● 1936年 日本郵船・浅間丸の写真 額入りジクレーアート
≪MS Asama Maru, NYK LIne≫
額縁・マットの色をプルダウンにてお選びください
送料無料。お届けはご注文後約7日です。価格にはアートプリントとマット・額縁、全て含まれます
撮影者 :anonymous
撮影年 :1936
額縁・マット : カマボコ型 12mm t=1.5mmx2枚ダブルマット 前面1.5mm厚クリアーガラス
額縁とマット色をお選びいただけます
・黒艶消し額縁 X ブラウン/ライトベージュ・ダブルマット
・白ツヤ額縁 X ネイビー/ライトブルー・ダブルマット
額縁サイズ : 525mm x 410mm
作品サイズ : 407mm x 272mm (内側マット抜きサイズ、表側オーバーマット抜きは417 x 282mm)
当商品は伊勢和紙に顔料インクを用いたアートプリントを国産材料で額装したものです。奥行きを持たせる濃淡色二重のダブルマット仕様です。伊勢和紙は伊勢神宮の奉書紙として漉かれ全国の神宮大麻に使用されています。インクジェットに意欲的で、伊勢和紙アート紙は新たな表現材料として世界中の写真家やアーティストに使用されています。マーメード紙程度の表面テクスチャーによる風合いが楽しめ、無酸性紙に顔料の組合せは銀塩写真とは比較にならない耐光性を持ち数十年単位の鑑賞に耐えます。写真データに傷や劣化の補修、コントラストなどの可塑修正を施し、テストプリントを繰り返し微調整して仕上げています
● 1936年 日本郵船・浅間丸の写真アートプリント
客船の四方山話を齧ったことがある方であれば、ほぼ全員が「戦前の代表的な日本の客船は?」と問われれば浅間丸の船名をあげることでしょう。カナディアンパシフィックやダラーライン(後のAPL)の新船投入、物心両面で後ろ盾となっていた安田財閥の安田善次郎が凶刃に倒れたことにより、サンフランシスコ航路経営を切り拓いた浅野総一郎の東洋汽船は行き詰まります。日本郵船は財界と政府の仲介でサンフランシスコ線事業を分離・設立した第二東洋汽船との合併を呑みます。サンフランシスコ線事業の会計上の評価が高く日本郵船としては厳しい合併でしたが、破談になれば大阪商船との合併に発展すると予想され、郵商逆転を嫌って合併せざるを得なかったと伝わります。サンフランシスコ線事業を引き継いだものの、東洋汽船が残した天洋丸は日本初の1万トン級客船ながら合併成立の1926年時点で船齢18年、競合他社の敵ではありませんでした。そこで日本郵船は、欧州線に靖国丸・照国丸、シアトル線に氷川丸・日枝丸・平安丸、そしてサンフランシスコ線に浅間丸・龍田丸・秩父丸、一挙七隻の新船を就役させます。花形航路のサンフランシスコ線への日本郵船の注力はかなりのもので、外国人旅客受け入れに万全を期するため欧州の提携会社(例えばキュナード)へ船長から給仕に至るまで研修で派遣、受け入れたキュナードはその人数の多さに「日本郵船は一体何万トンの客船を建造しているのか?」と訝しんだと伝わります。浅間丸は1929年サンフランシスコ線に就航、最大トン数と最高出力は姉妹船の秩父丸に譲ったものの、同年第四次航海で横浜・サンフランシスコ間を12日3時間22分で走破して太平洋横断速度記録を樹立、記録は僚船の龍田丸や秩父丸にも破られることはありませんでした。香港での座礁事故、房総沖での浅間丸事件など挿話に事欠きませんが、最後は海軍輸送船として兵員輸送に従事、1944年台湾南方沖で米潜水艦の雷撃を受けて沈没ました。
浅間丸級の建造にあたっては、鋼材から内装デザインとその材料、設備に至るまで殆どが輸入され、実質的に客船を輸入して組み立てたのみと揶揄する如き当時の評論も散見されますが的はずれです。この頃すでに日本は船舶の保有トン数で世界第3位、工芸技術が世界最高レベルにあったことは19世紀のパリ万博、ロンドン万博で日本の工芸やデザインが欧州の人々の度肝を抜いたことでもわかります。日本郵船があえて輸入に頼ったのは、一段格下に見られがちだった日本の客船が世界最高レベルにあることを広く論理的に理解させる意図に依るものでした。建造細事につき曲解めいた論説が多いのであえて一言添えておきます。さて今日、その確かな理由は判りませんが、やはり浅間丸は別格扱い、「浅間丸」という語感が永く親しまれる何かを持つことは事実で、それは1930年代当時に少年向け雑誌で描かれる客船がどれも浅間丸であったのと同じものと感じます。ちなみに浅間丸の船名は富士宮市の浅間大社の社号を戴いたものです。日本郵船浅間丸、サンフランシスコ港外で撮影された写真です
・ 雑感
不思議な話かもしれませんが、日本郵船社内にて客船と分類された船は、客船事業に再参入し1990年にクリスタルハーモニーが就航するまで浅間丸級三隻のみ、それ以外のすべての客船は貨客船とされていました。正式な言い方ではないものの、貨物と乗客の主従により貨客船を客貨船を呼ぶこともあります。生前、クリスタル・クルーズCEO、日本郵船歴史博物館長などを歴任された故竹野弘之氏からお聞きしたところでは、戦前の日本郵船の客船は「客貨船でしょうねぇ」と 言われていました。法規上は12名を超える乗客を乗せる船は旅客船、いわゆる客船であり、それ以下は貨物船となります。今もって、戦前日本の代表的客船に挙げられる浅間丸、こうして見ると、大きさの違いこそあるものの、やはり1930年代に大西洋で活躍したノルマンディーやクイーンメリーに匹敵する均整のとれた「絵になる建造物」であることが今も人の心の琴線に触れるのだと感じます (T.O.)
【Maritime Gallery Ocean-Note】
● ジクレーアートプリント・客船 LL/Photo Ocean Liner INDEX
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納入事例
客船ポスター四方海話
船と港のエッセイ 1
船と港のエッセイ 2
【Maritime Gallery Ocean-Note】