を左方向に回すところを間違えて右方向に回してしまった!と言うのである。starboardは右舷を意味するので、操舵員が不可思議にも指示通り右舷方向・氷山側に向かって舵を切って氷山に向かったのは指示通りと思ったら大間違いで、タイタニックは古いティラーオーダーズ方式で運用されていたから舵輪とは逆に動く舵板・舵柄の向きが命令になる。操舵員は「Hard a starboard!」の命令に対して左に舵輪を回し船を左舷向きに転舵させなければいけなかったのである。当時は、国によって「Hard a starboard」と「Hard a port」の右舷方向・左舷方向転舵の意味がマチマチで国際的に統一されるのは1931年のことである。それ以降であればタイタニックの氷山発見時の転舵命令は「Hard a port!」になる。このミスの原因はロバート・ヒッチェンスがラダーオーダーズの操船に慣れていたからだという。98年目にして、もしこれが本当の話ならばあまりにも話が単純だ。僕もタイタニックのことは随分調べていて、尤も参考になり、かつ海外の文献と比べて遜色のない元大阪大学工学部講師の塙友雄先生の論文「随筆タイタニック」(関西造船協会誌らん、平成11年発行・第42号)は秀逸の文献と思っていたけれど、塙先生の論文を含め、やれ「タイタニックは舵の効きが悪かった」だの「減速したから舵が効かなかった」だの・・・全てちゃぶ台返しになってしまう告白である。さらに、氷山衝突後に停船しなければ浸水がもっと緩やかで。救助に向かってきたカルパチア号とも早く出会えた筈と停船を否定する論議が大勢だが、実は船主であるブルース・イズメイの航海継続の要求で約10分間停船しなかったことが浸水を早めてしまったというのである。驚きの新証言、今後の検証が待たれる。

再来年はタイタニックのメモリアルクルーズも企画されている。タイタニックと同じ1309名の乗客を乗せてほぼ同じ航路を辿るそうだ。12日間、最上級スイートで100万円弱(タイタニックの一等は現在の貨幣価値で500万円也)はお金持ちの方にはお手頃かもしれない。ちなみに1309名分、既にSold Outだとか。CNNによれば、こういった企画にタイタニックのご遺族からは非難の声もあがっていると伝えている。尤も、メモリアルクルーズにはご遺族の方々からの予約も多かったとか。

あの映画タイタニックで、年老いた方のローズを演じた女優グロリア・スチュアートさんが9月26日にロサンゼルスの自宅で逝去、享年100才だった。映画といえば、タイタニックの船上での一等船客の最初の食事(昼食)のシーン、キャル(キャルドン・ホックリー=ローズの婚約者)が羊=ラムを注文する。続けて「ミートソースを」と言うのだが、僕はずっとこのセリフが不思議で仕方無かった。肉にミートソースというのは変だし、偏執狂のジェームズ・キャメロン監督も所詮アメリカ大陸の人か・・・などと思っていたら「ミントソース」の間違いだった。これは新たな事実とは言えないながら、物事は反芻を繰り返して理解が深まるものである。(2010,10,22初稿、2015年加筆)

大和のバルバスバウ【船と港のエッセイ】 CONTENT【船と港のエッセイ】 浅間丸 内藤初穂著「狂気の海」【船と港のエッセイ】

21. 大和のバルバスバウ

昨日は休日、夜はテレビ東京で「沈黙の戦艦」をやっていて、もうテレビでも何度も見ているのに結局最後まで見てしまった。何度見ても面白いものは面白い。今はハワイに保存係留されてる戦艦ミズーリ、実際には映画のように乗っ取られてしまうなんて可能性はゼロに等しいと分かっていても、架空戦記的な何ともいえない手前勝手なリアリティーにワクワクしてしまう。ちなみに映画の撮影はミズーリではなくてBB-60アラバマでやったのだそうだ。

架空戦記といえば、そんなジャンルの読み物を熱心に読んでいたことがあった。この手のものにはいくつかの流れがあって、ゼロ戦が改良されて第二次大戦の勝敗が逆転したり、幻の6発爆撃機「富嶽」の驚異的な活躍とかもあったと思うけれど、主流は大和・武蔵の大活躍だとか、新たに凄い戦艦を建造するといった戦艦モノが多い。まあ、史実とも重なる大和発展型の「紀伊」や「尾張」は常套だが、読み進んで旭日の艦隊あたりになると「大和武尊」やら「信長」「謙信」などといった荒唐無稽な架空艦隊が登場、さすがに苦痛になって読むのを止めてしまった。46センチ砲で飽き足らず51センチ砲がいろんなところで出てくるけれど、日本海海戦みたいな武士道的な海戦は望むべきもなかったわけで、僕は門外漢だからわかっちゃいないけれど、こっちの船もあっちの船も揺れているところに10キロも20キロの距離があったら砲弾を当てるのは神業なわけで、確かNHKの「電子立国日本の自叙伝」で聞いたのだったと思うけれど、アメリカの真空管コンピュータ、エニアックが一生懸命にやったのがこの戦艦の弾道計算だったことからも、経験とカンで46センチ砲を当てるのは難しいことだったのだから、残念ながらやはり当時の大艦巨砲は無用の長物だったのだろう。まして51センチ砲なんざ・・・である。

沈黙の戦艦からとんでもない話になったが、46センチ砲の戦艦大和といえば平賀譲卿によるバルバスバウが大発明にように言われるが、大和の船体ラインは基本的にロシア海軍のユルケビッチ型船体ラインともいわれる。ユルケビッチはフランスの客船ノルマンディーの設計者である。ユルケビッチは故国ロシアで輝かしい実績をあげていたが、ロシア革命でその立場が危ういものとなりフランスに亡命した。フランスでは細々と自動車工として生きていたといわれ、客船ノルマンディの計画が発表されると居てもたってもいられずに旧ロシア海軍の伝手を頼ってペノエ造船所の設計競技に参加、見事フランス海軍工廠を向こうに回して自案を採用させるに至る。これが洋ナシ型船首というやつで、大和もノルマンディーも船首のくびれはユルケビッチのアイデアなのだ。架空戦記ではないが、幻の巨船と言えば僕にとっては客船ノルマンディーの姉妹船である。名前は決まっていたそうで「ブリターニュ」になる予定だったとか。基本設計は出来てたいたといわれるが、図面は今日に伝わっていない。フレンチラインの場合、姉妹船というよりは一船ごとに性能を向上させてゆく船隊整備の特徴があったからノルマンディーとどの程度違っていたのか興味があるところだし、計画ではノルマンディーより大きかったらしいといわれる。図面の一枚でも発見されることを願うばかりである(2010,6,17初稿、2015年加筆)

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