● 1940年 日本郵船・新田丸の写真 額入りジクレーアート
≪MS Nitta Maru, NYK LIne≫
額縁・マットの色をプルダウンにてお選びください
送料無料。お届けはご注文後約7日です。価格にはアートプリントとマット・額縁、全て含まれます
撮影者 :anonymous
撮影年 :1940
額縁・マット : カマボコ型 12mm t=1.5mmx2枚ダブルマット 前面1.8mm厚UVカットアクリル(クラレ・コモグラス)
額縁とマット色をお選びいただけます
・黒艶消し額縁 X ブラウン/ライトベージュ・ダブルマット
・白ツヤ額縁 X ネイビー/ライトブルー・ダブルマット
額縁サイズ : 525mm x 410mm
作品サイズ : 407mm x 272mm (内側マット抜きサイズ、表側オーバーマット抜きは417 x 282mm)
当商品は伊勢和紙に顔料インクを用いたアートプリントを国産材料で額装したものです。奥行きを持たせる濃淡色二重のダブルマット仕様です。伊勢和紙は伊勢神宮の奉書紙として漉かれ全国の神宮大麻に使用されています。インクジェットに意欲的で、伊勢和紙アート紙は新たな表現材料として世界中の写真家やアーティストに使用されています。マーメード紙程度の表面テクスチャーによる風合いが楽しめ、無酸性紙に顔料の組合せは銀塩写真とは比較にならない耐光性を持ち数十年単位の鑑賞に耐えます。写真データに傷や劣化の補修、コントラストなどの可塑修正を施し、テストプリントを繰り返し微調整して仕上げています
● 1940年 日本郵船・新田丸の写真アートプリント
新田丸級客貨船は、戦前日本郵船が就役させた最後の客船となりました。対米戦争の影が忍び寄る中で海運業界は空前の好況、折しも欧米各国が国防上の観点から船腹増強に努めていたことに対抗するため、日本政府が施行した優秀船舶建造助成施設制度が1937年度予算案で成立、日本郵船の25隻新船建造計画の後押しとなり、欧州線の客貨船として新田丸級三隻、新田丸、八幡丸、春日丸が起工されました。当時、日本郵船が着手した新船建造は新田丸級三隻に加え、シアトル線と豪州線に三池丸級三隻、さらに1938年度予算に組み込まれる大型優秀船建造助成施設制度に則るサンフランシスコ線、橿原丸、出雲丸の八隻でした。しかし、欧州情勢と対米関係の悪化は予想外のスピードで進み、春日丸と三池丸級三隻は完成と同時に軍に徴用、橿原丸と出雲丸は完成を待たず航空母艦に改装され、結果的に八隻のうち客貨船として就航できたのは新田丸と八幡丸の二隻のみでした。以後、日本郵船は1991年、クルーズ客船飛鳥で客船事業に復帰するまで50年間、新たな客船を建造することはありませんでした。
新田丸は1940年3月に竣工したものの、すでに前年9月には欧州で第二次大戦開戦、11月には照国丸(浅間丸級、氷川丸級と同時期に建造された欧州航路主力客船)がテムズ河にて触雷沈没したことから、予定の欧州線には配船されず、サンフランシスコ線に就航しました。翌1941年9月、日米開戦を前にして新田丸は徴用され兵員輸送に従事、1942年5月には海軍籍となり航空母艦冲鷹(ちゅうよう)に改装されました。商船改造の特設空母とはいうものの、実際には21ノットの速力(欧州航路客船としては高速)では艦載機の発艦は難しく専ら航空機輸送に従事、1943年12月、横須賀を出港しトラックへ向かう八丈島東方沖で米潜水艦の雷撃で沈没しました。(注:日本の航空母艦が艦載機の発艦に必要とした船速は概ね26ノット以上、新田丸は燃費と省スペースを優先したディーゼル主機を採用せず、軍籍移動を考慮して三菱製蒸気タービン主機を採用しました。オーバーロード運転による発艦時の高速航行が期待されましたが、結果的にそこまでの船速は得られませんでした)
1940年に横浜港で撮影された新田丸の写真です
・ 雑感
日本郵船の船の命名にあたっては神社の社号を戴く習慣がありました。新田丸級の三隻、新田丸、八幡丸、春日丸もそれぞれ神社の社号を戴いたものでしたが、この頭文字をアルファベットで並べると新田丸のN、八幡丸のY、春日丸のK、でNYK、すなわち日本郵船の社名(日本郵船会社)の英文略称となります。当時の日本郵船社内にあって大きな期待を寄せられた船だったことが船名頭文字からも判ります (T.O.)
【Maritime Gallery Ocean-Note】
● ジクレーアートプリント・客船 LL/Photo Ocean Liner INDEX
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納入事例
客船ポスター四方海話
船と港のエッセイ 1
船と港のエッセイ 2
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