客船ブレーメン

客船ブレーメン:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, S.S. BREMEN, 1930s

ポスター 四方海話 巻拾壱

いつの頃からか、毎週水曜日の真夜中には、ニューヨーク・マンハッタンの埠頭から煌々と灯を点けた北ドイツロイドラインの客船が出港するのは風物詩となっていた。ブレーマーハーフェン・シェルブール・ニューヨーク間急行線の出港である。しかし、1930年8月28日水曜日の深夜(正確には9月1日の00:05)、その夜の出港予定は見合わせになった。ニューヨーク港湾当局がその客船の出港を差し止めたのである。夜が明けると、危険物積載の嫌疑で検査が行われた。危険物は発見されなかったものの出港許可は下りず、9月2日になると客船は救命ボートの降下訓練を要求された。すでに、欧州では9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻が始まっており、9月3日には英仏両国が対独宣戦布告、第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされる間際だった。実は、英国が開戦と同時にこの高速大型客船を拿捕する算段をしており、米国に依頼して8月28日深夜の出港を妨害させたのである。港湾当局による出港差し止めの期限は48時間、この客船は9月3日00:05には出港が可能となる。

この客船は北ドイツロイドラインの客船ブレーメンであった。刻々と伝わる欧州の状況を見れば、意味のない訓練要求の時点でブレーメンに対する米英両国の意図がどこにあるかは明白だった。そうとなれば・・・最後は出港を強行するしかない。幸いギリギリで英仏の宣戦布告はまだで、48時間を待つタイミングはギリギリであった。やがて、日付は変わって9月3日午前0時過ぎ、ブレーメンはタグボートに引かれて埠頭を離れ無事に出港した。しかし、一連の妨害によって一人の乗客も乗せることは出来ず、舷側に乗員を整列させドイツ国歌を斉唱して抗議の意を表した。ニューヨーク港の自然の水深は20フィート弱である。これを長年かけて浚渫してアッパー湾(自由の女神一帯)、ローワー湾(ベラザノ・ナローズ・ブリッジより南)の主要部分を25フィートまで掘り下げてある。しかし、船が大型化して入港が困難になってきたため、サンディフック岬とブリーズィー岬との間をさらに浚渫して水深40フィート、幅は約2000フィートの水路が掘ってある。これがアンブローズ水路で出口北側には灯台船が係留され、入出港の際は灯台船の南側を通過することとされていた。すでにブレーメンの入港後、英国の巡洋艦エグゼターはブレーメン拿捕の任務を帯びてアンブローズ水路出口から3マイルのところに待機していた。ブレーメンはニューヨークで足止めされながらこの待ち伏せの情報は得ていた。ハドソン川を下り、アッパーニューヨーク湾で自由の女神を右舷に見てアンブローズ水路に入航する。そしてアンブローズ水路を出たところで、灯火を全て消灯、本来通るべき灯台船南側直進の進路をとらず、大きく左舷側(ブルックリン陸地側)へ変針、一帯には水深36〜37フィートのところも点在する。ブレーメンの喫水は35フィート弱、本来ならば10%程の余裕をみて39フィートほどの水深が必要なところ、36〜37フィートの浅瀬が点在する海面を一気に無灯火全速で駆け抜ける。エグゼターが気づいた時にはすでにブレーメンは遁走に移っていた。その後、ブレーメンはソ連のムルマンスク港に一旦逃げ込むことに成功する。これが有名な客船ブレーメンの脱出行である。

ブレーメンの建造が北ドイツロイドラインから発表されたのは1926年12月のことである。ヴィルヘルム1世が統一したドイツ帝国の第三代皇帝ヴィルヘルム2世は1898年、「ドイツの将来は海上にあり」と演説、米国に次ぐ世界第二位の経済大国となっていたドイツは、海外領土拡大を目論み商船を含めた建艦競争に突入する。この皇帝の意向を汲んで、北大西洋商船のトップに立つ英国勢に挑んだのが北ドイツロイドラインだった。北ドイツロイドラインが1897年から1907年にかけて大西洋に就航させた新船は次々と大西洋横断速度記録を次々と更新(この称号をブルーリボンと呼ぶ)、スマートで精悍な4本ファンネルの客船は人気を博し、大西洋の旅客実績で英独は完全に逆転した。七つの海の覇者である英国も黙ってはいない。国防上の危機感と大英帝国のプライドから、英国政府はキュナードラインに政府融資と運航補助金を注ぎ込み、モーレタニアとルシタニアを建造、英国は10年振りにブルーリボンを取り戻した。英独の競争が大西洋航路の覇権争いで済めば良かったが、ヴィルヘルム2世が志向した拡大路線は独英対立を招き、これに中世以来続く民族問題や王制国家の矛盾が複雑に絡み合い第一次世界大戦へと至ってしまう。大戦は1918年に終結するものの、欧州には戦勝国、敗戦国を問わず深刻なダメージが残った。ルシタニアは1914年にUボートの雷撃で沈み米国参戦のきっかけを作ったが、モーレタニアは大戦を生き延び戦前と変わらずブルーリボン客船として大西洋に復帰した。意外にも、大戦の戦禍からいち早く立ち直ったのは敗戦国のドイツである。ヴェルサイユ体制下での戦時賠償が膨大であったため米国の仲介で賠償緩和と積極的な米資本の投下が行われたためである。ドイツの客船は、戦時賠償でほぼ全船が連合国に渡った。ところが北ドイツロイドの客船コルンブスのみは船台にあって進水前だったため賠償物件から外された。240m、32000トンのコルンブスは、モーレタニアには及ばないものの、本体ならば4本ファンネルに代わる客船として1915年頃には就航する筈であり、22ノットの航海速力はかなりの実力と言ってよいものであった。物資の不足から就航は1924年になるが、ただ一隻残った客船を北ドイツロイドは念入りに仕上げた。コルンブスの船内設計は、減少に転じた移民ではなく米国人観光客をターゲットとしたもので評判も良く、北ドイツロイドの北大西洋旅客実績は首位キュナードの9割近くまで肉薄した。当時、コルンブスと組んで大西洋航路に配船された客船は、連合国へ賠償で引き渡された客船を買い戻した老朽船ばかりだった。そこで、コルンブスの成功に気を強くした北ドイツロイドは、コルンブスに相応しい僚船を建造することを決心する。こうして計画されたのが北ドイツロイドラインの客船、ブレーメンとオイローパである。

ブレーメンとオイローパは、コルンブスの僚船として30000トン級の客船として1926年起工された。ところが、起工後しばらくすると急遽計画は50000トン級にスケールアップされることになる。この計画変更の原因について明確な史料は残されていないが、北大西洋ニューヨーク急行線がモーレタニア、アキタニア、ベランガリアのベテラン3隻となっていたキュナードラインが、新たに起工されたブレーメンとオイローパに対抗するためにクイーンメリーとクイーンエリザベスの新造計画を開始したため、つまりキュナードの対抗策にさらに対抗してスケールアップを図ったものだと言われている。いずれにせよ、北ドイツロイドとしては20年以上前に奪われたブルーリボンをモーレタニアから奪還することが絶対の目標となっていたことは想像に難くない。一般に、概ね50000トンを越え、航海速度が28ノットを越える定期客船をスーパーライナーと呼ぶ。航海速度の約28ノットは、欧州・ニューヨーク間を航海して一週間で次の出港を行えるという意味合いを持つ。つまり、この性能の客船を2隻持っていれば、欧州側・ニューヨーク側で毎週出港できるということである。船の速度には水の抵抗による大きな壁があり、その速度は28ノット付近にある。航海速度を28ノットあたりまで上げるには最高で30ノットは越えなければならない。ところが28ノット近辺の壁を越えると、燃料消費は乗数的に加算されて著しく採算が悪化する。採算性を確保するには船を大きくして乗客を増やす。大雑把に2000名程度の定員を越えれば採算性は確保できるが、そうすると船体は50000トン以上という計算になる。ブレーメン、オイローパ、レックス、コンテ・ディ・サヴォア、ノルマンディー、クイーンメリー、クイーンエリザベス、ユナイテッドステーツ、フランス、クイーンエリザベス2、歴史上、スーパーライナーはわずか10隻しか建造されていない。(現在就航中のクイーンメリー2もこの列に加えることはできる) このスーパーライナー時代の扉を開いたのはブレーメンであった。ドイツの期待に違わず、ブレーメンはニューヨークへの処女航海西航で27.83ノット、続く東航で27.92ノットを記録、22年振りに英国からブルーリボンを取り返した。現代の目から見ると、昔の客船はこのような形だった・・・という外観はブレーメンから始まったものかもしれない。威風堂々とした直立したブリッジや鉄の箱を重ねたようなハウスは無く、細長い船体にクルーザースターン、曲線で構成されたブリッジに巨大で低いファンネルは、当時の人々にとっては近未来的に映ったことと思われる。50000トンの巨船でありながらそれを感じさせない低く見える全高はネイバルアークテクトではなく建築やプロダクトデザインの手法から導き出されたものとも言われる。高速航行のための技術も新しいもので、商船としては世界で初めて球状艦首が採用され、リベット止めの船体は通常とは逆の後重ねが採用された。(溶接船体の今日は無関係だが、リベット止めの当時は前側の鋼板を後の鋼板の上に重ねていた。これを逆にすると抵抗が増すように感じるが、造波抵抗は減少して若干の速度アップが図れる)

ブレーメンのインテリアはバウハウスが担当した。第一次大戦終戦によりヴィルヘルム2世が退位、ワイマール共和国の成立が宣言され、この1919年にワイマール国立バウハウスが設立された。バウハウスは国立学校として設立されたが、1925年デッサウ市立に移行、1932年には財政難から私立学校となり1933年に閉校した。バウハウスの設立主旨と成果(あるいは評価)は、慢性的な財政難と不安定な社会情勢の中で必ずしも一致したとは言えない。「すべての造形活動は建築に帰結する」というバウハスス宣言を高らかに謳ったものの、成果と後世へ与えた大きな影響は、造形活動が統合された建築というよりむしろ基礎教育と学生が実践した習作へ至る過程(デザインというモノ作りのプロセス)、これによりアウトプットされたグラフィックや家具などの作品だった。ただし、当時の欧州の芸術・・・ロシア構成主義やキュビズム、デ・ステイル、アールデコ、ドイツ工作連盟といったある種のイデオロギーを、デザインという判り易いプロセスに導いていった結果は後世に計り知れない影響を与えた。つまり、バウハウスは、アーティストや職人達に道を示したのである。ドイツが工業国であった故、工業生産を前提に装飾を排除した機能的でシンプル、造り易く判り易い造形がバウハウスのデザイン=モダンデザインの特徴だった。ブレーメンのインテリアは、過剰で重厚な装飾を避けた洗練されたものとなった。古いモノクロ写真では判りにくいが、清潔感のある明るいものだったと感じられる。様々な憶測がなされているが、バウハウスの作業は内装だけでなく外観にも及んでいたのではないかと言われている。というのは、特に極端に低いファンネルが造り出すモダンでスピード感のある外観は従前の船の設計から見ると斬新で唐突だったからである。ファンネルは・・・失敗に終わっている。低すぎてデッキに煤煙がデッキを覆ってしまい、後に高さを伸ばしている。

ノルマンディーであればカッサンドルの、クイーンメリーといえばジャービスのというように、名を馳せた客船にはそれぞれ後世になって看板になるポスターがある。ブレーメンといえばこの希少なポスターが看板である。描かれている3隻はニューヨーク急行線の3隻で、左からブレーメン、コルンブス、オイローパ、32000トンのコルンブスだけが幾分小さめに描かれている。下部には特徴のある文字でブレーメンの船名が描かれている。この客船ブレーメンのポスター、描いた人物が特定されていない。船をデフォルメする際に人の目線から見上げ、大きさを表現するのはアールデコ期の常套手段であったが、Aデッキに目線を置いて船体部分を大きく描く表現は斬新である。こういった俯瞰は他に見られないこのポスター独特のものだが、一見してわかるように見事なスピード感の演出である。客船のポスターは昔も今も“止まっている”堂々とした容態を表現するものであり、このポスターはさても珍しい表現方法を用いている。注目すべきは、下部BREMENの文字である。1925年のパリ万博を頂点にアールデコの花盛りだったこの時期、デザイナーはこぞって腕を競い、これでもかこれでもかと様々な表現を試みるが、その目的は商業的な成果を得るところに集約されており、その意味ではあらゆるデザインの中で不特定多数の大衆にいかにして情報を伝達するかという“機能”が明確だった分野である。そのようにあの手この手で情報の伝達を試みる一方で、意外にもタイポグラフィーにはそれほどの新たな試みや凝った表現は見られない。ところが、このブレーメンのポスターのBREMENの文字は何とも印象的である。個人的な感覚ながら、最初にこのポスターの何が目についたかといえば、BREMENの文字である。バウハウスの最終目的は建築の教育だったかもしれないが、基礎教育の部分で(まさにこの基礎教育が、今日のデザイン教育の元となっているが)タイポグラフィにはかなり重点が置かれた。コミュニケーションの最も重要な手段であり、ランドスケープからインテリアまで、サインやグラフィックにおけるタイポグラフィの重要性にも焦点を当てていたのである。1920年代末の作品として、このBREMENの文字を見たならば、ちょっとデザインを齧ったことがある方であれば誰もがバウハウスの仕業だと思うことだろう・・・このブレーメンのポスターは、結局誰によってデザインされたか特定することはできないが、誰も思いつかない船のアングル、そして特徴的なタイポグラフィ、何より内装デザインを手掛け、恐らくは外観のデザインにも関わった可能性がある・・・これらのことを考慮するとバウハウスによってデザインされたポスターである可能性が高いと考えられる。出来ることならば、このポスターの出自が判るような史料が発見されて、バウハススがデザインしたという証左を得て、バウハウス作品の一列に加われば良いものだと密かに望んで止まない。

ニューヨークから無事に母国に帰ったブレーメンは、アシカ作戦(英国上陸作戦)の揚陸母艦として改装されブレーマーハーフェンで待機した。しかし、上陸作戦の前提となる空軍の英国本土航空決戦は失敗、制空権を確保できずに上陸作戦は中止となりブレーメンは係留されたまま兵員の宿舎になった。1941年3月、係留中のブレーメンは放火により出火、修復不可能となり流用できる金属は取り外され船殻だけにされて放置、ドイツ降伏後爆沈処分された。ヴェザー川の河口には現在でも破片が残っているといわれる (了)

ダラーライン:ポスター四方海話 巻拾:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 エンド:ポスター販売・Ocean-Note

ダラーライン

ダラーラインのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, DOLLAR STEASHIP LINES, Direct to New York 1920s

ポスター 四方海話 巻拾

日本でも馴染み深かったアメリカンプレジデントラインズの前身、ダラースチームシップカンパニー。前代未聞の世界一周定期航路で驚かせた、その隆盛を偲ぶ珍しいポスターである。

15世紀から17世紀、船や航海術の進歩が大航海時代をもたらした。紀元前5世紀に地球が丸いと書いたのはプラトン、実際に証明したのは2千年後、1522年に世界一周を成し遂げたマゼランの艦隊であった。東回りの東インド航路による香料貿易はポルトガルに莫大な利益をもたらしており、逆の西回り航路開拓には当時のスペインが国家的関心を寄せていた。スペイン国王の命令によって1519年8月にセビリアを出帆した270名・5隻のマゼラン艦隊は、大西洋を横断し南米大陸沿いに南下、1520年10月マゼラン海峡を発見し太平洋に達した。餓死寸前で太平洋を横断、1521年3月にフィリピンにたどり着くが住民の戦闘に加担してマゼランが戦死、フィリピンを出帆して11月に目的地の香料諸島(モルッカ諸島)に到着する。大量のクローブ(丁子)を積み込み出帆、ポルトガル勢力圏では寄港できず多数の死者を出しながらスペインに辿りつたのは出帆後から3年後の1522年9月、生存者18名、たった1隻での帰還だった。大航海時代はスペイン、ポルトガルに代わるイギリス、フランス、オランダの台頭で幕を閉じた。

イギリス、フランスはスペインやポルトガルが手を付けなかった北米大陸を探検、初めこそアジア行き最短の大圏航路(北西航路)発見が目的だったが北米入植を開始、時が下りアメリカ合衆国の建国に至る。アメリカは欧州諸国に倣って領土拡大を図り、メキシコからカリフォルニアを割譲、ロシアからアラスカから購入、ハワイ併合・・・19世紀には現在の米国がほぼ形成された。米国の領土が大陸を横断し太平洋に届かんとする1832年、米国は特使を派遣し東南アジア諸国や清国と何某かの通商条約締結、日本については慎重に情勢調査し許すならば通商条約申し入れることを指示、シャムとマスカット(オマーン)との条約を締結した。1835年東インド艦隊を設立、1936年の艦隊派遣でアヘン戦争後の清国と望厦条約(米清通商条約)締結に成功、1846年にはやっと浦賀入港を果たすも浦賀奉行は親書受取拒否、そして1853年、東インド艦隊第10代司令官ペリーが久里浜に来航し親書を受け渡し、翌1854年に再来航して日米和親条約締結に成功したのである。砲艦外交と言われるが、実際にペリーは「友好よりも恐怖」という自説を持っていた。米国東インド艦隊が発したのは米東海岸、アジア・日本へは喜望峰経由東回り航路で来航した。

東インド艦隊が初めて浦賀に来航した年、米国はカリフォルニアを手に入れたが、翌1948年、パシフィックメール汽船会社が設立されパナマの西岸コロンからカリフォルニアへの郵便輸送契約を請け負った。未開のカリフォルニア行き航路事業に懐疑的な声が多い中、同年カリフォルニアで金が発見され、劇的にもパシフィックメールの第一船はゴールドラッシュの乗客で埋まることになる。1855年にパナマ地峡鉄道が開通、ニューヨーク・サンフランシスコ間の航程は大幅に短縮され、パシフィックメールは太平洋側・大西洋側にそれぞれ10隻の船を構える独占体制を整えた。しかし、1869年にはさらに早く東西を結ぶ大陸横断鉄道が完成、これを見越したパシフィックメールは大陸横断鉄道開通前の1867年、パナマ地峡鉄道経由航路に見切りをつけて米国政府よりサンフランシスコ・香港間の郵便輸送契約を取り付け定期航路を開設する。この定期航路開設を可能にしたのは補給経由地、開国間もない日本であった。この太平洋定期航路は、後にグレースライン、さらにダラーラインに引き継がれることになる。

19世紀後半から20世紀初期の海運は大航海時代に匹敵する変貌を遂げた。帆船から蒸気船への移行と呼応するかのように開削された二大運河である。元フランス外交官のレセップスはエジプト総督からスエズ運河の開削と99年間の利権を得て1859年に起工、10年の難工事を経て1869年、北米大陸横断鉄道開通から半年後にスエズ運河が開通した。10年後、レセップスは資金を募りコロンビアからパナマ運河の開削権を購入して再び大運河建設工事を開始するも失敗に終わった。経済・軍事上、当時パナマ運河を最も必要としたのは他ならぬ米国で、運河開通後の支配を目指した計画は周到で、コロンビアからパナマを独立させてパナマ共和国を承認、代わりにパナマ共和国憲法にパナマ運河と両岸・幅16kmの永久租借権を米国に与える一文を明記させた。こうして1903年から11年間の工事期間を経てパナマ運河は1914年に開通した。スエズ・パナマ両運河が揃い今日も利用する世界一周航路が完成したのである。

“Robert Dollar has done more in his lifetime to spread the American flag on the high seas than any man in this country.” 「ロバート・ダラーほど生涯に星条旗を世界の海に掲げた者はいなかった」 ロバート・ダラーが88歳で亡くなった時に、カリフォルニア州知事はこう語った。スコットランドに生まれたダラーは父親とともにカナダに移民、やがて木製材工場に職を得て独立を果たす。山林で伐採した丸太の川下りで成功を収め、自身の製材工場の木材やベニア板をサンフランシスコへ運搬する最初の船を買った。1895年ダラー51歳の時である。堅実な経営でカナダ・サンフランシスコ間海運の王者となると、1901年サンフランシスコでダラー・スチームシップ・カンパニー(ダラーライン)を設立、1902年に最初の中国向け木材輸出を期に中国と日本を訪問、中国の巨大市場を目の当たりにしたダラーは第一次大戦が終わると自社の木材運搬を主とするサンフランシスコ・上海間、タコマ・横浜間の貨物船定期航路を開設した。

第一次大戦中、日に日に上がって行く船価を見た米国は、船価高騰が米国産業へ悪影響を与えることと、大戦で欧州の海運業が停滞し米国が躍り出る絶好の機会を得たと見て、1916年に海運法を成立させ米国船舶院を設立した。法によって商船の建造・購入を船舶院に一元化したのである。1917年頃から1922年までに船舶院によって竣工した船は 1360万トンに及び、米国造船業はこの時期と第二次大戦中、史上二度のみ造船世界一になっている。この時期に船舶院で建造された貨客船の中に7隻の502型貨客船、16隻の535 型貨客船があった。二船種合わせて23隻のうち、535型貨客船6隻を除いた17隻がダラーラインの手に渡ることになる。1923年、535型貨客船5隻の払い下げ入札にグレースライ ンとダラーラインが応札、ダラーラインがこれに勝利するとパシフィックメールから航路を引き継いでいたグレースラインは太平洋航路から撤退を表明しダラーラインがこれ を引き継ぎ、結局は535型貨客船5隻とパシフィックメール以来58年に続いた太平洋航路の営業権も手に入れた。残り5隻の535型貨客船は1921年からパシフィックスチームシッ プ傘下のアドミラルオリエントラインがシアトル・横浜・上海・マニラ航路で運航していたが、1926年には船舶院の指示によってアドミラルオリエントラインはダラーライン 傘下のアメリカンメールラインとなった。とうとう米国の北太平洋航路は米ドルマーク(ダラーラインのファンネルマーク)のファンネル一色となり、ロバート・ダラーによ って独占されたのである。ロバート・ダラーは、米国経済史に名を残す稀代の事業家であったかもしれないが、事業のイメージとはかけ離れた実直な人柄だったという。酒は 一滴も飲まず、毎朝6時に起床し汽車とフェリーで自らの会社へ通勤していた。敬虔なクリスチャンであり、神学校やYMCA、YWCA、孤児院、学校、図書館などの建物をサンフラ ンシスコや中国、スコットランドで寄付し、米国にあける中国人移民の差別に反対していた。さて、残る米国船舶院の502型7隻の行方は・・・

米国船舶院の502型、535型はどのような客船だったのだろう。両型を第一船で比較すると、名称はそれぞれ垂線間長502フィート、全長535フィートからきており、全長は502型が159m、535型は157mである。速度は502型が蒸気レシプロで14ノット、535型は蒸気タービンで16ノット、乗客定員は502型は一等のみで78名、535型は一等259名スティアリッジ302名だった。535型は前述のとおり太平洋航路に就航したので中国人労働者を渡米させるためにスティアリッジが設定された。無論、スティアリッジは貨物倉兼用なので往路は貨物を積んだと思われる。北太平洋航路に16ノットの535型客船が10隻配船された影響は大きく、大きく水をあけられた日本郵船と東洋汽船は合併、日本郵船は太平洋航路サンフランシスコ線用に浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線用に氷川丸、日枝丸、平安丸、一挙6隻の新船建造へ向かうことになる。

ところで、フランスの作家ヴェルヌが“80日間世界一周”を書いたのは1872年だったが、ヴェルヌはこの年、英国の名門旅行会社トーマス・クックが催行した世界一周旅行の広告を見てヒントを得たと言われる。(全く無関係という説もある) 1872年のトーマス・クックに世界一周旅行は、リバプールから大西洋を渡り北米大陸を大陸横断鉄道で西海岸まで行き、サンフランシスコからパシフィックメールの客船で横浜、横浜でP&Oの客船に乗り継ぎ上海・シンガポールを経由してカルカッタ、ここで鉄道に乗り換えボンベイ、ボンベイから再び海路でスエズ、陸路エジプト観光を経てアレクサンドリアから海路で地中海を渡りトリノ、鉄道で欧州を縦断してドーバー海峡を渡る122日間の旅行であった。1914年に開通したパナマ運河を利用した真の世界一周クルーズは、1922年11月にアメリカンエキスプレスがキュナードラインの客船ラコニアをチャーターして催行したのが世界初となった。このクルーズではスエズ運河、パナマ運河を使い24港に寄港、またラコニアの僚船であったキュナードラインの客船サマリアも同時期にラコニアと逆の東回りで世界一周クルーズを行った。

パナマ運河開通で、世界一周を考えたのはクルーズ目的の旅行会社ばかりではなかった。ロバート・ダラーは1921年、すでに貨物船の西回り世界一周航路開設を発表し試験航海に成功していた。しかし、ニューヨークから中国、東南アジアから欧州への直行貨物に需要は見込めたものの、これ以外は未知の領域であり、実現は米国船舶院から良質の船をいかに安く入手するかにかかっていた。1923年から船舶院との交渉を重ねた結果、ダラーラインは7隻の502型貨客船を420万ドルで手に入れることに成功、第一船をプレジデント・ハリソンに改名して1924年1月にサンフランシスコを出港させた。出港するプレジデント・ハリソンには時の大統領クーリッジから激励の電文が入り、サンフランシスコの埠頭の見送り・見物客の多さは、1867年にパシフィックメールが太平洋航路を開設して送り出した第一船コロラドの出港の時以来のものだったという。ダラーラインがプレジデントの船名を使用したのはこれが最初で、以後、ダラーラインの客船は“プレジデント・○○○○○○”と命名され、後にダラーラインが海運事業から撤退し米国船舶院が新会社を設立した際の社名は船名を文字って、アメリカンプレジデントラインズとなった。アメリカンプレジデントラインズとなってからも船名の伝統は客船事業から撤退するまで踏襲されることになる。

ダラーラインの西回り世界一周航路には、米国船舶院から購入した7隻の502型プレジデント客船を全隻配船、一航海は約110日間で2週1回の出港で運航された。寄港地はホノルル、横浜、神戸、上海、香港、マニラ、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズ、ポートサイド、アレクサンドリア、ナポリ、ジェノア、マルセイユ、ボストン、ニューヨーク、ハバナ、バルボア、ロサンゼルスであった。ロバート・ダラーは大西洋横断部分についてロンドン・ニューヨーク間の開設を切望したが、ユナイテッドステーツライン、アメリカン・エキスポートラインとの競合の問題があり米国船舶院は認可せず、大西洋航路はマルセイユ・ニューヨーク間の地中海直行である。502型の説明で前述のとおり、オール1等モノクラスだったがスイートルームなど客室による料金の違いがあり、世界一周乗船券の価格は最低で1000ドルであった。(後、600ドルを切るところまで値下げされる) 面白いことに、この乗船券は2年間有効、期限内であればどの区間にも乗船することができる周遊券的なもので、海外在留の軍属や外交官とその家族、商社員、留学生から一般旅行客まで幅広く利用され、航路停止の1939年までの15年間、貨物と船客合わせて毎年80万ドル以上の営業利益を計上した。

ロバート・ダラーは1932年88歳で永眠、存命中から各事業部門を任されていた息子たちによってダラーラインは順調に営業してるように見えたが、1937年に台湾沿岸でプレジデント・フーヴァーが座礁、1929年の恐慌から財務状態が悪化していたところに重なる全損損失で、1938年ダラーラインは運航停止に追い込まれた。米国の歴史にくっきりと足跡を残すロバート・ダラーとダラーラインながら、同時代のユナイテッドステーツラインや英国のキュナード、仏国のフレンチラインのようには様々な史料が残らない。理由はわからないが、当時の雑誌史料などを丹念に調べると同時代他社から比べると広告もやや少ないように見受けられ、宣伝・広告には積極的ではなかったようである。このポスターは1920年代、ニューヨークの摩天楼を背景に502型プレジデント客船が描かれている。下部テキストを見ればナポリ、ジェノア、マルセイユからニューヨーク行き世界一周航路の一部を取り上げており、欧州で使用されたものである。ダラーラインの隆盛を伝える貴重なポスターである。 (了)

APL・アメリカンプレジデントラインズ:ポスター四

方海話 巻九:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note 客船ブレーメン:ポスター四方海話 巻拾壱:ポスター販売・Ocean-Note

APL・アメリカンプレジデントラインズ

APL・アメリカンプレジデントラインズのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, AMERICAN PRESIDENT LINES : Louis Macouillard 1950s

ポスター 四方海話 巻九

1953年(昭和28年)3月30日、前年に立太子礼を終えた時の皇太子殿下(今上陛下、当時20歳)が、昭和天皇名代として英国女王エリザベス2世戴冠式出席のために横浜を出 発した。この時に皇太子殿下が乗船されたのはアメリカンプレジデントラインズの客船プレジデント・ウィルソンであった。1948年から太平洋航路を行き来するアメリカンプ レジデントラインズの客船、プレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンの赤地に白い鷲のファンネルは、豊かなるアメリカのシンボルとして当時の日本人の あこがれの的であり、“憧れのハワイ航路”“アメリカ通いの白い船”といった歌謡曲をアメリカンプレジデントラインズの客船に重ねて大海原に思いを馳せた。

このAPL・アメリカンプレジデントラインズのポスターに描かれた客船は、プレジデント・クリーブランドもしくはプレジデント・ウィルソン、背景はアメリカンプレジデ ントラインズの極東太平洋航路を描いたものである。プレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンは、アメリカ海事委員会が第二次世界大戦中に建造したP2型 輸送船を客船に転用したものである。P2型は貨客船型の輸送船で、ジェネラル級輸送船は蒸気タービン直結推進でベスレヘム・フォアリバー造船所で建造、アドミラル級輸送 船は蒸気タービンエレクトリック推進でベスレヘム・アラメダ造船所で建造された。1942年1月にアメリカ海事委員会が各10隻を発注、ミッドウェー海戦前のこの時期にアメリ カは戦勝を確信しており、すでに戦後の兵員の引き上げや客船への転用が考慮された船だった。ジェネラル級輸送船は終戦までに予定を1隻上回る11隻が竣工、アドミラル級は 8隻が竣工し、残り2隻は機関搭載と艤装を残す状態で終戦、船台に乗ったまま建造中止となった。第二次世界大戦で客船を多数失ったアメリカンプレジデントラインズは、終 戦翌年の1946年6月にはアメリカ海事委員会より2隻のジェネラル級輸送船、ジェネラル・MC・メイグスとジェネラル・WH・ゴードンをチャターし、ヘインズグレーの軍艦色に ファンネルだけをAPLカラーに塗装して極東太平洋航路を再開した。航路再開を急いだのは、軍属の家族や官僚の移動に必要だったからである。しかし、米海軍AP-116メイグス とAP-117ゴードン、鋼板むき出しの内装にリノリュームの床はアメリカンプレジデントラインズにしてみれば客船には程遠い船である。そこで、アラメダ造船所で建造中止に なっていた2隻のアドミラル級貨客輸送船をアメリカ海事委員会より購入、海軍輸送船としての強力な空調設備や造水設備、蒸気タービンエレクトリック機関はそのままに、ハ ウス部分に改造を加えて内装を完全な客船仕様に改めて仕上げた。この二船がプレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンである。元、貨客船仕様の輸送船と はいえ、第一次大戦期より始まった米国船舶院〜改め米国海事委員会の標準船の設計はこなれたもので(例えば、実戦に使えない客船の空母転用などはすでに米国では慮外に なっていた。また、建造中の日本郵船橿原丸を念頭に設計された輸送船もあったほど周到であった)、合理的かつ高性能、蒸気タービンエレクトリックは燃費に優れており、 全長185m・23500トン、20000馬力の機関に巡航速度20ノットの諸元は戦前最盛期の日本郵船の主力客船にも勝るものであった。

プレジデント・クリーブランドは1947年12月、プレジデント・ウィルソンは翌1948年1月に極東太平洋航路に就航、しかし上海には中国の国共内戦のため寄港することができず 、極東太平洋航路は往航でサンフランシスコ〜ロサンゼルス〜ホノルル〜横浜〜マニラ〜香港、復航は香港〜神戸〜ホノルル〜サンフランシスコというものになった。旧ジェ ネラル級二船は1949年に退役、以後1950年代を通じ一航海40日弱、プレジデント・クリーブランドもしくはプレジデント・ウィルソン二船による定期航路が維持され、神戸・ 横浜へは概ね20日に一度のペースで赤地に白い鷲のファンネルのAPL・アメリカンプレジデントラインズの客船が入港した。20日に一度、早朝に大桟橋にプレジデントが入港し 夕方マニラに向けて出港する光景は横浜の風物詩だったという。サンフランシスコ講和条約以後は徐々に日本人の渡米も増え、日本交通公社の時刻表にセーリング・スケジュ ールが載るほどAPL・アメリカンプレジデントラインズの客船は日本になじみ深いものであった。

さて、アメリカンプレジデントラインズ、1950年頃のポスターである。戦前のノルマンディーのポスターを彷彿させる大胆な船首の構図が、いかにも「アールデコです」と 言いたげだが、このポスターの作者であるルイ・マックロードは1913年サンフランシスコ生まれ、カリフォルニア美術大学に学び、戦時中には南太平洋方面に従軍、後に妻と なるグレース・ハリソンとの間に交わした絵手紙はライフ誌1943年10月18日号に掲載(二人の写真はこのライフ誌の表紙にもなっている)されそのロマンスは全米で有名にな った。アールデコとは無縁な伝統的水彩画家で、戦後、カリフォルニアのヨットセーリングシーンや、アメリカ本土とハワイのネイティブライフを描いて画家・商業イラスト レーターとして成功、ハワイのネイティブライフを描いた水彩画はマトソンラインの6種シリーズのメニューカードに使用、マトソンライン向けにはフルサイズのポスターも描 いている。このマックロードが何故、このようなアールデコ風のポスター作品を描いたのか全く理由は伝わっていない。マックロードはアメリカの記念切手を2種類程デザイン しており、これはいくらか図案的なものとなっているが、他にもそのようなポスターがあるかと言えば、エッジが明瞭で大胆なデフォルメはこのポスター以外に描いていない のである。オリジナルのポスターはフルサイズで、オフセットながら珍しいことが手伝ってアートオークションで出れば1000ドル前後の値がつく。年代とオフセットというこ とを考慮すれば価値が高く評価されているということだ。

このポスターの面白さ、あるいは史料的な価値は、見ればお判りの通り“YOKOHAMA”“ KOBE”が記された太平洋の航路図にある。世界的に見れば、我々が普段目にする欧 州が左で米国が右の世界地図は特殊なもので、“極東”の日本は一番右・東端に位置する小国として世界地図に描かれる。我々が子供の頃から見ている広大な太平洋は、欧米 人にとっては世界地図の左右端で切れている海であり、実感に乏しい大洋かもしれない。人類が築いてきた航路は、地中海に始まり、東行きでは、アフリカ、インド、東南ア ジア、中国、またはオーストラリアと伸びてゆき、西行きでは、中南米、南米、北米と往来が盛んになっていった。はるか昔の十字軍遠征以降、中国は欧州の世界観に取り込 まれていたが、日本は黄金の国ジパングとして紹介されながらも、中世には内乱続き、近世では鎖国、小国で資源の無い日本との往来が必要とされることはなかった。欧州人 が船で目指した世界の東端は東回りインド経由で行く莫大な人口を持つ中国の港・上海であり、すでにコロンブスは西回り世界一周航路を発見していたが、地球が丸いことを 実証したのみで、上海まで時間がかかるこの西回り航路が活用される機会は少なかった。欧州人の北米大陸への進出は、実は幻の大圏航路の開発が発端のひとつだったという から面白い。欧州から南米ホーン岬を回って太平洋に出るより、もし北米大陸を北側で迂回できれば上海行きは大幅に短縮されるのである。結局、北米北回りは氷に阻まれ、 太平洋航路が注目されるのは、北米に移民が大量上陸しアメリカ合衆国が建国されてからである。米国はメキシコからカリフォルニア州を得ると目前に太平洋を構えることに なり、いよいよ欧州各国が触手を伸ばしていた中国(清)市場進出は米国の存亡を賭けた急務となる。カリフォルニアを出帆し大圏航路をとると、上海までの海路補給の必要 から日本に寄港地が欲しい・・・これがペリー来航の目的であった。学校の授業では太平洋で操業する捕鯨船の補給のために開国を要求・・・と習うが、間違ってはいないも のの第一義ではない。現に1835年に設立された米国東インド艦隊の任務は清国との条約締結であり、1844年に清国と望厦条約(米清通商条約)を結ぶことで成功している。こ の時の米国東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルは、日本への開国要求の任務を帯びて清国を出帆し1846年、日本にも来航したものの浦賀で上陸を果たせず帰国している。 そして、1852年にマシュ・ペリーが東インド艦隊司令官に就き、1853年に久里浜に来航、親書を渡すことに成功、返書の猶予を求められ翌年再度横浜に投錨、日本は開国する ことに至るのである。丁度時を同じくして、1855年にはパナマ地峡鉄道を利用し東西が結ばれ、1869年には大陸横断鉄道が開通、大量の石炭を必要とする太平洋航路にAPL・ア メリカンプレジデントラインズの前々身にあたるパシフィックメールがサンフランシスコ〜香港間の定期航路を開設したのは1867年のことで、給炭補給港の長崎と外国人居留 地が設けられた神戸、横浜にも寄港した。サンフランシスコを出港して22日間で横浜、香港までは〆て28日間、パシフィックメールがニューヨークから運んだ郵便は、東回り 地中海〜スエズ地峡〜ボンベイ経由よりも2週間早く届き、太平洋航路の重要性が増してゆくことになる。

1971年、皇太子殿下乗船にちなんでスイートルームを“ロイヤル”と改称して23年間に渡り太平洋航路で活躍したプレジデント・ウィルソンが世界一周航路に転籍、翌1972 年、プレジデント・クリーブランドが退役、APL・アメリカンプレジデントラインズは極東太平洋定期客船航路を閉鎖した。明治新政府の重鎮・岩倉具視卿が岩倉使節団104名 を率いてパシフィックメールの“アメリカ”でサンフランシスコ乗陸を果たしてから100年後のことであった。APL・アメリカンプレジデントラインズは1937年の発足当初には 米国海事委員会が深く関わり国策会社の色彩が強かった。そのためかお役所体質的なところがあり、最後まで宣伝活動には余り積極的な会社ではなかった。広告やポスターも 手数が多い方ではなかったが、このたった一枚のポスターは、アメリカ合衆国が欧州列強に遅れてならじと太平洋に乗り出し、日本を開国させて発展に導き、争い、そして平 和と繁栄を取り戻す激動の一世紀の縮図であり、国の存亡を賭けて開設した太平洋航路に最後の新船二隻を就航させる勢いが感じられる貴重なものである (了)

日本郵船 ゲオルギー・ヘミング:ポスタ

ー四

方海話 巻八:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note ダラーライン:ポスター四方海話 :ポスター販売・Ocean-Note

日本郵船 ゲオルギー・ヘミング

日本郵船のポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, NYK around the world, NYK around the world 1932

ポスター四方海話 巻八

1932年、日本郵船が製作した欧米市場向けのポスターである。もし、ピアニストとしてフジ子・ヘミング女史が注目されることがなければ、このポスターの作者のことは右 下のサインから“Georgii Hemming”という名前だけわかりながら一体全体どういう人かさえわからないままだったかもしれない。もっといえば、Georgii Hemmingはフジ子・ ヘミング女史の父親であるということ以外、殆ど今日に伝わる経歴が不明なのである。

今でこそ、このポスターはフジ子・ヘミング女史の実父であるゲオルギー・ヘミング(ギオルギー・ヘミング)が作者であるということが判っているが、今から10年程前ま では、ポスターのサインは明確に“Georgii Hemming”と描かれているにも関わらず、このポスターの80年余り前の発注元である日本郵船でさえ、正確にゲオルギー・ヘミング のことを認識・表記していなかったように見受けられ、アメリカ流の読み方でジョージ・ヘミングと記載していたと記憶している。フジ子・ヘミング女史が正式の本名を Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemmingと名乗り、これをイングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミングとしたことで、日本の大部分の資料ではジョージはゲオルギーに 改められた。西洋でのこういった名前の違いは良くあることで、英語のジョージは、ドイツのゲオルク、フランス語・イタリア語のジョルジュにあたり、スペルも微妙に違う 。先日もRobertが、アメリカならロバート、イタリアならロベルト、フランスならロベールになることで混乱したことがあったが、“George Hemming”の表記も意図的な理由 があったわけではなく、単純に英語表記の英語読みが生んだ違いなのであろう。ただし、この違いのせいで、“Georgii Hemming”たるフジ子・ヘミング女史の実父がこのポス ターの作者であることが広く知られることはなく、2005年頃に海外の文献でこのことを発見した時には日本で最初の大発見だと思って小躍りしたものだ。

ここで、ピアニストのフジ子・ヘミング女史のことを書いても門外漢の浅知恵になるだけなので避けるが、少ない情報を簡略に紡ぐと、ゲオルギー・ヘミングはロシア系の スウェーデン人、上流階級の出で父親はスウェーデン王族の弁護士を務めていたようだ。ゲオルギーはドイツのバウハウスに留学、卒業後はベルリンの映画スタジオのグラフ ィック部門で働いていた。一方、フジ子・ヘミング女史の実母、ピアニストの大月投網子(とあこ)は大阪の裕福な家に生まれてピアノを学び、ベルリン音楽大学でレオニー ド・クロイツァーに師事していた。ゲオルギーと投網子が出会った時、ゲオルギーは20歳、投網子は27歳だったという。二人が結婚してフジ子が生まれた。1933年、ヒトラー 政権が誕生すると、レオニード・クロイツァーはベルリン音楽大学教授を解任され、投網子がクロイツァーを説得する形でヘミング一家とクロイツァーは日本へ住まいを移し た。東京へ居を移したもののヘミング一家は上手くやってゆけなかったようで、間もなくゲオルギーは一人でスウェーデンに帰国、日本へ帰ってくることはなかった。簡単に その後のことを書けば、クロイツァーは東京音楽大学の教授となり1953年に亡くなるまで日本で暮らした。フジ子・ヘミング女史は、投網子からピアノの手ほどきを受けクロ イツァーに師事、青山学院初等部在学中にNHKのラジオに出演すると天才少女と騒がれ、高等部在学中にコンサートデビュー、東京音楽大学在学中にNHK毎日コンクール入賞、 留学の機会をうかがいつつ音楽家として活動を始めた。ところが、留学の機会を得てパスポート申請をすると父系血統主義によりスウェーデン国籍だったはずのフジ子は、18 歳までのスウェーデン居住実績がないために国籍が抹消されていることが発覚、数年後、無国籍のまま難民認定を受けてベルリン音楽大学へ留学、卒業後欧州での音楽活動を 始めた矢先に聴力を失いプロ音楽家としての活動を断念する。耳の治療を兼ねてスウェーデンに移住、建築家として建築事務所を構えていた父、ゲオルギー・ヘミングを訪ね るが再会が出来たか否かは明らかにされておらず、ただ、ゲオルギーの後妻の助力でスウェーデン国籍を回復、これが40歳のことだった。1995年に投網子の死を機に日本へ帰 国、1999年にNHKが放送したドキュメンタリー「フジコ あるピアニストの軌跡」をきっかけにプロの音楽家としての活動を再開・・・以後の活躍は良く知られたとおりである 。

ゲオルギー・ヘミングと大月投網子:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

ゲオルギー・ヘミングの建築家としての業績は伝わっておらず、少なくともバウハウス卒業生としての国際的で後世に残るようなエポックな業績は伝わっていない。もっと 言えば、バウハウス在校中の講座も特定できず、建築家という肩書はあるものの、それは日本からスウェーデンに帰って以降のことではないかと推測される。ベルリン時代に グラフィックの仕事に就いていたこと、それとこの日本郵船のポスターのデザイン、加えて1933年には国際汽船のポスターもデザインしており、当時の仕事が多数伝わること はないものの、恐らくグラフィックこそがゲオルギー・ヘミングの元々の生業だったのではないかと思われる。(1933年から1934年頃の日本の船会社の作者不詳とされるポス ターで、個人的ながら作者がゲオルギー・ヘミングではないかと考えているものが何点かある。特徴はバウハウススタイルのタイポグラフィーと、まだ欧州でも一般的ではな かった一見エアーブラシにみえるボカシである)

このポスターの右下、“Georgii Hemming”のサインの横には、見間違いようがないほど“'32”と明確に描かれている。1932年の作画であることを示している筈だが、この ポスターを取り上げている海外の資料をあれこれひっくり返すと、「1932年のデザインだが、ポスターとして製作されたのは1934年」との記述を見かける。ポスター外枠には 、リトグラフの印刷所名とTOKYO、つまり日本で製作されたのは確かだが謎は多い。まず、1932年にはゲオルギー・ヘミングがベルリンにいたことで、これが1933年ならば日本 に居住していた年代と合致するが、ゲオルギーの年譜とポスターに入れられた1932年の年代からすれば、ベルリン時代に作画したとしか考えられないのである。無論、ベルリ ンでグラフィックの仕事をしていたゲオルギー・ヘミングが日本郵船の仕事を請け負ってもおかしくはないが、接点と経緯が不明のままになる。それと1934年まで印刷されな かった理由がわからない。この辺りは残念ながら謎だらけのままだ。

さて、このポスターが製作・使用された1932年あるいは1934年頃はどういう時期だったのだろうか? 目を大西洋に移せば米国移民法が改正、移民の数は最盛期1910年代前 半の15%ほどまで激減しながら、一方では第一次大戦中に途絶えていた船腹更新の時期にあたったため、まるで熱病に侵されたように奇妙な乗客獲得競争が激化、客船の大型 化・高速化を推し進め、ブレーメン(1929年就航)、レックス(1931年就航)、ノルマンディー(1931年起工)、クイーンメリー(1930年起工)・・・とスーパーライナーの 就航・起工が相次ぎ客船黄金時代を迎えることになる。こういった世界的な大きな流れの中で日本郵船も新船建造に迫られるが、その直接的なきっかけは東洋汽船のサンフラ ンシスコ線を継承したことだったといわれる。京浜工業地帯の生みの親である稀代の実業家、東洋汽船の浅野総一郎は日本郵船や大阪商船の遠洋航路開設を横目にパシフィッ クメール(PM)の牙城だったサンフランシスコ航路を1898年、当のPMとの共同運航という形で開設することに成功した。しかし、物心両面で浅野総一郎の後ろ盾であった安田 財閥の安田善次郎が暗殺されると、世界的な流れに乗って米国政府の肩入れで新船を投入してくるPM改めダラーラインや英国資本のカナディアンパシフィック(CPL)の猛攻勢 に会い、新船投入が叶わない東洋汽船のサンフランシスコ線は苦境に陥り、東洋汽船は財界・政界の仲介でサンフランシスコ線事業を切り離し日本郵船へ合併・営業譲渡する に至った。結果として、日本郵船はシアトル線や欧州線における東洋汽船同様の新船建造問題に加えて花形・ドル箱のサンフランシスコ線という重荷を抱えることになった。 こうして日本郵船が打った手が、サンフランシスコ線に浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線に氷川丸、日枝丸、平安丸、欧州線に照国丸、靖国丸・・・日本郵船の年間売上 に匹敵する一挙七隻の壮大な新船建造計画だった。浅間丸は1929年に就航、それ以外の6隻は1930年に全て就航、絶対的な需要の大きさの違いから大西洋のスーパーライナーと 船容と速度は比ぶべくもなかったものの、その設備とサービスは太平洋線のダラー、CPLや欧州線の北ドイツロイドを凌駕するものだった。一例を挙げれば、かの有名なチャッ プリンの氷川丸乗船だが、チャップリンは日本を離れて米国に戻る際、ダラーやCPLのチャップリン争奪戦に耳も貸さず氷川丸を選んだという。すでに欧州から日本へ渡る際に 日本郵船の船を乗り継いでいたチャップリンは、日本船の落ち着いた雰囲気と整った設備、心のこもったサービスを最大限に評価していたのである。残念ながら、この1929年 から1930年に就航した新船は氷川丸一隻を残して全て太平洋戦争で失われることになるが、まさに1930年から、厳密にいえば1934年までは日本郵船の客船黄金時代だったとい える。(戦前の日本郵船の客船のうち純客船はサンフランシスコ線の浅間丸級のみで、それ以外は主客従貨の貨客船ということになるが、1934年には日本郵船伝統のシアトル 航路でシアトル港の絹取扱が停止されたので、それ以降は収益面での配船事情は苦しかったと推測される)

ポスターのコピーに描かれている“around the world” “eastward or westward with NYK line”の意味にも一言言及しておきたい。ジュール・ヴェルヌの「80日間世界 一周」が書かれたのは1872年のことだが、ヴェルヌがこの小説を書いたのは英国の名門旅行代理店トーマス・クックが企画した122日間の世界一周旅行の広告を見たことがきっ かけだったといわれる。この1872年の旅行での海路はリバプール・ニューヨーク間、サンフランシスコ・横浜・カルカッタ間、ボンベイ・スエズ間、アレクサンドリア・ブリ ンディジ間、最後の英仏海峡横断でこれ以外は汽車を使った陸路だった。スエズ運河の開通は1869年だったが、このトーマス・クックのツアーではエジプト観光のためか利用 されなかった。パナマ運河の開通は1914年、アメリカンエキスプレス社がキュナードラインの客船ラコニアをチャーターして、1922年から翌1923年春にかけてニューヨーク発 、一船のみでパナマ・スエズ両運河を通過してニューヨークへ戻る世界初の真の世界一周クルーズを催行した。以後、世界一周航海は旅行商品化されていったが定期航路とし ては、1924年に米国のダラーラインが米政府払い下げの貨客船7隻を擁してサンフランシスコを起点とした西回り世界一周航路を開設した。この定期航路は15年間継続されて乗 船券の有効期限は2年間、この間は乗り降り自由で商社員や外交官に好評だったという。“around the world”・・・1930年頃の日本郵船の航路は、横浜を起点として東には太 平洋を横断してサンフランシスコ、シアトルまで、西には上海、シンガポール、コロンボ、スエズ、ナポリ、マルセイユ、ジブラルタルを経てロンドンまで、これで は“around the world”にはならない。実は、日本郵船は1929年にダラーラインに似た2年間有効の世界一周乗船券を発売している。まず北米では、グレートノーザン鉄道、ユ ニオンパシフィック鉄道、カナディアンパシフィック鉄道と提携して北米大陸を横断、大西洋横断ではキュナードライン、北ドイツロイド、フレンチラインなど16社と提携し て乗船券を相互利用できるようにした。これで西からも東からも自由自在に“around the world”“eastward or westward with NYK line”できたという訳である。ダラーと の違いはもちろん、西回りの一方通行ではなく一区間だけでも戻れるところにあった。

キュナードと日本郵船:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

特に1929年に結んだキュナードラインとの提携は強いものだったようである。キュナードは大西洋横断専業のようなところがあり、日本郵船と航路が全く重ならなかったこ とが幸いして良好な関係にあり、1930年頃には余り知られていないものの、CunaradとNYK Lineがダブルネームのように銘記されたキュナード独自製作の世界一周ポスターなど も残されている。また、双方のチケットは北米西海岸であれば日本郵船の支店で、東海岸であればキュナードの支店で相互に販売されていたし、日本でも日本郵船に行けばキ ュナードのチケットを購入することができた。たった一枚のポスターではあるが、世界を股にかけた事情がうかがえるものである (了)

キュナードホワイトスター:ポスター四

方海話 巻七:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note APL・アメリカンプレジデントラインズ:ポスター四方海話 :ポスター販売・Ocean-Note

キュナードホワイトスター

キュナードホワイトスターのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, CUNAD WHITE STAR, Robert Roquin 1939

ポスター四方海話 巻七

キュナードラインといえば船名は“クイーン”の印象が強い。2013年現在キュナードの現役客船はクイーンメリー2、クイーンビクトリア、クイーンエリザベスの3隻、まさにクイーンズである。では、1840年の創業からそうであったかといえば、実はクイーンの名を冠した船名は1936年就航のクイーンメリー以降のことである。カンパニア、ルカニア、ルシタニア、モーレタニア、アキタニア・・・キュナードでは、船名の末尾に “−−−ia“ を付ける習慣があり、ジョンブラウン造船所534番船、後のクイーンメリーの船名はビクトリアになる予定だった。ところが534番船の竣工が近付いたある日、時の国王ジョージ5世が造船所を訪問、新船の船名を問われた造船所は「英国の最も偉大な女王の名を戴きます」と答えた。国王は「それは我が妻も喜ぶであろう」と、てっきり妻の皇后クイーンメリーの名が船名になると勘違い、急遽534番船の船名はビクトリアからクイーンメリーに変更され、これ以降船名にクイーンの接頭語を戴くことになったのである。

1921年の米国移民法改正は北大西洋定期航路に大きな影響を及ぼした。欧州から米国への移民は1910年代第一次大戦前がピークで100万人超、移民法改正後は一気に1/3に減少し1920年代後半にはピーク時の15%程にまで減少した。一方で、第一次大戦の戦禍が癒えた1920年代後半には各国北大西洋航路定期客船は船腹更新期を迎えた。しかし船腹不足は一転して船腹過剰の時代になっており、結果的には奇妙な過当競争・・・船腹数を減らして大きく高速な客船を造る戦略から相次いでスーパーライナーが建造されることになる。技術的には蒸気レシプロから蒸気タービンまたはタービンエレクトリック(さらにディーゼルやディーゼルエレクトリックもすでに実用段階にあり、日本郵船の浅間丸級や氷川丸級はディーゼルを採用した)に進化して選択肢も豊富で、これを活用して独、仏、英各国は客船の高速大型化による収益向上の計画で生き残りを図った。534番船では巡航28.5ノット以上、5日以内で欧州・ニューヨーク間を行き、補給を含め一週間で出港、姉妹船2隻での欧米間週航サービスを実現しようとしたのである。28.5ノットで航海することから逆算すると経済性から乗客は約2000名、大西洋の波の波長(平均320m)を考慮し全長は300m、総トン数は8万トンとなり、奇しくもドーバー海峡を挟んだフランスでもほぼ同様のT6建造計画(後のノルマンディー)が進められており、英534番船と仏T6の建造は僅か一ヶ月違いで起工された。ちなみに、一歩先んじたドイツでは、仏・英の計画を知り急遽建造計画中の客船のサイズアップを図るが失敗、ブレーメンとオイローパともに大西洋最速横断記録は更新したものの巡航速度は足りず、旧船を加えた3隻変則サービスに甘んじた。また、仏のノルマンディーの僚船となる予定だったブリターニュは第二次大戦で幻の計画に終わった。

表題のキュナードホワイトスターの社名は現在では使われることがないので簡単に解説する。後のクイーンメリー、ジョンブラウン造船所534番船は1926年頃から計画・設計が始められ1930年に起工した。しかしながら、その建造は1929年の世界恐慌以降の旅客数減少から資金難に直面し1931年には中断することになる。他方、あのタイタニックのホワイトスターラインは、1902年から米モルガン財閥が北大西洋航路独占を企てて設立したIMM(インターナショナル・マーカンタイル・マリーン社)の傘下にあったものの、1922年にはタイタニックの事故を機に海運業への進出に興味を失っていたIMMから英ロイヤルメールラインに売却、さらに1930年にロイヤルメールラインの不正経理発覚・解散から経営が悪化し手づまりにあった。結局、激しく賛否が交わされながらも表面上は新会社キュナードホワイトスターライン設立、及び新会社への950万ポンドの政府融資を骨子とした北大西洋海運法が英国議会で成立、534番船には政府融資のうち300万ポンドが投じられ建造は再開した。新会社への出資比率はキュナードライン62%、ホワイトスターライン38%、これがすなわち事実上の合併比率であった。キュナードホワイトスターラインは、1945年に名目上存続していた旧キュナードラインが旧ホワイトスターラインの持ち分38%の株式を買い取り、1947年には旧ホワイトスターラインが解散、1949年にはキュナードホワイトスターラインと旧キュナードラインが合併し再度キュナードラインに改称しホワイトスターラインの名称は消滅する。両者の経営方針は好対照で、キュナードが万事節約主義だったのに対し、ホワイトスターラインは速度競争には関わらず専ら快適で豪華、手厚い顧客サービスをモットーとしていた。合併が534番船の建造中断に端を発し政府主導で行われた為にキュナードが主役となったものの、合併時にホワイトスターラインからもたらされた手厚い顧客サービスは良き伝統としてキュナードに引き継がれ、現在でもキュナードラインの船内サービススタッフの胸には“WHITE STAR SERVICE”の小さなバッジが付けられ、ポケットにはホワイトスターサービスのハンドブックの必携が義務付けられている。また、キュナードラインはハリファックスのタイタニック犠牲者共同墓地の管理運営を今日でも続けている。

こうした苦難の末に、1936年クイーンメリーは北大西洋定期航路に就航、1938年まで仏客船ノルマンディーと黄金のスピード競争を演じる。そして、サウサンプトン・ニューヨーク間の二隻による週航体制を目指して建造された第一船クイーンメリーは、政府融資のうち500万ポンドを充てられ1936年に起工したジョンブラウン造船所552番船、後のクイーンエリザベスの完成を待つことになる。両船は姉妹船で基本設計はほぼ同じだが起工に6年の差があり、この間の技術進歩でクイーンメリーの3本ファンネルに対し、強制排気の採用で必ずしもボイラー真上にファンネルを必要としなくなったクイーンエリザベスでは2本ファンネル、ベンチレーション設備を改善しボートデッキのL字型通風塔は廃止され外観上スマートな印象を持つ。古来より、キリスト教圏では創造主が6日で世界を造り1日休息した故事に則り7日間を単位とする週単位の生活サイクルが強く根付いていた。1840年に、サミュエル・キュナードは蒸気船を北大西洋に浮かべ英国政府より郵便定期輸送の契約を得た。当時の外輪蒸気船は8.5ノットでリバプール・ハリファックスを2週間+石炭の積み込みに1週間で合計片道3週間・往復6週間、4隻の同型船で3週間ごとの出港による定期航路の運航を始めた。以来、キュナードの定期船は常に週単位のサービスを念頭に整備され、20世紀に入ると3隻での週航、そして創業100年を目前に、それが紆余曲折の政府援助によるものであったにせよ、究極の2隻週航サービスを実現するところまで辿りついた。クイーンメリーのノルマンディーとの華麗なるスピード競争は、集客や母国の名誉には必要なものだったかもしれないが、キュナードにとっては面映ゆいものだったに違いなく、当時として桁外れな性能の姉妹船の目的はあくまで片道5日、二船それぞれが一週間毎に出港できることにあった。

さて、ロクイン(Robert Roquin, 仏?, 1900?-1990?)によるクイーンメリーとクイーンエリザベス姉妹を描いた1939年のポスターである。ロベール・ロクイン(恐らくフランス人であろうと思われるのでロバートではなくロベールとした)というアーティストについては残念ながら詳しいことがわかっていない。アフリカ航空やブルースターライン、フランスの観光ポスター、香水やボールペンの広告、そしてキュナードホワイトスターラインなどの仕事が残ってはいるものの、フランス人アーティストではないかということ以外、生没年も一部文献にクエスチョンマーク付きで記述される程度である。さらに事をややこしくしたのは、大変恥ずかしながら当社でも間違って表記していたのだが、“Robert Roquin”が“A. Roquin”と間違って解釈されていたことである。サインを拡大(下部画像)してみればお判りのとおり、ファミリーネームRoquinのRに重ねてファーストネームのイニシャルが書かれているが、これがAにも見えることで何者かが“A. Roquin”と解釈したことが恐ろしくも今日まで広く伝わってしまっているのだ。確かにAにも見えるが、どちらかと問われればRが正解であろうし、米フロリダ州の図書館でRobert Roquinのデザインしたブルースターラインのブローシャーが保存されいることを突き止め、このブローシャーのサインが同じものだったのでRobert Roquinが正しいと確証を得た。ただしこの図書館でも名前以外の詳しい来歴は不明のままだ。いずれにせよ古いことを調べていれば良くあることで、これがコピーペーストの危うさだ。

キュナードホワイトスターのポスター・ロクイン:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

同じロクインによるキュナードホワイトスターのポスターである。左は中央部分に文字が入らないもの(A)、右は中央部に1938年9月〜10月のセーリングスケジュールが入れられたもの(B)である。同1938年のセーリングスケジュールをチェックすると一致するので間違いない・・・というのは、上記のロクインの名前ではないが、大変曖昧なことが多いのでこのポスターが1938年に使用されたものであることを確認しておく。ちなみに、ロクインのデザインによる1938年1月〜2月のセーリングスケジュール入りのポスター(C)も発見されている。このセーリングスケジュール入りのポスターがいつ頃から製作されるようになったのかは定かではないが、少なくともロクインのデザインで1938年の前半にはポスターC、後半にはポスターBが上掲のもの以外に広く使用されたことが推測されるとともに、1937年以前にはこのようなセーリングスケジュール入りのポスターが使用された形跡がなく、また戦後1947年以降もこのようなセーリングスケジュール入りのポスターはやはり使用されていない。断言はできないが、そのようなポスターがあれば方々の史料や文献が目につかぬ筈がないので、これらセーリングスケジュール入りのポスターは1938年(あるいは1939年まで)に使用されたとさせていただく。さて、お気づきのこととは思うが表題となったキュナードホワイトスターの1939年製作のポスター、ニョーヨークの摩天楼を背景にクイーンメリーとクイーンエリザベスの船首が美しく描かれた大変にデザインクォリティーの高い名作だが、1938年に使用されたAのポスターと似通っている。1938年のポスターAはハドソン川を登りもうすぐニューヨーク・チェルシー埠頭へ到着するクイーンメリーのメリーの写真に門構えのように青い空をイメージした太枠が回され、その枠の中にセーリングスケジュールを後刷りするための空白、上部にCUNARD WHITE STARの社名が入る。方や1939年製作のポスターは摩天楼を背景にクイーンメリーとクイーンエリザベスが船首を並べやはり青い左右の太枠が立てられ、上部にCUNARD WHITE STARの社名が入るがエンパイアステートビルらしき建物が薄くグレーで描かれるものの、やはり中央部は空白である。そう、つまりこの1939年のポスターは1940年のクイーンエリザベス就航後にセーリングスケジュールが入れられて使用される『予定』だったものと考えられるのである。しかし、このポスターにセーリングスケジュールが入れられて使用されたものは存在せず、実際に使用された形跡もないのである。つまり、非常に優れた図案の名作ポスターでありながら“幻のポスター”なのである。

ジョンブラウン造船所522番船は、1936年10月の起工から丸二年、1938年9月27日に進水式を迎えた。当初は国王ジョージ6世の行幸を仰ぐ予定だったものの、欧州の戦雲は急を告げており(この2日後には第二次大戦開戦に影響を及ぼすミュンヘン会談開催)皇后エリザベスと王女エリザベス(後のエリザベス女王)が出席してエリザベス皇后によってクイーンエリザベスと命名されて進水した。(エリザベスが二代続くため皇后という表現を使用したが、英国では国王George VIの妻はQueen Elizabethでやはりエリザベス女王である) 皇后エリザベスと若き日のエリザベス女王出席の進水式の様子は有名なニュース映像として残されいる。命名されたクイーンエリザベスは、艤装工事に入り1940年4月24日にサウサンプトンを出港する処女航海の予定が発表される。しかし、歴史の歯車はクイーンエリザベスの無事な就航を待ってはくれず、1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻し9月4日に英仏が対独宣戦布告、第二次世界大戦が開戦する。すでに仏客船ノルマンディーは8月28日、クイーンメリーは9月3日にニューヨークに入港して運航を停止していた。諜報戦は熾烈でドイツ軍はクイーンエリザベスを狙っていることが判明、ジョンブラウン造船所の戦艦建造の現場都合とも重なり、ジョンブラウン造船所=クライドバンクを一刻も早く離れなければならない状況に置かれる。すでに1939年末までにエンジンには火が入れられ係留のままながら機関の試験を終え、1940年2月26日の大潮を狙って出港することが決定された。2月26日、無事にクライドバンクを離岸、クライド河河口グリーノックでクイーンエリザベスはキュナードラインに引き渡され出港準備、3月3日にサウサンプトンのキングジョージ5世ドックに入渠する段取りで、サウサンプトンの乗組み員用ホテルの予約や船内見学チケットの配布もなされるが・・・3月2日の早朝、抜錨を前に国王キングジョージ6世の特使が来船、国王からの「海上まで開封禁止」と書かれたメッセージ封書を船長に手渡した。船長は、グリーノックを出港したクイーンエリザベスがアイルランド・イングランド間の海峡ノースチャンネルに出ると国王のメッセージを開封、そこには「行き先はニューヨーク」と記されており、イーンエリザベスが行く筈のサウサンプトンにはドイツ空軍の爆撃機が向かっていた。

後にクイーンエリザベス2の機関長となったウィリー・ファーマーは、後にインタビューで「一度も試運転をしなかったにも関わらず、クイーンエリザベスは全く問題がなかった。グリーノックを出るときに左右に三隻ずつ付いた護衛の駆逐艦は一日目に見失った。駆逐艦がついてこられなかったのだ。6日後にニューヨークに入港、駆逐艦はボロボロになって2日後に入港してしたきた。大西洋は相当キツかったようだ」と、語っている。3月7日、脱出行に成功したクイーンエリザベスを迎えたニューヨーク・チェルシー埠頭には、ノルマンディー、クイーンメリー、クイーンエリザベスの8万トン級客船が3隻並ぶ異様な光景が現出することになる。クイーンメリーは3月21日にニューヨークを出港してシドニーへ向かい、クイーンエリザベスは残工事をニューヨークで終えて一人の乗客も乗せないまま11月13日に出港、シンガポールへ向かった。両クイーンズは英国政府に徴用されて兵員輸送の軍役に就いた。ロクインが描いたポスターのようにクイーンメリーとクイーンエリザベスが揃って大西洋航路で活躍する姿は、第二次世界大戦のために幻となり、ポスターに両クイーンのセーリングスケジュールが印刷されて使用されることは無かったのである。(もし、1940年に使用されたなら、恐らく下の画像のようになったことであろう。合成画像である)

キュナードホワイトスターのポスター・ロクイン仮説バーチャル:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

クイーンメリーとクイーンエリザベスは、第二次大戦を生き延びた。英国の首相チャーチルをして「第二次大戦中のクイーンズの活躍は終戦を1年早めた」と言わしめ、戦時中にクイーンズが運んだ兵員は150万人以上に及んだ。大西洋に平和が戻り、クイーンエリザベスは1946年、クイーンメリーは1947年に大西洋定期航路に復帰した。しかし、ロクインの幻のポスターが使われることはなかった。1938年のポスターAやポスターBは、現在でもアートオークションに出品されることがあるものの、幻の1939年製作版の方は本物が出品されることはない。そもそも使用されなかった可能性が高いと考えられる。現在リプリントが製作されているのは、激動の歴史に埋もれていた未使用のポスターから写真製版された複製品が元になっている (了)

ノルマンディー:ポスター四方海話 巻六:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note 日本郵船:ポスター四方海話 巻八:ポスター販売・Ocean-Note

ノルマンディー

ポスター 四方海話 巻六

今更言うまでもなく、史上最高の名船と言えばフレンチラインのノルマンディーに落ち着く。この船の凄さは随所に書かれていることなので割愛するが、大げさに言えばノルマンディーはフランス文化の結実であり、英国やドイツに遅れをとっていたと思われる工業技術力における実力を世界に示すシンボルだった。19世紀末から過熱していた、北大西洋航路での覇権争いはノルマンディーとクイーンメリーの名勝負で最終章を迎えたといっていいだろう。史上最高の名船と謳われたノルマンディーは1939年、第二次世界大戦勃発と同時にニューヨークに係留され、翌1940年にフランスがドイツに敗れるとそのまま敵性資産としてアメリカに接収される。その最後は非劇的なもので、ニューヨークに係留されたまま兵員輸送船への改装中、宮殿のようだと謳われた大食堂で作業員のアセチレンバーナーの火が山積みの救命胴衣へ引火、火災を起こしてその場に転覆した。戦時中はそのまま放置、1946年、一部解体の上サルベージされ曳航でニューヨークを出港、スクラップとなった。僅か4年半の実働ながら伝説となったノルマンディー、その伝説のほんの一部ではあるものの、ノルマンディーのために製作されたポスターもまた名作揃いで知られる。

ノルマンデイーのポスター・カッサンドルとオヴィニュ:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, Normandie, A. M. Cassandre 1935
Ocean-Note, Normandie, Jan Auvigne 1935

1935年。5月にノルマンディーは大西洋航路に就航、処女航海西航で29.98ノットを記録しイタリアの客船レックスから大西洋横断記録最速船=ブルーリボンのタイトルを奪取、ニューヨークへは速度記録の30ノットを表す長さ30mの青いペナントを掲げて入港した。しかしプロペラの相性が悪く振動に悩まされ、10月で航海を打ち切りメンテナンスに入る。この年ノルマンディーのために二枚のポスターが描かれている。
一枚は言わずと知れたアールデコポスターの巨匠、アドルフ・ムールン・カッサンドル(Adolphe Mouron Cassandre 仏 1901-1968)が描いたものである。このポスターの客観的な評価を言えば、客船のポスターというよりも、巨匠カッサンドルの代表作であり、全てのアールデコポスターの代表作、そしてアールデコデザイン全般の代表作と認められている。従って、後世のグラフィックデザイナーやアーティスト達は、事あらばこの船首を見上げた構図を流用し、カッサンドルへのオマージュ作品は枚挙にいとまがない。このポスターは、下部のコピー部分は文字無しでリトグラフ印刷、コピー部分を後から重ね刷り、大きくは7種類ほどのバリエーションが製作され1938年まで使用されている。1935年に文字無しで全部印刷されたのか、それとも文字のあるなしを別にして何度も印刷されたのかは不明だが、ポスターによって背景色が微妙に違っており、複数回印刷された可能性が高い。最初に製作されたのは”VOYAGE INAUGURAL 29 MAI 1935”と処女航海日付の予告が赤文字で入れられたものである。この作品の研究はいずれ機会を見て書いてみたいと思う。長く使用されたので現存数こそ多い方だが・・・オリジナルが10000ドルを下ることはない。サイズは約600mmX1000mm。
もう一枚は、ジャン・オヴィニュ(Jan Auvigne 仏)によって描かれたものだ。珍しさだけならばカッサンドルのポスターの比ではない。余りに少ないので長いことこれがポスターであることさえ疑っていたほどだ。というのは、このポスターでは複製品の購入で失敗したことがあるからだ。ジャン・オヴィニュという人は来歴が全く不明ながら、フレンチラインのことを研究しているとやたらと名前が出てくる。フレンチライン船内ワインリストの表紙や案内ブックレットのイラスト、ポスター、ノルマンディーの冊子のアートディレクションやイラストなどなどだが、推測の域は出ないもののフレンチラインの社内アートディレクター兼デザイナーだったのではないかと思われる。この推測を決定的にしたのはノルマンディーの竣工記念に関係者に配布された冊子、通称”グリーンブック”にアートディレクターとして名前が記されていたからだ。フレンチラインがパリのドレーゲルのような広告代理店などと密接だった記録はない一方で、ジャン・オヴィニュは少なくとも5年以上フレンチラインの仕事をやっている。さて、多方面をあたってわかったことは、まず、このイラストがツーリストクラス(2等)向けデッキプランに使用されていることだった。結局、この大きさにすればB5より小さくらいのイラストが大きく引き延ばされてポスターと称されているのかと思っていたところ、アメリカのアートオークショナーのデータベースでやっとこのポスターを見つけた。ここまでなら良かったがここから先が問題で、実はいつ誰が何の目的でそうしたか判らないが、このポスターは縦横比が改竄されて今日に伝わっており、殆どの複製品は縦に長く伸ばされているのである。ご覧のとおり縦に長く伸ばされており、恥ずかしながら僕もこの改竄された複製品を・・・持っている。デッキプランブックレットもポスターも・・・このイラストの正解は縦に細長くはない。オリジナルは300mmX500mmほど、売りに出れば10000ドル近くまで値が伸びる。

ノルマンディーのポスター・リギーニとブラック:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, Normandie, Sigismund Righini 1936
Ocean-Note, Normandie, Postcard

1936年。ノルマンディーのライバルとなるキュナードラインの客船クイーンメリーが就航、8月に西航30.14ノットでブルーリボンを奪われる。1936年のシーズンオフ、ノルマンディーは振動問題の解決も兼ねて元々ユルケビッチが設計した4枚プロペラに換装、加えてボイラーも圧力アップされ振動問題をクリアーする。前年同様2枚のポスターが描かれる。カッサンドルのポスターは文字部分を差し替えて引き続き使用された筈だが、この年新たに製作されたポスターは、前年のアールデコ最先端から一転して保守的なものになる。
一枚はドイツ人の油彩画家、シギスムンド・リギーニ(Sigismund Righini 独 1870-1937)によるニューヨーク入港、チェルシー88番埠頭に向かってハドソン川を上るノルマンディーの図。原画は水彩。リギーニはアールデコやポスターに縁が薄く、専ら印象派の作風に徹した画家だった。しっかりとした基礎のある画家が描くと、商業イラストのアーティストとは違う奥行きのある絵画ポスターになるものである。このポスターは現代の販売業者にかかると不思議なことにアールデコのポスターとなるようだが、これはひとつにその方が売りやすいこともあるが、掛け値なしにそう見えてしまうことによるものだ。なぜそのように見えるかと言えば、これはとりもなおさずノルマディーの持つ、優雅でモダンなストリームライン(流線形)自体がアールデコのオーラを放っていることに他ならない。美しさだけで言えばノルマンディーのポスターのナンバー1である。オリジナルは約600mmX1000mm、売りに出れば6000ドル前後の値がつく。
この年、製作されたもう一枚のポスターは、英国人ポスター画家、モンタギュー・B・ブラック(Montague Birrell Black 英 1884-1964)が描いたものである。ついつい勘違いしがちだが、当時にタイムトリップすれば何もかもアールデコ一色だったわけではなく、このポスターがノルマンディーだからこそ伝わったものの、実は至極普通であるが故に埋もれてしまった水彩原画のポスターは想像以上に多くあるであろうことを思わせる。モンタギュー・B・ブラックのポスターは、この客船ポスター四方海話・タイタニックの項でも紹介のとおり、1912年にタイタニックの旅行代理店向けポスターも描いている。実はこのポスターがノルマンディーのポスターとして列せられたのは近年のことであって、10年も前の客船ポスターの図録などを見返してもまず取り上げられてはいない。かく言う僕も、このポスターの存在に気づいたのは近年のことだ。長いこと埋もれていた理由は今となってはわからないが、ノルマンディーといえばアールデコといイメージが強く、リプリント業者やオークショナーにとっては売りにくかったこと、また偶然にもこれを持っていた人・入手した人にとっては同じ理由で真贋を疑わざるをえなかったということだろうと推測される。これもインターネットによって縦糸横糸で情報が繋がれるようになった所産、この数年で日の目をみる機会を得た作品である。ブラックは、恐らく印刷所の職工さん的な画家だったのではないと推測されるが、客船ポスター以外に英サザンレイルウェイや英LNER鉄道の鉄道ポスターも描いている。鉄道ポスターもほぼ全部・・・海辺の風景のものばかりである。オリジナルは約600mmX1000mm、4000ドル弱。

ノルマンディーのポスター・コランとオヴィニュ:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, French Line, Paul Colin 1937

1937年。ノルマンディー最高の年である。冬季メンテナンスによって7月には西航30.58ノットを記録しクイーンメリーからブルーリボンを奪還、機関は絶好調で8月には16万馬力の設計仕様を遥か上回る19万6千馬力、最高速32.7ノットを記録する。自己最高の18往復36航海をこなし37542名の乗客を輸送した。この年に描かれたノルマンディーのポスターも知られているものが2枚ある。
一枚はフランスアールデコポスターの三銃士の一人として数えられたポール・コラン(Paul Colin 仏 1892-1985)が描いたフレンチラインのポスターである。ご覧のとおり、このポスターは上部にフレンチラインの正式社名とロゴマーク、最下部には大西洋・太平洋・地中海の文字が入れられており、ノルマンディーの船名はどこにもない。1937当時のフレンチラインの主力客船はイル・ド・フランスとノルマンディーだったが、ファッションプレート船首(凌波性を良くするブリッジに向かってせり上がっている船首デッキ形状)から容易にノルマンディーと見分けがつく。この世にポスターは無数にあれど、カッサンドルのノルマンディーと並んで、最初に目にした人々を驚かせたことでは右に出るものはなかっただろうと想像される。それほどこの大胆なトリコロールの判り易い背景は衝撃的で、後世に与えた影響は計り知れない。このポスターには、余り知られていない上部のFrench Lineロゴがイタリック体のものが存在する。現存する殆どのものは1933年に制定された見慣れたFrench Lineロゴのもので印刷の質もイタリック体バージョンより良いが、恐らくイタリック体のものが最初のオリジナルで、何らかの事情で途中で見慣れたFrench Lineロゴに差し替えられたと考えている。どちらも欄外のコピーライトは1937年なのである。蛇足ながら、このポスターは1952年頃にアメリカで再版され実際に使用されているが、もちろん、この時にはすでにここに描かれたノルマンディーは存在しない。また、近年では、背景が単純であることから、全く新たに描き直されたオフセットリプリントも製作されて出回っている。オリジナルは約600mmX1000mm、10000ドル超。
もう一枚は、前出ジャン・オヴィニュによるノルマンディーが描かれたポスターである。このポスターは大変判り易い作り方をされていて、下部テキストコピー部分は白紙で製作、文字を入れ替えて使用されている。正確に何種類のテキストコピーが入れられのかは判らないが、少なくとも2種類は確認しており文字が入っていない下部白紙のままのものも現存している。カッサンドルのノルマンディーのようにテキスト後摺りを前提にしながらも、テキスト無しで絵が完結していれば良かったのだが、思い切って白紙にしてしまったために、イラスト部分のノルマンディーの描写が羅針盤を背景にしたロマンチックな素晴らしいものであるにも関わらず、審美的な価値は一段低く見られている。文字部分については”a bord de Normandie”とブルーの文字で大きめに書かれたもの、”SERVICES REGULIERS CROISIERES ET CIRCUITS”(service regular cruises and circuits)が黒文字で書かれたものが見られ、どちらも1937年のパリ万博とのタイアップとなっている。残念ながらこの文字部分は全くデザインらしいデザインは考慮されておらず、これも一段評価が落ちる理由である。しかしながらそこはノルマンディー、アートオークションの相場は5000ドル前後である。サイズは約600mmX1000mm。

1938年。ノルマンディーは前年の好調は続かず、乗船客の減少に悩まされる。ヴェルサイユ体制打破を目指すドイツの再拡大を、ソ連牽制のために黙認してきた米英仏が我慢できず、最早戦争が避けられないと人々は思い始め、船旅を避けるようになったためである。8月、再びクイーンメリーに西航30.99ノットでブルーリボンを奪われるが、以後、ノルマンディーが奪還を狙った様子はない。赤字がかさみ運航継続が精一杯だたようで、この年の大西洋航路を終えるとノルマンディーは旅行代理店レイモンド・ウィッコムの募集で南米リオデジャネイロへのクルーズ航海を実施する。就航から4年目にして初めて、この年ノルマンディーのポスターは製作されなかった。

ノルマンディーのポスター・ハーコマー:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, Normandie, Herkomer 1939

1939年。いよいよ開戦まで秒読みになるものの、ノルマンディーはドイツからアメリカへ逃げるユダヤ人の渡航に一役買う。この年、一航海あたりの乗船客は900名を割ったが、その大半がユダヤ系のドイツ人だったといわれる。ビザも無い緊急渡航者に、ノルマンディーの船員が制服を貸してニューヨークの夜陰に逃すと米当局も黙認したといった話も伝わる。8月23日、1100名余りの乗客を乗せ、ノルマンディーはル・アーブルを出航、同28日ニューヨーク入港、141航海目の大西洋横断を終えるとフレンチラインからの緊急電にて出航を見合わせ、9月3日、フランスがドイツに宣戦布告、そのままニューヨークへ係留されることとなる。
この年製作されたのが、ノルマンディー最後となったハーコマー(Herkomer)によって描かれたポスターである。このポスターは世界でたった数枚しか発見されていないもので、8月にはノルマンディーが航海を停止しているので、製作だけされて使用されなった可能性さえある。現存品を見ればロンドンのヒル・シフケン印刷所にて(Hill, Siffken & Co., London) 1939年に製作されたこともわかるが、作者のハーコマーが問題で、一部に英国人画家フンベルト・ファン・ハーコマーが作者との記述もあるがこれは間違い、フンベルト・ファン・ハーコマーは1914年に亡くなっているのでノルマンディーを描きようもなく、推論の域を出ないがフンベルト・ファン・ハーコマーの息子、ジークフリート・ファン・ハーコマーが作者と思われる。ジークフリートはデザイン事務所を主宰していた。英国でこのポスターが製作された理由も不明で謎ばかりのポスターだが、出来栄えは素晴らしくリプリントの人気は昔も今も高い。オリジナルは約600mmX1000mmで、売りに出れば15000ドルを超えると言われる。

以上が客船ノルマンディーのために描かれた7枚のポスターだが、名船故にオフセット・リプリントやジクレープリント・レプリカが数多く販売されている。上記7枚でオリジナルと著しく異なるものが伝わるものは指摘したが、やはり一寸した勘違いがありがちなものを2点紹介する。

ノルマンディーブローシャー:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, Ile de France, Postcard

左は1935年のポスターとして販売されることも多い有名なものだが、これはポスターではなく大変素晴らしいノルマンディーのカッタウェイ断面図・ホールディングブローシャー(ブックレット)の表紙である。1935年に製作されたもので、このイラストの作者はアンドレ・ウィルキン、オリジナルは200mmX320mmほどの大きさである。写真製版をすればそれなりの大きさには出来るものである。右のもう一枚は、まれに間違った説明があるもので、ノルマンディーとして紹介されることもあるが、これはノルマンディーの前のフレンチライン旗艦、客船イル・ド・フランスのポスターである。

こうして改めて書くと・・・凄いものである。一隻の客船のために実働4年半で7枚のポスター。当時はまだオフセット印刷の技術は無いので、当代最先端だったリトグラフ印刷で製作されている。今、我々が想像するのとは違って、リトグラフが機械製作できるものでもなく、やはり一枚づつの手摺りだから大変なものだった。ポスターを一枚製作するのに多大な労力を必要とした筈だ。ノルマンディーがただ降って湧いたように生まれた名船なのではなく、このような労力が至る所に注ぎこまれて伝説になったことが判る。戦前のヴィンテージポスターなるもの、その価値観は人それぞれなのでコメントを避けるが、きちんとしたオークションハウスから出る普通のもので、概ね300ドルから500ドル、少し人気のあるもので1000ドルから1500ドルくらいのものである。ノルマンディーは、出ればどれも5000ドル以上、中には15000ドルまで行くものもある。ちなみにタイタニックは年代も古いが破格で30000ドルから上だが、客船ポスターの世界でノルマンディーは、タイタニックの次に人気がある”分野”となっている。 (了)

クイーンエリザベス2:ポスター四方海話 巻伍:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note キュナードホワイトスター:ポスター四方海話 巻七:ポスター販売・Ocean-Note

クイーンエリザベス2

クイーンエリザベス2のポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, Queen Elizabeth 2

ポスター 四方海話 巻伍

”オーシャンライナー”という言葉を知らない人も多いだろう。【liner】とは大洋定期船のことで、丁寧に言えば【ocean liner】である。日本では列車やバス、あるいは○×便という意味にも○×ライナーという言い方をするが、これは日本独自のカタカナ英語であり、昔は定期路線の航空機も【liner】と呼んだが今では使われない。いずれにせよ、【liner】は大洋を越える定期路線を行く客船や航空機を指す言葉である。また、日本では大きな客船を十把一絡げに豪華客船と呼ぶが、これは【luxurious passanger ship】なのであり【luxurious liner】と同義にはならない。判り易く言えば、横浜に係留されている氷川丸はシアトル・サンフランシスコと横浜間の太平洋横断定期客船だったので【ocean liner】、飛鳥IIは大洋横断の定期航路客船ではないので【luxurious passanger ship】または【luxurious cruise ship】である。

ややこしくなったが、豪華客船という言葉は1975年のクイーンエリザベス2の日本初寄港の際に初めて使われたと言われる。これが日本でのクイーンエリザベス2やオーシャンライナーに対する認識の取り違えの元である。クイーンエリザベス2が日本に来たのはどんな季節か? と問われれば冬とか春と答えるだろう。20回も日本に立ち寄って冬とか春ばかり、それ以外の時はどこを航海しているのだろう? と思えば、クイーンエリザベス2は通常4月頃から12月頃まで英国サウサンプトンと米ニューヨークを行ったり来たり、北大西洋の英国・米国間の定期航路を航海していたのである。その数、40年間で800航海、平均で年間10往復20航海、北大西洋航路では冬のクルーズ航海無しの定期航路専業で最盛期16〜17往復が上限、これには及ばずも乗船需要減を考えれば驚異的な航海数である。そう、北大西洋航路のオフシーズンには世界一周などのクルーズ航海、その途中に日本へ寄港していただけで、クイーンエリザベス2こそは生粋の北大西洋航路定期客船であった。現在でも質実剛健な英国船である、何をもってそう言ったものか想像もつかないが、クイーンエリザベス2は豪華客船でも何でもなく大西洋のオーシャンライナーそのものであった。

第二次大戦では兵員輸送に大活躍しながら、幸運にもキュナードラインのクイーンメリーとクイーンエリザベスは2隻揃って生き残った。キュナード・クイーンズが軍務を解かれて北大西洋航路に戻ったのは1947年、戦時の酷使で最高速度は2ノット以上落ちたものの、巡航29ノット近くは保てたのでサウサンプトン・ニューヨーク間定期航路を2隻で毎週出航することができた。ライバルは戦没し、スピード競争も無いので平和が戻った大西洋を悠々と行けば良かった・・・筈だったが、新たなライバルは空からやって来た。二度の大戦で急速に進歩を遂げた航空機である。客船で6日近くかかる大西洋横断を、DC6やスーパーコンステレーションは丸半日で飛ぶ。その時、この歴史の必然に気づく人は少なかった。そもそも狭い座席で危険(と考えられていた)な飛行機が優雅な客船の乗客を奪うとは想像がつかず、海を渡り大陸間を結ぶ主要交通手段は未来永劫、船だけだと考えられていた。ところが1958年、北大西洋の客船と飛行機の旅客数が逆転、キュナードラインは収益が急速に悪化する中、やがて船齢30年を迎えるクイーンズの船腹更新を考えねばならなかった。最初は二船を再び80000トン級のスーパーライナーに置き換える計画だったが、乗船需要の先行き減と英政府からの建造助成金拠出中止で計画を変更、クイーンズのうち船齢が4年若いクイーンエリザベスを残し、これと共同運航できる75000トンのQ3(クイーンを名乗る3船目の意)を建造することになり1960年入札を実施、スワン・ハンター造船所が落札したものの、翌1961年にクイーンズの収益がさらに悪化したことでQ3計画はいったん白紙になる。1964年、新たに計画発表、クイーンエリザベスを残しクルーズ航海向けに改装、退役するクイーンメリーの代わりに空調完備・パナマックス(パナマ運河を通れる大きさ)のQ4、後のクイーンエリザベス2を建造することとし、かつてクイーンズを建造したジョン・ブラウン造船所が落札、新船は再びクライドバンクで建造されることになる。

意外にこのことを忘れているが、キュナードラインは何故、北大西洋定期航路にこだわるのか? 時の流れの中で細かい経営方針の変化はあったであろうが、キュナードラインにとって北大西洋定期航路の客船運航こそは社業であり、このことは今後も変わりがないからである。冷静に振り返ればキュナードラインは、貨物船を運航したことも無ければ、1999年に子会社のクルーズ客船カロニアを自社船籍にするまでクルーズ事業をあくまでサイドビジネスとしており、2007年のクイーンビクトリア就役でクルーズ事業に乗り出したものの、現在でも北大西洋定期航路の客船運航をアイデンティティとしていることに変わりはない。船の接頭名称のひとつに”R. M. S.”がある。これはRoyal Mail Shipの略称で、キュナードラインの創業は英国政府から蒸気船による定期郵便輸送業務を委託され、自社船にRoyal Mail Shipの地位を委嘱されたことから始まる。厳しい規則をクリアして英国政府から郵便輸送業務を請け負うことは名誉なことであり補助金も出た。定期郵便輸送なので、定期航路客船にのみにこの接頭名称が許されるが、キュナードラインの客船は2007年就役のクイーンビクトリアより前は全船”R. M. S.”を名乗っている。2003年にクイーンメリー2が就役した時に「わが社がRoyal Mail Shipの運航を停止することはない」と宣言、現在クイーンメリー2の正式名称は”R. M. S. QUEEN MARY 2”、クイーンエリザベス2は”R. M. S. QUEEN ELIZABETH 2”であった。

クイーンエリザベス2は、北大西洋航路の乗船需要がほぼゼロになってゆく中でオーシャンライナーの伝統をたった一隻で34年間守った。キュナードラインの努力は相当のものだった筈である。もはや、人々がロンドンやニューヨークへ行くためだけに客船を利用することは皆無で、クイーンエリザベス2を運航し続けることは不可能だと思われた。誇り高きオーシャンライナーをクルーズ航海に利用することへは社内・船員のアギューもあった。ところが、1970年代後半になるとここに一筋の光明が射した。どんな産業分野にも残存者利益というものがある。一旦は去った乗船客が、少なくとも経営的に厳しくもクイーンエリザベス2が定期運航を継続できる程度には戻ってきたのである。北大西洋航路の定期客船がクイーンエリザベス2ただ一隻になった時、懐古的な思い入れを抱く人々がクイーンエリザベス2に乗って大西洋横断を旅として楽しむようになったのである。皮肉なことだが、実用的な交通路だった北大西洋定期航路が格好のクルーズ航海路線に生まれ変わり、古式に則ったクイーンエリザベス2の船内等級さえも価値を帯びてきたのである。北大西洋定期航路はこうして現代まで生き残ることになるのである。余りにも、前置きが長すぎたが、クイーンエリザベス2を理解するために、この船が北大西洋航路の定期客船だったこと、またその意味するところや意義を考察した。

さて、後世になって振り返ると、例えばフランスの客船ノルマンディーであればカッサンドル、クイーンメリーであればキュナードレッドの背景のもの、客船フランスであればジーン・ジャクリーヌのフランス国旗が背景のもの、名船にはそれぞれ顔となるポスターがあった。40年の長きに渡り孤立無援ながら北大西洋定期航路を守ったクイーンエリザベス2、さも多くの素晴らしいポスターがあるかと思いきや、キュナードライン苦難の時期だったこと、そもそも需要が減りすぎて貼るべき場所がないという珍現象もあってポスター自体が戦前同様には製作されなかった。戦後、ポスターの製作はリトグラフからオフセット印刷に変わって審美的な価値観は軽んじられがちになったものの、無数ともいえる客船のポスターを見続ける目で選べば、ここに挙げる2枚のオフセット印刷ポスターは名船の顔となるポスターに相応しいものである。

一枚は本ページ最上部のポスター、1983年にキュナードラインによって製作されたもので、作者はJ. Olsen。オリジナルの印刷はオフセットである。残念ながらJ. Olsenの詳しい来歴は伝わらず、キュナードラインの仕事以外のイラストワークが残されていないので、キュナードラインの社内もしくはポスターやブローシャーの製作会社のデザイナーだった可能性が高い。日本にも素晴らしい紙モノコレクターは居られるが海外も同様で、70年代から90年代にかけてのキュナードラインのブローシャーをコレクションしている方が居る。今、集めているのではなくリアルタイムで入手したものを永年ご自身が保管しているのである。J. Olsenの正体が判らぬままでいた時に、氏のブローシャーコレクションからこのポスターと同じタッチの表紙を見つけた。サインを見るとJ. Olsen、北米のアートオーショナーのデータベースをあたると、このポスターの作者がJ. Olsenに間違いないことが判った。結果的にJ. Olsenの来歴はわからないままだが、少なくとも作者の特定だけはできた。ポスターの方にはサインが入っていないのである。このポスターが製作された1980年代は、上述のようにキュナードラインがどん底から脱して、新たなる大西洋航路定期客船の乗客を迎え始めた頃にあたる。コピーを見ると、あれほど苦戦した”TRANSATLANTIC CROSSINGS”(大西洋横断)、ニューヨークから欧州へと続いたあと”FOR ONCE IN YOUR LIFE LIVE”、これは80年代前半にキュナードラインが使っていたキャッチコピーで「一生に一度は・・・」くらいの意味、つまり生涯一度は客船で大西洋を横断しませんか?といったセールスコピーである。ニューヨーク・・・でわかる通り、このポスターはアメリカ向けに製作されたもので、我々が思う以上にアメリカ人は「先祖は大西洋を船で渡ってアメリカに来た」という意識が強く、祖父や曽祖父が人生を賭けて渡ってきた海を、同じように船で渡ろうといった意味合いが含まれている。何ともロマンチックな心憎さであり、何より再び大西洋横断で勝負に出たことが判るところに史料的意義を感じる。デザインの出来は素晴らしく、黒背景の格調高さ(実はコート紙のポスターでは手の脂が付くので扱いが大変である)、レトロチックなパリとロンドンの背景描画、カッサンドルのノルマンディーへのオマージュとなっているクイーンエリザベス2の船首、細かく言えば好みはあるだろうが100点満点のアールデコポスターである。まずはこのポスターをクイーンエリザベス2の顔として挙げたい。このポスターのオリジナル、現存数は余り多くは無い。アートオークションに出ることは年に2度もないだろう。しかし・・・価格はお手頃で、運が良ければ100ドルしない。リトグラフとは違い、オフセットものでは、映画ポスターで相場観が形成されているが、客船ポスターでは価値が安定していない。作品の質を考えれば大変価値のあるものと考えられる。

クイーンエリザベス2のポスター2to4:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

もう一枚はウィリアム ・A・スローン( William A. Sloan)によって描かれた1980年ないし1981年の冬季クルーズのポスター。オリジナルの印刷はオフセットである。スローンは、アメリカ人デザイナーでデザイン事務所勤務時代にシーグラムやバンカーズトラスト、そしてキュナードラインの仕事を手掛け、1979年から1982年のブローシャーの表紙を担当しニューヨクアートディレクターズクラブのデザインアワードを授賞、キャリアのスタートを切る。このクイーンエリザベス2のポスターはオルセンのものが大西洋横断航海をテーマにしているのに対し、カリブ海と世界一周がテーマになっており、年代の特定はできないが1982年はフォークランド紛争に徴用されており1979年はスローンが担当した最初の年で評価が定まらなかった筈なので1980年か1981年にデザインをスローン、クライアントをキュナードラインとして製作されたものとなる。どちらかと言えば堅苦しいイメージがある英国企業のポスターが、まるでヴィユモがデザインしたフレンチラインの広告のようにどことなく楽しげだったことにはインパクトがあったと想像される。極めて現存数が少なく、アートオークションに出ることも数年に一度、価値も何も計りようがないもののポスターのデザインの質としては時代を映す素晴らしいものとなっている。

クイーンエリザベス2のポスターは、これ以外にも目ぼしいものが数点ある。1970年代にはコンコルド・レッドアローズとともに撮られた有名な写真のポスター、1994年には改装工事でロイヤルブルーになった船体と地球をモチーフにした背景の有名なポスターがリリースされている。近年ではウィリアム ・A・スローンが描いた1979年のブローシャー表紙のイラストをポスターとして独自に製版・製作して販売しているものもある。どれも、状態が良く楽しめればそれでいいことだが、僕が上記2枚こそクイーンエリザベス2のポスターだと思う理由は別にもある。退役前、クイーンエリザベス2の船内のあちこちに歴代のキュナードラインの客船のポスターが飾られていた。そのうちEデッキの階段踊り場には、この2枚のポスターが額装して飾られていた。モーレタニア、ルシタニア、アキタニア、クイーンメリー・・・これらの名船達のポスターと並んでこの2枚のポスターが飾られていたのである。キュナードライン自身が、これらをクイーンエリザベス2のポスター代表作と認めていた証左だ。個人的なことになるが、子供の頃、クイーンエリザベス2が横浜に初めて寄港した際、夜中に見物に出かけた。夜中だというのにごった返していたのを憶えているが、当時の大桟橋はグランドレベルを歩くことが出来て、ここから眺めたせいで、船というよりはまるでビルのように感じたものだった。憧れの”豪華客船”・・・もう40年近くも前のことである・・・ (了)

タイタニック:ポスター四方海話 巻四:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note ノルマンディー:ポスター四方海話 巻六:ポスター販売・Ocean-Note

タイタニック

タイタニックのポスター:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean Note, WHITE STAR LINE, TITANIC, 1912

ポスター 四方海話 巻四

やはり、これを書かねばならなだろう。タイタニックのことである。世界で一番有名な客船になってしまったので、さぞや素晴らしいポスターが沢山あると思ったら大間違いである。タイタニックの就航に際して、タイタニックのためだけに製作されたポスターは一枚もない。俗にイエローバナーとかレッドバナーとか呼ばれ、ティンの看板なども販売されいるものは、近年描かれた新しいものである。では、本当に一枚も無いのかといえば「タイタニックのために製作されたポスターは一枚もない」のであって、ホワイトスターラインの宣伝のためにオリンピッククラスとして製作されたポスターがある。

まずは、これを持っていたら鑑定団に出られるというポスターは、通称”Big Red”と呼ばれるオリンピックとタイタニック、両船の船名が連ねられているホワイトスターラインのものである。大きさは当時のフルサイズで100cmX65cmほど、作者は不明である。このポスターの素晴らしさを知るためには、ホワイトスターラインやタイタニックに対する多くの人が思っているイメージを一旦白紙にする必要がある。多分、特に日本ではホワイトスターラインをいい加減な会社、派手好きで金儲け主義、タイタニックについては極論すれば欠陥船といった印象を少なからず持たれているからだ。1912年当時の話である、どこまで理解しているかは僕にも自信はないのだが、少なくともその前後のことも含めてホワイトスターラインを理解すればヒントにはなる。

ホワイトスターラインは1845年創業、南米航路の帆船を運航するも倒産、1868年にトーマス・ヘンリー・イズメイが買収して北大西洋の客船事業に乗り出した。ホワイトスターラインが北大西洋に乗り出すことが出来たのは一重にハーランド・アンド・ウォルフ造船所の協力によるものである。トーマス・イズメイはナショナルラインの役員として海運業に通暁、客船事業の卓越したビジョンを持ち、リバプール財界実力者の仲介により、全ての客船を発注することを条件にハーランド・アンド・ウォルフの協力を得る。ホワイトスターラインとハーランド・アンド・ウォルフは互いに株式を持ち合い、造船原価の開示と、これに双方で取り決めた手数料を乗せて船価とする協定を結び二人三脚で順調に業績を伸ばす。客船事業はある意味で単純な装置産業であり、その事業観はそのまま主装置にして唯一の商材である客船に反映される。トーマス・イズメイのコンセプトは”快適で安全”という判り易いものであり、結果的に”儲かる”船の出来栄えは素晴らしかった。帆船時代から続く船尾の一等船室を船の中央部に移し乗船客の接遇を改善しつつ、当時としては異様に前後に細長く美しい船容のオセアニックを皮切りに同型船5隻を建造し一気に北大西洋航路の主役の一翼に喰い込むと、1876年と1877年には一回り大きなブリタニックとジャーマニックを就航させブリーリボン(北大西洋横断最速記録客船の称号)を獲得、1889年には初めての仮想巡洋艦に転用可能な客船、チュートニックを建造・・・チュートニックが観艦式に参加、これを見たドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世が感激して、「我がドイツの未来は海にあり!」と海軍と海運の増強に走り、やがて第一次大戦の遠因となってゆく。 ヴィルヘルム2世の叱咤によるドイツ客船の充実は急進的で、速度・乗客船数ともにたちまち英国勢に追いつき追いこすことになる。船の更新期に当たったこの頃、トーマス・イズメイはドイツ客船との速度競争を避け、船の大きさと船内設備の充実をはかる。1899年、トーマス・イズメイの人生の集大成ともいえるオセアニック(2世)が就航、まるで貨物扱いのようだった3等船室の待遇を改善、ドーム天井付きの一等食堂を備え、その大きさと豪華さは経済性を維持できる幾分抑えた速度を補って余りある最大限の賛辞を浴び「大西洋の貴婦人」の称号を得る。客船が高速、それもその船の持つ最高速に近い速度で航海するということは、乗船客にとっては快適なことではなく、1930年代のクイーンメリーやノルマンディーも、その華やかなスピード競争の陰で振動と揺れには悩まされ続けた。

トーマス・イズメイはオセアニックの就航に看取られるように死去、後継者は息子のブルース・イズメイだった。その頃、まさにオセアニックに度々乗船して上得意客だったアメリカの銀行家、J・P・モルガンは競争が激化する海運事業に目を付ける。19世紀末のアメリカの鉄道事業にも同様の過当競争があり、鉄道トラストの成功を主導したモルガンは名声を得ていた。モルガンは、北大西洋海運の運賃安定と事業独占を狙って、持株会社インターナショナル・マーチャンタイル・マリーン=IMMを設立し船会社を買収し始めた。故トーマス・イズメイはIMMの動きに否定的だったが、ハーランド・アンド・ウォルフ会長ピリー卿の進言によってブルース・イズメイはIMMの資本参加を受け入れる。結果として1905年頃までに欧州でIMMの影響下にない船会社は英国のキュナードラインのみという有様だった。IMM傘下に入ることは、客船の大型化が進んだ当時、競争力を維持するためには止むを得ない決断であり、米国資本を潤沢に得ることはホワイトスターラインとハーランド・アンド・ウォルフ造船所、双方にメリットがあった。唯一IMMに参加しなかったキュナードには、純自国船が消えることに危機感を抱いた英国政府が肩入れする。キュナード・英国政府勢は仮装巡洋艦転用を前提とした高速大型客船の建造を計画、海軍の最新技術=蒸気タービンを取り入れ建造資金も英国政府が融資、1907年、モーレタニアとルシタニアが誕生、これに対抗するために計画されたのがオリンピック級の三姉妹客船である。

オリンピック級客船の建造には英国政府の援助も干渉も無く、技術の安定性と経済性を考慮すれば、速度でキュナード二船に対抗するのは無意味だった。ハーランド・アンド・ウォルフ造船所のピリー卿はブルース・イズメイを自宅に呼んだ会食の席で、モーレタニア・ルシタニアより総トン数で5割増し、全長で30mも長い客船を三隻建造する計画を披露した。三隻計画は、三隻あれば欧州側、米国側を一週一便ずつ出帆できるからである。三姉妹船は巨大で、ハーランド・アンド・ウォルフ造船所では船台を特設したものの、同時に建造できるのは二隻であった。1911年、ネームシップのオリンピック就役、翌1912年にはタイタニックが就役する。オリンピック級は、経済性を考慮して蒸気レシプロX2と2基のレシプロ機関の低圧蒸気で回すタービンX1の三軸推進で速度21ノット、全面二重船底で15の防水区画があり2区画浸水で沈まないという安全対策がなされ、英国のシップビルダー誌では事実上の不沈船であると書かれた。(いつの間にか”事実上”が抜けて不沈船と喧伝される) 船内は豪華で、ボートデッキに巨大な通風筒はなく、チュートニックの頃からホワイトスターライン客船を設計してきたカーライル博士が計画した救命ボートも法規上の最少数に減らしたため(この件でカーライル博士はピリー卿と袂を分かったと伝わる)広々としたボートデッキは好評で外観も一層優美なものになった。51000馬力を発生させるためのボイラーは29基、ファンネルは当初3本で設計したが速く見えるという理由で追加された4本目のファンネルはダミーだった。船内は広々としており、一等食堂エントランスはドーム型ガラス屋根で覆われた四層ぶち抜きホールに大階段が備え付けられ、ディナーに向かう乗船客が華を競う場になった。三等船客の待遇は画期的なもので、一人一席の食堂にはテーブルウェアが用意され暖かい食事が給仕によって供された。節約主義のキュナード、速度と収益優先でスティアリッジ客(ドイツ客船の特徴、言葉通り船底の部屋の客)を貨物室で運んだドイツ客船に比べ、ブルース・イズメイのサービスの方針は偽りなき誠実なものであり、オリンピック級の評判はかなり良く、あの有名な映画の科白を借りるなら、まさに”Sihp of Dream”であった。

タイタニックの事故については、真実も推論も言いつくされているのでここでは言及しない。ただ、20ノット(約時速36km)で氷山にぶつかれば、現代の船だって沈没するであろうし、当時の技術水準からすれば、タイタニックは設計上、間違いなく最も安全な客船のひとつだった。また、氷山が北大西洋を漂うのは珍しいことではなく、これにぶつかるのは、言わば東京ドームで米粒一つ同士がぶつかるようなもので、警戒を要することはあっても流氷原でない限りは速度を緩めることはなく、警戒していれば目視で発見した後の回避行動が十分間に合う筈だった。当夜は新月で波も無く、それが氷山の発見を遅らせたことは悔やまれる。スミス船長のみぞ知るところだが、巷間言われる速度記録を狙ったという話は嘘で、どう逆立ちしてもモーレタニアを勝ることは無く、ブルース・イズメイがスミス船長をけしかけたという理由は本人否定のとおり信憑性がない。推測ながら、不測の事態で予定日にニョーヨーク遅着となれば、それこそ処女航海は台無しになるため、早めに距離を稼いでおきたい心理が働いていたのではないだろうか。

1912年頃は、あいにくまだ雑誌広告が盛んではなく史料に乏しいが、1920年代後半から1931年頃までホワイトスターラインは結構な数の雑誌広告を打っており、ホワイトスターラインの企業姿勢を窺うことができる。その広告類を見ると、当時の最先端、それも公平な目線で見て非常にクォリティの高いアールデコデザインの広告をリリースしている。あのラッキーストライクやピースたばこのパッケージをデザインしたレイモンド・ローウィやアメリカ人初の女性アスリートにして画家だったヘレン・ウィルズを起用するなど、マリー・ローランサンなどを起用していたフレンチラインに比肩するデザインオリエンテンテッドな社風だったことがわかる。

タイタニックの沈没には保険金も支払われ、直接的に経営にダメージを与えたことは無いはずであり、その後の新船投入も滞ることはなかったが、やはり当時史上最大の海難事故を起こした誹りは免れなかったようである。また、自身が乗船する予定だったタイタニックの事故を機にJ・P・モルガンは海運業に興味を失い1913年にはJ・P・モルガン死去、IMMもホワイトスターラインもその後の経営は順調とは言えず、1929年の大恐慌で一気に経営は傾き英国政府の要請でホワイトスターラインはキュナードラインと合併する。戦後はキュナード・ホワイトスター・ラインからホワイトスターの名称も消えることになる。現在、キュナードの客船に乗船するとサービススタッフの胸に、白い星の入った赤い旗の下に”WHITE STAR SERVICE”の文字が入った小さなバッジを見ることができる。そしてスタッフはポケットの中に”WHITE STAR SERVICE”のブックレットを携行することが義務付けられている。これは、キュナードラインとホワイトスターラインが合併した時に、ホワイトスターラインの乗船客への手厚いサービスに感動したキュナードラインが、ホワイトスターラインの社名が消えた後もその乗船客へのサービスの精神を忘れずにいるための証である。さて、ポスターに戻ろう

ここでは決して真贋の見分け方に言及している訳ではない。なぜなら、オリジナルが出ることは数年に1度あるかないか、むしろ大量に流通するリプリントは、ごく限られた1912年のオリジナルをリプリントしたものであり、そのオリジナルについてのメモランダムである。

タイタニックのポスター一覧:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

1、本稿冒頭に書いた”Big Red”。1911年末ないし1912年に入ったころから使用されたと思われる。まだ、アールデコ期に入るには10年程待たねばならないが、ショッキングな赤にシンプルで判り易い構成は、当時としては超モダンで人目を惹いたことと容易に想像できる。1912年当時の欧州客船ポスターは、まだ伝統的な水彩または油彩原画に社名や船名を入れただけのものが大部分だった。作者不明、描かれている客船はオリンピック、オリジナルのサイズは約100cmX65cm。現存するのは50枚にも満たないと推測される。価値は図り知れず、もしオークションに出れば15万ドルを下ることは無い。ホワイトスターラインのデザインセンスが10年先を行っていた証左となるポスターである。2000年頃までは質の良いリプリントがあったが再版されず、現在少量出回っているものは以前ほど質は良くない。オリジナルがコレクターや博物館で厳重に保管され表に出ることがないことを示している。我々は、ついついタイタニックのポスターということから、このポスターを色眼鏡で見てしまうが、このポスターはタイタニックが沈まなかったとしても、1910年代にアールデコの萌芽を感じることの出来る重要なデザインと認識を改めるベきであると考える。純粋にポスターデザイン史に残る素晴らしい作品である。

2、旅行代理店向けに製作された、下部に白紙スペース枠があるポスター。オリジナルのサイズは約100cmX65cm、”MBB”のサインが見られ、作者は客船や帆船の水彩ポスター原画画家のMontague Birrell Black、モンタギュー・ブラック(1889-1964)。数年前にニューヨークのオークショナーから、下部が白紙のままの未使用ポスターが出品され36000ドル(約350万円)で落札された。(2-0) この出品によってオリジナル原画の色が初めて広く確認されることになった。これも「タイタニックのポスター」というわけではなく、「ホワイトスターラインのオリンピックとタイタニック」という描かれ方である。Aデッキの部分がオープンになっており描かれているのはオリンピックであることが判る。現在、広くリプリントに使われている原画は、下部のエージェント社名がアイルランドの旅行代理店JOHN DENNYのもの(2-1)、レスターの旅行代理店THOS. COOK & SON,のもの(2-2)が有名。ロンドンの旅行代理店JAMES R WALKER & SON.というものも見かけるもののこれは後世描かれた可能性が高い。JOHN DENNYのものは黄ばみが多く、THOS. COOK & SON,のものは赤系統の色落ちが多かったことが未使用オリジナルの発見で判った。1910年代当時の典型的な客船ポスターであり、風俗史的な意味では大変出来の良い佳作である。

3、純粋にポスターとは言えないが、サードクラスの乗船料金が表記されたチケット購入案内のチラシポスター。幻となったニューヨーク発4月20日の日付が入れられたもの。オリジナルは約55cmX23.5cm。数年前にこれもニューヨークのオークショナーから出品され72000ドル!(約700万円)で落札された。久しぶりに発見されたほぼ未使用のオリジナルから、やはり初めてその色が広く確認されることになった。無数といっていいほど製作されたリプリントは、全て何十年も前に撮影されたと思われる写真がもとになっており、背景の紙色が真っ白で表現されている。オリジナルとの整合性は要研究である。縦に長いためそれぞれのリプリント製作時に様々なアレンジが施されている。デザインの面から見れば見い出すべき部分はないが、三等客室の料金の記載など、史料的価値は高い。ましてタイタニックなので尚更である。

4、3とは逆に、欧州側、サウサンプトン・クイーンズタウンからニューヨーク行き、サードクラスの乗船料金が表記されたチケット購入案内のチラシポスター。サウサンプトン出帆は4月10日。数十年前に撮影された写真をもとにリプリントが製作されている。オリジナルが出ることがなく、このチラシポスターが使用されたことは検証されているものの詳細は不明。概ね30cmX23cmくらいだっと推測される。タイタニック最後の生存者であったミルビナ・ディーンさんがこのチラシを見たときに「これを見て、父はタイタニックに乗ったんです」という印象的な言葉を残した。やはり史料的な価値と考える。

補足、タイタニックの船内で使用されたとされる石鹸、VIONIA SOAPのポスターがリプリントとして出回っているが、これは元が雑誌広告。横位置のものと縦位置のものがる。縦位置はオリジナルは白黒で、カラーのものは後に色が付けられたもの。横位置のオリジナル雑誌広告はカラーと白黒、両方製作されている。

タイタニックのポスターといわれるものは、以上の4点が1912年当時にオリジナルが存在したものの全てである。それ以外のリプリントは、後年になって販売用に製作されたものである。それがタイタニックであるが故に、ポスターを見る際も特別な視点を持ってしまいがちである。いずれ、特別な視点を持つのであれば、史実を掘り起こし正当な評価を与えるべきと思い、本稿の如きアプローチを試みた。僕は、ブルース・イズメイやホワイトスターラインを擁護する立場には無いが、特に近年、タイタニックのことがやや真実から遠ざかった取り上げ方が方々でなされているように感じられて仕方がない。タイタニックを理解する一助になれば幸いである (了)

ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ:ポスター四方海話 巻参:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note クイーンエリザベス2:ポスター四方海話 巻伍:ポスター販売・Ocean-Note

ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ

キュナードの客船ポスター CUNARD LINE:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note  キュナードの客船アド CUNARD LINE:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, CUNARD LINE : ATELIER A.B. (Alexey Brodovitch) 1929

ポスター 四方海話 巻参

時に大きな時の流れの中に、まるでエアーポケットのように忘れられては埋もれてしまうお話もある。
僕がこのキュナードのポスターに出会ったのは2004年頃のこと、今では付き合いが殆どなくなってしまったが、カリフォルニアのサンタバーバラ(ロサンゼルスから1号線で北に100kmちょっとの港町)にヴィンテージポスターのジクレーレプリカプリントを作っているところがあり、オーシャンノートで輸入するポスターを物色している時だった。その頃は開業前で、せいぜい勉強はしていたけれど船やヨットのことはまだまだ全然だった。面白いことだが、そんなまっさらな頭で選んだポスターは、例えばデザインは気に入らなくても史料的な価値があるといったような余計な判断が入らないから、純粋にデザインとプリントの出来だけでモノを見ているわけだ。今から見れば甚だ恥ずかしい話だが、客船といったところでタイタニックやクィーンエリザベス2に氷川丸くらいしか知らないわけだから・・・(笑) ただし、僕は勤め人時代には、バウハウスやモダンデザインの勉強は相当に頑張って武蔵野美大でモダンデザイン史の特別講義をやったくらいだから、ポスターのデザインの善し悪しの判断は普通の人よりは長けていたとは思う。兎に角、その頃選んだ30枚ほどのポスターの中にこれがあった。

右上に、ATELIER A.B.のクレジットが入るこのポスターは、これほど洗練された船や波のデフォルメも稀だし、雲の部分のエアーブラシのテクニックもかなりこなれている。何より上下のタイポグラフィーがバウハウスを彷彿させるもので気に入った。厳密にバウハウスのタイポグラフィーとは言えないのだが、以前に博物館で見たバウハウスタイポグラフィーの習作の中に似たようなものがあったように思ったのだ。その辺の思い入れが強いから、ATELIER A.B.が何者かはわからなかったけれど、きっとバウハウス人脈のデザイナーに違いないだろうと思いこんだのである。

次にATELIER A.B.に出会ったのは戦前の客船の雑誌広告を集めている時だ。1935年に就航したフレンチラインの客船ノルマンディー、この伝説の名船は処女航海で大西洋横断スピード記録を更新、世間ではこの話題で持ちきりになる。これにちゃっかり相乗りしたのがフレンチラインの米国での広告代理店のひとつだった米国最古の広告代理店N.W.Ayer and Son(N.W.エイヤー・アンド・サン社)で、ノルマンディーの処女航海で雑誌広告を打って自社をアピールした。この時、ページ半分に使用されたのがエアーブラシで描かれたノルマンディーのイラストで、クレジットは”A.B.”とのみ入れらていた。このイラストがまたいい出来なのでレプリカアートを製作した。

この謎のATELIER A.B.との三度目の出会いは、あの1929年の美しいポスターの下絵とも言える線画で描かれたキュナードの雑誌広告だった。これはフランスの雑誌に掲載された非常に珍しいもので、雑誌広告は某オークションで探すことが多いのだが、二度しかお目にかかっていない。あのポスターの計算されつくした美しさに至るデザインのプロセスが見えるようで印象深い。それにしても、ここまで5年ほど掛かってもATELIER A.B.の正体はわからない。様々なオークショナーの記述やアートショップの解説文を散々読み散らしても、ATELIER A.B.はただATELIER A.B.としか記載されておらず、作者の生没年からバイオグラフィーなど一切情報が無い! つまり・・・誰もATELIER A.B.の正体を知らなかったわけである。

解決の瞬間は意外な場面でやってきた。未だに研究中の課題のひとつに戦前のヴォーグやハーパーズ・バザー(現BAZZER)、ニューヨーカーといった雑誌があるのだが、詳細の経緯は忘れたものの、確かハワイ航路のマトソンラインの広告のことで写真家のエドワード・スタイケンを調べていたらファッション誌のアートディレクションに繋がって、この方面にアールデコポスターの巨匠カッサンドルのハーパーズ・バザーへの参画の記述があったので読むと、カッサンドルをハーパーズ・バザーに引っ張り込んだアートディレクターのことが書いてある。ここにファッション誌アートディレクションの偉人、アレクセイ・ブロードヴィッチの名があった。で引き続き何の気なしにアレクセイ・ブロードヴィッチの記事を読んでいたら・・・たった一行、ATELIER A.B.の主宰者がブロドビッチである記述を見つけたのである。

アレクセイ・ブロードヴィッチの名は一般的に有名とはいえないだろうが、写真家、アートディレクターとして非凡な才能を発揮した人である。ロシアに生まれて、医師の父と画家の母という家庭環境の中でロシア芸術アカデミーへ進むことを望み望まれながら果たせなかった。恐らく多感な時期をロシア革命の中で過ごした影響と思われ、陸軍に入隊して第一次大戦に参加、やがてロシアは内戦状態になりブロードヴィッチは心に大きな傷を負ったと壊述したそうだ。1920年フランスに亡命するとパリ・モンパルナスに住まいパリに集まるアーティスト達との交流を持つようになる。ダダ、キュビズム、アバンギャルド、バウハウス、デ・ステイル、シュールレアリズムといった当時の前衛的芸術運動の洗礼を受けてデザインを独学、1924年、Le Bal Banalポスターコンクールで優勝(何と2位がピカソだった!)、翌年にはパリ国際装飾工芸展覧会に出品してキオスクの内装設計、ジュエリーデザイン、服飾デザイン、展示会場デザインで5のメダルと最優秀賞を獲得、商業デザイナーとしての地歩を築く。

その才能は多面的だったが、主に宣伝広告のグラフィックデザインで活動、1928年、パリのデザイン事務所ATHLIA社にデザイナーとして入社、傍らで自由に仕事を請けるためにL'ATELIER A.B.を主宰する。L'ATELIER A.B.のA.B.はAlexey Brodovitchの頭文字だったわけで、キュナードの広告やポスターはこの時期の仕事である。このまま、その方向を進めば・・・きっと後世に残る名作ポスターを沢山描いて、あるいは今回取り上げたキュナードのポスターがブロードヴィッチのデザインであることが殆ど知られないという奇妙な事態は避けられたかもしれないが、ブロードヴィッチの多才ぶりと溢れる好奇心はこれを許さず、やがて写真とアートディレクション、デザイン教育へ活動をシフトする。1930年、米国ペンシルバニア大学の広告デザイン学部設立にあたり招聘され渡米、そしてブロードヴィッチのアイデンティティとして人々に記憶されることになるアートディレクターとしてハーパーズ・バザーに参加するのである。当時、低迷気味だったバザーはブロードヴィッチの新しい写真表現によって息を吹き返し、この方法論はヴォーグをはじめとするファッション誌にも取り入れられ今日まで続くファッション誌の基礎が確立された。その写真アートディレクションは大胆なページ使用と写真のトリミング、トリミングされた写真をそのまま活かすための誌面白紙部分が特徴だったとされている。

多くの写真家を自ら発掘し、自身も優れた写真作品集を出版、ハーパーズ誌面にはフランスの友人関係を活かしてカッサンドルやマン・レイ、シャガール、ジャンコクトーを起用するなど華やかな時代を経るものの、晩年は幾多の不幸がブロードヴィッチを襲い、傷心を抱きフランスに帰国、アビニオンでひっそりと生涯を終える。ブロードヴィッチの業績は死後に再評価され回顧展も開かれるものの・・・ATELIER A.B.のクレジットでの活動には何故かスポットが当てられることが無かった。

このような経緯でATELIER A.B.は昔も今も謎のアーティストだったという訳なのだが、ポスターの評価自体はホッとすることにそんなことをものともせず高い評価を得ていて10000ドルを超える相場のようである。写真家として非常に高く評価されており、ATELIER A.B.=アレクセイ・ブロードヴィッチということが認識されると相場は高騰するかもしれない。それにしても、この一件は僕も含めて、物事を掘り下げるときにはひとつだけ空いた筋の良い穴を深く掘ると同時に、横にトンネルを掘って他の深い穴も覗いてみる必要があるものと思い知らされた次第。あまり専門バカになりすぎては宜しくないし、勉強のヒントは疲れて目線を上げたら意外とすぐそこにあったりするものである (了)

キュナードライン CUNARD BOSTON TO EUROPE:ポスター四方海話 巻弐:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note タイタニック:ポスター四方海話 巻四:ポスター販売・Ocean-Note

キュナードライン CUNARD BOSTON TO EUROPE

キュナードの客船ポスター CUNARD BOSTON TO EUROPE:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, CUNARD BOSTON TO EUROPE : Walter Thomas 1925

ポスター 四方海話 巻弐

1840年の創業にして客船ひと筋、ゆうに一世紀半以上もやっているキュナードだから、製作したポスターを全部合わせれば一千種類にもなるのではなかろうか? もっとも、ポスターという媒体が市民権を得るようになるのはパリでロートレックやスタンランが活躍した1890年代以降、キュナードに限らず船会社のポスターも沢山作られたのは20世紀の声を聞いてからのことだ。芸術の中心地は当時も今もパリで、いわば英国はこの面では片田舎だったから、現代の審美眼で見れば英国企業だったキュナードのポスターは全般に野暮ったい。そんな中で、このウォルター・トーマスによって描かれたポスターは戦前キュナードのポスターで5指に入る名作である。

まずは、このポスターのテーマから。キュナードは当初、英国・ハリファックス間の航路の蒸気船による郵便輸送で成功したが、船の航続距離が延びると米国側の港はボストンになり、最終的にはニューヨーク行が主要航路になった。英国側もリバプールから、ロンドンに近いサウサンプトンに港が移り、20世紀が明ける頃にはサウサンプトン・ニューヨーク線が花形航路になり、大きく速い客船はここに投入され、リバプールからハリファックスまたはボストン行の航路には少し小ぶりな客船が投入された。キュナードではモーレタニアやアキタニアがニューヨーク線、そして第一次大戦終結後、ボストン線のために建造された客船がここに描かれたラコニアである。

キュナードとボストニアンには美談がある。ボストニアンは誇り高く、アメリカ東部の中心地がニューヨークに移り行くのを快く思っていなかったらしく、キュナードの蒸気船のボストン寄港はいたくプライドを満たすものだったようだ。1882年、蒸気船ブリタニアがボストンに入港した際、いよいよ出航が近付くとボストン港に氷が張ってしまった。当時の最先端をゆくキュナード蒸気船の寄港をボストニアンは大切にしており、船長が出航延期を覚悟した時に信じれらないことが起こった。何と、ブリタニア出航のために数千人のボストニアンが港に出てボストン港に張った氷を割って出航を果たしたのである。営業上の利益も望めたのではあろうが、キュナードがボストン線にどうでもいい客船を充てるのではなく、20000トンながらも新船を建造して投入したのは、ボストニアンとの深い結びつきに対する心意気だったのではないかと思う。

さて、このポスターの作者はウォルター・トーマス(1894-1971)、現在のようにイラストが芸術として評価される時代ではなく、トーマスもキュナードのポスター発注先だったリバプールの印刷会社ターナー・アンド・ダネット社からの注文のみでポスター画を描いていたようだ。当時、ポスター画家は職工扱いであり、アーティスト待遇で仕事ができるようになるのは1930年代からである。ちなみにトーマスは息長く仕事をしており、1960年代までキュナードのポスターを描いている。

名作の誉れが高いポスターは複製が作られる。僕もこのポスターのオフセットやジクレープリントの複製品をせっせと輸入して売った。ところが、オリジナルのレプリカの製作に取り組んだところ、広く出回るこのポスターの複製品に大きな問題があることに気づいた。まず、事実としてこのポスターが描かれたのが1930sとなっているのが多いこと。アールデコ様式で描かれたことから誰かが成した解釈が広まったと推察されるが、このポスターの最初の原画はラコニアが就航した1922年に描かれている。新造客船の就航時に広告・宣伝を打つのは当然で、1930年代になってから大掛かりにポスターを製作するのは不自然である。そしてもっと大きな問題は、このポスターの複製品の殆どが何故が縦横比を大きく変えていることだ。オリジナルと比べると縦比が大きく縮められ、船がやたら”どっしり”と見えるのである。

このポスターの1922年のオリジナル版は下部のコピーが”TO BOSTON”となっている英国向け(1)で、コピーテキストの色はグリーン、このグリーンは結構色が飛んでいるものが多くオレンジっぽく見えるものもあるし、同版で再版された可能性がある。もうひとつは下部のコピーが”BOSTON TO EUROPE”の米国向け版で、1922年初版と同色のもの(2)、そして米国版同版で上掲画像、1925年製作の空水色・コピー赤のもの(3)、以上括弧1〜3の3種類の存在が確認される。当然、括弧1〜3は縦横比の違う”どっしりバージョン”ではない。(2)については、オリジナル製作年がはっきりしないが1922年の英国版と同時に作られたと思われる。大きさはそれぞれ約100X65cmほどだ。

以上オリジナル3種は結構高価で、概ね1500ポンド以上、時には5000ポンドの値がつくこともある。では、広く出回ってる復刻品、謎の”どっしりバージョン”は一体何なのか? もしかしたら、本当に1930年代に”どっしり”に作り直されて印刷されたのかもしれない。例えば、旅行会社の社名を入れるために下部に白紙部分を作るため・・・あるいは、船の安定感を示し、20000トンが何となく50000トンに見えるように(笑)そうしたのかもしれない・・・と考えてはみたものの、この”どっしりバージョン”のオリジナル版というものは海外のオークション記録を丹念にあたっても見つからなかった。つまり”どっしりバーション”オリジナルは存在しなかった! という可能性が高い。いつ、どういう事情で、誰が作ったかは不明ながら、復刻版を作るときに”どっしり”にしてしまったのではないかと推測している。しかし・・・何故、本来存在しないと推察される”どっしりバージョン”ばかりが出回っているのか・・・全てを知った今となっては不思議でしょうがない。

客船ラコニアは、1942年、ドイツ潜水艦Uボートに撃沈された。その後、生存者を救出しようとしたUボートを米爆撃機が攻撃、司令官デーニッツは以後、生存者救出を禁じることになる。これが、世に言うラコニア事件であった・・・ (了)

カッサンドル L'ATLANTIQUE:ポスター四方海話 巻壱:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ:ポスター四方海話 巻参:ポスター販売・Ocean-Note

カッサンドル L'ATLANTIQUE

カッサンドルの客船ポスター L'ATLANTIQUE:四方海話:ポスター販売・Ocean-Note

Ocean-Note, L'ATLANTIQUE : A. M. Cassandre 1931

ポスター 四方海話 巻壱

アドルフ・ムーロン・カッサンドルの代表作・・・いやいや、もっと言えばアールデコポスターの代表作である。カッサンドルは後の1935年に客船ノルマンディーで”客船ポスターの決定版”を描くが、好みは分かれるようで、極端なデフォルメと優雅なデフォルメ、いずれを好むか意見は割れる。ちょっと船を齧った人ならばいろいろな史料・文献で一度や二度は見ているに違いないこのポスターだが、意外にここに描かれている客船のことはあまり知られていない。僕もご多分に洩れず解説を書くのに四苦八苦した。

黒字で大きく書かれているのはL'ATLANTIQUE、つまりTHE ATLANTIC=大西洋ということだ。上部にはL'AMERIQUE DU SUD、これはTHE AMERICA OF SOUTH=南米、そして下部にはCOMPAGNIE DE NAVIGATION SUD ATLANTIQUE、英語ならCOMPANY OF SOUTH ATLANTIC NAVIGATION=南大西洋汽船会社、そして、このポスターに描かれた客船が40000トンだと明記してある。

ネタばらしをするようだが、客船自体のことは洋書やウェブの記述が結構あるが、ポスターだけのことを詳しく解説するアンチョコは見当たらず、勉強も兼ねてポスターのことを調べるのに役に立つのが・・・実は海外のオークションの説明なのである。ヴィンテージポスターは、カッサンドルクラスになると邦貨で20〜30万円を下らないし、高いものだと150万くらいはする。そうなると超高級品(笑)だからオークショナーも学芸員さながらに調べて説明を書いたりするので、こいつを参考にするわけだ。ところが・・・

このポスターの由来を調べると(もっとも、自慢じゃないが洋の東西問わずこんなことやるのは僕くらいのようで、殆どの本業ポスター屋さんはそんなこと全然書いてもいないけれど・・・)、要約すれば「このポスターに描かれている客船はチャーターされたイル・ド・フランスで、子会社の南大西洋汽船会社が行った南米行き、1931年の冬季クルーズの宣伝に使用された」といった複数の記述が見られた。苦労して仏語や英語で書かれたこの記述を見つけた時に、僕はシメタ!と思った。このポスターの客船がイル・ド・フランスだと知っているのは、日本ではきっと僕を含めて5人くらいだろう・・・何故かと言えば、第一に1930年頃にフランスで40000トンの客船は、43000トンのイル・ド・フランスしか無かった筈、第二にイル・ド・フランスのファンネルカラーは赤なのにポスターのファンネルは黄色で、なおかつイル・ド・フランスのファンネルが黄色く塗られた記録は無いこと、このふたつの謎がきちんと解けると考えたからである。つまり、1931年の冬、南大西洋汽船会社が親会社のフレンチラインからイル・ド・フランスをチャーターして南米冬季クルーズを組んだが、花形の北米航路で活躍するフランスの旗艦イル・ド・フランスがクルーズというのは聞こえが悪いので、南大西洋汽船会社のファンネルカラーの黄色でポスターが製作された・・・当時はクルーズは定期航路より一段低く見られており、定期船が冬季クルーズをやるのは、先発投手が敗戦処理に登板させられるようなもので、カッコ悪いと思われる一面があった、と解釈すればポスターの中の文字も全て辻褄が合うのである。

ところが、このカッサンドルのL'ATLANTIQUEのポスターの解説の間違いに気付いた。現代はネット社会で、間違った情報は間違ったままコピペで拡散するから、もしかすると僕がそのように理解したように”イル・ド・フランス説”は定説化しているのかもしれないが、わずか2年ほどの間、南大西洋汽船会社船籍で仏・南米航路に就航していた”L'ATLANTIQUE”という船名の40000トンの客船が存在したのである。”L'ATLANTIQUE”は、アトランティック造船所で1928年に起工、1931年に就役したものの1933年1月、冬季ドック入りを終えた回航中に火災、沈没は免れたものの全損して1936年に廃船となった。インテリアの写真は殆ど残っていないが、イル・ド・フランスをモダンに、豪華さはイルと同等だったと伝わっている。

オークショナーが間違った解釈をしたとは考えにくく、恐らくは誰かが間違って”イル・ド・フランス説”を記述したものが拡散しつつあるのだと思っている。あるいは、時の流れに埋もれたL'ATLANTIQUEより、イル・ド・フランスの方がネームバリューがあると考えたのであろうか・・・ご丁寧に”SS Ile de France”なんて題名をつけてる記述もあった。何のこたあない、書いてあるそのままで宜しかったのにねぇ。

いずれにせよ80年余り前のことをお勉強するというのは、「こういうことなのだ」と猛省させられる”L'ATLANTIQUE”のポスターだった (了)

ポスター四方海話 スタート:ポスター販売・Ocean-Note ポスター四方海話 目次:ポスター販売・Ocean-Note キュナードライン CUNARD BOSTON TO EUROPE:ポスター四方海話 巻弐:ポスター販売・Ocean-Note

客船ポスター四方海話 CONTENT

商品ページの解説に書けないこぼれ話や失敗談・笑い話を交えた客船ポスター四方海話。一枚の客船ポスターの裏側に読み取れる様々な物語、作者やテーマ、時代背景・・・これもポスターを見て眺める楽しさのうちである。もし、商品ページの解説が展示パネルとするならば、このポスター四方海話はギャラリートーク、幾らか違って伝わる史実なども適宜正しながら思い入れたっぷりに綴らせていただいている・・・ 小野寺俊英

white 客船ブレーメン:四方海話 巻拾壱:ポスター販売・Ocean-Note

巻拾壱 客船ブレーメン

1929年、北ドイツロイドラインが北大西洋航路に就航させた客船ブレーメンが客船黄金時代の幕を切って落とした。インテリアデザインをバウハウスが担当したことは有名だが、その外観意匠にも一役買ったと見る向きも多い。そして何より、このポスターはバウハスのデザインに思われてならない


white ダラーライン:四方海話 巻拾:ポスター販売・Ocean-Note

巻拾 ダラーライン

APL・アメリカンプレジデントラインズの前身、ダラーラインは米国の北太平洋航路を独占し西回り世界一周航路で七つの海を席巻した船会社だった。かつての隆盛を物語る史料は少ないが、一枚のポスターを手掛かりに世界一周航路の物語を改めて振り返ってみた


white APL・アメリカンプレジデントラインズ:四方海話 巻九:ポスター販売・Ocean-Note

巻九 APL・アメリカンプレジデントラインズ

APL・アメリカンプレジデントラインズが1950年頃に製作したポスター。プレジデント客船に太平洋航路図、APLの太平洋航路をペリー来航まで遡り、最後の太平洋航路客船就航を改めて考察、西回り航路の意義が再び鮮やかに浮かび上がってくる


white 日本郵船 ゲオルギー・ヘミング:四方海話 巻八:ポスター販売・Ocean-Note

巻八 日本郵船 ゲオルギー・ヘミング

日本郵船が1932に製作したポスターは世界的な水準で見ても名作に名を連ねることが出来る秀作である。作者のゲオルギー・ヘミングはあのピアニスト、フジ子・ヘミングの父、なぞ多き作者と、日本郵船の客船黄金時代を考証する


white キュナードホワイトスター:四方海話 巻七:ポスター販売・Ocean-Note

巻七 キュナードホワイトスター

第二次世界大戦のために幻となったキュナードホワイトスターのポスター。客船クイーンメリーとクイーンエリザベスの夢と波乱に満ちた誕生から幻のポスターの事情まで、初代クイーン姉妹船を巡るキュナードラインのミニストーリー


ノルマンディー・カッサンドル:四方海話 巻六:ポスター販売・Ocean-Note ノルマンディー・オヴィニュ:四方海話 巻六:ポスター販売・Ocean-Note ノルマンディー・ヘ−コマー:四方海話 巻六:ポスター販売・Ocean-Note

巻六 ノルマンディー

僅か4年の実働期間に多数の傑作客船ポスターを輩出した史上最高と謳われる客船ノルマンディー。力作ぞろいの全作品をノルマンディーの生涯と合わせて網羅検証


white クイーンエリザベス2:四方海話 巻伍:ポスター販売・Ocean-Note

巻伍 クイーンエリザベス2

豪華客船という意味不明な造語を生み出したのは他でもなくクイーンエリザベス2だった。クイーンエリザベス2の誕生とこの客船の本質を再度考察し、“クイーンエリザベス2のポスター”として正統性を持つと考えられる作品を独自目線で取り上げてみた


white タイタニック:四方海話 巻四:ポスター販売・Ocean-Note

巻四 タイタニック

世に“タイタニックのポスター”は数あれど、1912年に使用されていた実物はたった2種類だけである。この機に、スノビッシュな俗説を離れてタイタニックの真実を見つめ直し、真贋を問うまでもないわずか2種類のポスターと、ポスター様に使用されたチラシの全てをサマリーしてみる


white ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ:四方海話 巻参:ポスター販売・Ocean-Note

巻参 ATELIER A.B. = アレクセイ・ブロードヴィッチ

傑出したデザインでありながら、作者不詳故に時間の波間に埋もれてしまっているポスターがある。このキュナードラインのポスター、作者のサインの謎の向こうに現代ファッション誌のアートワークを確立した立役者の顔が見える。若き日にアートコンペティションでピカソと賞を分けあったアレクセイ・ブロードヴィッチである


white キュナードライン CUNARD BOSTON TO EUROPE:四方海話 巻弐:ポスター販売・Ocean-Note

巻弐 キュナードライン CUNARD BOSTON TO EUROPE

どういう事情からか、今日リプリントが多種大量に製作されるポスターの中には、オリジナルと違う色や縦横比が正しいものとして伝わってしまっているものがある。その代表的なポスターのひとつがこのキュナードラインのポスターである。製作年代やバリエーション、問題の縦横比を現在知り得る限り掘り下げて調べてみる


white カッサンドル L'ATLANTIQUE:四方海話 巻壱:ポスター販売・Ocean-Note

巻壱 カッサンドル L'ATLANTIQUE

1931年、アールデコの巨匠アドルフ・ムーロン・カッサンドルによって描かれた名作客船ポスター。アールデコ全盛期、このような客船の図案は決してカッサンドルの専売特許ではなかったものの、最も効果的なデフォルメとして今日に伝わる。しかし、描かれた客船については異説だらけ、今一度、このポスターの出自を問う